「君は、輪廻転生を信じるかい?」


 僕が桜木の下で読んでいる本に桜の花びらが一つ、迷い込んできた時だった。隣に座る先輩が訊いてきた。


 文字から目を離すと、麗しい表情が飛び込んでくる。まともに目を合わせず、流れる髪に視線を移した。


「輪廻転生って……あの、生まれ変わりのことですか?」
「そうだよ。肉体が死んで、魂だけになった存在が新たな肉体を得てこの地に降り立つ。そんなことが、本当に可能だと思うかい?」
「……さあ、どうでしょう。あったとしても証明しようが無いんじゃないですか?僕は前世を知っているわけじゃないし、何百年も前の記憶があるわけでもないし」

  
 そもそも、非科学的なことを考えるのは得意じゃない。けれども、僕は笑った。あり得るはずのないことに疑問を持つ先輩の姿が好きだった。


「先輩は在ると思うんですか?」
「もちろん。必ず在るよ」


 紅の唇が整った形で釣り上がる。首を動かした拍子に耳元で輝いた金の小ぶりのピアスが眩い。


「考えてご覧よ。毎日のように新たな魂が生まれては毎日のように魂が戻ってくる。行き場のない魂は保管庫か何処かに置かれるんだろうね。そうしたら収納なんていくらあっても足りないだろう?」
「それは……古い魂が今後もずっと存在し続けることを前提としていますよね?消滅の可能性だってあるんじゃ……?」
「一理あるね。けど、私は信じたくないな」
「なぜです?」
「だって、せっかく生まれた魂が一度きりの使い捨てなんて、そんなの悲しくないかい?ここには私たちという生き物がいるのに、肉体が死んだ途端に存在さえも消される。私は嫌だな」


 組んだ足に肘をついて遠くを見つめる先輩の横顔には憂いがあった。整った顔立ちの、さらに吸い込まれるような瞳に映る景色は、きっと彼女の脳裏に構想された魂の姿だろう。


 しばしの間、その美しさに惹きつけられていた僕は本を閉じる。見上げれば、案の定満開の桜と、その枝から垣間見える空色。絶え間なく舞い散る花びらに生物の命を重ねる。


「……もし、魂が廻るのだとしたら、僕の前世は一体どんな感じだったんでしょう?」
「なんだろうね。人間じゃなかったかも。例えば、ゴキブリとかカラスとか」
「……否定は出来ませんけど、もうちょっと違う例えが欲しかったです」


 口を尖らせて言うと、先輩は肩を震わせながら謝罪を述べた。


「君がなんだっていいんだよ。大事なのは、今こうして、君と出会えたことなんだから」


 しなやかな指が僕の頬を滑る。胸がひときわ強く鼓動を打つ。顔に熱が集まると共に先輩は悪戯っぽい笑みを浮かべる。


「ほら、そういう表情が出来るのも生きているうちだ」
「……揶揄わないで下さい」
「揶揄ってはいないさ。ただ、面白いと思っただけだよ」
「同じです」


 僕は真顔で言い返す。先輩はまた苦笑した。大人びた横顔が少し崩れた可愛らしい笑顔から視線を外してみる。正直このやり取りは嫌いじゃない。むしろ、ずっと続けとさえ願う。絶えない隣からの笑い声に口元が緩んだ。


「先輩。これからも、ずっと一緒ですよね?」


 ピタリ、と。全ての音が止まった。風の音も、小鳥のさえずりも、先輩の笑い声も。世界から音が失われたかのような、否、時間さえも止まってしまったかのような、そんな感覚。


浅緋(あさひ)くん」


 不意に名前を呼ばれて心臓が跳ね上がる。移した視線の先の先輩は空を仰いでいた。口を結んだその表情は、憂いとも感傷とも自責とも言い難い、複雑な感情が滲み出ている。そう思った。しかし、先輩はふっと笑みを溢した。


「ごめんね。それは、約束できない」
「……そう、ですよね。すいません」


 分かっていたはずだった。それでも、胸が鉛に成り変わったかのような重苦しさが途端に襲ってきた。肺が締め付けられて、呼吸が上手くできない。軽い吐き気が込み上げては飲み込む。


 胸に手を当てているところを見られたのだろうか。それとも、荒れた呼吸音を聞かれたのだろうか。「そういうことじゃあないんだ」と先輩が首を振って謝った。


「君と永遠(とわ)を過ごせたらと、私も願うことがある。けれど、私の人生に何があるか分からない以上、確実なことは言えないんだ」


 真剣な表情から誤魔化しではないことは一目瞭然だった。彼女らしい回答に安堵する。僕が嫌われているわけでも、先輩に想い人がいるわけでも無かった。


「でもね」


 先輩が口を開く。柔らかく、それこそ天使のように微笑んでいた。先程の困ったようなものとは違う。


「何があっても、私は──」


 唐突に強風が吹いた。


「──っ!?」


 無音だった空間が騒がしくなる。花びらが巻き上げられ、僕と先輩の間を取り巻くように流れる。視界が桜色に覆われた。誰もが目を奪われる魅力的な笑みが、花びらの海に溺れてゆく。
 

「先輩ーっ!」


 僕は手を伸ばす。けれど、ついさっきまで肩が触れるほどの距離に居た先輩はいつの間にか遠ざかっていた。まるで引き剥がされるかのように、先輩の姿が小さくなっていく。


 目頭が熱くなる。花びらから目を守りながら必死に前進した。2度も僕を置いていかないでくれ。まだ言葉の続きを聞けていないのに。2人で一緒にやりたいことが残っているのに。


 貴女が居なければ、僕は──。


 甘い香りが。花の色が。先輩の姿が。


 全部が、僕の手からすり抜けてゆく。


 一瞬。ほんの僅かな時間。桜吹雪の隙間から見えた先輩の頬には、水晶のように煌めく雫が流れていた。


 息を呑んだ。それから、もう一度叫ぶ。やっぱり、先輩は、本当は──。