私は鏡の前でイヤリングをつけながら、ちらりと後ろを見た。そこには母が立っていた。
「華凛」
 名前を呼ばれ、私は背筋を伸ばす。母の声は穏やかだが、滲む緊張感を無視することはできなかった。
「今日の場では、無駄なことは言わないこと。余計な感情も見せないように」
「わかってる」
「それと」
 母の視線が鋭くなる。
「あなたは目立つことが得意だけれど、"正しい形”で目立ちなさい。必要以上に自己主張するのは逆効果よ」
「......そんなつもりはないけど」
「つもりではなく、結果としてどう映るかが重要なの」
 母はゆっくりと近づき、彼女の肩にそっと手を置いた。
「今日は取引先の人や大企業の経営者に政治家も集まっているわ。あそこの息子さんなんて、将来有望な企業の跡取りよ。今後のためを考えて、しっかり交流しなさい」
「......はい」
 釘を刺され、私は静かに息を吐く。
 会場に入ると、華やかなシャンデリアの灯りが柔らかく揺れ、静かに流れるクラシック音楽が談笑する人々の声に溶け込んでいた。空気には上質な香水の香りが漂い、格式の違いを思い知らされる。
 私はシンプルな黒のワンピースをまとい、会場の隅でグラスを傾けた。母が秘書に連れられていくのを見届けると、ようやく肩の力を抜く。
 やっぱり、どこを見てもイケメン、イケメン、イケメン!どこを見ても目の保養!パーティーはこうでないとッ!
 そんな風に一人で楽しんでいたところへ、不意に軽い声が降ってきた。
「やっぱり!凛華ちゃんも参加してると思ってたんだ。隣、いいかな?」
 ――げっ、この男は。
 私は微笑みを崩さぬまま、グラスを持つ手にわずかに力を込めた。
「申し訳ございませんが、失礼いたします」
 柔らかく断るが、男はまるで聞こえていないかのように距離を詰めてくる。
「そんな冷たいこと言わずにさ、暇つぶしでもいいから少し話そうよ」
 めんどくさい。この男、パーティーで顔を合わせるたびに絡んでくる。しかも取引先の会社の息子でもあり、雑に扱うわけにもいかない。下手に刺激して関係を悪化させるのは避けたいところだが、かといってこのまま付き合う気もない。なにか策を探そうとあたりを見渡すと私は視線を止めた。完璧な横顔。洗練された振る舞い。まるでこの場の空気を支配しているかのような存在感。考えるよりも先に、私は彼の腕をすっと取った。
「ごめんなさい、もう相手がいますので」
微笑みを耐えたまま、自然な動きで彼の隣に収まる。
 そして腕を取られたイケメンも、ヒロインを見下ろして驚いた顔をしていた。
 セットされた髪、耳元で揺れるシルバーのピアス。完璧な顔立ち。鋭く整った眉、深みのある瞳、通った鼻筋。
やば.....めっちゃ顔がいい......!!私は心の中でテンションが上がる
 彼は誰とも群れず、ただそこにいるだけで場を支配するような存在感があった。その振る舞いは、計算されたものではなく、あくまで自然。彼はこの格式高い場ですら退屈なように見えた。
 彼は少し驚いたあと、ニヤリと笑う。
「へえ、お嬢様にしては大胆じゃん?」
やばい!なんかすっごく楽しそうにしてる!!
 しかし、ヒーローは腕を取られたままスムーズに動き......
「彼女に何か?」
彼は余裕な態度で男を牽制する。
「いや......また、いつかお願いするよ」
 結果、しつこい男は諦めて去っていった。
 私はホッとしつつも、腕を引かれたままの状態で顔を上げる。
「お前も大変だな」
「......まあ、助けてくれたお礼は言っておくわ。ありがとう、イケメンさん」
「......イケメンさん?」
 彼は一瞬ポカンとしたあと、クスッと笑う。
「お前、俺のこと知らないの?」
「え?」
「まあ、いいけど。......じゃあな、お嬢様」
 そう言って、彼は手を振り、去っていった。最後のなんだったのかしら。

 パーティーも終盤、挨拶にも疲れた私は、外の空気を吸おうと会場を抜け出した。
 静かな廊下へ向かおうとしたそのときーー
 「やめてくださいっ!」はっきりとした拒絶の声が響く。
 足が止まる。視線を向けると、先ほどしっこく絡んできた男が、別の女の子の腕を強引に引いていた。
 一一何あれ、最低。
 胸の奥がじりじりと熱を帯びる。すぐにでも止めに入りたい。けれど、母の言葉が頭をよぎった。
『無駄なことは言わないこと。余計な感情も見せないように』
 一瞬、踏み出した足が止まる。
 ーーでも。
 私は、完璧な優等生でいることよりも、今この光景が許せなかった。
「......あの、嫌がっているので、やめてくださる?」
 あくまで丁寧に、柔らかい声で。
 男がこちらを振り向く。その目は露骨に面倒くさそうだった。
「凛華ちゃんさ、自分は相手してくれないのに、俺がどうしようと関係ないよね?わかったらあっち行っててよ」
一一何こいつ?
