「My heart will be with you no matter how far apart we are」

 ーー……日がゆっくり落ちていくなか、とても綺麗な歌声が、音楽室から聴こえてきた。
 洋楽だからどういう意味なのか、あたしには分からない。
 その人の声は透き通っていて、けれど力強く、気持ちが込められていることが分かった。

 「So it's okay. Live your life well」

 あたしは静かに音楽室へ足を踏み入れる。
 すると、その人はあたしに気がついたみたいで、歌うのをやめてしまった。

 「え……は、原田(はらだ)さん?」

 「……青井(あおい)?」

 その綺麗な歌声の持ち主は、クラスメイトの青井だった。
 青井はいつも教室だと物静かで、いつも本を読んでいる。
 だから、こんな声で歌を歌うところなんて想像がつかなかった。

 「……原田さん、何でここに」

 「あたしは、家に帰りたくないからさ。たまたま綺麗な歌声が聴こえて音楽室に寄ったの」

 「……何で、家に帰りたくないの?」

 あたしは、青井の言葉に顔を背けてしまう。
 自分が苦しいと思っていること、辛いと思っていること、悲しいと思っていること、嫌だと思っていること。
 そんな気持ちを誰かに話すなんて、初めてだったから。

 「……それは、青井が相談乗ってくれるってことで、おっけー?」

 「まぁ。別にいいけど」

 あたしは、初めて自分の本音を打ち明けることにした。


*


 家が嫌いだ。
 お母さんとお父さんの口喧嘩を聞くのが嫌だから。
 いつもあたしのことを話しているのがバレバレ。

 髪は勝手に茶色に染めて、成績は落ちていく一方で、好き勝手に友達とばかり遊んで。
 お母さんは好きなことをしていいと言ってくれている。
 だけどお父さんは、そんなあたしに反対している。

 成績優秀のお姉ちゃんと、比べているから。

 だけど、お姉ちゃんもお姉ちゃんで、我慢ばかりしているんだ。
 本当は好きなことをしたいけれど、お父さんの厳しい指導のせいで、勉強ばかりしているから。

 早く、こんな毒親から離れたい。

 帰りたくない。

 あんな家にいると、呼吸が苦しくなる。

 胸がぎゅっと、締め付けられる。

 死にたく、なるから。


*


 青井はあたしの話を聞いているとき、ときどき窓の外を見つめていた。
 ちゃんと聞いているのか、聞いていないのか分からないけど。

 「……何か、複雑なんだね」

 「うん、まぁね。だから学校が好きなの。友達とバカみたいなことやって楽しめるから」

 青井は、静かにピアノを見つめて、口を開く。

 「俺は、学校が嫌い」

 その言葉を聞いて、あたしは俯いていた顔を上げる。

 「何で?」

 「……クラスカーストがあるから。一軍と陽キャだけが全ての世界。それに囚われるのが嫌だから。俺、陰キャでしょ」

 「あぁ……」

 否定はできなかった。
 確かに、あたしの女友達も男友達も、「青井って取っ付きづらいよなー」なんて話している。
 あたしは人の悪口は言いたくないから、賛成しなかったけれど。
 クラスメイトが青井のことを陰キャだと思っているのは、事実だろう。

