青を纏った白が澄む

 朧げな記憶の中で、いつも思い出すのは触れたら壊れてしまいそうな姿。
 白く可憐で、抱きしめられた時に驚くほど細かった腕。その弱々しさに、これから先いつか会えなくなることを子供ながらに悟った。
 真っ白な病室は、少女の嫌いな花の色と同じだった。
 庭に毎年咲くその花が、母親の存在を脳裏にちらつかせて彼女は胸が締め付けられた。
 母親相手に彼女が甘えることは許されなかった。
 週末に両親と出かけると話す同級生を見ると、無条件に痛む胸。羨ましくて、妬ましくて。
 新しい服も筆箱も、最新の児童書も要らない。
 そんなものが与えて欲しいわけじゃない。
 でも彼女はきっと同級生の望むものを何でも持っていた。なんでも持っていたけれど、その全てが色褪せていて脆かった。
 基盤のない幸せなんて意味がなかった。
 どうして母親は病院に篭り、遠くにいるという父親はご機嫌取りのようなものしか送ってこないのだろう。
 そんなもので満足すると思われているのが、悲しくて堪らなかった。
 祖母と一緒に住んでいても、母の面倒を見ることで精一杯で。皺の刻まれた手であの木を撫でる姿は母親を想っていて、まるでそこに自分は存在していないように思えた。

 当時の年齢ではせいぜい海辺へ行くのが限界だった。
 いつか波が意思を持って知らない世界に連れて行って欲しいと何度も願う。いっそのこと海の中に引き摺り込まれて、泡になりたかった。

 まるで籠の中の鳥だと感じたのは小学生の頃。
 母親の名前が刻まれた、あの木の下。
 柔らかな木漏れ日が降り注ぐ中、少女は静かに絶望した。

 見上げる度に、鮮やかな橙が目に眩しかった。



 教室では最新の注意を払って過ごさなければいけない。決して目立たず、かといって暗すぎないように。
 誰の話も否定せず、極力自分の話はしない。あくまでも聞き手に徹し、浮かないことに注力する。
 空気にすらなることを許されない教室は、息苦しさの種がぎっしり詰められている。
 目には見えないが、確実に共通認識のカースト制度。一軍メンバーの怒りを買わないように過ごし、同じ位置にいる子とは波風立てないように表面上だけでも平和を保つ。休日は遊ぶわけもなく家に引き篭もる。
 暇を潰すために、好きでもない勉強をしているおかげで成績はいつも上位だ。
 椎名澄乃(しいなすみの)は、地味だが頭の良くて性格のいい子を全うすることで学校生活をやり過ごしてきた。どの学校時代も特別親しい友人はおらず、その場だけの友情を育んできた。
 高校生になってからは一応誰とも話せるポジションを手に入れ、昼休みは必ず自分の席で過ごしている。近くに誰かいればたまに一緒に食べ、無理なら読書や復習をして時間を潰す。図書室に行って読書をすることもある。
 基本的に学校生活は綱渡りで、道を踏み外さないように白線の上を緊張しながら歩いているような感覚だ。
 だが、彼女にもたった一つだけ癒される場所がある。
 入学してすぐ見つけたその場所は、あまり使われてない第二理科室へ向かう廊下に面している。
 裏庭の花壇と説明は簡素だが、咲き誇る花々の多様性といったら小さなイングリッシュガーデンのようだ。
 昔、父が送ってきた児童書の中にハーブや花を取り扱った作品があったことを思い出した。
 小学生の頃は夢中で読んでいたのに、いつの間にか忘れてしまっていたのだ。
 あの頃、一人家の中で過ごす時間が多かった彼女にとって本は強い味方だった。
 一度読み始めると時間を忘れ没頭出来た。今は本が勉強に変わっただけだ。いつからか読書より勉強のほうが実用的だと気がついてシフトチェンジした。
 だが、花壇を見ると本にのめり込んでいた時と同じ感覚に襲われる。
 動けなくなり、目が離せない。
 風に揺れている姿や、まばらに当たる光によってうまれる影さえも美しい。
「ずっと見ていたいなあ」
 気がつけば声に出していた。澄乃の呟きは空気に溶けて消えた。高校生なんて、いざこざ無く淡々と過ごせればいいと思っていた。
 大学進学だけが希望だが、澄乃は海に近いこの町のことが好きではない。進路先を調べる授業では、決して県内の大学は見なかった。全て県外で検索した。
 ここは澄乃を深い青へと連れてゆく花が咲く町なのだ。
 たった一つでもいい思い出になりそうだと、澄乃はふらりと休み時間や放課後に花壇を見に行った。
 誰か他の生徒が来ることもなく、ただぼーっと花を眺める時間は紛れもなく彼女の癒しになってくれた。
 いつ見にきても四季折々の植物が、不規則だが美しく並んでいる。
 肝心の誰がどう管理しているかなんて、澄乃は考えたこともなかった。知る機会すらないと思っていたのだ。
 だが、その時は突然やってきた。
「ねえ、お花好きなの?」
 がらりと外から窓が空く。
 話しかけてきたのは、校内でも話題の先輩だった。
 スクールカーストを飛び越えた、いわば特別扱いの存在。大半の生徒が彼らを認識しており、澄乃も昨年の球技大会で顔を覚えた。二年生である澄乃の代にはいないが、一つ上の三年生には三人存在する。
 その一人が話しかけてきた凪葉大(なぎようだい)だ。身長は平均を優に超え、ちょこんと恐ろしいほど小さい頭が乗っている。垂れ目の瞳は色素が薄く、焦げ茶色のマッシュヘアーは誰が見ても好感を抱くだろう。
 だが、最大の魅力は柔和な雰囲気だ。
 誰に対しても優しいと噂の彼に対して、告白をしてはいけない協定があると聞く。
 簡単に言えば抜け駆けは許されないのだ。誰にでも平等な凪だからこそ、周囲が枠から外れるのを許さない。
 凪くんはみんなのものだからと目だけ笑っていない女子生徒の先輩たちが廊下で集まり、話していたことを思い出した。
 桜が散り、初夏に差し掛かろうとしている四月の放課後。澄乃は突然凪に話しかけられた。
 驚きすぎて声も出ない。
「あれ? 聞こえてる?」
 ひらひらと目の前で手を振る凪。走って逃げたい衝動を押し殺して、小さく口を開いた。
「す、すす、好きです……」
 極度に緊張すると吃音になってしまうのは昔からだ。軽度だが治したい気持ちに今も変わりはない。
「そっか、良かったあ」
 顔を綻ばせた凪は、窓の枠に腕を置いて話し続ける。
「お願いがあってさ」
 どくん、と心臓が大きく跳ねる。
 夕日が彼の大きな瞳に差し込んできらきらと輝いていた。長いまつ毛が影を落としている。
「一緒に花壇の世話をしてくれる人を探してるんだ。良ければ手伝ってくれないかな?」
 ふわりと優しい風が、微笑んでいる凪の明るい髪を揺らす。映画のワンシーンのようで、思わず数秒見惚れた。はい、と返事をしようとした時、凪に近づいてはいけないことを思い出す。
 入学当初から癒されてきた花壇だ。澄乃も恩返しできることならしたい。
 だが、凪と関われば何事もなく卒業することは叶えられないかもしれない。
 三年生とはいえ、彼もあと一年弱は在籍するのだ。誰にもバレずに手伝うことは難しいだろう。
「……すみません、私よりもっといい人がいると思うので、」
 他の人を探してください。そう言おうとした時、凪に腕を掴まれた。
「待って、俺は君がいいんだ。去年からたまにここで花壇を見てたよね?」
「な、なんで知って…っ」
「だって俺も、君のことずっと見てたから」
 全身の熱が顔に集まる。耳まで血が上っていくのを感じた。
「お願い。君にしか頼めないんだ」
 先ほどまで笑っていた凪が、真剣な表情で見つめてくる。
ーーずるい。そんな顔されたら、断れない。
 こくんと小さく頷くのが精一杯だった。
「ありがとう」
 どうしてだろう。花が咲くように笑った彼の顔を今後忘れられない気がした。



 一旦教室に荷物を取りに行ってから花壇に戻ると、凪は木陰で猫と戯れて待っていた。
「お待たせしましたっ」
 澄乃が近づくと猫はひょいと逃げてしまう。
「あっ、椎名さんにも紹介したかったのに」
 茶トラ柄の猫は、一度振り返ってからたたたっと軽い足取りでフェンスの穴を抜けて草むらに消えた。
「ごめんね。なぜか俺以外には懐かないんだ」
 へらりと笑ってから凪はすぐに切り替えて、てきぱきと今後の流れを説明してくれた。
 そもそも澄乃に手伝いを頼んだのは、用務員の男性が腰を痛めてしまい、自分一人で世話をしきれなくなってしまったからだそうだ。
 澄乃は今まで二人で世話をしていたのかと驚く。
 恐らく普通の高校にある花壇の数倍は大きいのは彼が開拓したと聞いてさらに驚いた。
「実家が花屋だからって環境委員会の先生が好きにさせてくれてさ。その代わり卒業までしっかり面倒を見る約束なんだ」
「先輩のお家ってお花屋さんなんですか?」
 ぱちぱちと瞬きをして聞き返した。
「うん、海沿いのカルムって花屋知ってる?」
 店名を聞き、すぐにピンときた。幼い頃、母の見舞い用に何度か訪れたことのある店だった。アンティーク調の店内には名前の知らない色とりどりの花が並んでいて、一本ずつ花を選ぶのが大好きだった。
「小さい頃、おばあちゃんと行ったことあります」
「そうなんだ! 店のこと知っててもらえて嬉しいな」
 凪の目元がいっそう柔らかくなり、心から花が好きなのだと伝わってくる。
「花壇の花も俺が実家で仕入れている苗や種から選んで植えてるんだ」
 凪が花を選んでいると知って澄乃は思わず口を開く。
「先輩の選ぶお花、大好きです。生き生きしてて、どのお花も脇役じゃなくて。かといってそれぞれの個性がぶつからず調和してて、本当に癒さます」
 一年間見てきた感想を告げた後に、はっと我に返った。私語りすぎて気持ち悪くない?
 恐る恐る凪を見ると、大きな目をさらに広げて顔を赤らめている。
「ご、ごめんなさい! 急に気持ち悪いですよね!」
 慌てて謝ると「違うよ!」と凪も澄乃につられて声量を上げた。
「ちゃんと花を見てくれてたのが嬉しかったんだ。こだわりとか持ってても話せる人は用務員さんしかいないしさ。俺、植物が大好きだから椎名さんみたいな人に愛でてもらえてるって知って、もっと頑張ろうって思った」
「俺も急にごめんね」と凪は照れながらはにかむ。
 高校に入学して、初めてきちんと会話できた気がした。目頭が熱くなって、バレないように顔を逸らした。
「椎名さん?」
「な、なんでもないです。今日は遅くなっちゃうので帰らなきゃいけないんですけど、明日からよろしくお願いします」
  そろそろ夕日も落ちてきて部活動をしている生徒らが帰り支度を始める頃だ。
  裏庭とはいえ凪と話しているところを見られる可能性もある。さっと距離を取り、帰る姿勢を示す。
「確かにもうこんな時間だ。‥‥うん、明日の放課後も待ってるね」
 少しだけ凪の眉が下がったが、気付かないふりをした。
「はい、じゃあまた明日」
「気をつけてね」
 ひらりと手を振ったのを確認して、お辞儀してから校門へ真っ直ぐ歩く。澄乃には聞こえない呟きが、風にさらわれた。
「‥‥一緒に帰ろうって、いつか誘えるかな」
 花壇で揺れる植物たちしか知らない秘密は、小さな熱を孕んでいる。
 澄乃も同じだ。明日の放課後がもう待ち遠しい。
 帰りの電車も、いつもと変わらない夜も酷く長く感じた。 特に夜はなかなか寝付けず、ベッドの脇にある小窓から星空を眺めることにした。
 不意に訪れた凪と関わる時間。多くの生徒に慕われる彼は、誰にだって優しいとみんなが口を揃えて言う。
 自分にだってその延長線上で接してくれているだけだと理解していても、凪が嬉しいと笑うと胸の辺りがあたたかくなって、きゅうと締めつけられる。
 初めての感情に戸惑うが、決して嫌悪感はない。
 まだ名前もつけられない気持ちにそっと蓋をして、窓を閉めた。



