あの事件があってから初めての登校。私は少し緊張しながら、校門をくぐった。
「朝から橘さん見ちゃった」
「今日もいつも通り可愛いよな」
周囲の反応は変わらない。それに気づき、少しだけ肩の力が抜けた。
約束したとはいえ、所詮は口約束。もしかしたら言いふらされているかもしれないと覚悟していたけれど、そんな気配はない。
私は下駄箱へ向かい、靴を取り出そうと手を伸ばしたーーその時だった。
「橘さん、おはよう」
耳元で囁かれる声に、思わず体がこわばる。驚いて振り返ると、そこに立っていたのは神崎煌だった。
「お、おはようございます」
動揺を隠しながらも、私は周囲を見渡す。彼はそんな私を見透かしたように、微かに笑った。
「大丈夫、誰もいないよ。そこは徹底してるから」
長い前髪の隙間から、細められた目が私をじっと見つめる。
「じゃあ、また」
教室に入ると、そこにはいつも通り、一人で席に座る神崎がいた。
本当にさっきの人?
長い前髪に隠れた無表情、教室の隅で静かに本をめくる姿。下駄箱で私に囁いたときの、あの余裕のある微笑とはあまりにも違いすぎる。
「私、さっき神崎くんに荷物運び手伝ってもらっちゃった」
「そうなの?神崎くんって何気に優しいよね」
クラスの女子たちの会話が耳に入る。
(容姿を隠しててもモテるんかい)
思わず心の中でツッコミを入れる。
でも、もしみんなが昨日の彼を見たら?
あの整った顔立ちを知ったら?
女の子たちはは間違いなく飛びつくでしょうね。あんなイケメン、隠してるのがもったいない。
なのに、彼はなぜそれを隠しているのだろう?
そんな疑問が頭をよぎる。
けれど、私が彼のことを気にしている場合ではなかった。
学級委員の仕事、クラスの企画書作成、報告書のまとめ。行事の司会進行に記念式典での朗読。家に帰れば、来客の接待、フランス語やドイツ語のレッスン、週に何度もある習い事。
学校と家、どちらも完璧にこなさないと。気を抜けば、誰かの期待を裏切ってしまう。
先生やクラスメイトの「橘さんなら大丈夫」という期待。
親の「あなたはこの家の顔なのよ」というプレッシャー。
「今日、私の家に来る?フランスから美味しいお茶を取り寄せたの」
「いいの!?じゃあ、私はケーキでも持っていくね!」
窓の外では、女の子たちが楽しそうに帰って行く。私はその光景を見つめたまま、手元の書類を握りしめた。
「いいなぁ...」
心の声が漏れでる。
「橘さん、手伝いましょうか?」
突然の声に振り返るとそこには神崎が貼り付けたような笑顔で私に微笑みかけた。
「ありがとうございます。大丈夫ですよ、もうすぐ終わるところなので」
その笑顔に私も同じように微笑み返す。その茶番のような会話に私はため息を吐いた。
「その顔でずっと黙っててくれるなら目の保養にはなるけど」
少しの間をおいて、切り出したのは私だった。
「本当に面食いだよな。ほら、貸せよ」
神崎はそう言って長い前髪をかきあげた。
「あんたにできるの?」
「これでも優秀なんでね」
神崎は私の手元の紙をかっさらっていく。
「ちゃっちゃと終わらせようぜ」
彼は笑みを浮かべながらプリントをさらさら埋めていく。やってくれると言うならまかせようかな。
夕暮れの教室には、静かな時間が流れていた。西日に照らされた机の上で、ペンの走る音だけが響く。
私は黙々とプリントを進めながら、ふと隣を見る。
神崎は、私の横で無言のまま作業を続けていた。
さっきまでの余裕を漂わせた笑みはなく、真剣な眼差しがプリントに向けられている。
前髪が少しだけ乱れ、光の加減で横顔のラインが際立って見えた。
.......こんな顔もするんだ。自然と目が奪われる。
「......じっと見てるけど、俺の顔になんかついてる?」
不意に、彼が手を止めて私の方を見た。ドキッとして、私は慌てて目をそらす。
「べ、別に。考え事してただけ」
「そうかよ」
神崎は軽く笑いながら、再びペンを走らせる。
窓の外では、赤く染まった空に鳥が飛んでいく。静かな教室の中、並んでプリントを埋める時間は、思いのほか心地よかった。
「終わったぁ。お前は?」
「私も終わったわ」
神崎が私にプリントを差し出す。
「ありがとう」
「どういたしまして」
そう言ってカバンを肩にかける。
「帰ろうぜ」
「.......うん」
◇◆◇◆
「ねぇ、いつまでついてくるの?」
「ついてくるなんて人聞き悪いな。駅に向かってるだけだろ?」
「神崎様はお迎えがあると思ってたわ」
「橘さんこそ、暗くなって危ねえよ」
そんなふざけた会話を交わしながら、私たちは駅のホームに着いた。
「どこで降りるの?」
「俺は五つ先」
「私の一つ前ね」
そう言ったあと、少しだけ沈黙が落ちる。口調だけがいつもと違くてなんだか変な感じ。
そんなことを思っていると電車の到着を告げるアナウンスが響いた。
電車に乗り込むと人がいっぱいで座れなかった。
「私の前で隠すつもりないのね」
「もうバレてっからな。それにお前とは素の方がおもしれぇし」
車内はそこそこ混んでいて、奥へ進む余裕はない。仕方なく、私はドアのすぐ横の壁際に立つ。
次の瞬間、電車がゆっくり動き出した途端一。
「――っ!」
バランスを崩しかけた私は、咄嗟に後ろの壁に寄りかかる。
けれど、同じタイミングで神崎もそばに寄ってきたせいで、気づけば距離が妙に近くなっていた。私の目の前に、神崎の胸元がある。
いや、近すぎない!?
