観覧車が地上へと辿り着く。
私は彼の瞳に問いかける。
もう少し聞かせてもらえる?
その疑問を受け取ったかのように、彼は頷いて再び口を開いた。
観覧車は二周目を回り始めた。
「去年の春頃かな。孤独だった僕の元に、ある日この遊園地の鍵が届いた。ポストに入っているのをたまたま見つけて、お母さんたちに気づかれないようにさっと取った。小さいメモが貼り付けられていて、『遊園地』とだけ書かれてた。誰がくれたのかは分からないけれど……でもこれは、自分に宛てたものなんじゃないかってなんとなく思って。昼間は家を出たら父親に叱られるから、夜中にこっそり行ってみたんだ。観覧車が好きだったから、観覧車だけこっそり動かした。地上を離れて空に浮かんでいるような気分になれて、この十五分間だけでも、現実を忘れられるから……」
ああ、そうか。そうだったんだ。
梨斗がどうして真夜中に私と会おうとしたのかようやく理解することができた。
この時間だけが、彼にとって“特別”だったんだ。
みんなが寝静まった後、こっそり家を抜け出して、現実逃避をする。
あまり長く外にいると、家族に見つかってしまうかもしれない。
だから彼は、観覧車が回っている十五分間だけ、外の世界へ繰り出した。
「観覧車に一人で乗っていると、小三の時にきみと乗ったあの日のことを思い出すんだ。すごく楽しかった。僕は一人じゃないんだって思えた。もう一度、きみに会いたいと、強く願ってた。だからあの日……十七歳の誕生日を迎える夜、きみを探しに出かけた。絶対に会えるはずないって分かってたけど、もしかしたら家が近いんじゃないかって勝手に推測して、夜の街を歩き回った。馬鹿だよな。こんな時間に、女の子が外をうろついているはずもないし、そもそも近くに住んでるなんて限らないのに。だけど、会えた。祈りが通じたみたいに、きみは僕の前に姿を現したんだ」
——終電を逃したから泊めてくれない?
あの日の出会いは偶然じゃなかった。
梨斗の強い気持ちによって、私たちは引き合わされた。海の水が月の引力によって引き寄せられるみたいに、私たちは再び出会った。
「きみが、僕のことを忘れているってことはすぐに分かったよ。ちょっと残念だったけど、でもまあ、仕方ないかって。出会ったのは随分昔で、お互い子供だったからね。だから僕は、きみと初めて会った人間として、もう一度きみと友達になりたかった。きみにすぐに正体を伝えなかったのは……そうだな。心のどこかで、きみにあの時の少年だって気づいてほしかったからなんだ」
へへ、と切なげな笑みを浮かべる梨斗の身体を今すぐ抱きしめたい衝動に駆られる。
忘れていてごめんね。
寂しかったよね。
ずっと一人で、生きてきたんだよね。
それってどれくらい、苦しいことなんだろう——。
「きみに出会ってから、僕の世界は少しずつ色を取り戻していった。相変わらず家では『いない者』の僕だったけれど、きみと観覧車に乗っている時間だけは、葉加瀬梨斗でいられたんだ。きみが僕の世界に、真っ黒以外の色を添えてくれた」
「私、私は……」
違う。違うんだよ。
色をつけてくれていたのは、私の方だよ。
観覧車は真っ暗な空の下を回っているけれど、下を見れば夜の明りで街は点々と輝いている。暗いだけじゃない。ここには光がある。そう教えてくれたのは、紛れもない、あなたなんだよ。
「日彩は僕に、家から逃げ出したいと思っていた心を救ってもらったと思ってるのかもしれない。でも僕が、救われていたんだ。きみと再会した日、きみが泣いているのを見て、苦しいのは自分だけじゃないって思えた。同時に、きみを笑顔にしたいとも、思った」
それが僕の生きる理由になったんだ。
梨斗の言葉に、胸がじんと湿って、目の縁には涙が溜まっていく。
そんなふうに思ってくれていたんだ……。
知らなかった。私はただ、自分が辛いことばかりに意識がいってしまっていて、梨斗と会うこの時間を心の拠り所にしていただけだ。だけど梨斗は、私のことを考えてくれていた。
嬉しくて、胸が温かい熱を帯びていく。
溢れそうな想いを、まだ口にはできない。最後まで、彼の話を聞かなきゃ。