 翌日、全く授業に身が入らないまま放課後を迎えた。土いじりをするということであらかじめ体操服に着替え、髪は低い位置でお団子にまとめて花壇に向かう。すでに到着していた凪はシャベルを持って雑草を抜いていた。
「遅くなってすみません」
 小走りで駆け寄ると、凪がこちらを向く。
「ううん大丈夫だよ。あ、今日お団子なんだ。似合ってる」
 恥ずかしげもなくさらりと褒められた。流石は学校のアイドルだ。息をするように女子を褒めることができるらしい。
「あ、ありがとうございます」
ーー凪先輩は挨拶代わりに言ってくれただけなんだから、照れてる場合じゃないのに。
 どうしても顔が熱くて、水筒の水を飲んだ。
「暑くなくても熱中症になることもあるから、俺に気を遣わないでいつでも水飲んでね」
「は、はいっ。えっと、私はなにからしたらいいですか?」
「今日は雑草を出来る限り綺麗にしたいから、俺の真似してどんどん抜いてもらっていいかな?」
 もう一つのシャベルと軍手を手渡され、こっちだと手招きされる。凪の隣にしゃがみ、慣れない手つきで雑草に触れる。
「上を抜いても根が残るとまた生えてくるから、土の中から根っこごと取り出してみて」
「分かりました」
 ざくりとシャベルを突き刺し、土を抉る。
 すると簡単に根も出てきて、するりと抜けた。
「うん、上手。その調子でお願い」
 隣の凪は倍のスピードでざくざく掘り起こしていき、澄乃と反対側に雑草を積み上げてゆく。
 慣れているのだろう。テンポ良く整備されてゆく様子は見ていて気持ちがいい。
「女の子に土なんか触らせてごめん。軍手熱いかもしれないけど爪汚れないように気をつけてね」
 配慮しつつも動きを止めない凪。頼ってくれた彼の期待に応えたい。
「大丈夫です。寧ろ花壇に恩返し出来て嬉しいです」
 一生懸命抜いていてると垂れてきた一筋の汗。ポケットに入っていたハンカチで拭い、凪に遅れをとらないよう澄乃も作業を進めてゆく。
「椎名さんってモテそうだよね」
 からん。落としたシャベルが花壇のレンガにぶつかり、乾いた音が鳴り響く。モテそう? 誰の話?
 一瞬思考が停止する。
「図星だった?」
 ちらりとこちらを見た凪と視線が交わり、思わず逸らした。図星ではなく寧ろ逆だ。澄乃は恋愛と縁遠い。
 まだ好きな人も出来たことがない。
「ち、ちちち、違います! 私なんて、そんな‥‥っ」
 シャベルを持ち直して否定する。
「それ椎名さんが気づいてないだけじゃない?」
「いや、ほんとに違うんです‥‥! 私、地味で暗いですし」
 現に今朝、授業間の休み時間にぼーっとしながら窓の外を眺めていると、クラスメイトの男子にぶつかられた。相手の男子生徒は「ごめん」より先に「椎名さんいたんだ、影薄っ」と言ってきた。
 ショックだったが本当のことなので否定出来ず、逆に澄乃が「ごめんね」と謝ったのだ。
 このことを話すと、凪は「はあ?」と低い声で澄乃のほうを向く。
「なにそれ。そいつ誰? 普通先に謝るでしょ」
 彼にも怒りという感情があることにびっくりした。
「確かにショックだったんですけど、今先輩が怒ってくれたのでもう全然平気です。ありがとうございます」
「や、俺は思ったこと言っただけ。というか、椎名さん優しすぎるよ。もっと怒ったりしていいんだよ」
「な、凪先輩こそ優しすぎると思います。私なんかにこうやって普通に話してくれて‥‥。人気者の先輩と並んで花壇の世話をしているなんて、正直まだ実感わかなくて、ふわふわしてます」
 初めて彼の名前を口にし、どっと体温が上がる。澄乃がクラスメイトを許したことに対して不貞腐れていた凪だが、また表情が険しくなった。
「椎名さんには、そういう線引きしないで欲しいな」
 どうやら褒めたつもりの人気者というワードが地雷らしい。
「別に俺は人気者じゃなくて、仲のいい友達が目立つから一括りにされてるだけなんだよ。俺自身はなるべく楽しく過ごしたくて、笑顔を心がけているだけ。本当は特別扱いされたり、ひそひそ噂されたりするの好きじゃないんだ」
 ざあ、と風が吹いて凪のさらさらな前髪を揺らす。間から覗く瞳は、悲しそうに見えた。
 また知ってしまった凪の新しい一面は、繊細で壊れ物のように扱ってしまいたくなる。多くの女子生徒が彼に惹かれる理由が分かってきた気がした。
「あと、私なんかってやめなよ。少なくとも俺は昨日勇気出して良かったって思うくらい、椎名さんのこと誘ってよかったと思ってる。真面目だし、他の子みたいに騒いだりしないし。だから椎名さんが自分のこと否定してるのを聞くと、もやもやするんだ」
 昨日まで話したこともなかったのに、凪はずっと前から知り合いだったかのように接してくれる。偏見なく話してくれるのがどれだけ嬉しいのか、彼は全く理解しないで話しているのだろう。ただそう思ったから口に出しているだけだ。
 澄乃の気持ちはこれからも知らなくていいし、知らないで欲しい。気を抜いたら涙が溢れそうなほど嬉しいことだって、凪には知られたくない。
「‥‥すみません、私なんかは今日で終わりにします」
「うん。あと謝らないで。こういうときはありがとうって笑ってくれると俺はもっと安心する」
 優しいお日様のように微笑む凪は、実際やっぱり特別だ。でも、もう絶対に言わないと心に誓った。少しでも長く彼と笑顔で話したい。
「先輩、ありがとうございます」
 苦手な笑顔も凪になら見せられる。
「笑ったとこ、初めて見た」
 すっと大きな手が伸びてきて、頭の上にぽん、と置かれる。
「よく出来ました」
 にっと白い歯が見えて、じんわりと体温が伝わってくる。心臓が大きく跳ねた。
「汗かいてるのであんまり触れないほうがいいと思います」
 やんわりと離れ、下を向く。汗や匂いも気になるが、なにより鼓動の速さを悟られたくない。
「ほんとだ、耳も赤くなってる。一旦休憩しよっか」
 その場にシャベルと軍手を置いて、木陰に移動した。
 隣に座る凪は勢いよくペットボトルのスポーツドリンクを飲んでおり、CMのようだ。
 口元を拭う仕草まで様になっている。
「良かったらどうぞ」
 皮のスクールバッグから塩飴を取り出し、お裾分けする。塩分補給のために朝コンビニで買ってきていた。
「ありがとう。俺もお菓子持ってるからあげるね」
 深緑色をしたリュックの中から苺味のチョコレートが出てきた。
 澄乃はひとつしか渡していないのに、手のひらを出すと三個も乗せてくれる。
「わっ、こんなにいいんですか?」
「うん、苺味大丈夫?」
「はい。でも私はひとつしか渡してないのに、待ってください。今取り出すので」
「いいよ、俺があげたいの。塩飴久しぶりに食べたけど美味い、ありがとう」
 どこまでも爽やかで優しい凪に申し訳なさすら感じる。彼女はいないと噂で聞いたが、作れないわけではないと改めて確信した。
「凪先輩はーー」
 どうして彼女作らないんですか?
 聞きたいけど聞けない胸の内を、寸手のところで抑える。恋愛事情を話せるほど親密にはなれないだろうと諦めた。
「いえ、なんでもありません」
「え〜、そう言われると気になる。怒らないから言ってみ?」
 悪戯に微笑む姿に、気持ちが揺らぐが辞めておいた。知らないほうがいいことだってある。なにも言わず頭を横に振った。
「じゃあ俺から質問しちゃお。椎名さんクラスで気になる人とかいないの?」
「‥‥へ?」
 斜め上からの質問に間抜けな声が漏れた。たった今諦めた話題を凪から振ってこられ、困惑する。
「全然、嫌だったら答えなくて大丈夫だからね。ちょっと気になっちゃって。友達ともこういう話するでしょ?」
 質問されて嬉しかった気持ちが、急にシャボン玉のように弾けた。凪は当たり前に友人と恋愛について話すくらい仲がいいのだ。表面的な交友関係しか築けない自分とは生きている世界が違う。線引きをしないでと言われたばかりなのに、またひとつ彼が遠くに感じた。
「恋愛とかまだよくわからないんです」
 澄乃には曖昧に笑うことが精一杯だった。