顔を上げると、彼はたり前のように私を見下ろしていた。ドアの横の狭いスペース、後ろには壁。逃げ場がない。
「.......なによ」
「いや、なんかお前、顔赤くね?」
「暑いだけよ」
「ふーん」
そんな会話をしている間も、神崎の顔は近い。身長差のせいで余計に見下るされる形になり、視線をそらすのも難しい。
「電車、揺れるぞ」
そう言った直後、車両が大きく揺れた。
「わっ!」
思わず前のめりになった私を、神崎が軽く支える。
「ほら、危ねえ」
「......余計なお世話よ」
私は平然なフリをして答える。でも、心臓はとんでもない速さで跳ね上がっていた。これは全然、大丈夫じゃない。顔だけで言えば、私のタイプど真ん中なのよ!?そんな顔がこんな至近距離でこられたら、赤くなるに 決まってるじゃない!
気まずくて視線を逸らしたけど、結局、気になってもう一度見上げる。
.......この顔、一生見ていられるわ。
「あははっ!」
不意に、神崎が笑った。
「な、なによ」
「いや、俺、多分お前が思ってること全部わかるぞ。普段あんな完璧に隠してんのに」
――バレてる!?
余裕そうに笑う神崎に、カッとなって、勢いのまま口を突いて出た。
「.......あんたの顔が無駄にいいからじゃない!」
言った瞬間、しまったと思った。
「そりゃ、どうも」
神崎は、面白がるように口元を上げる。恥ずかしい、もう降りたい。
でも一取り乱してる自分がなんだか可笑しくて、気づけば「ふふっ」と笑ってしまった。
その瞬間、神崎が一瞬きょとんとした顔をする。
「.......お前、笑うんだな」
「え?」
驚いたような彼の顔が、なんか妙にツボに入って、さらに笑ってしまう。
「なによ、そんなに珍しい?」
「いや、なんか.......変な感じ」
そう言いつつ、神崎の口元も自然と緩んでいく。
「.......ははっ」
最初は小さく、でも次第に私につられたみたいに笑い出す。電車の揺れの中、私たちは二人して笑った。
ぎゅうぎゅうだった車内も、次の駅で一気に人が降りて、急にスペースができる。密着感がなくなり、私は自然と壁から離れた。
「.......なんか急に静かになったわね」
「だな」
車両には数人の乗客しか残っていなくて、窓の外には夜の街並みが流れていく。
さっきまでの騒がしさが嘘みたいに落ち着いた空間になって、ほんのり心地いい。
「こういうの、なんかいいな」
ぽつりと漏らした私の言葉に、神崎が「ん?」とこちらを見る。
「何が?」
「んー、なんとなく。落ち着くっていうか」
「.......まあ、わからなくもない」
神崎はそう言いながら、窓の外を眺める。
その穏やかな横顔をぼんやりと見ていたら、次の駅を知らせるアナウンスが流れた。
「.......あ」
神崎の降りる駅だ。
静かで心地よかった空間が、名残惜しく思えてしまう。電車がゆっくりと停まり、ドアが開く。
「じゃあな」
神崎は私の方をちらりと見て、軽く手を上げた。
「.......うん」
そう返した声は、ほんの少し小さくなってしまう。静かで心地よかったこの空間が、もうすぐ終わる。
まだ帰りたくない―なんて、そんなことを考えてる自分に気づいてしまって、思わず視線を落とした。
きっと、顔に出てた。
「.......おい」
不意に、神崎の声が近くなる。
その瞬間―――
プシューッ
電車のドアが閉まる寸前、腕をぐいっと引かれた。
「え、ちょ――」
気づいたときには、私はホームの上に立っていた。
「.......え?」
戸惑う私の前で、電車のドアが完全に閉まり、ゆっくりと走り出す。神崎が、まるで何でもないことのように手を離しながら、少し口角を上げた。
「帰りたくねぇんだろ?」
「.......っ」
何も言えなくなる。図星すぎて。
「お前、本当にわかりやすいな」
夜風が吹くホームで、神崎はポケットに手を突っ込みながら、私を見下ろしていた。
「で、でも帰らないと」
こんなことお母さんは絶対に許さない。
「神崎財閥の息子と話してたって言えば、なんの文句もねぇだろ」
「.......その自信、なんだか腹立つわ」
「へいへい、そういうことにして」
神崎は肩をすくめると、ふっと悪戯っぽく笑った。
「じゃあ、俺とデートしようぜ?」
「.......は?」
「せっかく降ろしたんだし、夜の街をエスコートしてやるよ」
まるで当然のように言いながら、神崎はさっさと歩き出す。
「ちょ、ちょっと!」
慌てて追いかける私を、彼はちらりと振り返ってニヤリと笑った。
「お前が降りたそうな顔してたんだから、責任取れよ」
「.......言い方!」
不本意なようで、不思議と悪くない。そうして、私たちは夜の街へと歩き出した。
駅を出ると、目の前には煌びやかな街の景色が広がっていた。ビルのガラスに映るネオンの光、鮮やかな看板、行き交う人々の笑い声。煌めくイルミネーションが通りを彩り、ショーウィンドウには新作の服やアクセサリーが並んでいる。
信号待ちの間にふと見上げれば、高層ビルの窓がまばゆく輝き、夜の空を切り取るようにそびえていた。
車のライトが行き交い、どこからか流れる音楽と、人々の賑やかな声が混ざり合う。
「何ボケっとしてんだ」
「ボケっとなんてしてないわよ!」
「じゃあ、なんだよ」
「.......ただ、夜の街が、思ったより綺麗だったから」
夜まで街にいたことなんてなかったから知らなかった。夜なのに、こんなにも賑わってるんだ。
神崎はどこか満足そうに笑い、ポケットに手を突っ込みながら歩き出す。
「最初に寄りたいところがあるんだ」
そう言う神崎に、私は慌ててついて行った。
「春輝いるかー?」
「おー、入っていいぞ」
たどり着いたのは、ガラス張りの外観が印象的な、どこかおしゃれな雰囲気のカフェだった。神崎が声をかけると、奥から気の抜けたような声が返ってきた。
