小さい頃に読んだ本に『大切なものは、目に見えない』という一説があった。
 これは、僕の背負う運命において些かの救いになった言葉だ。
 その通りだと思う。見えているものだけが、この世界の全てとは限らない。見えなくても、大切なものが見つかることもあるだろう。

 だけど、本当にそんなものがあるのだろうか?

 スケッチブックを脇に抱え、僕は屋上のドアを開けた。
 びゅうびゅうと冷たい風が吹いている。
 その屋上の隅で、優等生として認知されてる隣のクラスの学級委員長が、慌てて加熱式タバコの吸殻を投げ捨てた。それから僕に気がつくと、鋭い目で「言ったらわかってるよな?」と無言の圧力を残して去っていく。
 彼の後に続いて、加熱式タバコの残り香が僕の鼻をかすめた。
 空気に溶け込んで、もう見えないそれを睨みつけながら、僕は頬を引き攣らせた。気分が悪い。大切なものは見えないかもしれないが、見たくないことや物も、この世界には溢れている。
 「くだらない⋯⋯」
 ため息をついて見上げた仄暗い空は、まるで僕の心を映しているようだ。どんよりと重くのしかかる。

 それでも、僕はずっと探している。
 僕がこの世界で、最後に見たい大切な景色を。
 微かな希望を胸に抱きながら。


 ♢


 高校二年、春。
 ピピピピッ、ピピピピッ。
 スマホのアラームで意識の回線がぼんやりと繋がる。
 肌を包む毛布の柔らかさに甘えて、もう一眠りしたくなる。春先とはいえ、まだ朝は肌寒い。毛布の温もりが恋しくて、ぐるりと頭から体に巻き付けた。ブーブーと振動が追加されたスマホのスヌーズ機能が、また僕を急かす。真っ暗な視界の中、手探りでもう一度アラームを止めると、僕はようやく起きることを決心した。
 この瞬間がいちばん怖い。ごくりと生唾を飲んでゆっくりと目を開けた。半分欠けた、見慣れた天井がぼんやりと見えてくる。よかったと安堵して、僕は枕元に置いてある眼帯で右目を覆う。 あえて、右目を封印しているんだ! と、そう思うことで僕は普通になれる気がした。

 僕の世界は半分透明だ。
 そこにあるはずの視界の半分が、去年ついに消えた。

 生まれつきの病気で、僕はそう遠くない未来に視力を失うらしい。
 医者の見立てでは、あと一、二年。怖くないといえば嘘になるが、死ぬわけじゃない。小さい頃から、そんな病気と一緒に生きてきた。朝、目覚める瞬間が怖いのは、今日その時が訪れたら? と、不安に襲われるからだ。
 原因は不明。先天性の疾患だ、と医者からは説明を受けている。著名な眼科医のセカンドオピニオンも受けたが、回答は同じ。その事実を初めて聞いた小学生の頃から、この運命を受け入れるまでに、もう十分に時間を使った。覚悟はできている。死ぬわけじゃない。僕の人生が終わるわけじゃない。ただ、ひとつ五感が欠けるだけだ。そんな覚悟も、いざ僕の世界が完全な透明になってしまったら? 簡単に打ち崩されてしまうのだろうか。
 前髪がはねた寝起きの間抜けな顔も、母が用意してくれる少し焦げたトーストも見ることができなくなるとしたら。
 天気が良ければ遠くに見える富士山、通学路の途中のコンビニや、小さい頃によく遊んだ公園のブランコ。今、当たり前に見える景色が、パッと消えてしまうとしたら⋯⋯。
 忘れたくなくて、名残惜しいと後悔するだろう。だから僕は絵を描くようになった。中学校で美術部に入り、高校でも続けている。僕の日常の景色と、それから自分の瞳が「美しい! 」 と、気に入った景色をスケッチブックに記録している。形に残すことで、いつか見れなくなったとしても心には残ると思ったからだ。そうすれば脳内でいつでも再生可能。真っ暗な世界が訪れても、心の目で見ることが出来る。そう思うと、いつもの景色さえ違って見えた。


 ずっと特別なものに思えたのに。


 今日から新学期を迎えた校内は、ずいぶんと浮かれていた。そんな群衆の廊下を抜けて、新しい教室に入ると、黒板に席順が書かれている 。僕は迷わず一番後ろの隅の席を目指した。見なくても分かる。僕の苗字はあの渡邊よりも後ろ。案の定、このクラスの最後の名前は僕、和山(わやま)だ。席に座り、ぐるりと教室を見渡すと、例の屋上で加熱式タバコを吸っていた優等生の彼がいた。「あぁ、面倒くさいやつと同じクラスか」と思った僕を、彼は訝しげに見ている。いや、と言うより睨みつけている。「お前、言ってないだろうな?」と。そんな目で見たって、僕は誰にも言わないのに。仮に先生に告げ口したところで、どうせまた見たくない世界を見ることになるだけだ。そんなものを見るくらいなら、もっと見ておきたいものがある。それを探すのに時間を費やしたい。僕は鞄からスケッチブックと色鉛筆を取り出した。
 教室の窓から外を見ると、校庭を囲むように桜の海が広がっている。この学校の桜は近所でも有名で、さくらの名所百選にも選ばれている。今日は快晴。空の青に映えるピンク色の海のコントラストが僕は好きだ。
 「綺麗だな⋯⋯」
 来年は見られなくなるかもしれないこの景色を、僕の白い心に写していく。シャッシャッと色鉛筆が擦れる音を遮るように、僕の頭に声が降ってきた。
 「おい、和山! 何描いてんだよ」
 「こいつあれだろ!? 厨二病ってやつ? 眼帯なんかしてさ」
 「おい!その右目になにか封印してんのか!? そういやあったよなそんなアニメが」
 クスクスと笑いながら、優等生の彼が友達を引連れて僕の席を囲んでいる。彼らから言わせればイジり。曖昧な灰色の境界線を引き、面白おかしく僕をからかうのだ。牽制のつもりなんだろう。やっぱり来たか⋯⋯。僕はスケッチブックを両腕の中に隠して、内心うんざりしつつも、にへら笑いを返す。
 「やっぱりか! 封印されし龍! とか描いてたり」
 「うわー、それキモくね!?」
 予鈴が鳴り、ゲラゲラと笑いながら、彼らは自分たちの席に戻っていく。言い返すのも、嘘に嘘を重ねるのも面倒臭い。僕の目はそのうち何も見えなくなる。「右目はもう見えないんだ」なんて、本当のことを言うのも野暮だ。言ったところで、彼らからしたらどうでもいいだろうし、僕も理解してくれなんてこれっぽっちも思わない。同情されようが、僕の目がやがて見えなくなるって事実は変わらないんだから。希望なんて⋯⋯いや、もういいんだ。それよりも残りの時間、どれだけの大切なものを心に残すかが重要だ。僕は残された時間を無駄にしたくないし、この眼帯だって人を寄せ付けないための武装品。変わったヤツって思われて、距離を置かれているほうが気が楽だ。そのうち飽きて、彼らが僕をイジる事も無くなるだろう。

 「ねぇ、君が描いた龍見せてよ!」

 僕の視界から消えている隣の席から、弾むような無邪気な声がする。僕は左目を細めながら、ゆっくりと声の方を振り向いた。
 その女の子は、少し癖のあるロングヘアーを揺らしながら、猫みたいに丸い目をきらきらと輝かせて、僕の方に身を乗り出している。透き通るような白い肌に映える虹彩に、吸い込まれそうになる。僕は一瞬、心を奪われた。なんて綺麗な目をしているんだろう。
 「ねえ、ねえ! って、聞いてる? 君の描いた龍が見たい!!」
 ハッと我に返り、なんのことかも分からずにとりあえず返事をする。
 「ごめん。龍? は描いてないんだけど⋯⋯」
 「えー? さっき話してたじゃん」
 「あぁ⋯⋯」
 どうやら彼女は、隣の席で彼らの一方的な会話を聞いていたみたいだ。僕の返答に、彼女は口を尖らせながら頬をぷくっと膨らませた。どうも納得していない顔だ。そんな顔を、こっちにぐっと近づけて口に手を添えると、彼女は小声で僕に問いかけた。
 「じゃぁ、その眼帯の奥には⋯⋯?」
 「⋯⋯何も封印してないよ」
 僕がハッキリと否定すると、彼女はガックリと肩を落とし、頬に溜め込んだ空気を一気に吐き出した。
 「せっかく面白い友達できると思ったのになーー。ってか、そうならそうってさっき言い返しなよ」
 また僕は、にへら笑をして早々に会話を終わらせる。何も言い返さない僕とは対照的に、何か言いたげな口をぽかんと開けて彼女は首を傾げた。この笑い方は僕の常套手段。大抵の相手は、僕が何を考えてるのかわからない。と、諦めてくれる。何も考えていないわけじゃない。はっきりと、くだらないって心の中では思ってる。

 彼女がゆっくりと視線を正面に戻したのを確認した僕は、またスケッチブックに色を重ねていく。彼女の方を見ないように、体ごと窓の外の景色に向いた。薄ピンク色の花びらが、儚く散っている。僕は自分を重ねるように、丁寧にピンクの色をつけた。