 凪と花壇の世話をするようになってから、彼が優しいだけの人間ではないと気がつくのにそう時間はかからなかった。
 凪の他に三木、橘という三年生がアイドル扱いをされているが、凪からすればただの友人だ。
 彼らの愚痴やその日あったことを聞くことも多い。澄乃の信念である聞き役に徹すれば自分のことを話さずに済むため、なるべく凪の話が聞けるように質問を繰り返したりした。凪は話すのが上手く、また落ち着いているイメージだったが、実は話し手側らしい。
 一生懸命話を聞いてるだけなのだが、いつも嬉しそうに話題を変えながら話してくれる。
 たまに質問されるが、極力本音を話せる話題は嘘をつかず、時折曖昧に濁した。特に家庭の話やクラスの話は苦手だ。凪の話を聞いているだけで十分だった。
 穏やかに時は過ぎ、今年も庭の木に白い花が咲いて、気がついたら散っていた。
 一緒に暮らしている祖母は縁側で花を眺めていたが、澄乃はちらりと横目で見ただけだ。
 今更眺めても、願いが叶うわけではない。あの花を見ると一瞬で過去に引き戻されて嫌だった。
 早く散ってしまえばいいのに。
 花が好きな凪の前では、決して口に出来ないことを思い浮かべてしまうこともしばしばあった。
 長持ちする花ではないので、今年もあっけなく終わってしまった。
 凪が卒業するまであと残り十ヶ月弱。今まで通りの日常が続くことだけを願う。
 だが、変化しない日常などないのかもしれない。夏の訪れを知らせる風が吹く日、澄乃は桜井美羽(さくらいみはね)というクラスメイトに話しかけられた。
 彼女はダンス部の中でも目立つ存在で、いわゆる一軍に属している。クラスでは同じくダンス部の平沼、山脇と一緒にいることが多い。
 一際彼女が目立つ理由は、はきはきとした性格と整った容姿を併せ持っているからだ。
 くるんと上がったまつげに、ふんわりと柔らかい髪質のボブは肩ギリギリで切り揃えられている。光を多く含む瞳は色素が薄く、誰が見ても美少女だと答えるだろう。すらりと伸びた手足で踊る姿は、昨年の文化祭でも話題になっていた。
 澄乃とは全く接点のない桜井だが、昼休みに本を読んでいたところ急に話しかけてきた。
「急にごめんね、私ずっと椎名さんのこと気になってて。一回ちゃんと話してみたかったんだ〜」
 すとんと澄乃の前の席に座る美羽。驚いたが、極力顔に出さず笑い返した。
 平沼と山脇はこちらをちらちらと見ながらも、離れた席に座り、二人で話している。
「良かったらこの後の選択教科一緒に行かない? 椎名さんも習字だよね」
 意外なことに彼女も同じ習字選択だと知った時は周囲も含めて驚いていた。派手な子は美術や音楽を選ぶ傾向にあると、勝手に思い込んでいたせいかもしれない。目立つ美羽のことは知っていたが、彼女も澄乃を認識しているとは思わず返事が遅れた。
「‥‥う、うん。でもいいの? 桜井さんいつも平沼さんや山脇さんと一緒に移動してるイメージだから」
「ん? 大丈夫だよ。私が椎名さんと仲良くなりたいって話したら、誘ってきなって背中押してもらったの」
 大きな瞳が弧を描き、可愛らしい笑顔を浮かべる。ふと、脳裏に凪がよぎり、同じ部類だと思ってしまった。
「そんな、わざわざありがとう」
「ううん、急に誘ってびっくりさせてごめんね。椎名さんちょっぴり近寄り難い感じだから、断られるかもって思ってた」
 だから嬉しい〜と笑う美羽が人気者なのも納得だ。愛嬌があって明るい彼女は、日陰にいる澄乃とは遠いところにいる。
「私も桜井さんみたいな人気者に話しかけられて緊張しちゃった。なにかあったのかと思った」
 なぜ突然距離を詰めてきたのか、全く見当がつかないわけではない。変化には必ず理由がある。
「え〜なにかなんてないよお。さっき言った通り、仲良くなりたかっただけ!」
 変に探れば一気に機嫌を損ねる可能性もあり得る。
 澄乃は違和感を見過ごして、この日を境に美羽や他の二人と徐々に距離が近づいていった。
 必ず四人で行動するわけではなく、主に美羽の機嫌を伺って呼ばれたら合流する。
 昼休みも移動時間も「椎名さん」と名前を呼んでくれたら一緒にいようの合図だ。
 基本的に機嫌のいい美羽だが、たまにイライラしていると近寄るだけで鋭い目つきを向けられたりもする。すぐに笑顔に戻るが、そういった時はさっと離れ一人に戻る。
 美羽や他の二人と一緒にいても基本的に澄乃は話さず、彼女たちの話を聞いてすごいだとか羨ましいだとか思ってもいないことを並べ続けるだけだ。
 メイクの変化やSNSの投稿写真の話、気になる私服の話はどれもついていけないがなんとなく笑ってやり過ごす。彼女らと関わる前よりずっと神経を消費するが、澄乃は凪にその日あったことを話せるようになったことが嬉しかった。

 もうしばらくすると期末テストを控える今、季節は梅雨を迎えた。
 雨では花壇の世話が出来ず、自動的に凪にも会えていない。裏庭には紫陽花が咲き誇り、暗い空気の中を彩ってくれている。
 テストが終われば夏休みが訪れ、八月には大きな祭りがある。花火も上がり、毎年の目玉行事になっている。
 まだ一ヶ月以上先のことで、誘うには気が早いが澄乃は一緒に回れなくてもどこかで凪と鉢合わせくらいはしたいなと考えてしまう。
 授業中だというのに、しとしとと振り続ける雨を見ながら、窓際かつ後ろの席をいいことに妄想に耽る。
 凪先輩はなんの屋台が好きなんだろう。
 浴衣とか持ってるのかな。もし持ってるなら、見てみたいな。彼と花壇の世話をするようになってからむくむくと育つ欲の種は、彼と接することで順調に育っていくばかりだ。
 凪の優しさや笑顔が水となり、太陽となる。
 ついに、今まで考えないようにしていたこの感情の正体に気がつく時が来た。
 それは悲しくも、美羽に打ち明けられた秘密によって知ってしまうのだった。
 期末テストが終わった夏休み直前のことだった。



 そもそも美羽は男女共に人気が高く、自分自身でもその節を自覚している。「だって美羽可愛いから」とふざけて言うことがあるが、決して嘘ではないし本人も半分本気だと伝わってくる。可愛いは正義で明るいことは武器だ。
 掛け合わさった愛嬌が彼女を輝かせ、男子を虜にしてゆく。故に美羽は告白されることも多いがなぜか彼氏を作らない。彼女が望めばシャーペンで書いた文字を消しゴムで消すくらい簡単なことなのに、誰の告白も受け入れなかった。
 澄乃は初め、部活で忙しいからだと思っていたがどうやらそうではないらしい。
 花壇の世話をした後、着替えるために教室へ戻るとたまたま忘れ物を取りに来ていた美羽と遭遇したことがきっかけだ。
 ダンス部の練習着は体操着とは別でデザイン性の良いTシャツに、下はそれぞれ好きな短パンを合わせている。彼女は普段降ろしている髪を短く結び、美しいうなじを露わにしていた。急いで入ってきたジャージ姿の澄乃を、彼女は上から下までじっと見つめた後、明らかな作り笑いを浮かべる。
「お疲れ様〜。椎名さんって部活やってたっけ?」
 普段より低い声が教室に響く。
「あ、えっと部活はやってないんだけど‥‥」
 凪の手伝いをしているとは言えず、語尾を濁した。
「ふうん」と疑いの目で見てくる美羽はやはり明らかに普段の様子と違う。
「ねえ、私たち友達だよね」
 そして唐突に確認してきて、近くに来るよう手招きした。ふわりと甘い制汗剤が香り、思わずどきっとする。同性でも心臓が小さく跳ねてしまうのだから、異性はもっと鼓動が速まるだろう。
「私ね、好きな人がいるんだあ」
 耳元でこっそりと伝えられ、嫌な予感がする。