店内は落ち着いた照明で、木目調のテーブルや観葉植物がほどよく配置されている。客はまばらで、静かに会話を楽しむ人々の姿があった。
「あれ、可愛い子連れてんじゃん。ついに彼女か?」
カウンターの向こうから顔を出したのは、少し年上に見える青年だった。ラフなシャツに腕まくりをしていて、どことなく気さくな雰囲気がある。
「そんなんじゃねぇよ。上あがるからな。なんか飲みもん出してやって」
そう言って、神崎はさっさと階段を上がっていく。
「え、私は.......」
置いていかれそうになり、私は少し焦る。
「まぁまぁ、そこにでも座っていいよ」
春輝さんと名乗った青年が、カウンター越しに優しく微笑んだ。
「何飲みたい?」
「お水で.......」
「サービスするから、好きなの頼みなよ」
戸惑いながらメニューをちらりと見ると、端に載っていた「濃厚ココア」の文字が目に入った。
「.......じゃあ、ココアをお願いします」
「はいよ」
手際よく準備されたカップが目の前に置かれる。ふわっと甘い香りが漂って、私はそっとひと口飲んだ。
「.......!すごい、美味しいです!」
思わず目を輝かせると、春輝さんは満足そうに笑った。
「それはよかった」
彼はカウンターの向こうから出てきて、私の向かいの席に座る。
「俺は春輝ってんだけど、煌は昔から懐いてる弟みたいなもんでさ」
「橘華凛と言います。神崎さんとは......同じクラスメイトで」
少し言葉に詰まりながらもそう伝えると、春輝さんは「へえ」と小さく頷き、どこか意味深な笑みを浮かべた。彼はカウンター越しに腕を組みながら、どこか楽しそうに私を見た。
「クラスメイトねぇ.......ふーん」
「な、なんですか?」
「いや、煌が女の子と一緒にいるの、珍しいなーと思ってさ」
「珍しい?」
「うん、アイツさ、女に困るタイプじゃないのに、全然そういうの興味なさそうだから」
春輝さんはクスッと笑いながら言ったけど、私は微妙に引っかかった。あの持ち前のルックスがあれば、女の子なんて取っかえ引っ変えできるだろう。
なんとなく、手のカップを見つめる。そんな私を見ながら、春輝さんはニヤリと笑った。
「へえ、お前さー」
「勝手なこと言ってねぇで、さっさと働けよ」
不意に、階段の上から神崎の声がした。振り向くと、彼は階段の手すりに片手をかけて、やれやれといった表情を浮かべていた。
「おっと、戻ってきた」
春輝さんは肩をすくめながら立ち上がる。
「じゃあ、俺たちもう行くから」
「はいはい、また来いよ」
そう言って私たちはお店を出た。外に出ると、夕方の街並みが広がっていて、少し涼しい風が吹いていた。神崎は何も言わず、ただ歩き出す。私はその後ろについて行く。
その時、ふと彼を見上げると、セットされた髪とピアスが目に入った。
「また俺に見惚れてるだろ」
「チャラくなったなって思ってただけよ」
私たちは街の中心に向かって歩いていると、ふと目の前にあるゲームセンターが目に入った。
「入るか?」
神崎が指さす先に、キラキラと輝くゲームセンターの入り口が見える。
「ゲームセンター?行ったことないけど、大丈夫かな?」
「まじかよ。なら行こうぜ」
彼の言葉に少しだけ不安を感じつつ、でも興味津々でその中へ入った。中に入ると、賑やかな音楽とゲームの音が響いていて、ちょっとだけワクワクした気持ちが高まった。
「これやってみろよ」
神崎が指差したのは、銃を使って敵を倒すシュミレーションゲームだった。
「これ、楽しそう!」
私が興奮して言うと、神崎が笑って画面に目を向ける。
「今のスコア1位俺なんだよ。まぁ、お嬢様には無理かもだけど」
「そういう挑戦、乗らないわけにはいかないじゃない」 私は少し意地を張って答えると、銃を握りしめた。神崎はニヤリと笑い、同じように銃を構える。
「じゃあ、始めるぞ」
ゲームが始まると、画面に敵が次々と現れる。
「うわっ、速い!」
私は集中して銃を撃ちまくり、ゲームの中に没頭した。神崎が言った通り、最初は少し遅れてしまったけれど、徐々に感覚がつかめてきた。
「どうした、1位じゃないのか?」
神崎が挑発するけど、私は無言で黙々と撃ち続ける。
そしてついに、スコアボードに表示された私のスコアが、神崎を超えていた。
「やった!1位!」
私はガッツポーズをして喜びを表現する。神崎は少し驚いた顔をしてから、クスッと笑う。
「お前、結構やるじゃん」
「もちろん!負けるわけないでしょ!」
私は満足げに言うと、少し照れながらも、ゲームを終わらせた。
「じゃあ、次はなんかとるかー」
私たちはぐるぐると歩き始めた。大きなぬいぐるみにキャラクターもののグッツやお菓子。その中でも一角に置かれたクレーンゲームの台の前に立ち、私はキラキラと輝くかわいいぬいぐるみのキーホルダーをじっと見つめた。
「これ、かわいい...!」
「頑張ってみろよ」
神崎の声が背後から聞こえ、振り向くと彼が軽く笑っていた。
私はお金を入れて、クレーンを動かし始める。
最初は慎重に、狙いを定めてゆっくりと動かす。でも、何度やっても思ったところにクレーンが届かない。
「取れない...」
少し焦りながらも、必死に何度も挑戦するけど、キーホルダーは一向に落ちてくれない。
「うー、悔しい!」
ムキになった私は財布から千円札の束を取り出す。
「絶対、取れるまでやる!」
「ちょっと、見てろよ」
神崎が横から声をかけ、私が試行錯誤しているのを見ている。代わりにクレーンを操作すると、あっという間にキーホルダーを掴み取った。
「はい、取れたよ」
神崎は微笑みながらキーホルダーを差し出す。
「な、なんでそんなにうまくいくの?」