 放課後、僕はすぐに教室から姿を消す。理由は、学校で一番居心地のいい場所に向かうためだ。
 ガタついた美術室のドアを開けると、油絵具のツンとした匂いが鼻をかすめる。んっ、と顔を顰めて、すぐに窓を開けた。次第に慣れてはくるが、僕はこの香りがどうも苦手だ。まだ乾ききっていない油絵が教室の隅に置かれている。朝早くに来て描いていたんだろう。この天使をモチーフにした絵は、昨日まではまだ下絵だったけど、淡く色が乗せてある。それを横目に、僕は自分のイーゼルを取り出し、キャンバスを前に置く。真っ白なキャンバスを見つめ、優しく手で撫でた。ここに、僕が最後に見たい大切な景色を書こうと決めてはいるが、未だ見つからないままだ。
 ガラガラと扉が開いて、三年生の藤井先輩が入ってきた。「こんにちは」と挨拶をかわすと、先輩はすぐに自分の絵の続きを描き始めた。部員は二人だけ。あの天使の絵の作者は藤井先輩だ。キュッと、きつく結ばれたポニーテールは先輩の性格をよく表している。学級委員長気質で、優等生。真っ直ぐで、真面目そのもの。
 二人だから、自動的に僕は副部長だ。美術室のスペアキーも託されているし、好きな時に入れる特権が居心地の良さに拍車をかける。特に会話もなく、先輩は絵に没頭しているから、それも僕には有難い。
 よし! と気持ちを切り替えて、僕はスケッチブックと色鉛筆を鞄から取りだし、さっきのページを開いた。
 ふと、隣の席に座る彼女の瞳を思い出す。あぁ、綺麗だったな。どんな宝石よりも僕には輝いて見えた。まるで瞳の中に宇宙を閉じ込めたような。幻想的で、神秘的で、言葉では例えがたい美しさだった。
 どう描いたら、上手く表現できるんだろう?
 ぼんやりと考え事をしている僕と、熱心に絵を描く先輩の間に流れる静寂を割くように、ガラガラと勢いよく美術室のドアが開いた。
 先輩も体をビクッと震わせ、ドアの方を振り返る。顧問はもっと静かにドアを開けるし、放課後の美術室なんて滅多に誰も来ない。そんな教室のドアがけたたましく開いたのだから、僕も恐る恐る顔をあげた。
 「こんにちはーー⋯⋯えっと。あっ! 見つけた!」
 あの美しい虹彩の目をきらきらと輝かせて、彼女が僕を指さした。
 美術室の平穏を乱した彼女を一瞥して、先輩はぷいっと絵に視線を戻す。内心怒ってるだろうな⋯⋯。僕は先輩の背中に一応頭を下げてから、唇に人差し指を当てて彼女に注意をする。
 「あっ⋯⋯ごめんなさい」
 小声で平謝りした彼女は、僕の傍に寄ってきて一枚のプリントを差し出した。
 「君が出ていった後に先生が配るの忘れてたみたいで。進路調査票、今週末に集めるって」
 「ありがとう。でもわざわざどうして?」
 「君と私は隣の席の仲じゃないか!」
 彼女は自慢げに笑った。それから、キョロキョロと周りを見渡しながら、僕のキャンバスを覗き込む。何も描いてない、真っ白なキャンバスを見て彼女は首を傾げる。
 「君がどんな絵を描くのか気になってたのに⋯⋯」
 「頼まれても龍は描かないよ」
 「えー⋯⋯つまんな」
 僕はまた、にへら笑いを返した。
 だけど今回は少しだけ彼女に譲歩する。プリントを届けてくれたし、これくらいならいいか。
 「スケッチブックでよければ、見る?」
 「うん!見たい!!」
 彼女は近くの椅子に腰掛け、スケッチブックを受け取るとゆっくりと捲る。僕はその様子を静かに見ていた。いや、彼女の瞳にまた見入ってしまったんだ。こんなに瞳に執着してしまう自分に驚きが隠せない。僕の眼帯の下に眠っているのは、輝きを失ってしまった球体だ。白く透明に沈んでしまった。彼女が羨ましい? まぁ、そうかもしれない。僕がこの先、決して手にすることの出来ない宝石を彼女は持っている。この感情は嫉妬とは少し違う。その虹彩から見える世界が、どんなに美しいんだろうと想像してしまったんだ。世界が輝いて見えるかもしれない。彼女の瞳なら『目に見えない大切なもの』も見つけられるかもしれないから、悔しいほどに羨ましい。
 そんな僕の心を見透かしたように、彼女はスケッチブックのある一枚を僕に向けて、悲しそうな顔をした。ただ、深く真っ黒に塗られた一枚の絵。
 しまった、と思った。その絵の意味を言うべきか⋯⋯。見られてしまったら仕方ない。メンヘラなのでは? と、変な誤解をされても困るし、僕は素直に答えた。
 「それ、僕の世界なんだ」
 「つまり⋯⋯君はやっぱり闇の世界の住人ってこと?」
 ここまで徹底してイジられると、有難くて僕も思わず笑ってしまった。にへら笑いじゃなく、フフッと声に出して。
 「あながち間違いじゃないな。もうすぐ闇の世界の住人になるのは本当だから」
 「そっかーー。私もそのうち光の世界の住人になるから同じだね」
 「なんだよそれ」
 クスっと笑った彼女は椅子から立ち上がり、スカートを揺らしながらくるりと僕の方を向いた。
 「私、御影怜那(みかげれいな)。ねぇ! 似た者同士、友達になろうよ」
 彼女は真っ直ぐに僕に手を伸ばす。
 どこが似た者同士だ? 僕なんて君の光に照らされて消失してしまいそうな存在なのに。それに、さっきから藤井先輩の針を刺すような視線が、僕の背中に刺さっている。
 「どうして君と──」
 返事をしようとした僕の声を、最終下校を告げる夕方六時のチャイムが遮る。その音に、彼女は慌てて「返事は明日でもいいから! またね」と言い残して美術室を飛び出して行った。
 「なんだよ、告白の返事でもあるまいし⋯⋯」
 何か急用でも思い出したのか? と首を傾げる僕の足元に【御影怜那】の定期入れが落ちている。あんなに慌てたもんだから落としたのか。おっちょこちょいなやつだな。僕は急いで拾い、彼女の後を追いかけた。

 夕焼け色に染まる廊下を、彼女はゆっくり歩いていた。
 あんなに慌てて出ていったのに? 一瞬そんな疑問が頭を過ぎったが、とりあえず定期入れは無事に渡せそうだ。僕はホッと胸を撫で下ろすと、彼女に近付いて名前を呼んだ。
 「御影さん、これ落としたよ」
 彼女は振り返ると、目を大きく見開いて、驚いた顔で僕を見た。
 そんなに驚くことか? と思った次の瞬間、僕はその答えを知った。
 夕日を背に浴びた彼女の髪の毛は、暖かみのあるオレンジ色に染まっている。と言うより、透けて夕日が見えている。髪だけじゃない。本物を見たことは無いけど、まるでアニメでよく描写される幽霊みたいだ。御影さんの輪郭はぼんやりとあるが、後ろの景色が透けている。
 「御影⋯⋯さん?君って⋯⋯」
 「君は、私が見えるの!?」
 驚いて口が聞けなくなった僕の手を掴んで、彼女は誰もいない空き教室に僕を連れていった。僕らの教室と同じ一番後ろの席に並んで座る。
 手を引かれながら、彼女は幽霊だったのか? と考えた。 いや、クラスメイトと普通に会話していたし、透けてなんてなかった。でも、今僕の目の前にいる彼女は透けてて⋯⋯。僕の頭の中で、思考回路が切れる寸前だ。何か言わないと⋯⋯なんて思うけど、口はさっきからパクパクと魚みたいに動くばかり。
 そんな沈黙を破るように、いつもの調子で彼女が口を開いた。
 「さて、何から話そうかな。ビックリしちゃうよね!私もビックリしちゃってるもん」
 「あの⋯⋯御影さんは、その⋯⋯幽霊なの?」
 彼女はアハハと笑ってみせた。
 「違うよ、ちゃんと生きてる。私は生きてるよ。まぁ君がそう思うのも仕方ないよねーー」
 「じゃぁ、どうして透けてるの⋯⋯?」
 今度は真剣な顔をして、彼女はフーッと大きく息を吐いた。
 「君は私が見えるんだもんね。じゃぁ、信頼して話すよ。私の秘密。うちの家は代々、ある呪いがかかってるの。昔ね、ご先祖さまが月の神様を怒らせてしまって。それから夜になると透明になっちゃうって運命。月の神様が私達を見たくないんだって。そんな呪いなんだけど⋯⋯って言われてもねーー?」
 彼女は申し訳なさそうに苦笑いをした。
 にわかに信じ難い話だ。普通だったら、おとぎ話の世界でしかありえないだろ!ってツッコミを入れるだろう。だけど、目の前の彼女は透けている。僕にはそんな彼女が見えている。きっと嘘は言っていないだろう。彼女の目の輝きが、寂しく陰っていた。
 「⋯⋯信じるよ。だって現に君は透明だ」
 僕は彼女に少しだけ同情した。彼女も酷な運命を背負ったもんだ。僕が眼帯の下に隠した病気も、呪いみたいなものだし。だから、彼女の気持ちは分かっているつもりだ。知られたくない、隠していた事を知られてしまったんだから、気持ちも穏やかじゃないだろう。
 「ありがとう」
 彼女は微かに表情を緩めた。
 「その、聞いてもいいのかな。君の⋯⋯その、呪いを解く方法はあるのかい?」
 「ある!!」
 よかった! と、なぜか僕が安堵する。僕にはない救いが、彼女にはあってよかったと心から思った。
 「それで、その方法って?」
 「大切なものを見つけること」
 神の思し召しも随分と抽象的だな。僕はふと、あの言葉を思い出した。大切なものは、目に見えない⋯けど。
 「たしか、代々呪われてるって言ったよな? それなら、君の両親に答えを聞けば⋯⋯その大切なもの! 君の親は助かったから君がいるんだろ?」
 彼女は天を仰ぎながら、首を横に振った。
 「呪いは百年おきなの。もう、答えは誰にも聞けない。だから自分で探さなきゃ」
 まるで、運命をごくりと飲み込んだように清々しく笑う彼女が、どこか僕と似ていると感じた。受け入れる覚悟を決めるまで、どれだけの時間を費やしたか。それが、僕には痛いほどにわかる。そんな彼女に、心が揺らいだ。このありえない状況も相まって、今日の僕はどこか気持ちが高揚している。普段ではありえない、自分語りなんかを始めてしまった。
 「僕もさ、実はこの眼帯の下に呪いを隠してる。君の想像通り、闇の呪いだ」
 「やっぱり! 私の目に狂いはなかった!!」
 透明で、まるで光のような彼女の前で僕は無力だった。つい彼女のペースに巻き込まれて、溢れるように言葉が止まらない。
 「僕も探してるんだ。闇の世界に行く前に、この世界でいちばん美しいものを心に残しておきたくて。未来でさ、この目で見ることができないかもしれないから」
 彼女はあの綺麗な瞳を、輪をかけたように輝かせた。
 「じゃあ探そうよ! ふたりで!!」
 「えっ?だって、君の大切なものとは違うだろ⋯⋯」
 「やってみなきゃわかんないじゃん!! ふたりで探してたらどっちも見つかるかもしれないよ?」
 彼女はもう一度、真っ直ぐに僕に手を伸ばした。
 「急に言われてもな⋯⋯」
 「秘密を共有したんだから、もう仲間だよ」
 彼女は屈託のない笑顔で僕を見つめる。
 あぁ、ダメだ。言ったろ?僕は彼女の前では無力なんだ。僕はこっそりと制服の裾で手を拭う。
 「返事は明日じゃなくて、いまでもいいのかい?」
 「もちろん」
 「僕は、和山悠陽(わやまゆうひ)。よろしく」
 嬉しそうに笑う彼女のその手を、僕はしっかりと握った。