「ずっと……ずっとさ、この時間が続けばいいのにって、何度も思った。本当は十五分だけじゃなくて、もっと長くきみと一緒にいたい。僕が一番願ってた。幸い家族からは、毎晩ここに来ていることがまだバレてないって思ってたんだけど……違った。父親はとっくに僕が家を抜け出していることを知っていた。今日、というかもう昨日だね。父親に問い詰められて、それから初めて、手を挙げられた」
彼の顔にくっきりと残っている“父親”の所業を感じ取って、思わず目を逸らしたくなった。
「これまでは家で『いない者』として扱われても、一度も手を挙げられたことはなかったんだ。だからこそ、僕はただ耐えるしかなかった。でも今日、初めて痛いって思って、『もう二度とうちへは帰ってくるな!』って怒られて気づいた。僕はここから逃げ出したかったんだって……。日彩との約束の時間はまだ来ていなかったけれど、すぐに家を飛び出してここへやって来た。広い遊園地に一人で佇んでると、僕はもう本当に幽霊にでもなってしまったんじゃないかって、怖くなった」
今日、梨斗は遊園地の門のところに現れなかった。その裏に、こんな事情があったなんて……。
「でもきみが僕を探しに来てくれて、やっと一人じゃないって思えた。そして、今。きみが昔のことを思い出したって聞いて、ずっと抱えてたものが、どんどん溢れちゃってる。ふふ、馬鹿だよなあ。最初から、僕はあの時の少年だって言えばよかったのに。日彩の気持ちを試すようなことして……逃げたんだ。実の父親に捨てられて、母親にも新しい父親にも、弟にも無視されて、日彩にまで忘れられていたら……。日彩にまで、『いない者』として扱われたらどうしようって、怖かったから……」
ずしずしと胸に迫るのは、彼が私のことを心の底から求め、切実に助けを求めていた、その気持ちの重みだ。
梨斗はこんなに……こんなに私のことを……!
「『いない者』なんて、そんなふうに思うはずないっ!」
一番伝えたい気持ちを、もう我慢することはできなかった。
梨斗の揺れるまなざしに、涙でぐしゃぐしゃになった自分の顔が映っている。頬も耳もきっと熱で真っ赤に染まっているだろう。私史上、一番みっともない顔をしているのは明らかだ。
メイクアップアーティストになって、誰かを綺麗にするのが夢だった。今の私の顔は、メイクでは隠せないほど、荒れに荒れている。友達に見られたら笑われるかもしれない。でも、他人にどう思われるかよりも、目の前のあなたに、伝えたいことがあった。
「梨斗はちゃんと、いるよ。私のこの胸の、真ん中にいる。出会った時からずっと。梨斗と十五分間、毎日話をするのが本当に楽しみだった。家にも学校にも本当の私はどこにもいなくて、おばあちゃんの中から私が消えてしまいそうになって不安だった。でも、そんな時でも梨斗は必ずここに来て、私を見ていてくれた。だから私は、もう一度友達や家族、自分と向き合うことができたんだよ」
梨斗の瞳にきらりと浮かぶ光の珠が、彼の頬を伝っていく。
観覧車の明りが反射して、きらきら輝いては落ちていく。
「私……私は梨斗のことが——」
喉元まで出かかった言葉が、外の景色を見て止まる。
二周目の観覧車が、いつのまにか地上へと辿り着こうとしていた。
もう、降りなくちゃいけないのかな。
もっと、もっと一緒にいたい。
観覧車が何周したって、夜が明けて朝が来たって、離れたくない。
きみとの時間に、さよならなんて必要ない——。
「好きだよ」
夜の世界にそっと溶けた彼の言葉は、私をまるごと包み込んでくれるぐらい柔らかい響きを帯びていた。先ほどまで、孤独を吐き出していた彼の言葉とは思えないぐらい、慈愛に満ちたその声色に、胸がぎゅっと掴まれる。すー、はー、すー。息を吸って吐き出す。全然苦しくない。いつからからだろう。梨斗と出会ってから、私はこんなにもまっすぐに息ができるようになっていたんだ。
観覧車が三周目を回り始めた。私をまっすぐに見つめる彼の瞳が、暗闇でも迷わずに進めるぐらい、強い意思を孕んでいるように見えた。
「好き……って、私を?」
「日彩以外、誰がいるんだよ」
いつもどこか、膜を張ったように柔らかだった彼の声が、はっきりと輪郭を帯びているように感じられた。
それは彼が、私に対して被っていたバリアを破り、真正面から私と向き合おうとしている証拠だと分かった。
だから、私も。
私だってもう、きみの前では剥き出しの自分になれるよ。
「嬉しい……私も、梨斗のことが好き」