私は驚きとともに言葉を発し、彼の腕に目を向ける。
「ふふ、コツがあるんだよ」
神崎はおどけたように言いながら、そのキーホルダーを手渡してくれる。
「ありがとう...!」
思わず笑顔がこぼれ、受け取ると、彼もクスッと笑った。
「次は自分で取れるように頑張れよ」
「うん、絶対に!」
私はそのキーホルダーを大切に握りしめ、次は自分の力でゲットしてみせると決意を新たにした。
でも、ふと考える。今、この瞬間がすごく楽しい。いや、正確には、神崎と一緒にいるから楽しいのかもしれないって、初めて気づいた。どうしてか、今神崎の笑顔を直視できなかった。
そのあとはご飯を食べたりデザートにパンケーキまで食べて私がしたいと思っていたことに神崎は付き合ってくれた。
少し抜けたところに静かな公園のベンチで休憩する。
「はぁ、もう食べれない!」
「あの後にパンケーキ食えるのはすげぇよ」
「甘ものは別腹よ」
いつもは計算された食事でパンケーキなんて出てこない。
「クラスの子たちが話してるの聞いて食べてみたかったの」
私も普通の女の子みたいに好きなものを食べて好きなことをしたい。 でもきっと好き勝手できるのは今日だけだ。
「だから付き合ってくれてありがとう」
私は素直にそうこたえる。
「.......俺さ、前に全部持ってるなんて言われてた。でも実際は、何も持ってなかったんだよ」
神崎がぽつりと呟く。
私は横目で彼の横顔を見た。柔らかな笑みを浮かべているのに、その瞳はどこか遠い。
「みんなが見てたのは俺じゃなくて、俺の名前で、家柄で、財産だった。どこに行っても”神崎家の御曹司”って扱われて、本当の俺を見てくれる人なんていなかった」
私は驚かなかった。私も同じようなことを思ったから。でも、きっと、私なんかより神崎に乗りかかる期待やプレッシャーは想像もできないものだろう。
「だから、高校では全部捨てた。俺の名前も、肩書きも、全部隠して普通に過ごしたかった。自由に、何者でもなくいられる場所が欲しかったんだ」
「......わかる気がする」
私は小さく呟いた。彼がこちらを見る。
「私も、ずっと周りの期待に応えなきゃって思ってた。言われた通りにしていれば、褒められて、必要とされて......でも、ある日ふと気づいたの。誰も"私”を見てないって。ただ、期待される役割を演じてるだけだって」
静寂が訪れる。
「そっか」
彼はふっと笑った。
「初めてだわ。こうやって、誰かにちゃんと話したの」
「......私も」
目が合う。誰にも見せられなかった本音を、ようやく分かち合えた気がした。
風がふたりの間を優しく撫でる。今、この瞬間だけは、互いに"誰でもない自分”でいられる気がした。
「華凛」
ふいに名前を呼ばれ、私は顔を上げた。
「.......何?」
「俺のこと、神崎じゃなくて煌って呼んでいいよ」
一瞬、言葉の意味が理解できなかった。
「.......なんで?」
「お前とは対等でいたいから」
彼は静かにそう言った。
対等――。
その言葉が胸に響いた。
私はいつも、誰かの「理想の私」として扱われてきた。家柄も、成績も、立ち振る舞いも完壁な"橘華凛華”であることを求められてきた。
でも神崎は違う。彼は私の肩書きなんかじゃなく、“私”を見てくれている。
「......じゃあ、遠慮なく」
私は少しだけ息を吸い込んで、口を開く。
「煌」
たった二文字を口にするだけなのに、胸がどきどきとうるさい。
「.......ん」
煌が微かに微笑んだ。まるでずっと閉じ込めていたものが、少しだけ解放されたような、そんな笑顔だった。
その笑顔を見た瞬間、私はもう誤魔化せないと悟った。
――私、きっとこの人のことが好きになる。この人のことを、もっと知りたい。
そう思った時にはもう、胸が高鳴っていた。
「じゃあ、帰るか!」
そう言って立ち上がる煌は何事もなかったかのように歩き出した。そこにはさっきまでの弱さはみせていない。
「ねぇ、煌」
私が呼び止めると彼は足を止めゆっくりと振り返った。
「また、付き合ってくれる?」
「あぁ、いつでも付き合ってやるよ」
「次はどこに連れていってくれるの?」
「んー.......適当に?」
「適当って.......計画性ないのね」
「まあな。でも、お前も特に行きたい場所ないんだろ?」
ぐうの音も出ない。
「......別に、そういうわけじゃ」
「はいはい、じゃあ俺が決めてやる」
勝手に進む神崎を、仕方なく追いかける。
その横顔は、教室の隅で本を読んでいたときとも、プリントを埋めていたときとも違う顔だった。
ビルのガラスに映る二人の姿。それは、今までの私にはなかった景色だった。
「......じゃあ、お前を楽しませるかは俺の腕次第ってわけだ」
「過信しすぎないことね
これは明日にでも彩花を呼び出して作戦会議ね。
軽口を交わしながら、私たちは人混みの中へと消えていった。
「朝から橘さん見ちゃった」
「今日もいつも通り可愛いよな」
周囲の反応は変わらない。それに気づき、少しだけ肩の力が抜けた。
約束したとはいえ、所詮は口約束。もしかしたら言いふらされているかもしれないと覚悟していたけれど、そんな気配はない。
私は下駄箱へ向かい、靴を取り出そうと手を伸ばしたーーその時だった。
「橘さん、おはよう」
耳元で囁かれる声に、思わず体がこわばる。驚いて振り返ると、そこに立っていたのは神崎煌だった。
「お、おはようございます」
動揺を隠しながらも、私は周囲を見渡す。彼はそんな私を見透かしたように、微かに笑った。
「大丈夫、誰もいないよ。そこは徹底してるから」
長い前髪の隙間から、細められた目が私をじっと見つめる。
「じゃあ、また」
教室に入ると、そこにはいつも通り、一人で席に座る神崎がいた。
本当にさっきの人?