 ──今思えば、僕はこの瞬間に知ってしまったのかもしれない。目に見えない大切なものの答えを。透明で、純粋で、そして儚くて。口にしてしまえば、壊れてしまいそうで。キラキラと輝く君の瞳の前で、僕はそれを言えなかった。


 ♢


 彼女の秘密を知ってから、僕の日々は少しだけ慌ただしくなった。
 彼女は根っからの明るい性格。それにあの容姿だ。友達が多い。クラスでも人気者だ。僕は彼女と友達になったとはいえ、持ち前の人見知りを発揮している。いや、近寄るな! と闇のオーラを出していると言った方が適切だ。おまけに毎日、眼帯をしてる変なヤツ。そんな僕の思惑通り、人を寄せ付けていない訳だが。
 「おっはよーー!」と、そんな僕に笑顔で挨拶をする彼女を、クラスの皆は不思議がっていた。御影さんの前で『月』って言葉を使いたくは無いが、彼女が太陽なら僕は月だ。対極にいる。それに、彼女と教室では深い話が出来ない。僕たちの抱える秘密はそれほどに大きいのだ。だから、彼女は放課後になると、僕のいる美術室にやって来た。僕は絵を、御影さんは適当に時間を潰しながら、二人でひそひそと小声で会話を交わしている。最初は僕らに眉をひそめていた藤井先輩も、静かに話す分には黙認してくれていた。

 ある日の放課後、彼女はふとこんなことを僕に言った。
 「そういえば、君はどんな景色を見たいの?」
 「えっ?⋯⋯っとそれは」
 彼女の問に言葉が詰まる。深く考えたことはなかった。たとえば、片目が見えない僕がひとりで遠出するなんて言い出せば、心配性の母は首を横に振るだろう。だから、ひとりでも許されている通学路や、学校から見える景色の中で僕はそれを探していた。
 僕の世界はずいぶんと狭いもんだ。
 それに、僕は無意識に答えを察しているのかもしれない。強い決意でもあれば、僕はどこにだって飛び出すはずだ。両親に心配をかけたくないとか、適当な理由をつけて諦めてしまうくらいの覚悟で、見つかるはずもないものを見つけようとしているだけ。安全な場所から動かずに、空中でぶんぶんと手を振り回したって何にも当たらないのと同じ。もういいやってどこかで諦めてるくせに、悲劇の主人公を演じている僕。暗澹(あんたん)とした気持ちが渦を巻いている。そんな僕が他人にくだらないと唾を吐けるだろうか?
 あぁ、嫌気がさす。僕の中にも人間の目を背けたい部分が存在している。こんな陰湿な僕も他人から見たら、見たくない『もの』なのかもしれない。
 「どうしたの? おーーい」と言う彼女の声で、ふっと我に返る。
 「ごめん。はっきりと、答えが出せてないんだ⋯⋯」
 僕は寂しそうに答えたんだろう。彼女は優しい顔で微笑んだ。
 「いいじゃん! これから出会えるんだから素敵だよ。ゆっくり探せばいいんだから」

 ──だけど、僕には時間が無いんだ。

 僕は、にへら笑いをしそうになった顔を、無理やりクシャッと緩めた。見つけるのは不可能だ、なんて心の声が漏れないように、平然を装った。

 「そうだね。見つかることを願うよ」
 「ちがーーう! 願うんじゃなくて、自分から行動しなきゃ!!」
 「いや、君がゆっくり探せばって言ったんじゃないか」
 そんな僕らのやり取りを邪魔するように、夕方六時のチャイムが鳴る。
 「あーー。もう! 続きは戻ってきてからね」
 彼女は美術室のドアを開けっ放しにして、慌てて近くの女子トイレに駆け込む。そして、暫くすると透明な姿で戻ってきた。
 藤井先輩が、僕に「お友達が開けっ放しにしたドアをしめてくれない?」と呆れながら言った。僕はしぶしぶドアを締めに行く。
 椅子に座り乱れた前髪を直している彼女は、やっぱり僕にしか見えないようだ。御影さんは藤井先輩の背中をじっと見つめながら「どうしてさ、君には見えるんだろうね?」とポツリと言った。
 「さぁ⋯⋯」
 その答えがあるなら、僕が聞きたいくらいだ。
 「ねぇ、私たちさぁ、⋯⋯もしかして運命の相手とか!? 君が私の王子様! なーーんてね」
  両肘をついて、首を少し傾けながら可愛らしくポーズを取り、茶目っ気たっぷりに彼女は言った。僕は後ろにたじろぐ。
 「あのさぁ、僕を馬鹿にしてるだろ」
 「うん、君の反応が面白くって」
 言葉通り、可笑しそうにケタケタと笑っている。
 今回は僕も、さすがにあの顔で答えた。
 ひと通り笑い終えた彼女は、そうだ! と人差し指を立てる。
 「私の好きな景色を一緒に見に行ってみない?」
 「えっ!? なんで」
 「物は試し! 君にはそんな勇気が必要!!」
 彼女には僕の心が丸見えなのか? 透明だから、僕を透視でもできるのか? 僕の心の痛いところを突っついてくる。
 「⋯⋯わかってるよ、それくらい」
 「よっしゃ! 決まりね」
 彼女は小さくガッツポーズを決めている。
 「それで? どこにいくの? 遠くは無理だよ」
 「それは、内緒! 当日までのお楽しみです」


 御影さんとの約束の日。
 シルクのような朝の光が部屋に射し込んでくる。目覚ましのアラームを聞くよりも先に、僕の意識はハッキリとしていた。寝たのか、寝てないのかも分からないくらい、意識がジェットコースターみたいに激しく上下していたからだ。いつになく緊張して、何度も寝返りをうって目を開けたり閉じたりを繰り返していた。毎朝の、目が見えなくなってるんじゃないか? なんて恐怖はなく、すんなりとベットから起き上がった。
 流石に女の子と出かけるんだから、身だしなみくらいちゃんとしなければ⋯⋯。珍しく朝からシャワーを浴びて、ちゃんとドライヤーをかけた。鏡の前で前髪を整え終わると、眼帯を手に取る。ほんの一瞬だけ躊躇したが、これだけは仕方ないと僕は右目に当てた。ただでさえ気が張っているのに、毎日のルーティンを崩してしまったら自滅しそうだ。
 用意周到な僕は「美術部の集中合宿があるんだ」なんて、ありもしない予定を数日前から両親に伝えていた。予想に反して両親はすんなりと受け入れてくれた。日曜日の朝にもかかわらず、早起きをして朝食を用意してくれた母親の背中を見ると、ついてしまった嘘に、ちょっとした罪悪感を感じている。正直な気持ちを言ってしまえば、それ以上に高揚感に満ちていた。ドキドキと心臓が騒がしい。この感情の理由は、僕には見えなくてもいい。知らなくていい。
 「行ってきます! ひとつ課題を完成させるから帰り遅くなるかも」
 リビングから聞こえる母親の眠たそうな返事を確認して、僕は浮かれた足取りで家を飛び出した。

 待ち合わせに指定された横浜の駅に着くと、あまりの人の多さに僕は壁にぴたりと背中をつけて縮こまった。最寄りの駅とは大違いだ。人にぶつかっては危ないから、右側の安全を確認して、それからスマホを確認する。御影さんと連絡を取り合うためだけにダウンロードしたメッセージアプリに赤いバッチが付いている。タップして開くと【ごめん! ちょっと遅れる】の文字に、子犬が舌を出して謝っているスタンプが添えられていた。【わかった】と簡単に返事をするが、このまま突っ立っているのも疲れる。時間を潰そうと駅のお土産ものコーナーをぐるりと一周した頃に、御影さんは息を切らして現れた。
 「おまたせーー」
 白い小花柄のワンピースがよく似合っている。彼女の清楚さがより際立ち、香水だろうか? フレッシュな柑橘系の香りがふわりと僕の鼻先をくすぐった。

