「つかお前また留年危機って聞いたけどマジ?」
そんな会話を耳にしたのは、図書館を出てすぐのことだった。雨はすっかり止んでいた。、夏が近いこともあってか、辺りはまだそう暗くなかった。
「あ、そう。フツーに今度こそ終わりかも俺」
「お前サボリすぎなんじゃん?」
「そうなんだけど。去年も危なかったんだよな。次はないって脅された気する」
「もしそうなったら私あんたを見捨てて卒業していくよ」
「お前もギリギリだろ他人事じゃねえだろうが」
「留年と退学は避けたいよなー」
「まあ一応ね。一応」
私の最寄駅の近くには、あまり評判がよくない公立高校や定時制の高校がいくつかあって、通学路が被る他校生も当然いるのだが、いかにも遊んでいそうな金髪のチャラチャラした人だとか、スカートがありえないほど短いギャルだとか、いわゆるヤンキーみたいな 人だとかとすれ違うことが多く、要するに自分とは無縁の高校生の割合が高い。
図書館や駅の近くの路地裏は夕方から治安が悪くなるから、ひとりで歩くのは控えるようにと、入学した頃はよく母に言われていた。
普段は大通りに面した道を歩いているから、実際に治安が悪いと噂の路地裏の近くを通ることはほとんどない。
今日はたまたま通っただけ。学校の図書室でやって帰るはずだった勉強ができなくて、家だとあまり集中できないから久々に地元の図書館を利用した。図書館の環境が記憶にあったものよりもよくなっていて、、むしろ学校の図書室を利用するときより捗ったような気もする。
いつもより帰りは遅くなってしまったけれど、日もまだ落ち切っていなかったし、通行人が絡まれたり喧嘩沙汰になったりしている話は聞いたことがないので、正直なところ、この辺りの治安の悪さは気に留めていなかった。
「つってもなぁ。勉強とか無意味だと思ってるしな。将来に生かせることとかねーじゃん」
「煙草も無意味だろ別に」
「かっけーもん煙草は。俺絶対吸うのはヤマさんと同じやつって決めてんの」
「その理由だせーからやめなって。だから留年するんだよお前」
「まだしてねーよ!」
「でもヤマの煙草めちゃくちゃ薬品みたいな味するよ。おいしくないよあれ」
「えー」
りゅうねん、たばこ。聞き馴染みのない言葉たちが、 右側の路地から聞こえる。
きっと、じゃなくて絶対。そこにいるのは、治安を悪くしている人たちだ。姿は見えないけれど、会話の内容からして同世代か、もしくはいくつか年上の人たちだろう。
声を聞いたかぎりで四人はいるようだけど、笑い声はもっと多い気もする。女性の声も聞こえるから、男女で集っているのかもしれない。
……引き返そう。道を変えて、大通り側を通って帰ろう。足音を極限まで消し、踵を返そうとした、そのときのことだ。
「お前はもっとサツキのこと見習えよ。なあ?」
「まあ俺、学校ではいい子だから」
「俺お前んとこの女子に聞いたことある。ナシマサツキは完全無欠のイケメンだって」
え、と思わず声が出た。引き返そうとした足を止める。
記憶の片隅にぼんやりとあった名前と声が一致するのに、思い浮かべたその人と、今聞いた会話の内容が一致しない。
なしまさつき。名島皐月。
『天下の名島皐月。顔よし頭よしのリアコ製造機!』
ちょうど今日、桃音が言っていた言葉がよぎる。近くにそう何人も「名島皐月」がいるとは到底思えない。
「いいな。俺も皐月みたいにちやほやされてー」
「そんなこと言ってるからモテないんじゃんねお前」
「正論やめろ」
私は引き返すのをやめ、ただの通行人を装って足を進める。単なる好奇心だったのだと思う。この目で、自分が想像していることが本当なのか見てみたかった。
声が近くなる。煙草の匂いがした。数人の姿が見え、その手に収まる煙草をとらえた。
治安の悪い路地裏の喫煙所で、若い男女が留年の話をしていて、制服を着た金髪の男子もいれば、私服で煙草を吸っている女性もいた。ぱっと見た感じ、全員が高校生というわけでもなさそうで、どういう集まりなのか見当もつかなかった。