 じわりと湧き上がる嫌悪感。それを押し殺す必要はないと判断し、私はいつもの清楚な仮面を脱ぎ捨てる。
「女の子が嫌がってるのに無理やり連れて行こうとするのって、"顔が悪い”行為だと思うんだけど?」
 男の表情が一瞬、歪んだ。
「はっ、お前、本当はそんなやつだったのか?まんまと騙されたわ」
 嘲るように笑う男。しかし、私は微塵も動じず、冷めた目で見つめ返し、静かに告げる。
「顔が良くても、そんなダサいことしたら台無し。醜態を晒す前に、さっさと退場してくれない?」
 ざわめきが広がる。周囲の人たちが気まずそうに視線を交わし始める中、男は徐々に追い詰められていくのを感じたのか、苛立ちを隠せなくなっていた。
「......調子に乗るなよ」
 イラついた男が、ついに手を上げる。
 ーーやばい、今のは言いすぎた!? 
とっさに身構える。
 しかし、その瞬間一ー
「おい、手を出すなよ」
静かだが、圧倒的な威圧感を持つ声が響いた。廊下の空気が、一気に張り詰める。
 男がピタリと動きを止める。私も、声の主へと視線を向けた。
 そこに立っていたのは一ー完璧な横顔を持つ、あの男だった。
 彼はゆっくりと歩み寄り、男の手元に一瞥をくれると、低く静かな声で告げる。
「その手、下ろせ」
 淡々とした口調なのに、まるで命令のような強制力があった。
 男は唇を噛み、しばらく睨みつけたが、結局、舌打ちしながら手を下ろす。
「......チッ、くだらねえ」
 そう吐き捨て、男は乱暴にその場を去った。
 私は小さく息をつき、隣の彼を見上げる。
「助かったわ。ありがとーー」
 そう言いかけて、言葉が止まる。
 ーーあれ、この顔、どこかで......。
 「えっ!神崎煌っ!?」
 思わず声を上げた。
 周囲の人々がざわつく。数人がひそひそと話し始める。
 だが、肝心の本人はというとーー
「......ようやく気づいた?」
 神崎煌は少し呆れたように笑い、ポケットに手を突っ込んだまま肩をすくめた。
「さっきまでずいぶん『イケメンさん』呼ばわりしてたのにな?」
「えっ、いや、それは......全然誰かわからなくて」
ーーだって、学校のときと違いすぎる!
 20点呼ばわりしてしまった自分を殴りたい。
 冷静になってみると、そもそもこの場に神崎煌がいること自体が驚きだった。
 神崎ーーその名を知らない人間のほうが少ない。
 大手財閥の曹司にして、次期後継者と目される天才。名門校を主席で通過し、ビジネス界でもすでに存在感を示し始めている。さらに、その圧倒的なルックスとカリスマ性で、社交界の話題の中心にいる人物だった。
 それにしたって、神崎煌があの神谷財閥の御曹司だったなんて!
「俺からしてみれば、お嬢様の橘さんがかっこよすぎてびっくりなんだけど」
「あっ」
 ーーやばい......バレてる。
「......あら、なんのことかしら?」
 精一杯、涼しい顔を作る。
 だがーー
「あははっ、今更無理だろ」
 神崎煌はあっさりと笑って、私の顔を覗き込んだ。
 ......くっ、やっぱりバレてる。
 母の教えも、社交界での立ち振る舞いも、あの男の態度にカチンときた瞬間、頭の隅に追いやられてしまった。
「......見なかったことにしてくれない?」
「さて、どうしようかな」
 煌は面白そうに目を細め、口元に薄く笑みを浮かべる。
 この人、こういう顔だったんだ......。
 学校での彼は、確かに完璧な優等生だったけれど、こんな風に余裕を漂わせるような雰囲気ではなかった。隙のない振る舞い、端正な顔立ち、冷静沈着な態度ーーその全てが、"手の届かない存在”としての印象を強めていた。
 でも今目の前にいる煌は、学校での彼とはまるで別人だった。
「......なんでここにいるの?」
「招待されたからに決まってるだろ?」
「それは、そうだけど......」
 言葉を濁す。
 神谷財閥は、言うまでもなく社交界の中心にいる名門。今日のようなパーティーに招待されるのは当然だ。
 けれど、学校での彼の立ち位置を考えると、この華やかな社交の場にいるのが不思議だった。
「意外?俺がこんな場にいるの」
「......正直、少し」
 煌は肩をすくめ、少しだけ視線を逸らした。
「まあ、俺はどっちかっていうと、こういう場は苦手なんだけどな」
「え?」
「知ってるだろ?俺、目立つの嫌いだし」
 確かに。彼は成績も完璧、スポーツもできて、家柄も非の打ち所がない。それなのに、どこか一歩引いた態度を崩さず、誰とでも適度な距離を保っていた。
「それなら、どうして?」
「どうしてだろうな」
 神崎は少しだけ表情を曇らせたが、すぐに元の飄々とした顔に戻る。
「そんなことよりーー」
 彼はふっと私の顔を覗き込んだ。
「橘さんこそ、“完璧なお嬢様"の仮面を外しちゃって、大丈夫?」
 思わず息を呑む。
「それはあなたも同じだと思うのだけれど、このことバラされたくないんでしょ?」
 お互いに、相手の正体をバラされたら終わる。
 だから、私たちは「秘密を守ること」を交換条件にすることにした。
「よし、これでお互いイーブンね」
「俺は今のかっこいい橘さんが好きだな。学校でもそうすればいいのに」
「神崎さんならわかるでしょ?それは許されないの」
「そうだな」
「話したいのは山々だけど、戻らないと目立つんじゃない?」
「じゃあ、戻るか。またな、お嬢様」
 彼はさらっとそう言って、軽くてを振って歩いていく。私はその後ろ姿を見送った。
 これが私と神谷煌の本当の出会いだった。