 「その服、よく似合ってるね」
 「君は全身黒い服で来るかと思ったよ。それで眼帯してたらさもうさ、キャラが立ちすぎて見つけやすいだろうなって⋯⋯」
 口元を手で押えてもわかる、笑いを必死に堪えた顔で御影さんは言う。僕だって、そうならないように必死にコーディネートを考えた。スマホで検索して、なるべく爽やかに。手持ちの洋服をクローゼットからひっくり返して、床にぶちまけたまま力尽きたんだ。御影さんは僕をまじまじと見つめ「君も似合ってるよ!」なんて言ってくれたから、ほっと胸をなでおろした。
 「じゃあ、行き先を発表します」
 自分でドラムロールを付けながら、じゃん! と、御影さんは嬉しそうにチケットを僕に手渡す。
 【みさきまぐろきっぷ】
 「えっと⋯⋯まぐろきっぷ?」
 随分と美味しそうな切符だ。この切符から絶景なんて想像できない。人生最後に食べたいものの候補を探しに行くんじゃないんだぞ? 彼女発案の企画だから全部任せてはいたけど、予想外のものが出てきた。
 「ねぇ、君はマグロすき?」
 「⋯⋯普通かな」
 どうやらこれは観光きっぷのようで、往復の乗車券に【まぐろまんぷく券】も付いてくるらしい。
 「見て! いっぱいお店があってね、きっぷの特典で、好きな所で食べられるんだって!お寿司がいい? 海鮮丼がいい? どれも美味しそうだなーー」
 花より男子ならぬ、景色よりマグロかよ! ってツッコミたくなる気持ちを抑えつつ、パンフレットに今にもかじりつきそうな御影さんに、僕は何も言えなかった。
 毎日を楽しそうに過ごす彼女だけど、筆舌(ひつぜつ)に尽くしがたい苦しみを抱えているはずだ。悩みを共有している僕にすらも、弱さを見せない彼女は強い人だ。そのメンタルの保ち方を教えて欲しいくらいに、羨ましく思う。そんな彼女にも、怖いなんて思う瞬間はあるのだろうか?
 「やばい! 電車来ちゃう!! 走るよ」
 ふたりで階段を駆け上り、赤い電車に飛び乗った。

 座席が進行方向を向いたクロスシートに並んで座ると、電車はゆっくりと発車した。乗車券のみで、この特別感はなかなかにいい。
 「旅行みたいでいいでしょ!?」
 「うん。快適だ」
 聞けば、この車両を狙って切符を予約したそうで、御影さんもなかなかに用意周到だ。路線図を見ると、どうやら終点まで行くらしい。片道およそ一時間ほど。帰りの時間を考えても、ちょうどいい遠征だ。
 どんな景色が待ってるんだろう?
 座席の窓側を譲ってもらい、僕は車窓から見える景色を眺めながら物思いにふける。のっぺりとしたビル群を抜けると、快晴の空がぱっと広がる。同時にまばゆいばかりの太陽の光が顔を照らし、堪らずブラインドを閉めた。隣に座る御影さんは、グミをもぐもぐと噛んでいる。
 「食べる? ねぇグミは硬い派? それとも柔らかい派?」
 「どっちかと言えば硬い派かな」
 「おーー! やっぱり気が合うね」
 御影さんが持っていたのは、硬い海外製のクマのグミだった。僕もひとつ貰って口に運ぶ。体に悪そうな色をしてるけど、久しぶりに食べると美味しく感じる。
 「他にもあるよ? チョコでしょ? ⋯⋯ポテチに、それから」
 手品みたいに鞄から出てくるおやつに感心していると、終点到着を告げるアナウンスが車内に響いた。

 目的地の三崎口駅に降り立つと、彼女はバスの時刻表とにらめっこを始めた。「先にご飯を食べた方がいいよね?⋯⋯それからこのバスで移動して⋯⋯」何か独り言をブツブツ言いながら時折、頷いたりしている。「よし!」と声が聞こえ、どうやら彼女の中で完璧なスケジュールが立ったのだろう。万遍の笑みで「次のバスに乗るよ!」と僕に言った。
 バスがやって来るまで、待合のベンチで御影さんお待ちかねの食事処を選ぶことにした。三十店舗ほどの食事処が、各々自慢のマグロ料理の写真をパンフレットに掲載している。ここから一つだけ選ぶのは、なかなか難しい。僕一人ならガッツリ系を食べたいが、御影さんの胃袋事情はよくわからない。あんなに楽しみにしてたし、ここは御影さんに委ねよう。
 「御影さんが食べたい所に行こう」
 「そうだなぁ⋯⋯じゃぁ、いちばん高そうなーー、ここ!」
 指さしたメニューは【贅沢まぐろ丼】と書かれている。量も申し分無さそうだ。僕もマグロが楽しみになってきた。
 ん? 待てよ。今日の目的を見失ってないか? と、僕はすぐに雑念を払った。
 「君の好きな景色を見に行くって目的⋯⋯忘れてないよね?」
 御影さんは、もちろん! と、親指を突き立てた。
 「私の好きな景色は、見る時間もタイミングも重要なの!」
 「そうなんだ」
 どうやら、御影さんはベストタイミングを狙っているらしい。妥協は許さないぞ! と言わんばかりのドヤ顔だ。
 「君はもっと楽しんだ方がいいよ。ほら、気楽にいこ」
 僕は彼女が何を言いたいのか分からずに、怪訝な顔をする。
 「僕なりに楽しんでるけど⋯⋯」
 「ほらーー! その眉間のシワ!! 幸せが逃げるよ」
 御影さんは僕のシワの寄った眉間に、軽くデコピンをした。
 「いてっ⋯⋯」
 「そんなに強くやってませーーん」
 意地悪な笑みで、御影さんはデコピンの練習をしている。これ以上の被害を避けるために、僕は水を買いに売店に逃げた。

 売店から様子を伺うと、御影さんは散歩中のゴールデンレトリバーを見つけて、無邪気な顔で撫で回している。小さい子供みたいにはしゃぐ彼女を見て、僕の頬が緩む。
 御影さんは不思議な人だ。
 彼女が光の世界の住人になるとしたら、慈愛に満ちた天使が似合うだろう。クラスでもそんな立ち位置の彼女を、誰も数奇な運命を与えられた人だとは思わないだろう。彼女は隠すのが上手い。
 そんな天使が、わざわざ暗闇の僕なんかに絡んできて、彼女にメリットがあるとは思えないし。どうして僕なんかと友達になりたかったんだろう? 僕には彼女の心がまだ見えない。それに僕なんかほっておいて、自分が探さなきゃいけない答えを探せばいいのに。
 御影さんが探しているのは『大切なもの』か。それは目に見えるものなのだろうか? 僕も見ることができるものなのか?

 ──答えはきっと、心だけが知っている。大切なものは、目に見えないんだから。

 彼女の目当ての磯料理屋に到着すると、お昼前にも関わらず列ができていた。後ろに並んだカップルの会話から、どうやらこの店は【みさきまぐろきっぷ】の中でも一、二を争う人気店らしい。
 「ラッキー! 当たりだね」
 「どのくらい待つんだろう⋯⋯」
 待つのは苦手だ。行列の長さに、僕はつい眉を曇らせた。御影さんはすかさず、そんな僕の眉間にデコピンをお見舞いする。
 「はい! またその顔したらデコピンだからね」
 したり顔で笑う彼女は、まだデコピンの練習をしている。
 せっかく時間もあるし、僕は気になっていたことを聞いてみた。
 「聞いてもいいかな?」
 「どーーぞ!」
 僕から話しかけることが少ないからか、彼女からの期待の眼差しを感じる。
 「別に深い意味は無いんだけど⋯⋯どうして僕と友達になろうと思ったの?」
 「んーー隣の席だし?」
 「⋯⋯それだけ?」
 別に嬉しい答えを期待した訳じゃないけど、なんだよ⋯⋯別に誰でもよかったのか。また僕の眉間にシワが寄りそうになり、慌てて両手で隠した。
 「冗談だよ! ちゃんと答えるなら⋯⋯んーー、君のことを知りたかったからかな」
 「知ったって、僕はつまらない人間だよ」
 「ほんとに君は卑屈な性格だねーー」
 僕のにへら笑いは、もう御影さんには通用しない。だらしなく上がった口角を、彼女は迷わず抓るかもしれない。案の定、御影さんは僕の顔を眉間にシワを寄せながら見ている。僕はすかさず、豆腐も崩れないくらいの強さで、彼女のおでこにデコピンをお返しした。
 「キャッ!」
 「幸せが逃げるんだろ?」
 怒るかと思ったけど、御影さんはお腹を抱えて笑った。
 「あはは。君、面白いよ。もっと自分を出せばいいのに。いっつも愛想笑いの影に本音を隠してるもんね」
 悔しいけど、図星だ。彼女の言葉は僕にグサリと刺さる。でも、不思議と嫌な感じはしない。妙に腑に落ちる。子供っぽいのは仕草だけで、自分の運命を達観している彼女は、僕なんかよりはるかに大人だ。彼女に本心を見透かされて指摘されても、尊敬できる大人に諭されている気持ちになるのだ。
 「君の言う通りだよ」
 「覚悟しててよ? その眼帯の封印ごと、いつか私が君を解き放つからね!」