足音をできるだけ小さくし、私は通りがかるふりをして、声がするほうへ視線を向ける。
「てか皐月、今日ヤマさん来ないって?」
「んー。今日は──… …」
──目が合ったのは、同じクラスの、私の記憶にいる名島皐月と同じ人だった。
「ん? 今日はなに?」
「あ、いや。仕事忙しいって言ってたから来ないと思う」
名島くんが話している。私が知っている声だ。名前が同じなだけでもなく、のすごく顔が似ている別人でもなく、そこにいたのは確かに同じクラスの、名島皐月だ。
学校にいるときより砕けた話し方をしているように感じて、この悪そうな人たちと名島くんは確かに知り合いなのだとわかった。
「だよねぇ。ヤマさん仕事忙しそうだよね。大丈夫かなあ」
「煙草死ぬほど吸ってるからあの人ほんとにいつか危ない」
「止めさせてあげてよー。ヤマ、病むと煙草に逃げるし」
「あんたも人のこと言ってられないでしょ」
「あのねえ、高校生のガキにはわかんない社会人の闇っつーのがあんのよ」
反射的に目を逸らし、たまたま通りがかった他人を装いながら小走りでその場を通り過ぎる。
やっぱりさっき引き返せばよかった、とすぐに後悔した。遠目から確認しようと思っただけだったのに、あまりにも運が悪かった。あの場にいた他の人たちにはきっと気づかれていないはずなのに、まさかピンポイントで名島くんだけに見つかってしまうなんて。
私だって気づかれてしまっただろうか? 深い関わりがないとはいえ、いちクラスメイトだ。席も前後なので、必要な会話はそれなりに交わしてきたから、きっと気づいているはずだ。
煙草を吸っている人たちと一緒にいた。「学校ではいい子」と言っていた。
明日から、学校でどんな気持ちで名島くんと話せばいいんだろう。あれが本来の名島くんの姿なら、名島くんは明日から私に対してどんなふうに関わってくるんだろう。
そんな会話を耳にしたのは、図書館を出てすぐのことだった。雨はすっかり止んでいた。、夏が近いこともあってか、辺りはまだそう暗くなかった。
「あ、そう。フツーに今度こそ終わりかも俺」
「お前サボリすぎなんじゃん?」
「そうなんだけど。去年も危なかったんだよな。次はないって脅された気する」
「もしそうなったら私あんたを見捨てて卒業していくよ」
「お前もギリギリだろ他人事じゃねえだろうが」
「留年と退学は避けたいよなー」
「まあ一応ね。一応」
私の最寄駅の近くには、あまり評判がよくない公立高校や定時制の高校がいくつかあって、通学路が被る他校生も当然いるのだが、いかにも遊んでいそうな金髪のチャラチャラした人だとか、スカートがありえないほど短いギャルだとか、いわゆるヤンキーみたいな 人だとかとすれ違うことが多く、要するに自分とは無縁の高校生の割合が高い。
図書館や駅の近くの路地裏は夕方から治安が悪くなるから、ひとりで歩くのは控えるようにと、入学した頃はよく母に言われていた。
普段は大通りに面した道を歩いているから、実際に治安が悪いと噂の路地裏の近くを通ることはほとんどない。
今日はたまたま通っただけ。学校の図書室でやって帰るはずだった勉強ができなくて、家だとあまり集中できないから久々に地元の図書館を利用した。図書館の環境が記憶にあったものよりもよくなっていて、、むしろ学校の図書室を利用するときより捗ったような気もする。
いつもより帰りは遅くなってしまったけれど、日もまだ落ち切っていなかったし、通行人が絡まれたり喧嘩沙汰になったりしている話は聞いたことがないので、正直なところ、この辺りの治安の悪さは気に留めていなかった。
「つってもなぁ。勉強とか無意味だと思ってるしな。将来に生かせることとかねーじゃん」
「煙草も無意味だろ別に」
「かっけーもん煙草は。俺絶対吸うのはヤマさんと同じやつって決めてんの」