「ーー凪先輩って、知ってる?」

 刹那、全身の肌が粟立つ。美羽は凪とのことを全て知っているんじゃないかと、急に恐ろしくなった。
 夕陽が差し込んでいるのに、彼女の瞳は深い色に染まっている。
「一年生の頃からずっと好きで、卒業しちゃう前に絶対付き合いたいのーーだから、応援してくれないかな」
 疑問系ではなく、これは決定事項だ。
 友達だから応援してくれるよねと言葉にしない圧が重くのしかかってくる。返事は出来ず、首だけこくんと頷いた。
「ありがとう。私、澄乃ちゃんと友達になれてよかった」
 初めて名前を呼ばれて嬉しいのに、怖くて膝が笑ってしまっている。ぽん、と肩に手を置いてから「部活戻るね。また明日〜」といつもの笑顔に戻って美羽は教室を後にした。
 全身の力が抜け、その場にぺたんと座り込む。
 頷いてしまった。頷くしかなかった。
 凪と美羽に接点があるか知らないが、どう見ても彼らはお似合いだ。彼女ほど可愛ければ、抜け駆けしないという掟も破れるかもしれない。
 隣に並び笑い合う彼らを想像し、両手で顔を覆った。
 嫌だ、付き合ってほしくない。だって私、ダメだと知りながら。
ーー凪先輩のこと、好きになっちゃったんだもん。
 ようやく自覚した恋心は漫画やドラマで見たような楽しいキラキラとした感情ではなく、絶望だった。始まる前から終わりを告げられ、行くあてもない恋心が泣いている。
 大切に、誰にも知られないように育ててきた恋の苗は萎れてしまいようになっている。花を咲かすことは、許されない。
 風船が割れたように、全ての気力が抜けてゆく。先輩のこと、お祭りに誘いたかったなあ。
 ダメだと分かった瞬間、欲がどんどん膨らんでしまう。鈍く胸が痛んで軋む。
 私も桜井さんみたいに可愛くて明るかったら、堂々と先輩のこと誘えたのかな。
 今更努力してこなかったことを後悔しても遅い。
 話を聞き続けているからこそ、美羽の努力も澄乃は知っていた。彼女はSNSで美容やメイク、ファッションの情報を集め、実践している。
 可愛いは神様からの贈り物だけで成立しているわけではないと目の当たりにしてから、より自分のことが嫌いになった。せめて不衛生に思われないようにと整えた肌や眉毛だけでは、到底美羽には太刀打ちできないどころか一緒にいる平沼や山脇にすら届かないのだ。
 澄乃だって純粋無垢なだけではない。自分と周囲の置かれている立場を彼女なりに理解していた。
 所詮自分は美しい美羽を際立たせるための野草といったところだ。平沼らとは花がついてるからついてないかの差さえある。だが野草に花が咲いてようが、凛と咲く薔薇にはなれない。
 美羽は花壇に咲く、たった一輪のバラと似ている気がした。ふんわりとボリューム良く咲くのが特徴的な和バラなのだと凪に教えてもらった。
ーー絶対に植えたくて、父さんに無理をいって苗をもらってきたんだ。
 凪は一際天塩にかけて、桜のような優しいピンクのバラを管理していた。美羽とバラが重なるたび、胸が締めつけられる。
 砂糖菓子のような甘い目線を向けられる花が羨ましかった。関わるうちに、いつかその視線を向けてもらいたいと願うようになってしまった。
 でも、美羽を裏切れば今まで通り平穏に過ごしていけないかもしれない。
 凪と関わることで、彼自身に迷惑をかける可能性もある。それだけは絶対に嫌だった。
 彼に迷惑をかけるくらいなら、自ら恋の芽吹きなど摘み取ってしまったほうがいい。
 は、と熱い息を吐いて、気持ちを沈めてゆく。
 治れ、治れ、治れ。
 誰もいない教室で、たった一人恋を潰してゆく背中は見えない深い傷を負っていた。
 家に帰ってからもあまり眠れず、最悪の気分で登校すると朝から美羽に話しかけられた。
「澄乃ちゃんも、一緒にお祭り行こうよ」
「うん、誘ってくれてありがとう」と答えたが、上手く笑えていただろうか。



 そのまま時間は流れ、呆気なく夏休みに突入した。もちろん美羽からの連絡はない。そもそも練習が忙しくなると話していたので期待もしていなかった。
 夏休みになっても定期的に花壇の世話へ行かねばならず、澄乃は重たい足を引きずって通っていた。凪と会うほどに好きだという気持ちは膨らんでしまう。
 咲き誇る向日葵は太陽に向かって真っ直ぐ顔を向けていて、ホースで水やりをしながら羨ましいと見つめてしまう。許されない好きはどこに吐き出したらいいんだろう。
 茹だる暑さの中でも、凪と会えれば作業自体は頑張れる。だが、蝉も向日葵も本能のままに好意をぶつけていて、とてもいたたまれない気持ちになった。
 なにも考えず凪先輩に気持ちを伝えられれば楽になれるのかな。了承されるなど露にも思っていない澄乃は、周囲に凪への好意をアピールさえする権利がない。
 美羽と軋轢を生めば、地獄を見るのは間違いなく澄乃だ。からりと晴れた気持ちのいい空が、心なしかくすんで見えた。
「‥‥なさん‥‥椎名さん!」
「へっ?! は、はい!」
 ぼんやり考えごとをしていたら、名前を呼ばれていたらしい。気がついたら随分近い距離にいる。
「大丈夫? 熱中症怖いから今日はもう帰ろっか」
 まだ作業を始めて全然時間が経っていない。
 ノルマは無いが、使えないやつと思われるのが怖くて「大丈夫です」と答える。
「無理しちゃだめだよ。こまめに手入れしてるから綺麗だし、水もたっぷりあげられたから今日は帰ろう」
「でも‥‥」
 本音を言えばまだ帰りたくない。
 凪との時間は一秒でも長く続いて欲しかった。
「だめったらだめ。とりあえず木陰で休もう」
 ぱっと澄乃からホースを受け取り、そのまま手を引かれる。
「せ、先輩、手が‥っ」
「椎名さんこうでもしなきゃ休まなそうなんだもん。異論は受けつけません」
 全く気にしていなそうな彼の耳がほんのり赤く染まっているのは、勘違いではないと信じたい。
 木の影に座ると、葉と葉の隙間からちらちら漏れる光が二人を飾る。手はまだ繋いだままだ。
「最近ぼんやりしてること増えたよね」
 凪にはなんでもお見通しだ。態度に出していないつもりでも、結局バレてしまう。
「俺なんかした? 嫌なことあったら隠さないで欲しい」
 手を握る強さが増し、口から心臓が飛び出てしまいそうになる。
「なっ、凪先輩はなにも悪くありません!」
「じゃあなんで俺と話してても気まずそうだったり、上の空なの? 俺が原因じゃないなら、クラスでなんかあった?」
 ぴくりと肩が跳ねる。どうしてこう自分以外のみんなは鋭いのだろう。
「もしかして、気になる人とかできたの」
 むっとしながら詰め寄ってくる凪に、澄乃は思わず繋いでいる手と反対の腕で顔を隠す。
 近すぎる‥‥!
 柔軟剤の香りがして、息が苦しい。本格的な夏になり、より汗をかいているというのに凪はお構いなしに距離を詰めてくる。
 好きな人に臭いなどと思われたら立ち直れる気がしない。
「で、できてません!」
 強めに否定すると、凪の表情が和らぐ。
 どこか安堵した顔は、いつもより多くの隙を覗かせている。
「そっか。早とちりしてごめんね」
 恥ずかしそうに離れ、ようやく両手も自由になる。タオルで顔を覆い、凪はしばらく黙ってしまった。
「先輩、どうしました?」
「いや、俺、ダサいすぎるから今反省してた。焦ってみっともないよね」
 泳ぐ視線をしっかりと捉え、澄乃は勘弁してくれと心の中で悶え苦しむ。
 これ以上期待させて、好きにさせないで。
 超えてはいけないラインは目の前だ。ひょいと簡単に白線から飛び出てしまいそうで、抑えるため必死になる。
「実は椎名さんのこと祭りに誘いたいなって前から思ってたから、もし気になる人とかいたら迷惑かけちゃうと思ってさ」
 目の前が真っ白になる。
 いま、先輩なんて言った?
 夢なのかもしれない。寧ろ夢じゃなければおかしい言葉が聞こえた。
 好きな人に誘われて、断るなんて馬鹿げている。
 ましてや相手は雲の上の存在である凪だ。
 今すぐにでも頷きたい。私も一緒に行きたいなって思ってましたと打ち明けたい。
 なのに、それなのに。__声が喉に張り付いて、上手く出ない。ひゅっと乾いた空気が漏れた。
「ごめんなさい、私もう友達と予定があるんです」
 どこにもいないのに、美羽の大きな瞳に監視されている気がする。
 澄乃ちゃん、分かってるよね?
 頭の中で幻聴が鳴り響いた。
「そ、そうだよね。俺がもっと早く誘えばよかったのに、謝らせてごめんね」
 ぱ、と視線を逸らされ、限界だった。
「でも会場で会えたら、少しだけでもーー」
 凪が話してる途中だというのに、立ち上がって荷物を手に取る。
「あの、用事を思い出したので帰ります。本当にごめんなさい‥‥っ」
 頭を下げて、凪から逃げるように帰ってゆく。
 体操服のままだが気にせず駅まで駆け足で向かい、電車に飛び乗った。最寄駅で降り、帰路に着くとぼたぼたと大きな涙が溢れて止まらなくなる。

 せっかく凪先輩が誘ってくれたのに!

 断ってしまった罪悪感と、凪を傷つけたことへの後悔で胃が反転しそうだ。
 家に着くと洗面台へ向かい、濁音を立てながら胃液を吐き出した。涙と鼻水でぐちゃぐちゃになった顔を見て、さらにどん底へと突き落とされる。
 怖い、桜井さんも、学校のみんなも。
 凪を選べばその他全てを敵に回すだろう。
 初めて凪からの誘いを断ったことで、彼にも嫌われてしまったかもしれない。
 深い青がそっと澄乃に擦り寄ってくる。
 あの時と同じだ。いや、きっとあの時以上かも。
 脳裏に焼きついている白い花が咲く木は、澄乃を海へと追いやった。
 母のために植えられた木は、今もなお彼女を孤独へと引き摺り込んでゆく。



 幼い頃、夏祭りには明るいうちに祖母と行き、花火は二階の窓から見るのが定番だった。
 浴衣は着たことがない。暑いし友達と行くわけでもないのに着る機会が無かった。
 美羽から前日に送られてきたメッセージには、浴衣を着てきてねと絵文字と共に書かれており、澄乃は顔面蒼白で祖母に助けを求めた。
 突拍子もなく今すぐに浴衣が必要だと騒ぐ孫に驚きながらも、祖母の千代は古い箪笥を慣れた手つきで開ける。
「安澄のものがあるから、明日はそれを着ていきなさい」
 初めて友人と祭りに行く孫に対し、少なからず千代も喜んでいるのだろう。普段母である安澄の私物に触れる機会は少ないが、今回は文句一つ言わずに出してくれた。たとう紙をそっと開けると、白地に小さな花の集まりが描かれた古風な浴衣だった。
 よくいえば古風だが、悪くいえばとても古臭い。
 母も本当に着ていたのか疑ってしまうほど、想像とはかけ離れた浴衣だ。合わせる帯も見たことのない色をしている。くすんだ青に緑がかっている帯を「花浅葱という和色よ」と千代は説明してくれた。
 寒色系で涼しげなセットだ。きっと美羽たちが着てくる浴衣とは全然違う系統だろう。
 せっかく出してくれた祖母の手前、古臭くて恥ずかしいから着ていけないなどと我儘は言えない。
 小声でお礼を述べ、部屋に戻る。
 色気のない自室は入ってすぐに木で作られた質素な勉強机と本が敷き詰められた本棚が目に入る。奥にベッドと小窓があり、花火はいつもここから見ていた。
 隣にある母の部屋のほうが窓も大きく、よく見えるらしいが鍵がかかっていて千代しか入れないようになっている。澄乃は母のことをあまり知らない。父のことは、もっとなにも知らない。面倒を見てくれている千代のことも。
 私、誰のことならよく知ってるんだろう。
 思い浮かんだのはクラスでよく話す美羽ではなく、凪の顔だ。同時にまた誘いを断ってしまったことを思い出して、胸がつきんと痛む。
 麻のシーツと掛け布団を敷いているベッドに、ごろんと寝転がり横向きになって体を丸める。
 先輩は優しいけど、違うと思ったことにはすぐ怒る。意外と恥ずかしがり屋なところもあって、私と同じで顔に出ちゃうタイプ。
 スポーツドリンクが好きで、チョコは疲れると食べたい派。
 いつも先輩に会いにくる猫のことを勝手にトラ吉って呼んでる。それから、お花が大好き。
 お花だけじゃなくて、植物全体が好き。
 凪の性格を頭の中で並べてそっと目を閉じる。
 先輩のことだけを知りたい。もっと、今より、深くまで。
 夏の夜風が澄乃の髪を揺らしていた。