 順番に名前が呼ばれ、僕らも店内に入り二人掛けの小さいテーブルに案内された。念願の【贅沢まぐろ丼】は、期待を裏切ることなく絶品で、あっという間に間食した。御影さんも満足そうだ。
 店を出て、腹ごなしにバスの時間まで近くの港を散歩することにした。隣接している市場を見たり、途中で港から足をプラプラと投げ出して、僕は持ってきたスケッチブックに風景を描いたり、御影さんはカラフルな魚を探したり。お互いの秘密を共有したからなのか、人付き合いは苦手だけど、御影さんと一緒にいる時間は心地いい。御影さんが楽しそうに笑えば、僕の心も楽しくなる。だからこそ思ってしまう。なぜ彼女なんだろう? 御影さんは何も悪いことをしていないのに。より一層、彼女にかけられた呪いをなんとかしたいと強く思う。どうすればいい?
 童話なんかだと、呪いを解くのは決まって⋯⋯。
 「おーーい! また難しい顔してるよ」
 「ごめん、考え事してた」
 「ふむふむ、まだ心配かい? 安心したまえ。この後ちゃんと絶景が待ってますよ」
 どこかの名探偵みたいな素振りで彼女は言った。
 「違うよ。僕の事じゃないよ。御影さんのこと」
 「えーー。なになに!? 私が大口を開けてまぐろ丼を食べてたな、とか?」
 確かに、それは否定しない。
 「⋯⋯御影さんの、呪いを解く方法を」
 「あーー。大丈夫、大丈夫! そのうち見つかるって」
 「そのうちって⋯⋯いつだよ」
 「ちょっと! どうして君が暗い顔になるの?」
 御影さんは他者には大人なのに、自分事になると急に子供っぽくなってしまう。無邪気なのは彼女の長所だとしても、無邪気すぎて呪われた運命を受け入れた⋯⋯じゃなくて諦めてしまったんじゃないかとも思える。諦めてしまえば、傷口は浅くて済む。僕がそうだから知っている。本音を言ってしまえば、最後に見たい景色を探してる事だって、諦めた先の時間を消化しているだけ。僕の思考はいつだってネガティブな自覚がある。絵を描いて、目に見えない大切なものを探すふりをして⋯⋯だから、あのキャンバスに何も書けないんだ。真っ白くて無機質で、透明で。それが答えだ。だから、彼女が濁すのも分かる。分かるけど、僕は彼女にそうであって欲しくないと思ってしまうんだ。僕の光であって欲しいと思ってしまうんだ。
 「君だけでも助かって欲しい」
 そんな言葉が口から出そうになり、ギュッと唇を噛んだ。
 そんな僕に気を使って、それでも努めて明るく彼女は振る舞う。
 「ほら、今日は君の捜し物を見つけに来たんだから!」
 彼女の優しさには心底感謝している。僕が何かを返せるとしたら、僕に残された時間を全て使って、御影さんの『大切なもの』を見つける手伝いをする。それを一緒に見つけたい。僕の顔はするりと緊張が解け、優しい顔で笑っていた。
 「ありがとう」

 未だに行き先が伝えられぬまま、僕らはバスに乗り込んだ。バスのフロントガラスの行き先表示器に【城ヶ島】と表示されていたから、どこか島に行くんだろう。予想通り、バスは途中で海の上に架かる大きな橋を渡り、十五分ほどで彼女の目的地、県立城ヶ島公園に到着した。城ヶ島は、三浦半島の南端に位置する島で、神奈川最大の自然島だ。その半分ほどが公園になっていて、案内図には絶景と呼べるスポットが点在している。あの有名なガイドブックでも「近くにいれば寄り道をして訪れるべき場所に相応しい」と、二つ星を獲得した観光地らしい。
 「立派な公園だなぁ⋯⋯」
 御影さんの方を振り向くと、スマホで熱心に調べ物をしている。彼女の性格から、きっとまた効率のいいルート選びに夢中なのだろう。相変わらず、小さな独り言が絶えない。
 僕は移動する道中にある決意をした。
 この場所で見た景色を、僕が最後に見たかった景色として決める。そして到着して数分で、この場所がそれに申し分ない場所だと思った。御影さんの好きな景色に共感するんだから、彼女は何も疑問に思わないだろう。そしたら、僕は彼女の探し物を探す手伝いができる。どちらにも利があるじゃないか。名案だ。

 それから僕らは、公園の名所をゆっくりと巡った。
 切り立った崖の上で、「グワーッ、グワーッ」と、鳴きながら日光浴をするウミウの群れは圧巻だったし、展望台からは雄大な富士山も見えた。海にせり出した岩礁の上に立ち、波のしぶきを見ていると、世界の果てに立っているような気分になる。
 僕はスマホのカメラで、それらを夢中になって写真に収めた。
 「君が写真なんて珍しいね」
 「候補がありすぎて、あとで見返してどれを絵に書くかじっくり考えたい」
 興奮気味に話す僕を見て、彼女はにんまり笑う。
 「最後にもっとすごい景色が待ってるからね」

 陽が西に傾き始めて、空の青に金色の光が混ざり始めた頃。彼女に案内された最後の名所は、馬の背洞門と呼ばれるこの島を代表する景勝地だった。岸壁が、長い年月をかけて波で削られた海蝕洞穴。その神秘的な自然の芸術品はまるで額縁のようで、アーチ状に雄大な太平洋の景色を切り取っている。
 「すごい⋯⋯」
 思わず声を失ってしまった。

 「まだ時間があるから少し話さない?」
 そんな彼女の提案に頷き、馬の背洞門を正面にして僕らは適当な岩場に腰を下ろした。
 「ありがとう。こんな景色初めてだ。君が連れ出してくれなかったら、僕は一生出会えなかった」
 「ちょっ⋯⋯急にやめてよ! なんか照れる」
 見切り発車で、恥ずかしげもなく感謝を伝えてしまったのを後悔した。彼女もどうしていいか分からない様子だ。紅潮した頬をパタパタと手で仰いでいる。
 「⋯⋯僕がこの世界で見たい最後の景色かも」
 「ほんとに?」
 「うん。僕の捜し物は見つかった。次は君の大切なものを探そう。考えてみたんだ。呪いを解くのはいつだって王子様だ。白雪姫だって、オーロラ姫だって。だから君が好きな人とさ⋯⋯そのキスをしたら」
 「なにそれ。いないよ、そんな王子様なんて」
 御影さんは乾いた笑みで言い放った。
 「いるさ! 僕だってこんな素敵な場所に出会えたんだから。きっとどこかで君を待ってる」
 御影さんは小さく首を横に振った。
 「ほんと嘘ばっかり⋯⋯君は隠すのが下手くそなんだってば」
 「えっ?」
 「私のために、嘘ついてるでしょ?」
 ドキッと心臓が跳ねた。嘘は付いていないつもりだ。この景色に心底感動したのは嘘じゃない。僕のキャンパスに描くに値するけど⋯⋯。それに、御影さんに対しても思うことはある。
 「君だって、本音を隠してるじゃないか」
 「えっ⋯⋯?」
 「呪いを解く方法だってさ。君だって時間を無駄にしたくないはずだ。なのに僕のことばかり」
 「私の事、わかったような口で言わないでよ⋯⋯」
 彼女がそう言った途端、寂寥感(せきりょうかん)に襲われた。こんなに物悲しげな彼女の顔を初めて見る。柑子色(こうじいろ)の空と、微かな彼女の香水で締め付けられた僕の心は、甘酸っぱい。喉の奥がぎゅっと閉まって何も言えなかった。
 「そうだね⋯⋯。君に謝らなきゃ。私って、ずるい人間なんだよ」
 御影さんは口角を下げたま、愛想笑いをした。
 「⋯⋯どうして?」
 「ごめん。私は君を利用したんだ。君に優しくしたら、君を助けたら、そうやって徳を積んだらって⋯⋯月の神様も許してくれるんじゃないか。最初はそんな気持ちで友達になろうって思った」
 そんなこと、僕が御影さんの立場でも同じことをする。大したことじゃない。僕の様子を伺いながら、彼女は話を続けた。
 「君を知りたいって思ったのは本当だよ。私たちどこか似てるもん。それにね、私だって自分の運命を恨んでるよ。何でこんな家に生まれたんだろうって。だって夜になると消えちゃうとかおかしいじゃない? 現実離れしすぎてさ。解決策が大切なものを探す? ⋯⋯なにそれ」
 「⋯⋯さっき大丈夫って言ったのは? 答えに心当たりがあるんじゃ」
 「友情に、愛情に、思い出。それから感謝と謝罪と⋯⋯私、ずっと考えていい子にしてきたんだよ? それでこれだもん」
 指先からゆっくりと透けていく手をひらひらとさせながら、寂しそうに笑った御影さんに、僕はまた何も言えないでいる。
 「君にね、まだ話してない秘密があるの。神様は私に、ひとつだけ希望をくれたの。心から願ったことをひとつ叶えてくれる魔法」
 「じゃぁ、その願いで呪いを⋯⋯」
 「試したことない」
 彼女は小さく首を横に振り、それ以上は言わなかった。

 僕らの間に漂う沈黙を破ったのは、御影さんの声だった。
 「見て、もうすぐだよ」
 彼女はゆっくりと馬の背洞門を指さした。
 太陽がゆっくりと落ちてくる。柑子色の空も海に堕ち、空は薄明(はくめい)の帳が下りはじめた。
 「ちゃんと見てて、一瞬だから」
 太陽が水平線に沈む刹那、あの歪な額縁の中に光が射した。金色の光が額縁の中を満たすと、まるで僕の世界に希望の扉が開かれたような感動を覚える。思わず僕は手を伸ばした。その光を掴もうとした。僕が欲しくてたまらない希望に、両の眼から涙があふれる。
 「ほらね、やっぱり君の心は見たがってる。もっといろんな世界を見たいんだよ。それが本音」
 御影さんが、口元を三日月の形にして微笑んでいた。僕は、ただ見惚れてしまったんだ。沈んでいく夕陽の光を反射して、君の瞳の宝石は輝きを増している。
 「綺麗だね⋯⋯」
 最初から分かってた。
 僕が最後に見たい景色の答えなんて、分かってたんだ。
 始まりなんて、どうだっていい。
 きっかけなんて、なんだっていい。
 君がいる景色が、君と見た景色が、僕には特別なんだ。もし僕にタイムリミットが無かったら⋯⋯なんて。僕の運命は決まっている。どうしたって、もうすぐ僕は真っ暗な世界に行ってしまう。そこに笑顔の君がいてくれたら、寂しくないだろう。
 「君が好きだ!」って気持ちが、つい口に出てしまいそうになる。けど、無理だ。僕は透明になった君さえも見つけることが出来なくなる。僕の視界が透明になってしまえば、君もそんな世界に溶けて無くなる。数奇な運命を背負う僕らのどちらか助かるんなら、君だ。君であって欲しい。
 「僕が最後に見たい景色は、君の笑顔かもしれないな」
 「わたし?」
 「君はいつだって背中を押してくれる。あのキャンバスに君を描いてもいいかな? 真っ暗な闇の中でも、君が笑ってくれれば。僕は生きていける気がする」
 御影さんは、僕の好きな顔で笑ってくれた。