 「でも、歌は上手なんだね」

 「……ボイトレ行ってるから」

 「ボイトレ?」

 「ボイストレーニング。あんた、そんなことも知らないのか」

 ボイストレーニング……。聞いたことがあるような、ないような。
 つまり歌を習っている、ということだろうか。

 「ふーん。すごいじゃない」

 「すごくないよ。……俺よりもっと、すごい人はいる」

 「すごい人?」

 「うん、絶対に追いつけない、憧れのひと」

 青井は、もしかしたら何か隠している過去があるのかもしれない。
 けれどあたしは、青井の悲しそうな瞳を見たら、何も言えなくなってしまった。


*


 「On nights when I feel lonely, I want you by my side」

 翌日の放課後、また綺麗な歌声が聴こえて、音楽室へ向かった。
 するとやっぱり青井だった。

 「……あんた、また来たのか」

 「いいでしょ別に。ここは青井だけの場所じゃないもん!」

 「……まぁ、それはそうだけどさ」

 はぁ、と分かりやすくため息を吐く青井。
 ーーあたしが来たことに、そんなに不満あるの?
 あたしは頬をぷくっと膨らませる。

 「ねぇ、青井、何か歌ってよ」

 「何でだよ」

 「あたし、青井の歌声、癖になっちゃった。何かすごい胸があたたかくなるの。嫌なことも忘れちゃうくらい。だから好きだよ」

 そう言うと、青井は何故か頬を赤らめる。
 あたし、何か変なこと言っただろうか。
 青井の歌声が好きだってことを伝えたかったんだけどな。

 「ごめん、あたし何か言った?」

 「は、はぁ? あんた、もしかして意外と鈍感?」

 「いや、あたし、青井の歌声が好きだって言っただけだけど……」

 本音を言うことが苦手だから、やっぱり変なことを言ってしまったかな。
 そう思ったけれど、青井は「ごほん」と咳払いをして、ピアノの椅子に座った。

 「え? 青井、ピアノ弾けるの?」

 「いや……もう、弾けない。やめたから」

 「えー、何で? もったいない! 一応、あたしもピアノ習ってたことあるんだよー」

 そう言うと青井はまた、昨日のように悲しい瞳でピアノを見つめる。

 「……別にいいでしょ。原田さんには関係ないんだから」

 「なっ……!」

 確かに、それはそうだけど。
 でも何故だろう。関係ないと言われて、胸がチクッと傷んだのは。

 「……青井の、バカ!」

 あたしは、ひどい言葉を青井に投げつけて、音楽室を駆け足で出た。
 廊下を走りながらふと気づく。
 青井に対して何かの感情が、あたしのなかで生まれていたことに。


*


 ーー昨日のこと、謝りたいな。
 そう思って音楽室へ行くも、青井はいなかった。
 よりによって今日はどうしていないんだろう。
 そのとき、教室から喋り声が聞こえた。

 「だからっ、うざいんだよ!!」

 あたしは急いでドアをガラガラと開ける。
 驚きの光景が目に入った。

 「ちょ……何してんの?」

 「おぉ、原田。いいところに来たな」

 そこにはクラスメイトの山岸(やまぎし)と、頬に赤い傷を負っていた青井がいた。
 山岸はあたしの友達で、少し荒っぽい性格。
 ーーもしかして青井、山岸に殴られた?

 「こいつがさ、俺がタバコ吸ってたことセンコーにチクったんだよ。そんなことをした奴にはちゃんと懲らしめてあげないとって思って」

 「……で、でも、本当のことじゃない。高校生でタバコはだめだよね?」

 「いや、原田、青井の味方? こんな陰キャを庇ってどうした? いつもの原田じゃないぞ」

 ガハハ、と大きな声で笑う山岸。
 ……あたしは。確かに、人前では自分を偽っている。
 だけど本当は、こんなことしたくない。山岸に同情したくない。
 人を殴っている友達なんかより、青井の歌声のほうが、あたしは好きだからーー。