 浴衣は祖母に着付けてもらった。
 髪の毛はまとめたほうがいいと教えてもらったので、今日はいつもより高い位置でざっくりとまとめた。
 髪飾りは母のお下がりを借りた。
 白い花のかんざしだが、それがなんの花かは考えないようにした。どうせ誰もわからないだろう。意識さえしなければただの白い小花だ。
 メイクは苦手だが、頑張ってまつ毛をあげ、控えめにアイシャドウものせた。リップは保湿をしっかりしてから薄いピンクを重ねる。
 準備ができた姿を見て「今日ってデートなのかしら」と千代に聞かれ、慌てて否定する。
「まだ友達ってこと?」
「もう、違うよ。クラスメイトの女の子達だってば」
「そう。あまり遅くならないようにね」
 若干疑っている節を感じつつも、待ち合わせは十七時なのでそろそろ家を出る頃だ。
 慣れない下駄を履き、からんからんと音を立てながら駅へと向かう。神社までは電車で十五分ほどかかるが、祭り会場に向かうであろう人たちが多く乗っていて座れなかった。
 やっと神社の最寄駅に着くと、そこからまた歩かなければならない。
 神社は海から少し離れたところにあり、凪の実家の花屋のほうが海に近い。彼の地元だと思うと少し緊張してきた。
 先輩はお祭り来てるのかな。でも、お家の手伝いしてるのかも。
 逃げるように帰ってしまった日から花壇の世話には行けていない。凪も実家の手伝いが忙しいらしく、祭り前最後の活動日だったのだ。
 連絡先は交換していないので、今すぐ凪の居場所を知る手段もない。
 会場に近づくほど一緒に回りたかった気持ちが疼くが、地味なこの浴衣では凪が恥をかいてしまうかもしれない。
 凪に「そのダサい浴衣なんなの」とでも言われてしまったら、もう合わせる顔がないので回れなくてよかったと悲しみを抑えて自分を慰める。
 人通りも増えてきて、美羽らを探せるだろうかと不安になってくるとスマホが震えた。
 着信はちょうど美羽からだ。
 道の端で止まり、慌てて電話に出る。
「もしもし」
『ごめん澄乃ちゃん! もう会場ついてる?』
 まだなにも言っていないのに謝られる。なにかあったのだろうか。
「ううん、今向かってるところだよ。なにかあった?」
『それが、本当に申し訳ないんだけど』
 また嫌な予感がする。ざわざわと全身が落ち着かない。
『私たちダンス部で祭り行こうって話忘れてて、それが澄乃ちゃんを誘う前だったんだよね』
「え‥‥?」
 目の前が暗転する。上手く言葉が飲み込めない。
 つまり美羽が言いたいのは、今日一緒に回れないということだろう。
『本当にごめんね! でもお祭りだからどこかですれ違ったら会えるかもしれないし、会えたら一緒に写真撮ろうよ』
 すれ違えるかもしれないとは、一人で回れと言われているのと同じだ。どうして今連絡してきたのとか、なんで忘れてたのとか、もしかしてわざとなのかなという考えが巡るがどれも口に出せない。
『澄乃ちゃん、怒ってるよね。私が誘わなければこんなことにならなかったのに本当にごめんね。私もさっき部活の子から連絡きて、思い出したんだ。それに人数多いし本当にみんなで回ると思ってなくて』
 並べられた言い訳は、納得できるほど筋が通っていない。とどのつまり美羽自身もダンス部で回ることを間に受けていなかった故のアクシデントだ。そして彼女は澄乃と部活メンバーを天秤にかけてダンス部を選んだ。
「‥‥怒ってないよ。そういうことなら仕方ないから、美羽ちゃんは部活のみんなと楽しんできて」
『本当に怒ってないの? 澄乃ちゃん優しすぎて天使みたい。絶対浴衣も似合ってると思って楽しみにしてたの、だから見かけたら声かけてね。私もすぐ駆け寄るから!』
 澄乃は怒っていない。心から言える、嘘ではないと。
 ただ、どうしようもなく切なくてたまらないだけだ。
「うん、わかった。じゃあ一旦切るね」
 自分の立場をわきまえていたつもりだった。
 美羽にとっては引き立て役で、声をかけてくれたのは凪と活動していることをきっと彼女が知っているからだろう。でも美羽はなにも詮索して来ず、気まぐれに仲のいいクラスメイトとして振る舞ってくれていたので一緒に回れることを期待してしまった。
 引き立て役でも、可愛い浴衣じゃなくても、友達と一緒に祭りを回ってみたかった。
 写真を撮り、同じものを食べて話しながら歩きたかった。凪の誘いを断ったことを後悔しつつも、小さな夢が叶うかもしれないと浮き足立っていたのだ。
 それがどうだ。直前で約束は消え、家に引き返すことも恥ずかしくてできない。だんだん空が暗くなってくることだけが救いで、ぞろぞろと楽しそうに祭りへ向かう群れにすら入れず立ち尽くしている。
 だが、目の前の光景は今の澄乃にとってあまりにも耐え難い。大通りは通行の邪魔にもなるため、澄乃は重たい足を引きずって小道ヘ進んでゆく。
 人がいては泣けもしないのだ。どんどん奥へ進んでゆくと、静かな住宅街に紛れ込んだ。誰もおらず、しんと静まり返っている。気が抜けて、大粒の涙が溢れ出した。
 悲しくて辛くて、おかしくなりそうだ。
 でも誰も助けてくれない。凪と回る約束もない。
 こんなことになるなら、初めから美羽との約束を蹴って凪を選べばよかった。
 どうせ夏休みは彼女と会わないのだから、明けてからの学校生活がどうなろうと考えずに頷いてしまえばよかった。力が抜けてその場にしゃがみ込み、溢れる涙を拭う。ーーもう、海に逃げよう。
 澄乃はどうしようもなくつらい時、海へ逃げる癖がある。初めて一人で訪れたのは小学生の頃だった。
 それから事あるごとに海へ向かうようになった。
 波の音は心を沈めてくれ、砂浜と空と海しか視界に入らない簡素な景色が現実から引き剥がしてくれる気がするのだ。
 まだ溢れてくる涙を拭いながら、からんからんと下駄の音を鳴らし歩き出す。今は祭りに人が集中し、きっと誰も砂浜へは行かないだろう。
 花火が打ち上げられるのは、山側にある神社からそう遠くない小学校のグラウンドだ。
 潮の香りが肺を満たす。砂浜はもうすぐそこだ。
 ビーチへの直線の道を視界に捉え、信号待ちしていると後ろから声がした。
「ーー椎名さん?」
 ぱっと歩行者信号が青に切り替わる。
 なのに一歩も踏み出せない。
 振り向くと、そこには凪、三木、橘の三人がいた。
「ほら! やっぱり凪がいつも話してる子だ」
 明るい声で駆け寄ってきたのは三木、そして橘は「怖がらせないの」と彼を引き留めている。
 三人とも浴衣ではなく私服だが、会場に行けば視線が集中するのは間違いない。一番身長が低い三木でさえも、平均よりは高いだろう。なにより整った容姿の男子高校生が三人で集まっていれば注目されて当然だ。
 なぜこんなところに彼からがいるのか理解出来ず、澄乃は上手く言葉が出て来ない。
「あ、えっと、さっき祭りに向かう途中で三木が椎名さんらしき人を見かけたっていうから追ってきたんだ。まさか本当にそうだとは思わなくて、少し確認したら戻ろうと思ってたんだけど、急に声かけて怖かったよね、ごめんね」
 凪ではなく話したこともない三木になぜか認識されているのも驚いてしまう。とっくに信号は赤色に変わり、車通りが激しくなる。
「一旦危ないから、こっち来て」
 また凪に手を引かれ、彼らと道の脇に逸れる。
 今なにが起こってる?
 澄乃は状況を理解しきれない。
「椎名さん友達と回るって言ってたから俺も今困惑してるんだけど、もしかして実は誰かとデートの帰りだったりする?」凪は気まずそうに聞いてくる。
 じっと三木と橘に見つめられ、慌てて先ほどのことを説明しようとした。だが、正直に話せば美羽の印象が悪くなってしまう。澄乃は仕方なく彼女たちと回った帰りだと嘘をついた。
「そっか、結構早めの解散だったんだね。俺らはいつも夜回ってるからこれからなんだ」
「昼は店の手伝いがあるから、凪のこと迎えに行ってから祭りに行くのがルーティンなんだよな。ま、今年はもしかしたら橘と二人きりになってたかもだけど」
「三木、凪が話してるんだから口挟むな。凪の顔見ろ、全力で余計なこと言うなって書いてあるぞ」
 凪はじろりと橘を睨む。
「おい、今の発言がそもそも余計だよ」
 気の置けない友人と過ごす凪は普段よりずっと男の子らしくラフだ。彼らの仲の良さを目の当たりにして、澄乃は思わず笑ってしまう。
「先輩方、すごく仲がいいんですね」
 さっきまで泣きじゃくっていたのに不思議だ。
 凪に会うと、頬が緩んで自然と笑ってしまう。
「俺ら小学生からの付き合いだからさ」
 三木が嬉しそうに話す。橘も心なしか微笑んでいる。
「でも、今日はやっぱり三木と二人で回ろうかな。凪もそのほうがいいだろ」
「うん、ありがとう。先に行ってて」
 さっと三木と橘が離れ、祭り会場へと歩き出す。三木は片手の親指を立てている。
「海に向かってたなら、一緒に行こうよ」
「そ、そんな。毎年三人で回ってるんじゃないんですか」
「そうなんだけど、そもそも俺今年は椎名さんのこと誘いたかったし。だから偶然だけど会えて今すごく嬉しいの。もしかして伝わってない?」
 どっと体熱が上がり、凪の顔を見れない。
 早く信号が青になることを願う。
「それに浴衣もすごく可愛いし、びっくりした。撫子の柄なんだね」
 なんの花の柄なのか一瞬で見抜けるのはきっと凪しかいない。途端に髪飾りはしまいたくなってきた。
 でも今は可愛いと褒められたことに浮かれていたい。古臭い浴衣が、今この瞬間凪に褒められた最高の浴衣へと変化したのだから。
「‥‥ありがとうございます」
 全部を込めて、ありがとうと伝えた。
 それしか思い浮かばない。祭り会場にはいないが、海辺で凪を独占している。
 嬉しくて死んじゃうんじゃないかと、半分本気で感じた。砂浜に着くと澄乃は下駄を、凪はサンダルを脱いで二人とも素足で歩く。
 太陽はもうすぐ完全に沈み、しばらくしたら海面に月の道があらわれるだろう。
「椎名さんに祭りの誘い断られたとき、実は結構ショックだったんだ」
 風が凪の柔らかい髪の毛を撫でる。
 大人しく彼の話を聞き続けた。
「放課後一緒に世話をするようになって、花以外にも学校のこととか色々話せて仲良くなれた気がしてたから、勝手に祭り一緒に行けるって思っててさ。友達と予定あるって言われたとき、出遅れたことすごく後悔した」
 だから、と凪は続ける。
「偶然でも今日会えて本当によかった」
 振り向いた凪が手を差し伸べてくる。視界が滲む。先ほどとは違う、あたたかい涙だ。
 クラスで浮かないよう、必死になっているだけの自分を求めてくれる誰かがいる。家でも学校でも、自分の存在意義がわからなかった。自分なんて居ても居なくても一緒なんじゃないかと寂しくて眠れない夜があった。
 震えながら凪の手を取ると、遠くへ行ってしまった母の言葉を思い出した。
ーーいつか澄乃のことを大切にしてくれる人がきっとあらわれるから、楽しみにしててね。
 白い病室の中で微笑む彼女より美しい人を澄乃は見たことがない。
「私も先輩に会えて嬉しかったです」
 涙を隠さず笑うと、優しく凪に抱きしめられた。
「ごめん、嫌だったら離れて」
「離れるのが嫌です」
「なにそれ、困るよ。椎名さんのこと帰したくなくなる」
 澄乃だってこのまま凪と二人きりでいたい。
 月の道を渡って、どこか遠くへ彼と現実から逃げてしまいたい。もし、出会うのがもっと早かったら今頃彼と特別な関係になれていたのだろうか。
 そっと凪が髪飾りに触れる。澄乃の大嫌いで、大好きな花だ。
「俺、椎名さんのことずっとなにかの花に似てるって思ってたんだ。でも今日ようやくわかった」
ーー蜜柑の花に、君は似てる。
 澄乃はなにも言わず、凪から離れ髪を解いた。
 潮風が彼女の長い黒髪を攫う。
「お母さんの形見なんです。うちの庭には大きな蜜柑の木があって、幼い頃は花が咲くのを楽しみにしていました。でも今はーーあの白い花を見ると、一人宇宙に投げ出された気持ちになります」
 誰にも言えなかった本音を、凪にだけ溢した。
「え‥‥?」
「私のお母さん、小学生の頃に亡くなってるんです」
 澄乃が抱える青は、深く、濃く、驚くほど冷たい。だからこそ誰にも話せなかった。
 話すべきではないと心得ていた反面、母のことを話せる相手だけが彼女にとって大切な誰かだ。
 それ以外とは深く関わろうと思えない。
 あまりにも大きな欠陥を抱えていて、誰かの心の奥深くまで踏み込む気力も勇気もなかった。
 だから彼女は周囲と表面上だけの関係を築くのに精一杯だった。だが、横断歩道の前で凪に声をかけられたとき、深く眠っていた心の小さなドアがぱかりと開いた。
「先輩、私の話を聞いてくれますか」
 波の音が澄乃を幼き頃の、凍てつく冬の日に引き戻してゆく。
 凪は真っ直ぐな瞳で頷いた。