長い前髪に隠れた無表情、教室の隅で静かに本をめくる姿。下駄箱で私に囁いたときの、あの余裕のある微笑とはあまりにも違いすぎる。
「私、さっき神崎くんに荷物運び手伝ってもらっちゃった」
「そうなの?神崎くんって何気に優しいよね」
クラスの女子たちの会話が耳に入る。
(容姿を隠しててもモテるんかい)
思わず心の中でツッコミを入れる。
でも、もしみんなが昨日の彼を見たら?
あの整った顔立ちを知ったら?
女の子たちはは間違いなく飛びつくでしょうね。あんなイケメン、隠してるのがもったいない。
なのに、彼はなぜそれを隠しているのだろう?
そんな疑問が頭をよぎる。
けれど、私が彼のことを気にしている場合ではなかった。
学級委員の仕事、クラスの企画書作成、報告書のまとめ。行事の司会進行に記念式典での朗読。家に帰れば、来客の接待、フランス語やドイツ語のレッスン、週に何度もある習い事。
学校と家、どちらも完璧にこなさないと。気を抜けば、誰かの期待を裏切ってしまう。
先生やクラスメイトの「橘さんなら大丈夫」という期待。
親の「あなたはこの家の顔なのよ」というプレッシャー。
「今日、私の家に来る?フランスから美味しいお茶を取り寄せたの」
「いいの!?じゃあ、私はケーキでも持っていくね!」
窓の外では、女の子たちが楽しそうに帰って行く。私はその光景を見つめたまま、手元の書類を握りしめた。
「いいなぁ...」
心の声が漏れでる。
「橘さん、手伝いましょうか?」
突然の声に振り返るとそこには神崎が貼り付けたような笑顔で私に微笑みかけた。
「ありがとうございます。大丈夫ですよ、もうすぐ終わるところなので」
その笑顔に私も同じように微笑み返す。その茶番のような会話に私はため息を吐いた。
「その顔でずっと黙っててくれるなら目の保養にはなるけど」
少しの間をおいて、切り出したのは私だった。
「本当に面食いだよな。ほら、貸せよ」
神崎はそう言って長い前髪をかきあげた。
「あんたにできるの?」
「これでも優秀なんでね」
神崎は私の手元の紙をかっさらっていく。
「ちゃっちゃと終わらせようぜ」
彼は笑みを浮かべながらプリントをさらさら埋めていく。やってくれると言うならまかせようかな。
夕暮れの教室には、静かな時間が流れていた。西日に照らされた机の上で、ペンの走る音だけが響く。
私は黙々とプリントを進めながら、ふと隣を見る。
神崎は、私の横で無言のまま作業を続けていた。
さっきまでの余裕を漂わせた笑みはなく、真剣な眼差しがプリントに向けられている。
前髪が少しだけ乱れ、光の加減で横顔のラインが際立って見えた。
.......こんな顔もするんだ。自然と目が奪われる。
「......じっと見てるけど、俺の顔になんかついてる?」
不意に、彼が手を止めて私の方を見た。ドキッとして、私は慌てて目をそらす。
「べ、別に。考え事してただけ」
「そうかよ」
神崎は軽く笑いながら、再びペンを走らせる。
窓の外では、赤く染まった空に鳥が飛んでいく。静かな教室の中、並んでプリントを埋める時間は、思いのほか心地よかった。
「終わったぁ。お前は?」
「私も終わったわ」
神崎が私にプリントを差し出す。
「ありがとう」
「どういたしまして」
そう言ってカバンを肩にかける。
「帰ろうぜ」
「.......うん」
◇◆◇◆
「ねぇ、いつまでついてくるの?」
「ついてくるなんて人聞き悪いな。駅に向かってるだけだろ?」
「神崎様はお迎えがあると思ってたわ」
「橘さんこそ、暗くなって危ねえよ」
そんなふざけた会話を交わしながら、私たちは駅のホームに着いた。
「どこで降りるの?」
「俺は五つ先」
「私の一つ前ね」
そう言ったあと、少しだけ沈黙が落ちる。口調だけがいつもと違くてなんだか変な感じ。
そんなことを思っていると電車の到着を告げるアナウンスが響いた。
電車に乗り込むと人がいっぱいで座れなかった。
「私の前で隠すつもりないのね」
「もうバレてっからな。それにお前とは素の方がおもしれぇし」
車内はそこそこ混んでいて、奥へ進む余裕はない。仕方なく、私はドアのすぐ横の壁際に立つ。
次の瞬間、電車がゆっくり動き出した途端一。
「――っ!」
バランスを崩しかけた私は、咄嗟に後ろの壁に寄りかかる。
けれど、同じタイミングで神崎もそばに寄ってきたせいで、気づけば距離が妙に近くなっていた。私の目の前に、神崎の胸元がある。
いや、近すぎない!?