にっこりと、心からの笑顔が溢れ出したのは彼だけじゃない。窓に映った私の顔だって彼と同じ表情をしていた。
「僕たち、両想いだったんだね」
「うんっ……!」
好きになった人が、自分のことを好きだと思ってくれるなんて、信じられない。私の人生の中で、誰かと両想いになる日が来るなんて思ってもみなかった。夢なんじゃないかと疑ったくらい。でも、ゴンドラが風に揺れてギイっと軋む音や、窓の外に見える眩いほどの光を放つ月が、今この瞬間が絶対に夢なんかじゃないと教えてくれた。
「ねえ日彩、やっぱり僕、家に帰りたくないな」
ぽろりと漏れた彼の本音が、狭いゴンドラの中で切実な色を帯びる。最初に出会った時も、同じことを言っていた。
あの時もそれまでも、あなたはずっと苦しかったんだね。
「帰らなくていいよ」
梨斗が、目を瞠る。
私の口から「帰らなくていい」と返ってくるなんて、考えてもいなかったようだ。
「暴力を振るわれたんでしょ? それ以前に、梨斗のことを『いない者』扱いしてきたんでしょ? 梨斗のことを大切にしてくれない人の元へ、帰る必要なんてないよ」
それは私の本音だった。
私は、彼のことが大切だ。
だから、梨斗が傷つくなら、その人たちの元へは行かせたくない。
二人の間に沈黙が流れる。彼は、何と言おうか考えあぐねている様子で口を開いたり閉じたりしていた。
「……でも、帰らなかったらさ、僕はどこに行けばいいんだろうね……?」
親鳥を探す雛のように心細そうな視線を私に向ける。
「私のそばにいてよ」
「え? もしかして、きみの家に泊まらせてもらえるってこと?」
「ぷっ。何でそうなるの」
斜め上の回答をする彼が、おかしくて吹き出した。
「そういう意味じゃなくてさ。ほら、その……気が済むまで、私の隣にいてってこと。十五分だけじゃなくて、それよりも長い時間。私、一度でいいから梨斗と明るい時間も過ごしてみたいって思ってたんだ。それじゃ、ダメ?」
いつも、彼と会うのは真夜中の観覧車が一周する十五分間だけだった。
けれど、本当はもっと長い時間を共に過ごしたい。
この気持ちはもう抑えきれないし、隠せない。
カタカタカタ、という音と共に、彼の吐息の音が幾度となく聞こえてきた。心臓がドクドクと激しく脈打ち始める。さっき、告白をしようって思った時以上に、緊張した。
やがて彼がまっすぐに私を見つめて、「うん」と頷く。
「きみのそばに、いたいな」
夜空にぽつんと浮かぶ星みたいに、彼の声が耳を通り過ぎて、心にぽっと明りを灯した。
「いようっ。私も今日、お母さんにいろいろと事情を話してさ、梨斗とちゃんと向き合うって宣言してきたから。だからとことん、付き合う。というか、付き合わせてください……!」
もしかしたら今日で最後かもしれないと覚悟をしていた。
今日を過ぎれば、梨斗とはこんなふうにここで会うことができない。母にこれ以上心配させるわけにはいかないから。
だからこの一瞬が無為に過ぎてしまわないように、彼に本音を伝え続ける。
観覧車が四周目に突入した。
五周目、六周目、七周目、八周目——。
彼と、他愛もない話をしながら、何度も何度も、同じ景色を眺めた。時折お互いの気持ちを確かめ合うようにして、「好き」と呟く。私たちの乗っているゴンドラだけ、きっと熱が篭っているだろう。
お互いの身の上話も散々した。
どんな家で育ち、親や兄弟はどんな人だったか。耳を塞ぎたくなる話もあった。でも、幸せな話だってあった。私は、間違いなく両親や祖母のことを愛しているし、梨斗だって本当は家族に甘えたかったんだと言った。
「本当はさ、お父さん……本当のお父さんのことだけど——お父さんに捨てられたことが、一番悲しかったんだよね」
新しい父親に無視されることより、弟に蔑まれることより。
「そっか……そうだよね。分かるよ」
私も、祖母に忘れられることで、自分を蔑ろにされているような心地にさせられたから。
「日彩に分かってもらえるなら、もうそれだけで十分か」
梨斗がほっと息を吐く。
私にとって、彼と観覧車で過ごす時間がフィルターだったように、彼にとっても私といる時間が温かく居心地の良いものになればいい。
この時本気でそう思った。
その後も、私たちは互いの存在を確かめ合うようにして語り合った。もしも同じ学校に通っていたなら。もしも部活をしていたら。どんなふうに過ごしていたか。同じクラスで、でもちょっぴり席が遠くて。お互いに気になっているけれど、話しかけられない。運動会や文化祭なんかのイベントの時に一緒に作業をする中で、だんだん距離が近づいて……。