 母と話した一番古い記憶はすでに病室の中だった。
 物心着く頃には祖母と二人暮らしをしていて、母とは病院以外で会ったことがない。
 澄乃の母、安澄は椎名家の一人娘として蝶よ花よと何不自由なく育てられたらしい。実際彼女は母でありながらどこか少女的で、特に父の話をするときは恋をする乙女のような横顔をしていた。
ーー元気になったらお父さんが迎えに来てくれるのよ。
 澄乃と話すとき、必ず話題に出てくる父は数回写真で見たことがあるだけだ。今ではぼんやりとして顔も思い出せない。
 安澄の病気が発覚し、その後妊娠していることが分かったとき祖母は離婚するよう二人を説得したと聞いている。澄乃の父は自営業を営んでおり、出張も盛んなため彼女の治療に専念できないことが祖母は許せなかったらしい。祖母の千代も安澄の父と晩年離婚しており思うところがあったのだろう。世界にたった一人の愛娘を放っておけなかったのかもしれない。
 安澄に対する千代の溺愛っぷりは見舞いの際だけではなく、家でも顔を覗かせていた。
 安澄が幼い頃、蜜柑が好きな彼女のために植えた木は立派に育ち毎年実をつけるまで成長した。
 ほのかに甘い香りがする白い花が咲く常緑木を眺めているとき、祖母の顔は一際優しくなる。木には安澄の名が刻まれていた。皺の入った手で撫でている後ろ姿は、澄乃の祖母ではなく、安澄の母である面が強かった。
 澄乃は幼いながらに祖母が安澄を大切に思っており、安澄も蜜柑の木を大切にしていることを理解していた。
 もし自分が安澄のために蜜柑の実をもぎ、病室へ届けたら二人とも喜んでくれるのではないかと思ったのは小学校低学年の頃だ。その頃安澄の体調は芳しくなく、祖母も心なしか家で不機嫌な様子が増えた。
 澄乃は純粋に蜜柑を食べて母に元気になって欲しかった。もしお母さんが帰ってきたら一緒にしたいことリストの項目が増えていく毎日から抜け出したかった。
 安澄の部屋で彼女一緒に眠ったらどんな気分なのだろう。一緒に買い物や海に出かけたりもしたい。
 写真でしか見たことのない父も含め、四人で食卓を囲みたかった。
 だから、母である安澄には元気になって欲しかった。
 太陽の光をさんさんと浴びて育った蜜柑は、上のほうが甘いことを知っていた。
 だが、いくら澄乃が手を伸ばしても届かない距離にあるため、枝に足をかけて登る必要があった。
 さっと登って何個か取れればいい。
 澄乃が緊張しながらも、枝に足をかけたときだった。
 縁側から、つんざく祖母の声が響いた。
「澄乃! なにやってるの、今すぐ降りなさい!」
 どっと心臓が跳ねて、そのまま澄乃は地面へ頭から落ちた。駆け寄ってきた祖母は起き上がった澄乃の肩をぎりぎりと掴み、心配する前に「木が傷ついたらどうするの」と彼女を叱責した。
 初めて本気で怒られ、澄乃は怖くてなにも言えず涙をこぼすことしか出来なかった。
「どうして澄乃も安澄もいうことを聞けないの? 大人しくしててくれれば、それでいいのに!」
 なぜ母の名前が出てくるのか当時は理解できなかったが、病気が発覚してからも安澄は家に帰らないと散々祖母とぶつかったらしい。
 澄乃の行動は常に安澄の重ねられ、時に比べられ祖母が見ているのは澄乃越しの母だったと後に気がついた。
 ごめんなさい、もう木には触りません。
 澄乃には目の前で怒り続ける祖母に謝ることしかできなかった。すると電話が鳴り、対応した祖母が慌てて病院へ向かう準備を始めた。
「澄乃、お留守番できるわよね?」
 有無を言わせない圧がのしかかり、澄乃はなにがあったか聞くことさえできなかった。
 電話の内容が安澄の容体が悪化したことの知らせだったと知ったのは、その日の夜だ。
 一人置いて行かれた澄乃はしばらく蜜柑の木の下でぼう、となにも考えられなかった。
 太陽の光を反射するオレンジ色の実が輝いている。青々しい緑の葉も白い花も大好きなのに、全てをぐちゃぐちゃにしてしまいたいほど今は憎い。
 じんわりと絶望が全身に広がってゆき、どんどん体が重たくなってゆく。鼻の奥が痛むが、涙さえ出てこない。どこにも行けない、意思さえ持つことも許されない自分は籠の中の鳥と同じに思えた。
 ふと、優しく笑う安澄の顔が脳裏に浮かんだ。お母さん大丈夫かなあ。澄乃のこと置いて行ったりしないかなあ。母は澄乃に会うたび大丈夫だと笑うが、祖母と話すときは時折顔を歪めて苦しそうだった。
 強がっていることくらい、澄乃だって知っていた。安澄が頑張って治療しているのだから、自分も千代の言うことを聞き家で頑張って待っていたのに。いつまで経っても安澄は帰ってこず、彼女のために蜜柑を届けようとすれば酷く怒られる。
 考えているうちに家に残ることが苦痛で、全ての小遣いを握りしめてバスに乗り、海へ向かった。
 祖母と何度も訪れているので行き方は自然と覚えた。だが、暗い気持ちで海へ向かうのは初めてだった。
 凍えてしまう冷たい風が吹き荒れる中でも高く登った太陽は光り輝いて澄乃を照らす。手を伸ばしても届くはずもなく、ひとりで砂浜に座りながら澄乃は涙を流した。
 寂しいよ、お母さん。
 どうしたらお母さんは家に帰ってきてくれるの?
 抱きしめてくれる母は白い園の中にしかいない。
 学校のクラスメイトは当たり前に家庭での話を楽しそうにしている。週末の予定を聞くと、胸が張り裂けそうに痛むのだ。
 どうして私ばっかり、こんなに寂しいと思いをしなきゃいけないんだろう。
 祖母の千代には必要以上に甘えられない。
 澄乃は甘え方すら知らないまま小学生になってしまった。特殊な家庭だと知られるのが怖くて家のことは話せず、いつも話を聞いて笑うだけ。
 だが、田舎では隠したくても隠しきれないのが現実だ。周囲の生温かい優しさも気持ち悪くて苦手だった。
 誰でもいい。この現実から救ってくれるなら、誰でもいいから。
ーー誰か、助けて。
 幼い少女が抱えるにはあまりにも深い青が、澄乃のまわりにだけ蔓延っている。
 波がさらってくれればいいのに。
 泡になって少しずつ溶けて、全てを無かったことにしたい。澄乃が生まれてから一番寂しかった日の数日後、安澄は帰らぬ人となった。
 最後の日に見た真っ白な肌が蜜柑の花を連想させて、その日から澄乃は庭の木そのものが苦手だ。
 大好きだったのに、もう素直に愛せない。
 お母さん、私はこれからずっと消えない寂しさを抱えて生きていくのかな。
 今もなお、青は澄乃に寄り添って消えてくれない。