 もう一度、山岸が拳を挙げたとき。
 あたしは、咄嗟に青井の前へ身を投げ出す。

 そのとき、パチン……! と、大きな音が教室に響いた。

 「……やばっ」

 「原田さん!!」

 頬がジンジンして、熱い。
 ーーあたし、青井を庇って、山岸に殴られたんだ。



*


 山岸は、慌てて教室を出ていった。

 「原田さん、ケガは!? すぐ病院に行かなきゃ!!」

 「あぁ……青井。なんてことないよ、ちょっと痛いけどさ。別にへーきだよ」

 そう言って笑顔を作る。
 青井に心配をかけてはいけないと思ったから。

 「なに……言ってんだよ」

 「え?」

 「俺の前では我慢するなよ!! 俺が憧れた原田さんは、そんな人じゃなかった!!」

 青井の肩が震え上がっている。
 ……俺が憧れた、原田さん?
 意味が分からず、頭のなかにハテナマークがたくさん浮かぶ。

 「……やっぱり、覚えてないのか」

 「ど……どういうこと?」

 「俺たちは昔、会ったことがあるんだよ。……ピアノ教室で」

 ピアノ、教室?
 確かにあたしは、幼稚園の頃ピアノを習っていたことがあった。
 わがままを言って、一年でやめたけれど。

 「初めてピアノ教室に行ったとき、あんたに会ったんだよ」

 「え……」

 「別に特別上手いってわけじゃなかった。リズムはズレてるし、何度も間違えてたし」

 「は、はぁ?」

 何だそれ。
 青井は、あたしに喧嘩を売っているのだろうか。
 そう思ったけれど、青井は今まで見たこともない笑みをこぼした。

 「でも、聴き惚れた。優しくて力強い音には、気持ちが込められていた。あんなピアノを同い年の子が弾いてると知って、俺は憧れたよ。絶対いつか追いつくんだ……って」

 ……あたしが、憧れだったなんて。
 そんなこと言われたことがないから驚いたけれど、嬉しいと思った。

 「だけど、そのあとは一度も会えなかった。先生に聞いたら、原田さんはやめたって。だから俺はピアノをやめて、歌を真剣に始めた。そして絶対、いつか会うって決めてた」

 ドクン、と心臓の音が鳴る。
 それは、あたしに会いたかったという意味になる。
 心臓の鼓動が、止まらなくなる。

 「……なぁ。一緒に、歌わない?」

 「え……? 一緒に?」

 「うん。“あの”歌を」

 ーーあたしたちの、はじまりの歌。
 あたしは、こくりと頷いた。


*


 あたしと青井は、何度も原曲を聴いて、何とかサビだけ歌詞を覚えることができた。
 もう日が暮れそうになっている、夕方。この歌を歌うには、ぴったりかもしれない。
 あたしたちは目を合わせて、静かに呼吸をする。

 「My heart will be with you no matter how far apart we are」

 青井の綺麗な歌声を聴いて、あたしは続く。

 「So it's okay. Live your life well」

 「On nights when I feel lonely, I want you by my side」

 ピアノの柔らかな音と、隣で歌う青井の歌声があたしの耳に響く。

 「Why am I always alone?」

 「You're not alone」

 「……I've been looking for a long time」

 その意味は、“ずっと探していた”。
 これは歌詞だ。ただの歌詞だけど、何だか青井が思っている言葉な気がして。
 ううん、違う。あたしは、そう願っているんだ。そうだったらいいなって思っているんだ。
 好きだから。

 「「I love you like destiny」」

 あたしたちは、サビを歌いきった。
 その瞬間青井のほうを向くと、涙を流していた。
 初めて見た、青井の涙。
 それは繊細な雫のようで、とても切ない。だけどどこかハッピーエンドな気がする。

 「……青井、泣いてるの?」

 「え、こ、これは別に……! いいだろ、あんたには関係ないんだから」

 「関係あるよ」

 そう言うと、青井は「え?」とあたしの目を見つめる。
 だって、あたしは。この曲の主人公と同じで、運命の人に出会ってしまったから。

 「あたし、青井のことが好きだよ」

 「……それは、歌声、ってこと?」

 「歌声も、もちろん好き。でもあたしは、青井が好きだから」

 そう言うと、青井は微笑んだ。

 「ははっ、全く。やっぱりあんたは、すごいんだな。……俺も、原田さんのことがずっと前から好きだよ」

 あたしは、日が沈む瞬間に、青井のことを勢いよく抱きしめる。
 すごく、うれしい。やっと、あたしのことを分かってくれて、好きになってくれる人がいるなんて。

 「……ねぇ、原田さん。この曲のタイトルはね」

 “song of destiny”
 運命の歌、という意味だ。
 この歌のおかげで、あたしたちは運命の再会をすることができたのかもしれない。
 そんなことを考えながら、またふたりで、運命の歌を聴いていた。