「先輩っ!?」
伸ばした指は空を撫でた。
目が、覚めた。
「あ、あれ……っ」
伸ばした手を下ろす。じっと正面を見つめる。なんの変哲もない白い天井。僕の部屋。
何もなかった。甘い香りも、焦がれていた姿も。ただ、ありふれた日常の一端の中に、僕はいた。
頰に触れる。冷たい液体が指を濡らした。そこで自分が泣いていることに気づく。もう全部届かないのに。全てがこの世から失せてしまったのに。胸を締め付ける切なさだけが残っていた。
訛りのような身体を起こして、手の届く場所にあるカーテンを開けた。レールを滑る音と共に眩い日光が部屋に差し込む。まだ完全に登りきってない、淡い太陽の光だった。
外の明るさに目が慣れて、それでも立ち上がれずにいると、手のひらにふわりと柔らかな感触が生まれた。驚いた、それからすぐに頰が緩む。
「おはよう、あめ」
心地良いその背中を撫でると、白とグレーと少しの黒が混じった不思議な色合いのその猫──あめは甘えたように一声鳴く。
「ちょっと待ってろ」
先ほどの体の重さはどこへ行ってしまったのだろうと不思議になるほどあっさりと布団から出た僕は、真っ先にあめの朝ごはんを用意する。
「ほら、ご飯だ」
呼びかけるとあめは即座に駆け寄り、皿にこんもりと盛られたご飯にかぶりつく。いい食べっぷりだと、あめの頭を撫でながら呟いた。皮膚から伝わる温もりと手触りの良さに、何度も手を往復させた。
最後の一粒を食べたあめは、ペロリと口を舐めて、それから顔を上げて一声鳴く。つぶらな瞳が見つめてくる姿は、いつ見ても愛らしい。もう一度あめを撫でて、皿を回収した。それを洗っている途中で自分のことを何もしていないことに気づき、乾燥棚に置いてから顔を洗いに向かう。
冷水を何度か顔にかけて、水気をタオルで拭う。顔を上げた拍子に鏡に映る自身と目があった。真っ赤に充血したその瞳を見て、今朝のことを思い出す。あの、胸を締め付けられる感覚を。
「先輩……」
鏡に触れる。久しぶりに見た夢だった。いや、記憶の追体験をしたと言った方が合っているかもしれない。ほんの僅かな時間、夢という名の泡沫で出会う先輩の姿を、僕はいつまでも脳裡に焼き付けておきたいと思う。こうして意識が覚醒してしまうと、夢のことは大抵忘れてしまうものだけれど、僕は覚えている。否、忘れたくなかった。
「凪葉先輩……」
夢の中では届かなかった、あの人の名前をなぞるように呼ぶ。もう二度と会うことは叶わない彼女の名前は、静寂が漂うこの部屋に無音として溶けてしまった。