顔を上げると、彼はたり前のように私を見下ろしていた。ドアの横の狭いスペース、後ろには壁。逃げ場がない。
「.......なによ」
「いや、なんかお前、顔赤くね?」
「暑いだけよ」
「ふーん」
そんな会話をしている間も、神崎の顔は近い。身長差のせいで余計に見下るされる形になり、視線をそらすのも難しい。
「電車、揺れるぞ」
そう言った直後、車両が大きく揺れた。
「わっ!」
思わず前のめりになった私を、神崎が軽く支える。
「ほら、危ねえ」
「......余計なお世話よ」
私は平然なフリをして答える。でも、心臓はとんでもない速さで跳ね上がっていた。これは全然、大丈夫じゃない。顔だけで言えば、私のタイプど真ん中なのよ!?そんな顔がこんな至近距離でこられたら、赤くなるに 決まってるじゃない!
気まずくて視線を逸らしたけど、結局、気になってもう一度見上げる。
.......この顔、一生見ていられるわ。
「あははっ!」
不意に、神崎が笑った。
「な、なによ」
「いや、俺、多分お前が思ってること全部わかるぞ。普段あんな完璧に隠してんのに」
――バレてる!?
余裕そうに笑う神崎に、カッとなって、勢いのまま口を突いて出た。
「.......あんたの顔が無駄にいいからじゃない!」
言った瞬間、しまったと思った。
「そりゃ、どうも」
神崎は、面白がるように口元を上げる。恥ずかしい、もう降りたい。
でも一取り乱してる自分がなんだか可笑しくて、気づけば「ふふっ」と笑ってしまった。
その瞬間、神崎が一瞬きょとんとした顔をする。
「.......お前、笑うんだな」
「え?」
驚いたような彼の顔が、なんか妙にツボに入って、さらに笑ってしまう。
「なによ、そんなに珍しい?」
「いや、なんか.......変な感じ」
そう言いつつ、神崎の口元も自然と緩んでいく。
「.......ははっ」
最初は小さく、でも次第に私につられたみたいに笑い出す。電車の揺れの中、私たちは二人して笑った。
ぎゅうぎゅうだった車内も、次の駅で一気に人が降りて、急にスペースができる。密着感がなくなり、私は自然と壁から離れた。
「.......なんか急に静かになったわね」
「だな」
車両には数人の乗客しか残っていなくて、窓の外には夜の街並みが流れていく。
さっきまでの騒がしさが嘘みたいに落ち着いた空間になって、ほんのり心地いい。
「こういうの、なんかいいな」
ぽつりと漏らした私の言葉に、神崎が「ん?」とこちらを見る。
「何が?」
「んー、なんとなく。落ち着くっていうか」
「.......まあ、わからなくもない」
神崎はそう言いながら、窓の外を眺める。
その穏やかな横顔をぼんやりと見ていたら、次の駅を知らせるアナウンスが流れた。
「.......あ」
神崎の降りる駅だ。
静かで心地よかった空間が、名残惜しく思えてしまう。電車がゆっくりと停まり、ドアが開く。
「じゃあな」
神崎は私の方をちらりと見て、軽く手を上げた。
「.......うん」
そう返した声は、ほんの少し小さくなってしまう。静かで心地よかったこの空間が、もうすぐ終わる。
まだ帰りたくない―なんて、そんなことを考えてる自分に気づいてしまって、思わず視線を落とした。
きっと、顔に出てた。
「.......おい」
不意に、神崎の声が近くなる。
その瞬間―――
プシューッ
電車のドアが閉まる寸前、腕をぐいっと引かれた。
「え、ちょ――」
気づいたときには、私はホームの上に立っていた。
「.......え?」
戸惑う私の前で、電車のドアが完全に閉まり、ゆっくりと走り出す。神崎が、まるで何でもないことのように手を離しながら、少し口角を上げた。
「帰りたくねぇんだろ?」
「.......っ」
何も言えなくなる。図星すぎて。
「お前、本当にわかりやすいな」
夜風が吹くホームで、神崎はポケットに手を突っ込みながら、私を見下ろしていた。
「で、でも帰らないと」
こんなことお母さんは絶対に許さない。
「神崎財閥の息子と話してたって言えば、なんの文句もねぇだろ」
「.......その自信、なんだか腹立つわ」
「へいへい、そういうことにして」
神崎は肩をすくめると、ふっと悪戯っぽく笑った。
「じゃあ、俺とデートしようぜ?」
「.......は?」
「せっかく降ろしたんだし、夜の街をエスコートしてやるよ」
まるで当然のように言いながら、神崎はさっさと歩き出す。
「ちょ、ちょっと!」
慌てて追いかける私を、彼はちらりと振り返ってニヤリと笑った。
「お前が降りたそうな顔してたんだから、責任取れよ」
「.......言い方!」
不本意なようで、不思議と悪くない。そうして、私たちは夜の街へと歩き出した。
駅を出ると、目の前には煌びやかな街の景色が広がっていた。ビルのガラスに映るネオンの光、鮮やかな看板、行き交う人々の笑い声。煌めくイルミネーションが通りを彩り、ショーウィンドウには新作の服やアクセサリーが並んでいる。
信号待ちの間にふと見上げれば、高層ビルの窓がまばゆく輝き、夜の空を切り取るようにそびえていた。
車のライトが行き交い、どこからか流れる音楽と、人々の賑やかな声が混ざり合う。
「何ボケっとしてんだ」
「ボケっとなんてしてないわよ!」
「じゃあ、なんだよ」
「.......ただ、夜の街が、思ったより綺麗だったから」
夜まで街にいたことなんてなかったから知らなかった。夜なのに、こんなにも賑わってるんだ。