「って、めちゃくちゃド定番すぎる妄想だね」
「ふふ、そうかも。でもああいうイベントごとに起きるいわゆる“マジック”って、ちょっと憧れるかも」
「ドキドキ感があるから?」
「はい、そうです。青春っぽい」
「今の僕たちだって、十分“青春っぽい”と思うけど?」
そう言いながら、彼が私の方に身を乗り出して、顔を近づけてきた。
これってもしかして……。
恥ずかしくなって、さっと視線を窓の外にやる。いつのまにか空が仄かに白み始めていることに気づいた。
「キスしない?」
「えっ!」
そのままされるかと思ったのに、まさかあえて言葉にされるとは思っておらず、大きな声を上げてしまった。
「ははっ、びっくりした?」
「びっくりも何も……そういうのって普通、聞かないよ」
「聞いたら野暮だって思ったでしょ?」
「そこまで分かってるならすればいいじゃんっ」
「んーでもタイミング失ったな。それじゃあさ、まずは手を繋がない?」
「それってもしかして例のあれ? ドア・イン・ザ・フェイス」
「正解」
私が返答をする前に、彼がぐっと顔を近づけて唇を重ねてきた。不意に左手に温度を感じて、彼の右手と繋がれていることに気づいた。
ずるい。
私に選ばせる気なんて全然ないじゃん。
でも……嬉しい。
胸の中に押さえ込んでいた彼への激情が、観覧車の中で爆発する。観覧車で告白して手を繋いでキスをするなんて、あまりにもベタな展開に頭が沸騰しそうなぐらい恥ずかしかった。だけど、照れて熱くなった顔も、彼に見られるだけなら大丈夫だと思えた。
観覧車が頂上に辿り着いたのは、もう何度目か分からない。彼の頭越しに見える空は、サーモンピンクのような、淡い黄色と桃色が混ざった優しい色をしていた。
彼の唇がそっと離れる。
「あけぼの色だ」
「あけぼの色……」
「夜明けの空の、朝焼けの淡い黄赤色のことをそう言うんだって。日彩と見られるなんて思ってなくて、なんか今、すごく胸がドキドキしてるよ」
夜明けの空、と言われてはっと気づく。
そうか。もう、そんなに長い時間、梨斗と観覧車に乗っていたんだな。
アドレナリンが出ているせいか、疲れは溜まっているはずなのに不思議と眠くない。
「私だって梨斗と一緒にこんなに綺麗な空が見られるなんて、思ってなかったよ」
二人で観覧車に乗るのは、いつも決まって夜中の十二時だった。真っ暗な空に浮かぶ月と星も綺麗だけれど、頂上から見る朝焼けの空は、私たちの未来を明るく照らしてくれているみたいに、きらきら光って美しかった。雲の切れ間から覗く太陽の光を浴びて、私たちは生まれ変わる。二人が出会い、繋がった場所から、再スタートを切るんだ。
いつのまにか隣に座っていた梨斗の肩に、頭をもたせかける。清潔な石鹸のような香りが、私に底知れない安心感を運んできてくれた。
「ねえ、梨斗」
「ん?」
「私ね、梨斗とこれからも一緒にいたい」
「僕も、そう思ってるよ」
「そっか、嬉しい。だからさ、やっぱりこのままじゃダメだと思う。梨斗が、ちゃんと帰れる場所をつくらないと、一緒にいられなくなる。梨斗が安心して生きていける場所が必要だね」
「安心して生きていける……そんな場所、どこにもないって」
想像通りの答えが返ってきた。私はすっと目を細めて、オーロラのように輝く空を見つめながら言う。
「あるよ。一つだけ、ある。あなたが帰る場所、二人で探しに行こう」
梨斗の肩がぴくんと揺れて、私は自分の頭を上げた。横目で見た彼の瞳が大きく見開かれる。やがて私の方を向き、ゆっくりと大きく頷いた。
それが私たちの、出発の合図だった。
朝焼けの中を、二人並んで歩く。始発電車はまだ動いていなくて、自宅の最寄駅まで、一時間以上かけて歩いた。
梨斗の家は、なんと私の家と同じ地域にあった。そうとも知らずに今まで遊園地でしか会ったことがなくて、純粋に驚いた。
「こんなに近くに住んでたんだね」
「びっくり。一度くらい、すれ違ってそう」
聞けば、小学校や中学校も隣の学校だった。一歩、運命の糸が掛け違えていたら、同じ学校に通っていたかもしれない。現に彼の弟は私と同じ城北高校の生徒なんだし。