「その理由だせーからやめなって。だから留年するんだよお前」
「まだしてねーよ!」
「でもヤマの煙草めちゃくちゃ薬品みたいな味するよ。おいしくないよあれ」
「えー」
りゅうねん、たばこ。聞き馴染みのない言葉たちが、 右側の路地から聞こえる。
きっと、じゃなくて絶対。そこにいるのは、治安を悪くしている人たちだ。姿は見えないけれど、会話の内容からして同世代か、もしくはいくつか年上の人たちだろう。
声を聞いたかぎりで四人はいるようだけど、笑い声はもっと多い気もする。女性の声も聞こえるから、男女で集っているのかもしれない。
……引き返そう。道を変えて、大通り側を通って帰ろう。足音を極限まで消し、踵を返そうとした、そのときのことだ。
「お前はもっとサツキのこと見習えよ。なあ?」
「まあ俺、学校ではいい子だから」
「俺お前んとこの女子に聞いたことある。ナシマサツキは完全無欠のイケメンだって」
え、と思わず声が出た。引き返そうとした足を止める。
記憶の片隅にぼんやりとあった名前と声が一致するのに、思い浮かべたその人と、今聞いた会話の内容が一致しない。
なしまさつき。名島皐月。
『天下の名島皐月。顔よし頭よしのリアコ製造機!』
ちょうど今日、桃音が言っていた言葉がよぎる。近くにそう何人も「名島皐月」がいるとは到底思えない。
「いいな。俺も皐月みたいにちやほやされてー」
「そんなこと言ってるからモテないんじゃんねお前」
「正論やめろ」
私は引き返すのをやめ、ただの通行人を装って足を進める。単なる好奇心だったのだと思う。この目で、自分が想像していることが本当なのか見てみたかった。
声が近くなる。煙草の匂いがした。数人の姿が見え、その手に収まる煙草をとらえた。
治安の悪い路地裏の喫煙所で、若い男女が留年の話をしていて、制服を着た金髪の男子もいれば、私服で煙草を吸っている女性もいた。ぱっと見た感じ、全員が高校生というわけでもなさそうで、どういう集まりなのか見当もつかなかった。
足音をできるだけ小さくし、私は通りがかるふりをして、声がするほうへ視線を向ける。
「てか皐月、今日ヤマさん来ないって?」
「んー。今日は──… …」
──目が合ったのは、同じクラスの、私の記憶にいる名島皐月と同じ人だった。
「ん? 今日はなに?」
「あ、いや。仕事忙しいって言ってたから来ないと思う」
名島くんが話している。私が知っている声だ。名前が同じなだけでもなく、のすごく顔が似ている別人でもなく、そこにいたのは確かに同じクラスの、名島皐月だ。
学校にいるときより砕けた話し方をしているように感じて、この悪そうな人たちと名島くんは確かに知り合いなのだとわかった。
「だよねぇ。ヤマさん仕事忙しそうだよね。大丈夫かなあ」
「煙草死ぬほど吸ってるからあの人ほんとにいつか危ない」
「止めさせてあげてよー。ヤマ、病むと煙草に逃げるし」
「あんたも人のこと言ってられないでしょ」
「あのねえ、高校生のガキにはわかんない社会人の闇っつーのがあんのよ」
反射的に目を逸らし、たまたま通りがかった他人を装いながら小走りでその場を通り過ぎる。
やっぱりさっき引き返せばよかった、とすぐに後悔した。遠目から確認しようと思っただけだったのに、あまりにも運が悪かった。あの場にいた他の人たちにはきっと気づかれていないはずなのに、まさかピンポイントで名島くんだけに見つかってしまうなんて。
私だって気づかれてしまっただろうか? 深い関わりがないとはいえ、いちクラスメイトだ。席も前後なので、必要な会話はそれなりに交わしてきたから、きっと気づいているはずだ。
煙草を吸っている人たちと一緒にいた。「学校ではいい子」と言っていた。
明日から、学校でどんな気持ちで名島くんと話せばいいんだろう。あれが本来の名島くんの姿なら、名島くんは明日から私に対してどんなふうに関わってくるんだろう。