神崎はどこか満足そうに笑い、ポケットに手を突っ込みながら歩き出す。
「最初に寄りたいところがあるんだ」
そう言う神崎に、私は慌ててついて行った。
「春輝いるかー?」
「おー、入っていいぞ」
たどり着いたのは、ガラス張りの外観が印象的な、どこかおしゃれな雰囲気のカフェだった。神崎が声をかけると、奥から気の抜けたような声が返ってきた。
店内は落ち着いた照明で、木目調のテーブルや観葉植物がほどよく配置されている。客はまばらで、静かに会話を楽しむ人々の姿があった。
「あれ、可愛い子連れてんじゃん。ついに彼女か?」
カウンターの向こうから顔を出したのは、少し年上に見える青年だった。ラフなシャツに腕まくりをしていて、どことなく気さくな雰囲気がある。
「そんなんじゃねぇよ。上あがるからな。なんか飲みもん出してやって」
そう言って、神崎はさっさと階段を上がっていく。
「え、私は.......」
置いていかれそうになり、私は少し焦る。
「まぁまぁ、そこにでも座っていいよ」
春輝さんと名乗った青年が、カウンター越しに優しく微笑んだ。
「何飲みたい?」
「お水で.......」
「サービスするから、好きなの頼みなよ」
戸惑いながらメニューをちらりと見ると、端に載っていた「濃厚ココア」の文字が目に入った。
「.......じゃあ、ココアをお願いします」
「はいよ」
手際よく準備されたカップが目の前に置かれる。ふわっと甘い香りが漂って、私はそっとひと口飲んだ。
「.......!すごい、美味しいです!」
思わず目を輝かせると、春輝さんは満足そうに笑った。
「それはよかった」
彼はカウンターの向こうから出てきて、私の向かいの席に座る。
「俺は春輝ってんだけど、煌は昔から懐いてる弟みたいなもんでさ」
「橘華凛と言います。神崎さんとは......同じクラスメイトで」
少し言葉に詰まりながらもそう伝えると、春輝さんは「へえ」と小さく頷き、どこか意味深な笑みを浮かべた。彼はカウンター越しに腕を組みながら、どこか楽しそうに私を見た。
「クラスメイトねぇ.......ふーん」
「な、なんですか?」
「いや、煌が女の子と一緒にいるの、珍しいなーと思ってさ」
「珍しい?」
「うん、アイツさ、女に困るタイプじゃないのに、全然そういうの興味なさそうだから」
春輝さんはクスッと笑いながら言ったけど、私は微妙に引っかかった。あの持ち前のルックスがあれば、女の子なんて取っかえ引っ変えできるだろう。
なんとなく、手のカップを見つめる。そんな私を見ながら、春輝さんはニヤリと笑った。
「へえ、お前さー」
「勝手なこと言ってねぇで、さっさと働けよ」
不意に、階段の上から神崎の声がした。振り向くと、彼は階段の手すりに片手をかけて、やれやれといった表情を浮かべていた。
「おっと、戻ってきた」
春輝さんは肩をすくめながら立ち上がる。
「じゃあ、俺たちもう行くから」
「はいはい、また来いよ」
そう言って私たちはお店を出た。外に出ると、夕方の街並みが広がっていて、少し涼しい風が吹いていた。神崎は何も言わず、ただ歩き出す。私はその後ろについて行く。
その時、ふと彼を見上げると、セットされた髪とピアスが目に入った。
「また俺に見惚れてるだろ」
「チャラくなったなって思ってただけよ」
私たちは街の中心に向かって歩いていると、ふと目の前にあるゲームセンターが目に入った。
「入るか?」
神崎が指さす先に、キラキラと輝くゲームセンターの入り口が見える。
「ゲームセンター?行ったことないけど、大丈夫かな?」
「まじかよ。なら行こうぜ」
彼の言葉に少しだけ不安を感じつつ、でも興味津々でその中へ入った。中に入ると、賑やかな音楽とゲームの音が響いていて、ちょっとだけワクワクした気持ちが高まった。
「これやってみろよ」
神崎が指差したのは、銃を使って敵を倒すシュミレーションゲームだった。
「これ、楽しそう!」
私が興奮して言うと、神崎が笑って画面に目を向ける。
「今のスコア1位俺なんだよ。まぁ、お嬢様には無理かもだけど」
「そういう挑戦、乗らないわけにはいかないじゃない」 私は少し意地を張って答えると、銃を握りしめた。神崎はニヤリと笑い、同じように銃を構える。
「じゃあ、始めるぞ」
ゲームが始まると、画面に敵が次々と現れる。
「うわっ、速い!」
私は集中して銃を撃ちまくり、ゲームの中に没頭した。神崎が言った通り、最初は少し遅れてしまったけれど、徐々に感覚がつかめてきた。
「どうした、1位じゃないのか?」
神崎が挑発するけど、私は無言で黙々と撃ち続ける。
そしてついに、スコアボードに表示された私のスコアが、神崎を超えていた。
「やった!1位!」
私はガッツポーズをして喜びを表現する。神崎は少し驚いた顔をしてから、クスッと笑う。
「お前、結構やるじゃん」
「もちろん!負けるわけないでしょ!」
私は満足げに言うと、少し照れながらも、ゲームを終わらせた。
「じゃあ、次はなんかとるかー」
私たちはぐるぐると歩き始めた。大きなぬいぐるみにキャラクターもののグッツやお菓子。その中でも一角に置かれたクレーンゲームの台の前に立ち、私はキラキラと輝くかわいいぬいぐるみのキーホルダーをじっと見つめた。
「これ、かわいい...!」
「頑張ってみろよ」
神崎の声が背後から聞こえ、振り向くと彼が軽く笑っていた。
私はお金を入れて、クレーンを動かし始める。
最初は慎重に、狙いを定めてゆっくりと動かす。でも、何度やっても思ったところにクレーンが届かない。