梨斗と学校で楽しく話している姿を妄想すると、胸がきゅっと切なさと喜びに溢れた。
駅からまた少し歩いて、ひとまず二人で私の自宅へと向かった。
玄関の前まで辿り着くと、彼が右手を挙げる。
「また後で会おう」
「うん」
梨斗は今日、私が学校から帰ってくるまで、ネットカフェで過ごすらしい。家に帰れば、また両親から家に閉じ込められるかもしれないから。そんなことになれば、彼ともう二度と会えなくなるかもしれない。念のため、今日は家に帰らない方が良いという結論に至った。
「あの人たち、僕が一日帰ってこないからといって、僕のことを心配したりしないだろうし」
眉を下げてそう言う梨斗があまりにも不憫で、思わずそっと抱きしめた。梨斗は私の行動に驚いていたけれど、すぐに受け入れて「ありがとう」と呟いた。
「大丈夫。絶対に梨斗の居場所は見つかるから」
「そうであることを願ってるよ」
玄関先で別れた後、梨斗はそのままネットカフェのある街までまた歩いて行った。
「ただいま」
時刻は午前五時過ぎ。母も祖母もまだ眠っている時間だ。音を立てないように居間へと続く扉を開けると、なんと食卓に母の姿があった。
「おかえり」
眠っていないことがすぐに分かった。どうして、と開きかけた私の口を制するように、「おかえりって言いたかったの」と細く笑う。
「日彩にね、最近『おかえり』って言えてなかったなぁって思って。おばあちゃんも、実はあの後二時間くらい起きてたんだよ。しかも『日彩ちゃんはどこ?』って、あんたのこと探してた。一緒に待っていようって話になったんだけど、途中で眠たくなったらしくて、寝ちゃったんだけどね。でも、日彩のことちゃんと思い出してて、私はすごく嬉しかった」
細められた母の瞳に、涙が滲んでいる。つられて流れてしまいそうになった涙を堪えながら、「私ね」と母にこの夜のことをすべて話した。
「今日、学校が終わったら梨斗の居場所を一緒に見つけに行く。もう彼と夜中には会わない。その代わり、ちゃんと普通に会えるように頑張ってくる」
「そっか。その梨斗くんって子が、昔遊園地で迷子になったあんたを助けてくれたんだね。お母さんはね、日彩のこと一番信じてるから。梨斗くんのこと、助けてあげて」
「うん、任せて」
母の前で精一杯胸を張って笑ってみせる。
本当は不安もたくさんあったけれど、母に信じてもらえるなら、大丈夫だと思えた。
その日は授業中、ずっと眠くて、毎回授業の際に船を漕いでしまい、先生に小言を言われた。おかげでクラスメイトの注目を浴びてしまい、「また深町が怒られてる」というみんなの心の声が聞こえて恥ずかしかった。
「日彩、今日どうしたの!? ずっと眠そうじゃん」
昼休みに、美玖と恵菜が私の元に駆け寄ってきて、笑いながら心配してくれた。
「昨日眠れてなくて」
「そうなの? またおばあちゃんの介護で?」
「ううん、別の理由なんだけど……」
私は、きょとんとしている二人に、梨斗のことを話した。
出会ってから今日まで、夜の観覧車で仲良くなって、恋人になったこと。梨斗の弟が、美玖の恋人だった雄太であること。彼を救いた
いと思っていることを、全部。
「えー! 日彩にそんな素敵な出会いがあったなんて、知らなかった!」
「なんで教えてくれなかったの〜!」
今まで一度も色恋ネタを話したことがなかった私に、二人は純粋に驚いた様子でぐっと身を乗り出してきた。
「ごめん、あまりに非現実的な出会いだったし、彼の正体が分からなくて、言い出せなくて」
「そっかぁ、でもそうだよね。そんな運命的な出会い、聞いたことない」
「でもまさか、雄太のお兄さんだなんて、そこもびっくり」
美玖が目を丸くしている。
「うん。二人は義理の兄弟だから性格は全然違うみたい」
「話聞いてると、雄太のやつ、梨斗くんにもひどいことしてたんだね。こりゃ別れて正解だわ」
「本当だよ。このまま付き合い続けてたら、日彩ともなんか気まずい関係になっちゃいそうだしね」
「よおし、私と雄太との別れに、そして日彩と梨斗くんの出会いに、今度みんなで乾杯しようよ!」
「お、いいねえ。次の部活の休みに、みんなでお出かけしよう」
二人が妙に高いテンションで私にきらきらとした瞳を向ける。
「う、うん。ぜひ、また遊んで」
美玖や恵菜と仲良くお出かけができるなんて、いつぶりだろう。具体的な日程はまだ決まっていないというのに、すでに心躍っている自分がいた。