「すみません、湿っぽい話しちゃって」
 砂浜にあるコンクリートの階段に並んで座り、過去の話をした。凪は一言も話さず澄乃の話を聞き続けてくれた。
「いや、寧ろごめんね。辛いことを思い出させたよね」
 落ち着いた様子で凪は謝る。頭を横に振り、澄乃は微笑した。ほんの少し、口角を何ミリか上げることが精一杯だった。
「私、ずっと本当は誰かに話したかったんです。でもこんな話、聞いても楽しくないだろうし、なにより気を遣わせてしまうと思って話せませんでした」
 実際、今だってかなり凪に気を遣わせているだろう。普通に育ってきた高校生が受け止めるにはあまりにも重たい。母の話をして凪が距離を置くなら、仕方ないと覚悟を決めて話した。
 淡い期待を抱いたまま関係を続けられるほど、彼と過ごせる時間は多くない。春には卒業してしまうのだ。
 澄乃は今、大きな賭けをしている。
 凪がこの話を聞いてなお、澄乃と関わろうとしてくれるなら今すぐにでも彼への気持ちを打ち明けたい。
 鼓動がうるさくて気に触る。
 先輩に聴こえませんように、と願った。
「俺は嬉しかったよ。椎名さんのこともっと知りたかったし、仲良くなりたかった。でもどこか壁があって踏み込んじゃいけないと思ってたから、話してくれてありがとう」
「凪、先輩」
 凪が、受け入れてくれた。
 今この瞬間、澄乃は全てが報われた気がした。
 砂浜で一人泣いた日の自分を抱きしめてあげられる気がした。
 先輩、伝えたいことがあるんです。
 澄乃がそう言おうとした瞬間、凪が口を開いた。
「だから俺も、まだみんなに話してないこと打ち明けるね。ーー俺、東京に進学するんだ」
 ひゅうう、ぱあん、と音がして花火が打ち上がった。続けて何発も上がり、夜空を夏の花が彩る。
「東京、ですか」
「うん。花の専門学校に進学するって決めた」
 東京。澄乃は行ったことがない。だが、人の海であることは知っている。
 凪はこの町を出てゆく。来年は彼という希望の消えたがらんどうの町になってしまう。
ーーそんなの耐えられない。
 澄乃は急に怖くなった。東京へ行った凪をこの町で待ち続けられる自信がめっきりない。
 これ以上近づいて離れたら、寂しい冬の日に逆戻りしてしまう。
「‥‥応援してます」
 無理にでも笑うことが最善で、気持ちを打ち明ける予定は白紙になった。
「ありがとう。俺、頑張るよ。東京はちょっと怖いけど、わくわくしてる自分もいるんだ」
「凪先輩ならきっと大丈夫ですよ」
 みんなに愛される、あなたなら。
 凪はどこにいたって視線を集め、笑って生きていけるだろう。凛と咲く花のような彼は他者からの寵愛を受けて、ひだまりの中で笑っていて欲しい。
 日陰は自分だけで十分だ。凪が花火だとしたら、自分はその残り火にすらなれない。
 花火が消える前の火は、夜空を泳ぐ魚のようだと幼い頃から思っていた。
 自由に泳いで消えるあの火すらも羨ましい私は、きっとこの人の隣に立てる権利がないんだ。
「長期休みには帰ってくるから、また会ってくれる?」
 微笑んだ凪に、澄乃も涙を目の淵に溜めて微笑み返した。
「はい」
 そんな日が来るだなんて信じられないけれど。
 また一つ、言えない気持ちを塞ぎ込んでゆく。
 どんな気分の時に見ても、花火は平等に美しい。
 きらきらとした瞳で花火を見上げる凪の横顔は、泣きそうになるくらいもっと美しかった。
 何発も上がる花火に、この恋心を託して弾けさせてしまいたい。いつかこの恋は身を焦がれるほど膨らんでしまうだろう。
 やっぱり、芽は摘み取らねばならないようだ。
 大丈夫、今日の記憶があればもう大丈夫。
 凪と共に花火を見れた今日以上のことを、澄乃はもう望む気はない。
 いつまでも花火が上がり続けてくれればいいのに、なんてありえないことを思い浮かべてしまう。
「椎名さんと花火が見れてよかった」
「私も、先輩と一緒に見れて幸せです」
 嘘じゃない。幸せだ。幸せだけど、絶望がすぐそばで仄めいている。



 どんなに願っても花火は終わり、帰る時間はあっという間に訪れた。駅まで凪に送ってもらい、夢から醒めた気分で家に帰った。
 すぐにシャワーを浴びて部屋に戻ると、涙が溢れて止まらない。子供のように声をあげて泣いた。凪のことを想い、母のことを思い出し、枯れるまで泣いた。
 驚いた祖母が部屋に入ってきて、今日までの出来事を全て打ち明けた。好きな人が出来たこと、学校で馴染めないこと、ずっと寂しさを抱えていたこと。
 決壊してしまった心をもう澄乃一人では抱え込んでいられなかった。今日はゆっくり休むように言われ、次の日昼過ぎに起きてくると一枚のメモを受け取った。
「あなたのお父さんの電話番号よ」
 寝ぼけていた頭が急に覚醒する。
 千代はそのままいつかこの家から離れるつもりだったと話す。
「澄乃が高校卒業するまでは、と思っていたけれど今が辛いなら逃げなさい。逃げることはなにも悪いことじゃないわ。いくらだってやり直せる。‥‥私はもう誰も縛りたくない。あなたは安澄じゃないのに今までずっとこの家に閉じ込めてしまって、本当にごめんなさい」
 いつも凛としている千代の声が震えている。
 澄乃は彼女に近寄り、そっと抱きしめた。
「ありがとう、おばあちゃん。私、おばあちゃんとこの家で過ごせて幸せだったよ」
 料理も家事も全て千代から教わった。澄乃が眠れない日は、眠るまでそばにいてくれた。
 祭りだって暑い中、一緒に回ってくれた。
 決して悲しいことばかりではなかったのだ。
 その一方で離れるべきタイミングなのだと、澄乃も悟ってしまった。
「私、お父さんに電話してくるね」
 この町ではない他の場所で変わりたい。
 臆病者の殻を脱ぎ捨て、いつか凪のように好きなものをはっきり好きと言える人間になりたかった。
 スマホを開き、緊張しながらゆっくりと間違えないようにメモに記された番号を打ち込んでゆく。三コールで掠れた男性の声が聞こえた。
「もしもし」
「あ、あの、突然すみません。私、」
「ーーもしかして、澄乃なのか?」
 澄乃が名乗る前に父、孝宏が娘だと気がついてくれた。それだけで嬉しくて、目頭が熱くなる。
「はい、澄乃ですーーお父さん」
 ずっと口にしたかった言葉を、ようやく声に出せた。
 電話越しで父も泣いているのか、鼻を啜る音が聞こえる。
「私、お父さんのところに行きたい。だから迎えにきてくれませんか」
 娘としての正しい振る舞い方なんてわからない。
 だから正直に話すしかない。
 離婚した妻との子を受け入れてくれる保証なんてどこにもないのだ。それでも、澄乃は最大限の勇気を振り絞って父に向き合っている。
 それだけで、少し変われたような気がした。
「ずっと、その言葉を待ってたよ」
 夏の日が差し込み、眩しい。
 庭では今日も蜜柑の木が太陽の光を浴びている。
 止まっていた時が、ようやく進み出した。