 ──ねぇ、御影さん。僕が君の王子様ならよかった。今にも消えてしまいそうな君を抱きしめて、守ってあげられたら良かった。それが僕の天命なら、喜んで差し出すのに。だってこんなにも僕は君が⋯⋯。


 ♢


 「毎日来るんなら、入部でもしたら?」
 ぶっきらぼうに、藤井先輩が僕らの座る机に入部届の紙を置いた。
 「彼女にはモデルをお願いしているだけなので⋯⋯」
 あっそう、と藤井先輩はツンとした顔で席についた。当の本人は持ってきた漫画に夢中になっている。確かに僕が笑顔の君を描きたいとお願いはしたが、まさか漫画を持ってくるとは。クスクスと楽しそうに笑っているけど、没収でもされたら僕のせいだと咎められそうだ。真面目な藤井先輩に見つかってなきゃいいけど。
 あの日から、僕は御影さんの絵を描き始めた。
 僕の答えは見つかったけれど、御影さんの答えは未だ闇の中だ。関係がギクシャクしてしまうのでは? なんて心配もよそに、次の日も御影さんは「おっはよーー!」と、僕に挨拶をした。ついでに「まぐろ丼美味しかったねーー」なんて言うもんだから、一瞬クラスの空気は固まった。たちまち彼女はクラスの女子たちに囲まれて、僕の隣であれこれと聞かれていたし、僕は彼女が何を言い出すか冷や汗をかいた。チラっと目が合うと、御影さんはしてやったり! という顔をしていた。


 「ちょっと疲れた⋯⋯休憩」
 僕は鉛筆を置いて左目をごしごしと擦る。ただでさえ片目で集中して描いているのだから、どっと疲労感が襲う。下瞼もぴくぴくと動いている。
 「君って本当に絵が上手いね。才能あるよ」
 御影さんは僕のキャンバスを覗き込んで感心した。
 「僕くらいの人間はいくらでもいる」
 「ねぇ、コンクールとか出してみたら!?」
 いつまで絵を描けるかも分からないのに、そんな目標なんて到底無理だ。コンクールに向けて着々と完成していく藤井先輩の絵を横目に、思うことはある。僕だって本当は、挑戦してみたかった。挑戦すればいいって彼女は言うだろうけど、一度知ってしまえば、欲が出てしまうのが人間だ。また次のコンクール、また次の⋯⋯って。次の先に、真っ暗な未来しかない僕はぶっきらぼうに答えた。
 「コンクールとか興味無い」
 ふーんと彼女は口を尖らせ、また自分の絵を覗き込んだ。
 「でも私ってやっぱり可愛いねーー」
 僕は鼻で笑った。
 「ちょっとだけ盛ってるけどね」
 「うわ、君にはデリカシーが欠如してるよ。そんなんじゃモテないよ? 今すぐ直すべき」
 僕は彼女の目の前でパチンと手を叩いた。
 「うわっ、びっくりした! やめてよ急に」
 「君の前に蚊が飛んでたから⋯⋯あれ? 逃がしたか」
 「え! 虫!?」
 御影さんはバタバタと手を動かし、見えない虫を追い払っている。
 「大丈夫だ。もういなくなったよ。あっ! そろそろ時間だよ」
 僕は外の夕日を指さした。もうじきチャイムも鳴る。
 「ごめん、ちょっと行ってくるね」
 御影さんはドアを開けっ放しに美術室を出ていく。藤井先輩はまたかという顔でため息をついた。透けた姿の彼女が戻って来たのを確認して、僕はドアを締めに席を立った。誰もいないのに、ドアがひとりでに開閉したらさすがの藤井先輩も卒倒するだろう。
 時々、御影さんは見えないのをいいことに、そんな藤井先輩に悪戯を仕掛ける。風もないのにカーテンを揺らしたり、黒板のチョークを落としてみたり。ビクッとする藤井先輩の反応を無邪気に喜んでいる彼女を見て、徳を積むとか言ってた人の行動じゃないだろ⋯⋯と僕も頭を抱えた。
 
 あれから、僕もずっと考えている。
 御影さんが見つけなければいけない『大切なもの』の答えを。
 気持ちは変わっていない。僕に残された時間で、それを見つける。その決心は揺らいではいない。
 思いつく限りの大切なもの候補をスケッチブックに書き出してみた。
 空気と感情と、心と思いと。あとは魂と⋯⋯。どれも生きるために大切なものじゃないか。でも彼女が口にした事と変わらない。
 僕は埃の被った本棚の奥から、すがるようにあの本を取り出してもう一度読んでみた。
 『心で見なければものごとはよく見えないってこと。大切なことは目に見えないんだよ』と、作中に書かれた台詞。これも僕らにとって、答えのようで答えじゃない。
 僕には透明な彼女が見える。僕の左目は、はっきりと彼女の存在を感じている。僕が彼女に抱ける感覚だけなら成り立つ。僕の心は真っ直ぐに彼女を見ているから。
 じゃぁ、御影さんにとっての僕は?
 御影さんも同じように心で僕を見てくれていたら⋯⋯。
 「おい、馬鹿な期待はするなよ。お前は彼女を救いたいんだろ?」
 そんな心の声が聞こえた気がした。
 「わかってるよ、そんなことくらい」
 彼女の光に照らされると、つい忘れてしまう。僕には真っ暗な未来しかないことを。
 僕らは、釣り合わないふたりだ。
 そうだ、御影さんには希望が残っているじゃないか。神様がひとつだけ願いを叶えてくれる魔法を彼女に託したと。それを試す価値は十分にあると、僕は予想している。あとは、御影さんの覚悟次第で。

 「私は願わないよ。ちゃんと自分で見つけたいから」
 あっけらかんと答える御影さんに、僕の口もぽっかりと開いたまま。この話をすると決まって彼女は沈黙を貫く。しかし、今日の僕も覚悟が違う。なんとしても説得しなければ。
 「試して、だめだったら探せばいいじゃないか」
 「うーーん」
 「何が怖いんだよ⋯⋯」
 助かる術があるのなら、全部使うべきだ。術がない人間からしたらどんなに羨ましいことか。唯一、彼女に関して腑に落ちないことかもしれない。今日の僕は焦りと苛立ちで、つい言いたくない本音を漏らしてしまった。
 「時間が⋯⋯ないんだよ」
 「えっ?」
 「僕には時間が足りないんだ。君の力になりたいのに」
 「どういうこと?」
 濁そうかとも思ったが、僕は静かに左目もあと一年ほどで見えなくなるだろうと彼女に伝えた。彼女の表情から、不安感を募らせてしまったことが分かる。かえって彼女の負担を増やしてしまったかと思うと、僕の顔も渋くなる。
 「ごめん⋯⋯急に重い話をして。ほら、僕は死ぬわけじゃないし」
 「私も、同じだよ⋯⋯」
 その言葉に、僕の顔は弾け飛んで目を見開いた。
 「同じ⋯⋯? えっと、待って何がだよ」
 「私の呪いのタイムリミットだよ。十八歳を過ぎてしまえば完全に透明になってしまうの。きっと誰にも見つけて貰えなくて、ほら前に言ったでしょ! 光の世界の住人になるって。まぁ私も、死ぬわけじゃないし?」
 彼女は頬を掻きながら、苦笑いをした。
 「だけど、僕には⋯⋯君が見えるから⋯⋯」
 いや、僕も十八歳になる頃にはきっと。悔しくて力いっぱい手を握りしめる。
 「だから、ね。お互いに暗い話はやめようよ。じゃぁ、約束する。私、十八歳になるギリギリでちゃんと神様に願うよ。私を助けてって。んーーっと、君の前で願う! ね、それなら安心でしょ?」
 「⋯⋯本当に?」
 「指切りでもしとく?」
 握りしめた手の力がストンと抜ける。
 僕はとりあえず、彼女と指切りを交わした。

 「ねぇ、またふたりで出かけようよ! 今度は君の好きな景色を私に見せてよ」


 ♢


 御影さんの提案で、また二人で出かけることになった。
 どうも気分が乗らない。彼女が願いを使うことを約束してくれたのはいいが、タイムリミットの事が頭にこびりついて消えないのだ。もっと早くに言ってくれていれば、僕の最後に見たい景色を探すよりも、彼女を優先したかった。今回も彼女の大切なもの探しなら気乗りしたんだろうけど。だから僕は、「出かけたことも少ないから好きな景色なんてない」と、ちょっと語気を強めて彼女に伝えたけど「じゃぁ、君の行ってみたい場所に行こうよ!」と、あっさり返された。

 「おまたせーー!」
 待ち合わせの横浜駅に今日も遅刻して彼女は現れた。
 「ちょっと!! 全身黒って⋯⋯この前のフラグ回収?」
 「あぁ、見つけやすいだろ?」
 「前髪もうざったいし、もっと爽やかに切ってもらえば? 目鼻立ちは整ってるのに、もったいない」
 「こっちの目、見たことないから分からないだろ?」
 僕は眼帯を指さして、嫌味っぽく言った。
 「はい、また出た!! 屁理屈な厨二病め!!」
 「自覚があるから、ノーダメージ」
 「ってか、今日もまぐろきっぷとか言わないよね?」
 「んーー、あながち間違いじゃないかな」
 御影さんは、まぐろ丼を食べた時くらいの大口を開いている。僕はしてやったりと、彼女にきっぷとパンフレットを渡した。
 「水族館!?」
 「僕、海に入るのは昔から怖くて⋯⋯でも海の中は見てみたい」
 「いいじゃん!! 私も海好き」