「梨斗くんに伝えといて。日彩は私たちのもんだからって」
美玖が舌を出しながらへへっと笑う。
「美玖、会ったこともないのに、そんな敵対しなくても」
「冗談冗談。でも本当に良かったね。梨斗くんによろしくね」
二人が私の幸せを願ってくれていることに、胸がじんと熱くなる。そうだ。私は、こんなにも大好きな友達に愛されていたんだ。幸せってきっと、今みたいな瞬間を言うんだろう。
「ありがとう。二人にもまた紹介するね」
美玖と恵菜、梨斗がそばにいてくれるということ。
それは私にとって、何よりも代えがたい、生きる希望だった。
放課後、梨斗は城北高校の校門の前で待ってくれていた。
彼と、真夜中以外で待ち合わせをするのは初めてだった。
私服を身に纏った梨斗が、夕暮れ時の光に照らされているところを見て、胸がさわさわと揺れる。何度も顔を合わせているはずなのに、初めて会った時みたいに、ちょっとだけ緊張した。
私と目が合うと、照れたように少しだけ瞳を下げる。けれど、一度私が「やっほー」と声をかけた途端、にっこりと優しい笑みを浮かべた。
「本当に会えるか、不安だったよ」
「それはこっちの台詞だよ。この時間に会えるなんて、夢みたい」
「ふふ、きみはロマンチストだね。僕は幽霊じゃないって言っただろ」
「もしかしたらやっぱり夢だったんじゃないかって、ほんの少し疑ってたから」
「夢じゃなくて良かった?」
「もちろん」
分かりきったことをあえて聞いてくるところが愛しくて、今すぐ抱きしめたくなる。でもさすがに、こんなところで密着するわけにはいかず、そっと彼の手を握った。
「あれ、梨斗じゃねえか」
どこかで聞いたことのある、ハリのある声が飛んできて、私と彼の肩が揺れた。
声のした方を振り返ると、ガタイの良い男の子がこちらを睨むようにして見つめている。
雄太だ。先日、美玖とピロティで会話をしているところを見たから間違いない。ラグビー部だと聞いているが、今日は部活が休みなのか、同じような体格の同級生二人と並んで歩いてきた。
隣から、梨斗が生唾をのみこむ音が聞こえてきた。心なしか、繋がれた彼の手が震えていることに気づいて、思わず強く握りしめる。
「……雄太、何か用?」
震えている。眉を下げる梨斗と、威嚇をするように鋭い視線を向けている雄太を交互に見やる。
「こんな時間に何で歩いてんだよ? 昨日は帰ってこなかったみてえだな。女と一緒だったってか? 父さんに言いつけてやる。きっとまた、叱られるぞ?」
挑発するような雄太の声はどす黒く、胸にずんと響いた。部外者の私でさえ背中に悪寒が駆け抜ける。
「梨斗」
耳元で彼の名前を呼んだ。
負けないで。
こんな……こんなふうに、あなたのことを人間扱いしない人に、屈しないで。
想いが伝わるように、強く強く彼の手を握り直す。すると、彼ははっとした様子で私の目を見つめた。
大丈夫だよ。
彼の目をまっすぐに見つめて、心の中で伝える。大丈夫。私の気持ちは届いているはずだ。
「悪いけど、僕たち急いでるんだ。あの家にはもう帰らない。父さんたちにも、そう伝えておいて」
毅然とした態度で、梨斗は雄太に言い放った。
普段のおっとりとした彼からは考えられないくらい、くっきりとした輪郭を帯びた言葉だった。雄太は、梨斗の言葉が突き刺さったように、目を大きく見開いて固まった。
「それから、この子には絶対に近づかないでほしい。僕の大切な人だから」
今度は私が目を丸くする番だった。
手のひらから伝わる温度がどんどん熱くなる。私の汗なのか、彼の汗なのか分からない。二人分の熱がほわほわと全身に回って、顔まで赤くなっているのが分かった。
「行こう」
固まったままの雄太を置いて、梨斗がくるりと踵を返す。彼に促されるがまま、私も雄太に背を向けた。
私と梨斗、二人分の影が大きく揺れる。柔らかな夕暮れ時の黄金色が、目の前の道をまっすぐに染め上げた。私たちの進む道を、照らしてくれているみたいに。
「ふふっ、さっきの、なに」
少し歩いてから、込み上げてきた照れと、喜びに、心臓がドキドキと跳ねていることに気づいた。
「いつも、言いなりになってばかりだった弟に、本音をぶつけてみた。きみに、勇気をもらったから」
「そっか。嬉しかったよ」
進んでいる。