 夏休み明け登校すると、放課後に美羽たちから呼び出された。連れてこられたのは奇しくも第二理科室に繋がる廊下だ。窓の外には春から凪と二人で手入れしてきた花壇に植えられた花たちが今日も美しく咲き誇っている。
「夏祭りの日、駅で凪先輩といるところ見たんだけどさ、どういうことか説明してくれる?」
 美羽は微笑んでいるが平沼と山脇の表情は険しい。
 澄乃の背は窓に触れており、逃げられない。
「美羽が凪先輩のこと好きって知ってるのに、どういう神経してんの?」
 平沼は一歩前に出てきて澄乃をこれでもかと睨む。こういう時だけ強気になるのかと冷めた目で見つめ返した。
「海に行く途中で先輩に声かけられて一緒に花火を見ただけだよ」
 そもそも澄乃が海に行くことになったのは、彼女たちにドタキャンされたせいだ。責任転嫁も甚だしい。
「はあ? 先輩と会ったならすぐ美羽に連絡しなさいよ」
 山脇が澄乃の肩を掴む。長い爪が肌に突き刺さり、鋭い痛みが走って顔を歪めた。
「ねえ、澄乃ちゃん。私一年の頃から先輩が好きだったの。でも抜け駆け禁止なんてくだらない掟を破ろうにも、他の先輩たちがめんどくさくて今までずっと我慢してきたんだよ。だからせめて先輩の視界に入れるように自分を磨いてきたの。でもさ、澄乃ちゃんはなにも努力してないのに一緒に花壇の世話して、花火も見て、おかしいと思わない? ‥‥なんで、あんたなの? こんなに頑張ってる私じゃなくて、なんで!」
 美羽の笑顔が崩れ、ついに声を荒げる。
 恋は時に盲目だ。美羽は花壇から様子を伺っていた凪に気が付かなかった。
「椎名さんに、なにしてんの」
 窓が開いて後ろから凪が澄乃を庇う。
 本気で怒っていると、顔を見ていない澄乃にも伝わってくる低い声だ。美羽たちは顔を青ざめて凪を見つめている。ああ、ちょうどいい。たまたま全員揃った。
 澄乃は小さく口を開く。
「私、転校するんだ。だからもう明日から学校来ないの、今まで仲良くしてくれてありがとう」
 美羽たちに微笑んだ後、くるりと回って凪に向き合う。
「先輩も、今までありがとうございました」
 ふわりと凪の腕を抜けて、その場を離れる。
「待って、椎名さん!」
 凪の声は聞こえないふりをして、荷物を素早くまとめて帰ろうとする。玄関で凪に引き留められたが「お父さんが迎えにきてるので」と冷たく言い放ち、校門前に迎えにきている父の元へと向かった。
「椎名さん! 俺、まだ君になにも伝えられてない!」
 車に乗ろうとすると、人目を憚らず凪は大きな声で澄乃に訴える。涙が溢れそうなのをぐっと堪え、勢いよくドアを閉めた。
 凪は駆けつけてきた三木と橘に引き止められている。
「‥‥澄乃、いいのか?」
「うん、もういいの。帰ろう、お父さん」
 最低な形で凪に別れを告げてしまった。
 加えて、不可抗力だとしても恥までかかせてしまったのだ恨まれても仕方ない。
 でも、これで良かったのかもしれない。
 彼を傷つける覚悟を持てなければ、恋心を枯らすことはきっと出来なかった。
 一週間後には、この町を出る。
 そうしたら、きっともう二度と戻ってこない。
 さようなら、先輩。
 先輩のことが大好きでした。
 世界から一つ、恋を消した瞬間だった。



 孝宏は澄乃が町を出る日、どうしても外せない仕事があるため一足先に自宅へ戻った。
 千代は家の整理をしなければいけないので、もう少し家に残る。澄乃も最後まで手伝うつもりだったが、引っ越し先の高校へ編入する日程の関係で祖母を残して父の元へ向かわなければならなかった。
 最後に蜜柑の木を撫でてから家を出た。
 荷物は全て送ってあり、小さなスーツケースを持って新幹線の止まる駅へ千代と移動する。
 改札の前で別れ、平日の昼間でほとんど人のいないホームでぼんやりしながら新幹線を待つことにした。
 新しい学校へ通うことに不安はあるがどこか楽しみな自分もいて、凪の気持ちがようやく理解できた。
 もう遅いのに、馬鹿みたい。
 凪は今日も学校へ行き、きっと今頃授業を受けているだろう。変な後輩を構ったことで酷い仕打ちを受けたヒーローとして周囲が彼に目一杯優しくしてくれていることを願う。凪になら、彼が言いたければ過去を吹聴されたっていい。そのくらい酷いことをしてしまったと自覚している。
ーー先輩がこれからも幸せに生きていけますように。
 二度と会うことのない彼の幸せを願い、立ち上がった。スーツケースを引こうと振り返ると、視界の端に走ってくる誰かが見えた。
 そんなに急がなくてもあと五分は来ないのに。
 走ってきた人物に全く見覚えがなかったら、きっとそんな風に思って気にしなかっただろう。
 だが、遠くからでも気がついてしまう。
「椎名さん!」
 一番会いたくて、一番会いたくない凪が澄乃のために走ってきてくれた。体が固まり、ぴくりとも動けない。
「良かった、間に合った」
 髪や呼吸の乱れから、相当走ってきたことが窺える。
「先輩、なんで」
「椎名さんの担任に無理言って家の電話番号教えてもらって、おばあさんに新幹線の時間聞いた。俺、納得してないから、なにも!」
 凪は離さないというように、澄乃の手首を掴む。
「俺、椎名さんのことずっと好きだったよ。椎名さんの花壇を見る優しい瞳も、一生懸命世話をしてくれるところも、意外と笑うところも律儀な性格も、全部全部好きなんだ。この気持ちを伝えないままもう会えないなんて絶対嫌だった」
 凪はいつも眩しすぎるくらい真っ直ぐで、澄乃の想像を超える言葉をいくつもくれる。
 だから澄乃も凪が大好きなのだ。
「ごめん、どうしようもないくらい椎名さんが好きなんだ」
 いつも笑っている凪の瞳が濡れている。一粒の涙が頬を伝った。スーツケースを持っている手を離し、彼の腕に飛び込む。
「わたしも、私も先輩が好きです」
 ああ、彼と離れたくない。だが、視界の先には乗らなければならない新幹線が迫ってきている。
 扉が開き、到着を知らせた。
「伝えるのが遅くなってごめん。クラスメイトとの関係に気づけなくてごめん。きっと知らないうちに傷つけたりしたかもしれない。でも、俺、また君に会いたい」
凪の「ごめん」には気持ちが込められている。
 苦しそうな表情を浮かべる彼を、澄乃は解放してあげたい。すっと手のひらで彼の頬を包み、触れるだけのキスをした。凪の明るい虹彩に澄乃の顔が映り込む。
「来年の蜜柑の花が咲く頃、この町へまた会いにきます」
 凪に触れれば触れるほど、離れがたさが増してゆく。澄乃は意を決して彼から離れ、スーツケースを手に取った。
「先輩、それまでお元気で」
 軽い足取りでホームから扉の境を越え、凛と立つ。凪は制服の袖で涙を拭い、大好きな笑顔を浮かべた。
「椎名さんも来年まで元気でね」
 発車を知らせるけたたましい音と共に扉が閉まり、ゆっくり動き出した。凪は澄乃の姿が見えなくなるまでずっと見送ってくれた。空席が多くがらんとした車内に移動し、ようやく落ち着いて座る。
 澄乃は新幹線の中から太陽の光を反射してきらめく海を眺めた。
 口約束は苦手だ。守られる保証なんてどこにもない。澄乃はこれまで守られてきた約束のほうが少なかった。だが、凪だけは信じようと思えたから自ら苦手な口約束をしたのだ。
 今から来年の初夏が待ち遠しい。
 あの白い花が咲いた姿を、そっと思い浮かべた。



 父が住んでいたのは、澄乃が育った町より都会の、とある県庁所在地だった。学校帰り、カフェやファミレスへ気軽に行く友人も出来て、やっと澄乃はスタートラインに立てた気がした。勉強を真面目に続けてきたこともも役に立ち、受験勉強も安定して続けられている。
 愛おしい彼の名前のような日々が続くが、やはり心には大きな穴がぽっかり会いてしまっていた。特に冬は寒空の下、なんども凪を思い浮かべて過ごした。
 そうして春が訪れ、桜が散った。
 澄乃は引っ越してから、凪の実家である花屋へ一通の手紙を送った。返事は澄乃が送ったそれの三分の一ほどの文章量だったが、桜が咲いたら今度は自分から送るねと最後に書き記されていた。
 凪はきっちり約束を守り、桜が咲いた頃に東京から手紙ではなく、蜜柑の花の写真がプリントされたハガキが送られてきた。
 そこには待ち合わせの場所と時間のみという簡素な内容が綴られていた。澄乃はハガキを受け取ってすぐに一枚のワンピースを買いに行った。
 蜜柑の花と同じ、真っ白なワンピースだ。
 浮かれる気持ちを抑えて、当日まで袖は通さなかった。ついに凪と会う日の朝、いつもより早起きをしてメイクもヘアセットも目一杯お洒落した。
 しっかり蜜柑の花の髪飾りはワンピースに合わず泣く泣くつけることを諦めると、父が母へ贈るつもりだった白い花のイヤリングをくれた。
「きっと母さんも喜ぶだろう」
 娘が想い人に会いに行くのだ。父親としては素直に応援しきれず複雑だろうが、不器用な優しさで孝宏は澄乃の背中を押してくれる。
「お父さん、ありがとう」
 最寄駅まで送ってもらい、一言残して電車に飛び乗った。育った町まで新幹線と電車で三時間はかかる。
一秒、一秒が酷く長く感じられた。
 乗り物に乗るとすぐに眠気を感じる澄乃だが、頭は冴え渡っており余計に時間が経つのが遅かった。
 ようやく新幹線に乗り換えると、ぐんぐん進んで行き、外の景色が目まぐるしく変わってゆく。
ーー先輩に会えるまで、あと少しだ。
 途端に緊張してきて、何度もリップを塗り直し、前髪を櫛で整えてしまう。新幹線を降りてすぐ彼がいるわけではないのに、ドアの前に立つことすら脚が震えた。
 目的地の駅に着き、新幹線を降りると週末ということで凪と最後にあった日より多くの人々が乗り降りしている。この日のために買った白いローヒールのミュールでゆっくりと歩き出すと、聞きなれた声がした。
「椎名さん、おかえり」 
 振り向くとより一層垢抜けた凪の姿。髪は染めたのか、明るい茶髪になっていた。
 だが、柔和な笑顔はなにも変わっていない。
「ずっと会いたかった。一年もないのに、こんなに長いんだって驚いたよ」
「私もおんなじ気持ちでした」
 かつん、かつんとコンクリートを蹴り、凪の元へ吸い込まれるように駆け寄ってゆく。長い腕に閉じ込められ、澄乃は幸せの中で表情を綻ばせた。
「一日だって先輩のことを考えない日はありませんでした」
「俺もだよ。早く会いたくて堪らなかった」
 凪の骨ばったり手で頬を撫でられる。
「私、先輩と話したいこと、一緒にしたいこと、沢山あるんです。全部伝えてもいいですか?」
「うん、全部聞かせて。なにから一緒に叶えようか?」
「一番最初は、蜜柑の花を見に行きたいです」
 あの木の下で、話したいことが沢山ある。
 太陽に似た実をつける、白い花が咲く木の下で。

 澄乃は凪の手を引き、ゆっくりと歩き出した。
 二人の影がホームに並んで伸びている。