 金沢八景の駅で降り、横浜シーサイドラインに乗り換える。運転手のいない無人運転のシーサイドラインの最前列に並んで立つと、目の前に絶景が広がっていた。両側の景色がびゅうびゅうと流れていく疾走感に興奮する。まるでジェットコースターみたいだ。

 到着した八景島の水族館は、テレビでもよく特集をされる人気スポット。遊園地も併設されていて、週末の今日は家族連れで賑わっていた。
 「うわーすごく混んでるね」
 「ふふふ⋯⋯予想通り」
 僕はスマホに表示されたQRコードを御影さんに見せる。用意周到な僕は直接入場できるチケットをスマホで購入していたのだ。
 おーー! と、感心して御影さんは小さく拍手した。
 「その言い方さ、厨二病くさいから、ちゃんと好きな子とデートする時はやめなね! じゃあ、さっそくお魚を見に行こう!!」
 「君って、たまに辛辣だよね⋯⋯見た目は甘そうなのに食べたら激辛なカレーみたい」
 「え!? なんか言った!?」
 無邪気に笑う彼女に、それ以上何も言えなかった。

 僕らは人混みの間を縫うように、水槽を見て回った。
 頭上を半円で覆うチューブ型の水槽を通るエスカレーターに乗ると、まるで海の中を散歩しているようだ。水槽に張り付くエイを下から見ると、おじいちゃんの顔がくっついてるみたいで、思わずふっと笑いが込み上げる。トントンと僕の肩を叩いた御影さんの方を振り向くと、同じ顔で目を細めてにたりと笑っている。僕は吹き出して笑ってしまった。
 「なに、その、変顔⋯⋯やめてよ」
 「なんか、時々出る君の顔に似てるよね。この、にたって笑う顔」
 「あーー、なら明日からやめるよ。君にブラックマンタとかってあだ名つけられそうだから」
 「ぶぶーー。エイとマンタは目の位置が違います! だから君はブラックエイだね」
 彼女はドヤ顔で博識をアピールしてきた。

 「次はイルカショーだね!」 
 ショーの開演に合わせて、人が集まり始めている。およそ二千人入るといわれているイルカショーのプールの大きさには驚いた。昔、漁師の網に掛かったジンベイザメをこのプールで保護したというニュースを見たことがある。納得だ。イルカ達も楽しそうに悠々と泳いでいる。
 そして予想はしていたが、好奇心に目を輝かせた彼女は最前列を陣取った。僕が濡れるんじゃないかと眉を顰めると、忘れていたデコピンが飛んできた。
 「いてっ⋯⋯」
 「イルカショーは最前列で見なきゃ!」
 「でも、しぶきで濡れるだろ」
 御影さんもまた用意周到な性格だ。ふっふっふっ、とわざと僕の真似をして「さっき売店で買っといたんだ」と、カバンからレインコートを二つ取り出した。逃げられないと察した僕は大人しく御影さんに従う。微妙に丈の足りないレインコートに「これ足元濡れちゃう⋯⋯」と僕が困惑していると、大きな音楽と共にイルカショーが始まった。
 「わぁ! はじまるよ!!」
 ステージから会場に向けられた照明が、僕の左目に刺さるように見えた。
 「うわっ⋯⋯」
 真っ白に、一瞬にして視界がぼやけてしまう。だんだんと開けた視界の真ん中が、空間に吸い込まれるように歪にすぼんで見えた。この感じは昔に見たことがある。右目にもこんな予兆があった。
 「わ! 始まったよ! ねぇ、ほら!」
 そんな無邪気な声にも、僕は「うん」と気の抜けた返事をする。
 「どうかした⋯⋯?」
 イルカ達が繰り広げる息の揃ったパフォーマンスに観客が歓声を上げた。それどころではない。僕の頭は真っ白になってしまっている。パチパチと鳴る拍手の中、彼女の声が聞こえた。
 「ねぇ、大丈夫?」
 「えっ⋯⋯。ごめん、考え事」
 我に返った僕の視界は、まるで何事も無かったように、吊られたボールにジャンプするイルカを捉えた。大丈夫だ、問題なくはっきりと見えている。一時的なショック状態だったのか? トラウマを思い出したのか?
 まだ幼いイルカが無邪気にジャンプすると、水面が大きく跳ね水しぶきが僕らに向かって飛んでくる。「きゃーー!」とはしゃぐ彼女の声も、濡れてしまった僕のズボンの裾も、今の僕は何も気にならなくなっていた。冷や汗が、つーっと背中を流れる。嫌な思考が、ぐるぐると頭を巡る。僕に残った時間は思いのほか少ないのかもしれない。そんな焦りと、不安とが僕の足を掴む。

 「ねぇごめん、時間が⋯⋯ちょっと行ってくるね」
 その声にハッとして空を見上げると、太陽が随分と傾いている。イルカショーの途中で、御影さんは僕の肩を叩いてそう告げると、どこかに身を隠した。

 ──君を見て、僕だけじゃない。って思うのは少し性格が悪いかもしれないな。この不安な気持ちを君と僕で半分ずつ。僕たちはふたりでいることで安心を求めていたのかもしれない。

 すっかり透けた御影さんが戻ってきて、帰り支度をする。スタジアムから金色に染まる空が見えた。
 「ねぇ、ゆうひ!」
 「えっ!?」
 僕の心臓がドキッと跳ねた。御影さんは何に驚いているのかという顔で、空の夕日を指さした。
 「ほら、綺麗な夕日⋯⋯って君の名前も悠陽か!」
 「⋯⋯覚えてたんだ」
 「もちろん! 友達だからね。ねぇ、これから悠陽くんって呼んでもいい?君ってなんか他人行儀だから」
 僕はそれを快諾する。
 「私のことも、怜那って呼んでいいよ」
 「それは遠慮しとく」
 「なんでよーー」

 その日の僕は、眠れなかった。
 体は疲れているはずなのに、眠るのが怖かった。目を閉じてしまうのが怖かったんだ。部屋の照明を点けたまま、ずっと天井を見つめている。
 ポロンとスマホの通知が鳴った。
 【もうすぐ私の絵、完成するかな?】
 御影さんからのメッセージだ。
 【うん。もうすぐだよ】
 【楽しみだなーー。ねぇ、描き終わったらさ、イルカ描いてよ。今日見たイルカ】
 【龍じゃなくていいの?】
 【え! 描いてくれるの!?】
 【嫌だ】
 なんで龍に固執してるのか分からない。通知に【ケチーー!】と表示されているが、僕はそれを開かずにスマホを布団に投げた。それからフッと笑った。

 このまま、今日を繰り返してくれないだろうか。
 彼女がそんな願いを神様にしてくれないだろうか。
 毎日、横浜駅で待ち合わせをして、御影さんと水族館に行って笑って、それを繰り返す。
 何度も何度も繰り返す⋯⋯。
 僕らの時間が終わらない、そんな世界があればいいのに。

 ずっと御影さんのことを考えているうちに、僕の中で、ひとつの仮説を立てた。
 僕の描いた御影さんの絵は、僕にとって目に見えない大切なもの。
 僕の彼女を想う気持ちは、何にも変え難い大切なものだ。何度も願った。御影さんが助かるのなら、僕のすべてを賭けてもいいと。それを彼女に渡せれば、月の神様は彼女が見つけた『大切なもの』と解釈してくれないだろうか? 赦しを与えてくれないだろうか?
 僕は彼女の先祖が、月の神様の大切なものを奪ってしまったんじゃないかと思っている。だから、人の大切なものの重さを知ることが、彼女の呪いを解く鍵なんじゃないかと思う。

 まだ時間はある。
 早く絵を完成させて、彼女に渡そう。
 僕にできることをするんだ。
 
 そんな望みは残酷にも、すぐに打ち砕かれる。

 ある日の朝、僕の視界の縁を、黒い幕が覆っていた。
 いよいよ時間が無い。僕はその運命を覚悟した。


 ♢


 それから僕は、朝も昼休みも放課後も美術室に籠った。
 もう僕の左目の視界は半分位、黒く塗りつぶされている。
 僅かに見える世界で、僕は必死に想いを重ねた。

 放課後、僕はふらつく体で美術室に向かい、どかっと絵の前に座った。寝不足からか、目の下に大きなクマがくっきりとできている。
 あとは彼女の瞳に色を乗せるだけ。
 これで完成する。
 筆を取った瞬間、ズキンと目の奥が傷んだ。酷使しすぎたせいだろうか、ズキズキと痛みが増してゆく。咄嗟に目を抑えた。指の隙間から見える、僅かに残っていた視界にもいよいよ幕が下り始める。

 ──もう少しなんだ⋯⋯もう少しだけ待ってよ。

 ストンと堕ちるように、足元に真っ暗な世界の扉が開いた。僕は背中を押されるように、椅子から床に倒れ込んだ。立ち上がろうとすると、頭を思いきりぶつける。ガシャンと音を立てて、何かが崩れた。見えない。真っ暗な世界で僕は座り込んでいる。それでも、まだ描き終えていないと、落ちた筆を手探りで探した。筆を握った所で、もう何も見えないのに。

 「嫌だよ⋯⋯僕はまだ⋯⋯何も御影さんに」

 覚悟は十分にできていると思っていた。
 僕がスケッチブックに書き溜めた景色もちゃんと覚えている。
 心が悲鳴をあげるように、フラッシュバックする。
 君と見たあの景色。
 並んで座った赤い電車。
 贅沢まぐろ丼。
 潮風に混じる君の香水の香りと、靡く小花柄の白いワンピース。
 宝石のような瞳と、夕日のように色づいた君の頬を。
 そして、君を⋯⋯。
 僕は、僕の心は、見えない大切なものに、見えない君に未練を叫んでいる。
 「うわぁーーーー」
 僕も頭を抱えて声にして叫んだ。
 こんなことなら、君の好きな景色なんて見なければよかった。君と関わらなければよかった。でも、もう知ってしまったんだ。心が覚えてしまったんだ。忘れるわけないじゃないか。僕は君を、ずっと、ずっと。

 ガラガラと勢いよく美術室のドアが開いた。
 「悠陽くん!!」

 ──御影⋯⋯さん?