私たちはゆっくりと、だけど確実に前へと歩いている。
そう気づかせてくれたのは、紛れもなく彼だった。
学校の最寄駅から、電車に乗り、以前降りたことのある乗り換え用の駅へと降り立った。
しばらく住宅街が続き、静かな通りを歩く。梨斗はどこか緊張した面持ちで、キリリと正面を向いて歩いている。やがて小さな繁華街に出ると、そのお店——『創作料理梨の花』が現れた。木目調の壁を見て、梨斗がすっと目を細める。
「ここ?」
「うん。私も一回しか入ったことはないんだけど、居心地良いよ」
彼は小さく頷き、扉の取っ手に手をかけた。
今日、ここへ来ることは梨斗に伝えていなかった。だから梨斗は私に言われるがままついてきただけだ。でも、店名の『梨の花』という文字を見て何かを悟ったのか、真顔の彼は硬く強張っている。
「こんにちは」
ザザザ、と引き戸を開けて中へと一歩足を踏み入れる。
「いらっしゃいませ、何名様でしょうか?」
現れた店員は若い女性店員で、アルバイトの人なんだろうと察した。
「二人です」
「二名様ですね。あちらの席へどうぞ」
彼女が指差したのは、店の一番奥の席で、入り口からは遠く、込み入った話をするにはうってつけの場所だった。
店員さんに案内された席に、梨斗と向かい合って座る。早速メニュー表を広げて、何を食べようかと悩んだ。時刻は夕方。早めの夕飯を食べるにはちょうど良い時間帯だ。
「私、この前も食べたけどこの『肉じゃが定食』にする。すごく美味しかったから。梨斗はどうする?」
「僕は、これかな」
彼が指差したのは、『さわらの西京焼き定食』だった。写真ではさわらの身がぷりんと光って、とても美味しそうだ。
店員さんを呼び、注文をし終えると、梨斗が店内をまじまじと見回した。暖色のライトが店全体を暖かく照らしていて、まるで実家に帰って来たかのような心地にさせられる。
しばらく無言の時を過す。彼とこうして夜ご飯を一緒に食べに来ていることに、不思議な気分にさせられた。
「このお店ってさ、僕の——」
梨斗が口を開きかけたところで、男性店員がお盆を二つ抱えてやって来た。
「お待たせいたしました。『肉じゃが定食』と『さわらの西京焼き定食』です」
コトン、と小さな音を立てて、お盆が目の前に置かれる。
梨斗の方にも料理が置かれると、男性店員——葉加瀬さんの顔が固まった。
「……梨斗?」
頭上から降ってきた声に、今度は梨斗の方がぴくんと肩を揺らす。
「お父さん……」
梨斗が葉加瀬さんの顔を見上げて、二人の視線がばっちりと交わる。親子の再会を目の当たりにして、ドクドクと心臓の音が激しく脈打つ。
「梨斗、どうしてここに」
「あなたこそ、なんで」
梨斗の声には小さな棘が含まれていた。梨斗は、本当のお父さん、つまり葉加瀬さんが母親に不実を働いて離婚したのだと言っていた。自分を捨てたのだと。だから、彼が父親のことを軽蔑しているのだとしたら、仕方のないことかもしれない。
でも私は……どうしても、葉加瀬さんが梨斗を捨てたとは思えない。
だって、以前私がここを訪れた時、彼はこう言っていた。
——私がこの店を開いたのは、大切な人が帰りたくなるような場所をつくりたかったからなんだ。
葉加瀬さんの大切な人とは、紛れもなく梨斗のことだ。
彼は私に、「梨斗に会いたい」とこぼしていた。けれど、会えない。切なさが滲む顔に、息子への思慕が溢れていた。
「……ここ、私の店なんだ。飲食店を展開する会社を経営している。その中の一つがこの店で、自分で店主をやってる」
ぎこちない口調で、葉加瀬さんが梨斗に事実を伝える。梨斗の眉が少しだけ動いた。
「お店……あなたが?」
「ああ」
実の父親のことを「あなた」と呼ぶ梨斗の顔は複雑な心境を表しているかのように、くしゃりと歪んだ。
「そうなん、だ」
「梨斗はなんで?」
「僕は……彼女、日彩に、連れてこられたんだ」
葉加瀬さんが私を一瞥する。数日前にここで会ったので、「どうも」と小さく会釈する。
やりきれない。
せっかく再会したのに、お互いに腹の底を探るような問いかけをして、相手の出方を窺っている。親子二人の間に流れる空気は、数年前に時が止まったまま、澱んでいるように感じられた。
このまま二人が分かり合えず、また離れ離れになるんなんて、嫌だ。
だったら私が、そうならないように、なんとかしなくちゃ……!