「取れない...」
少し焦りながらも、必死に何度も挑戦するけど、キーホルダーは一向に落ちてくれない。
「うー、悔しい!」
ムキになった私は財布から千円札の束を取り出す。
「絶対、取れるまでやる!」
「ちょっと、見てろよ」
神崎が横から声をかけ、私が試行錯誤しているのを見ている。代わりにクレーンを操作すると、あっという間にキーホルダーを掴み取った。
「はい、取れたよ」
神崎は微笑みながらキーホルダーを差し出す。
「な、なんでそんなにうまくいくの?」
私は驚きとともに言葉を発し、彼の腕に目を向ける。
「ふふ、コツがあるんだよ」
神崎はおどけたように言いながら、そのキーホルダーを手渡してくれる。
「ありがとう...!」
思わず笑顔がこぼれ、受け取ると、彼もクスッと笑った。
「次は自分で取れるように頑張れよ」
「うん、絶対に!」
私はそのキーホルダーを大切に握りしめ、次は自分の力でゲットしてみせると決意を新たにした。
でも、ふと考える。今、この瞬間がすごく楽しい。いや、正確には、神崎と一緒にいるから楽しいのかもしれないって、初めて気づいた。どうしてか、今神崎の笑顔を直視できなかった。
そのあとはご飯を食べたりデザートにパンケーキまで食べて私がしたいと思っていたことに神崎は付き合ってくれた。
少し抜けたところに静かな公園のベンチで休憩する。
「はぁ、もう食べれない!」
「あの後にパンケーキ食えるのはすげぇよ」
「甘ものは別腹よ」
いつもは計算された食事でパンケーキなんて出てこない。
「クラスの子たちが話してるの聞いて食べてみたかったの」
私も普通の女の子みたいに好きなものを食べて好きなことをしたい。 でもきっと好き勝手できるのは今日だけだ。
「だから付き合ってくれてありがとう」
私は素直にそうこたえる。
「.......俺さ、前に全部持ってるなんて言われてた。でも実際は、何も持ってなかったんだよ」
神崎がぽつりと呟く。
私は横目で彼の横顔を見た。柔らかな笑みを浮かべているのに、その瞳はどこか遠い。
「みんなが見てたのは俺じゃなくて、俺の名前で、家柄で、財産だった。どこに行っても”神崎家の御曹司”って扱われて、本当の俺を見てくれる人なんていなかった」
私は驚かなかった。私も同じようなことを思ったから。でも、きっと、私なんかより神崎に乗りかかる期待やプレッシャーは想像もできないものだろう。
「だから、高校では全部捨てた。俺の名前も、肩書きも、全部隠して普通に過ごしたかった。自由に、何者でもなくいられる場所が欲しかったんだ」
「......わかる気がする」
私は小さく呟いた。彼がこちらを見る。
「私も、ずっと周りの期待に応えなきゃって思ってた。言われた通りにしていれば、褒められて、必要とされて......でも、ある日ふと気づいたの。誰も"私”を見てないって。ただ、期待される役割を演じてるだけだって」
静寂が訪れる。
「そっか」
彼はふっと笑った。
「初めてだわ。こうやって、誰かにちゃんと話したの」
「......私も」
目が合う。誰にも見せられなかった本音を、ようやく分かち合えた気がした。
風がふたりの間を優しく撫でる。今、この瞬間だけは、互いに"誰でもない自分”でいられる気がした。
「華凛」
ふいに名前を呼ばれ、私は顔を上げた。
「.......何?」
「俺のこと、神崎じゃなくて煌って呼んでいいよ」
一瞬、言葉の意味が理解できなかった。
「.......なんで?」
「お前とは対等でいたいから」
彼は静かにそう言った。
対等――。
その言葉が胸に響いた。
私はいつも、誰かの「理想の私」として扱われてきた。家柄も、成績も、立ち振る舞いも完壁な"橘華凛華”であることを求められてきた。
でも神崎は違う。彼は私の肩書きなんかじゃなく、“私”を見てくれている。
「......じゃあ、遠慮なく」
私は少しだけ息を吸い込んで、口を開く。
「煌」
たった二文字を口にするだけなのに、胸がどきどきとうるさい。
「.......ん」
煌が微かに微笑んだ。まるでずっと閉じ込めていたものが、少しだけ解放されたような、そんな笑顔だった。
その笑顔を見た瞬間、私はもう誤魔化せないと悟った。
――私、きっとこの人のことが好きになる。この人のことを、もっと知りたい。
そう思った時にはもう、胸が高鳴っていた。
「じゃあ、帰るか!」
そう言って立ち上がる煌は何事もなかったかのように歩き出した。そこにはさっきまでの弱さはみせていない。
「ねぇ、煌」
私が呼び止めると彼は足を止めゆっくりと振り返った。
「また、付き合ってくれる?」
「あぁ、いつでも付き合ってやるよ」
「次はどこに連れていってくれるの?」
「んー.......適当に?」
「適当って.......計画性ないのね」
「まあな。でも、お前も特に行きたい場所ないんだろ?」
ぐうの音も出ない。
「......別に、そういうわけじゃ」
「はいはい、じゃあ俺が決めてやる」
勝手に進む神崎を、仕方なく追いかける。
その横顔は、教室の隅で本を読んでいたときとも、プリントを埋めていたときとも違う顔だった。
ビルのガラスに映る二人の姿。それは、今までの私にはなかった景色だった。
「......じゃあ、お前を楽しませるかは俺の腕次第ってわけだ」
「過信しすぎないことね
これは明日にでも彩花を呼び出して作戦会議ね。
軽口を交わしながら、私たちは人混みの中へと消えていった。



