由紀子と克哉の会話は途切れたままだったが、由紀子は振り返らなかった。
 じっと、克哉がこちらを見ているような気がしたけれど、雑踏に紛れてすぐに分からなくなった。

 ホームに、下りの電車が入ってきたのが見えた。走って改札を通り過ぎた。そのまま飛び乗る。

 他の女の子たちに笑顔を振りまく克哉なんて、絶対に見たくない。
 自分の小さな独占欲が薄汚く思える。

『駅まで一緒に帰ろう』

 その約束は果たせた。そう、私はただの名字さん。克哉の世界に深入りしてはいけない。

 不意に涙がこぼれ落ちそうになるから、頻繁まばたき攻撃で涙をかわす。
 どうだ、泣いてなんかいない。深呼吸して、息を落ち着かせた。

 自分には、克哉にチョコレートを渡す勇気もない。それどころか、考えもしなかった。
 克哉の進路さえ、聞くこともできない。


 由紀子は心の中だけで繰り返す。
 東京って、なに?

***

 卒業式の日、克哉はクラスメイトを集めると教壇に立ち、高らかに宣言した。

『俺は東京に出て、俳優になる』

 クラスメイトは一瞬どよめいたものの、克哉らしいとみんなが言って、それぞれが励ましのことばを贈っていた。

 由紀子は、この日克哉とひとことも話さなかった。
 向こうはなにか言いたげに何度か視線を送ってきたが、こんな大事なことをずっと隠していた克哉がひたすら腹立たしかった。

 東京って、そういうことなの。克哉にとって、自分はそれだけの存在だったのか。
 ふたりの糸は切れた。三年間通った高校とも、さようなら。楽しかった『名字さん』ライフも、これでお終い。

 もう、違うんだ。置いていかれた。
 妥協だらけの自分の進路。
 夢いっぱいの克哉の未来。

 ……比べてはいけない。
 克哉と自分は違う。違い過ぎる。

 未練を断つために、由紀子は手帳に挟んでいた克哉の名刺をびりびりに破って捨てた。
 万が一にも連絡が来ないように、自分の携帯の番号も変えてしまった。