 僕は残された四つの感覚を研ぎ澄ます。
 「悠陽くん! 悠陽くん!」
 悲鳴混じりの声が近づいてきて、柑橘系の香りが甘酸っぱく胸を締め付けた。御影さんだ⋯⋯僕は声のする方に顔を向けた。
 「悠陽くん! 大丈夫⋯⋯?」
 見えないけど、御影さんはそこに居る。
 僕らは、ふたりだけの透明な世界にいる。
 「悠陽くん、私はここだよ。ねぇ、分かる? 悠陽くん!!」
 「ねぇ、御影さん。どこにいるの? ごめん、僕にはもう見えないや」
 僕は心配をかけまいと、必死に震える口角を上げた。
 「ここだよ! ここにいるよ」
 御影さんは僕の肩を掴んで、体の向きを変えてくれた。
 「そこにいたんだね。御影さん、君が僕の答えだった。君の瞳が。ううん、僕の最後に見たい大切なものは君だったよ」

 ──最後にもう一度だけ見たかったな。君の優しい笑顔を。

 「⋯⋯悠陽くん」
 「御影さん。僕は、きみが好きだ」

 そっと僕の手のひらを握る彼女の手は暖かくて、柔らかくて。不思議と僕の心は波が引くように落ち着きを取り戻していく。僕の手に、ぽたりぽたりと雫が落ちる。それから、啜り泣く声が聞こえた。
 「もっと早く言えばよかったな⋯⋯」
 僕はにへらと笑う。
 「君の探し物を一緒に見たかったな⋯⋯」
 一筋の涙が頬を伝った。
 
 「大丈夫。君には、まだ希望があるよ。ほら、言ったでしょ? 眼帯の封印ごと、いつか私が君を解き放つって。悠陽君は私の希望なの。私の大切なものは君だった。私の答えだよ。だからこの選択が間違っていても後悔はしない」
 ギュッと僕を力強く抱きしめて彼女は言った。
 それから右目の眼帯と君の体温が、ふわりと風のように僕から離れた。
 「願いと引替えに、私は消えてしまうかもしれないけど。もう君には見えなくなるかもしれないけど。私はいつも君を見てる。ありがとう。私も悠陽君と出会えてよかったよ」
 「何言ってるんだよ。待って、止めてよ。御影さん! ダメだ行かないでよ」


 ──ねぇ、悠陽くん。これが私の答え。知ってる?君の優しさに私は救われてたんだよ。私の大切なものは好きな人のために願う気持ち。私の全てを賭けてもいい。ずっと言えなかった私の心。君には見えてたかな? 私ね、君がすき。だいすき。


 真っ暗な世界の先に、あの日見た歪な希望の扉が開く。
 君の好きな景色がはっきりと僕の心に蘇った。
 優しく笑った彼女が、僕を手を招いている。
 「御影さん!!」
 嫌だ、その扉を越えてしまったら君が⋯⋯。
 「悠陽君にはもっと綺麗な世界が待ってる。だからね、君はこの先も描き続けて」
 御影さんは清々しい笑顔で僕を見つめた。
 「やめろ、僕はここにいる! 君が助からなきゃ僕の世界は真っ暗なままだ⋯⋯」
 「そんな顔してちゃ、幸せが逃げるよ」
 「嫌だ、僕は君と一緒じゃなきゃ!!」
 叫ぶ僕は、吸い込まれるようにオレンジ色の光に包まれた。眩いほどの世界の中で振り返ると、君が小さく手を振っていた。

 
 世界が色を取り戻す。瞼が光を感じる。眩しい。
 ゆっくりと目を開くと、しばらくしてぼやけた世界がはっきりと輪郭を取り戻した。
 夕日に染まった美術室。
 苦手な油絵具の香り。
 教室のドアは閉まっている。
 見慣れた景色が、やがて涙で歪んでいく。
 幕を下ろした左目も、眼帯の取れた右目も、はっきりと見えている。僕の両目が、床に倒れたキャンバスの君と目が合った。
 「よかったね」と、彼女は相変わらず優しく微笑んでいる。
 僕は、彼女の言葉の意味を理解した。
 使ったんだ。たった一度の魔法を僕のために。僕の目を治すために使ったんだ。
 「御影さん⋯⋯?」
 慌てて顔を上げるが、彼女の姿は見当たらない。
 君がそこにいて欲しくて、僕は何度も目を開いては閉じた。夢であってくれと、頬をつねる。鈍い痛みだけが残った。
  「嘘つきだよ⋯⋯君は。約束したじゃないか⋯⋯」

 校内に最終下校のチャイムが鳴り響く。チャイムが鳴り終わると、美術室の扉がガラガラと開いた。
 立ち尽くした僕は、一縷の望みにすがるように顔を上げた。
 「御影さん!!」
 僕の声に、藤井先輩が驚いた顔で立っている。
 「こん、にちは⋯⋯?」
 「っと⋯⋯すみません⋯⋯」
 僕は制服の袖で涙を拭う。
 ゆっくりと教室に入ってきた藤井先輩は、床に落ちた僕の眼帯を拾ってくれた。それから、倒れたイーゼルとキャンバスを見て怪訝な顔をする。
 「こんなに散らかして⋯⋯、何があったの?」
 「すみません⋯⋯すぐ片付けます」
 泣き顔を見られたくなくて、僕は床にしゃがんで散らばった道具を拾う。
 「⋯⋯お友達も泣いてたけど、喧嘩でもしたの?」
 「えっ⋯⋯先輩、今なんて?」
 「あの子、廊下で泣いてたから⋯⋯違うの?」

 僕は先輩の横をすり抜けるように、教室を飛び出して走った。先輩の言葉を信じて、僕は彼女の元に急いだ。
 藤井先輩の話が本当なら⋯⋯。
 この時間に彼女を見たというのなら⋯⋯。

 夕焼け色に染まる廊下に、背中を丸めて歩く彼女を見つける。
 僕は心にじんわりと暖かいものを感じた。それからは無我夢中で御影さんを追いかけた。

 「怜那!!」
 
 名前を呼び、気がつくと僕は彼女を強く抱きしめていた。彼女の体温が僕に混ざる。ちゃんと彼女はここにいる。
 「悠陽くん⋯⋯?」
 僕を見上げる彼女の瞳が愛おしい。
 「馬鹿! 君は馬鹿だよ。なんで、君はいつも⋯⋯」
 「よかった。悠陽くんの目、治ったんだね」
 「あぁ、見えるよ。ちゃんと見える。君のおかげだ」
 御影さんは小指で目頭を押さえた。
 「よかった。透明な私をまた見つけてくれたんだね」
 大きく首を横に振った僕を、御影さんは不思議そうに見つめている。
 「君も、呪いが解けたんだ⋯⋯もう大丈夫」
 「嘘⋯⋯だって私は⋯⋯」
 御影さんは自分の手のひらをまじまじと見つめた。僕も手をそっと御影さんに重ねる。
 「ほら、行ったらわかる。来て!」
 僕は、彼女の手を引いて急いで美術室に戻った。

 教室に入ると、早々に藤井先輩は僕を睨みつけた。
 「和山くん、どこにいってたの!?」
 「すみません。先輩、すぐ片付けますから」
 ため息をついた先輩が口を開く。
 「御影さん? だったかしら。遊びに来るのは結構だけど、あなたドア開けっ放しにしないでね。いつもなんだから。それに──」
 「私が⋯⋯見えるんですか?」
 「なによ、変な事言うのね。やめてよ幽霊じゃあるまいし。そういえば最近いる気がするのよ美術室にも幽霊⋯⋯」
 僕らは顔を見合せて笑った。藤井先輩の眉は皺を寄せたままだ。

 散らばった画材を片付ける僕に、御影さんはそっと耳打ちをする。
 「ねぇ、王子様のキスで呪いが解けるんじゃなかったの?」
 「えっ?何言って⋯⋯」
 「悠陽くんが言ったんだよ? まだしてないけど?」
 彼女は上目遣いで、少しだけ唇を尖らせた。
 それから、困った僕の眉間に、特大のデコピンをお見舞いしてクスクスと笑う。
 「また、僕を馬鹿にしてるだろ!」
 「だって、悠陽くんの反応が面白いんだもん」

 「ゔぅん」と、藤井先輩の咳払いが教室に響いた。

 「ありがとう。悠陽くんのお陰だよ。君に出逢えたからきっと⋯⋯」
 夕陽の色に染まる頬に、涙がひとつ。僕は彼女の頬を優しく拭った。
 「僕も、君ともっとたくさんの世界を一緒に見たい。君がくれた希望だから」
 僕の両目からぽろぽろと涙があふれる。
 そして、心の中の大切なものが溢れ出す。

 「僕は、君が好きだ!」
 「私ね、君がすき!だいすき」


 夕日が沈んでいく。
 空に浮かぶ三日月が、僕らに優しく微笑んでいた。


 ♢


 『心で見なければものごとはよく見えないってこと。大切なことは目に見えないんだよ』

 その通りだと思う。
 僕は小さく頷き、本を閉じた。

 大切なものは目に見えないから、きっと答えは人それぞれだ。
 僕らが見つけた透明な答えは、僕らだけの秘密。
 きっとそれは自由に形を変えながら、僕らの心と一緒に成長するもので。唯一変わらないのは、僕の隣に君がいること。

 「ねぇ、悠陽! その絵、コンクールに出すの?」
 「うん。僕の一番好きな景色」
 「私、この場所知ってるーー!」

 僕は筆を取って、色を塗った。
 夕日に染まる、柑子色の空を。
 君だけが知っている、僕の心を。