「葉加瀬さん、聞いてください。葉加瀬さんがいなくなってから、梨斗がどんな生活を強いられてきたか。梨斗の口から聞いてほしいんです」
葉加瀬さんの目が大きく見開かれる。その瞳には驚きの他に戸惑いも浮かんでいた。
「それから梨斗。葉加瀬さんに、ちゃんと話してほしい。梨斗の気持ち。私は、あなたが帰る場所は、この人のところだけだと思ってるから」
帰る場所、という言葉に、今度は梨斗が弾かれたように葉加瀬さんの顔を見つめた。
前に梨斗は、実の父親には会いたくないと呟いた。
でもその言葉は嘘で、本当は会いたいと思ってるんじゃないかって予想した。軽蔑はしていても、梨斗にとって、この人だけが“父親”なのだ。
梨斗は私と、葉加瀬さんの目を交互に見つめて、やがて「分かった」と頷いた。
「あなたが……お母さんと離婚してから、僕の毎日は地獄の連続だった。新しい“父親”とお母さん、それからその父親の連れ子の弟からは『いない者』として扱われて、家の中では人権なんてなかった。何度、あなたを恨んだか分からない。あなたが浮気なんてしなければ、僕はこんな目に遭わなかったのにって、毎晩夜眠るたびに恨み言が出そうになった。それで、昨日ついに父親から手を挙げられて……僕にはもう、帰る場所がない。……ねえ、どうして僕やお母さんを捨てたの? 僕はあなたにとって、いらない子だった……?」
信じていた人に裏切られてショックを受けた子供の頃の梨斗が垣間見える。寂しさの滲む声は柔らかな明りの中でも、青くくすんでいるように感じられた。
葉加瀬さんが、じっと梨斗の目を見つめている。彼の口は開きかけてはまた閉じて、を繰り返す。どんな言葉を紡ごうか、迷っている様子だった。
やがて決心がついたのが、ゆっくりと唇が開かれる。
「私の口から、すべて話すよ。きみが納得していない部分も含めて、全部」
そう言いながら、葉加瀬さんはエプロンを脱ぐと、私の隣——つまり、梨斗の斜め向い側に座った。
「お父さんがお母さんと離婚したのは、お母さんの不倫が原因なんだ」
「え?」
聞いていた話とは百八十度違う事実に、私も梨斗も目を点にする。
「当時お父さんは、今の会社を立ち上げるために資金繰りに苦戦していた。元々、梨斗のおじいちゃん——私の父親の会社を継ぐ予定だったんだけど、その会社が傾きかけてね。泥船に乗って一緒に沈むより、新しい会社を立ち上げることを選んだんだ。当然父には反対されたし、勘当もされた。それでも私は会社をつくることをやめなかった。情けない話だけど、家のお金もすべてはたいて、借金までしてなんとか資本金を用意したんだ。だけど、そんな私の行動を、お母さんはよく思わなかったんだ。私に愛想を尽かして、男をつくっていた。そんなお母さんを、私は責めることもできなかったよ」
「そんな……」
まさか、本当にそんな理由で梨斗のご両親の仲が引き裂かれることになっていたなんて。初めて知る話に、梨斗自身、信じられないといった様子で目を見開いていた。
「離婚を切り出してきたのも、お母さんの方だ。もうあなたとは一緒にいたくない、と言われてしまってね……。何も言い返せなかったよ。私が、家族を顧みずに、仕事のことで頭がいっぱいになって、家のお金にまで手を出したせいで、お母さんからの信頼を失ったから。お母さんが好きになった相手——藤川は、資産家だった。梨斗のこれからの将来のことを考えると、不倫をされたとはいえ梨斗はお母さんの方にいくべきだと思ったんだ。だから親権を渡すことも、受け入れた。その先に梨斗がどんな生活を強いられるかも、想像せずに……」
葉加瀬さんの声に後悔の色が滲む。
もしも、彼ら夫婦が離婚する際に、本当のことを告げていたら。
梨斗のその後の人生は違っていたのかもしれないのだ。
「お母さんが梨斗や周りの人間に、私が不倫をしたと言いふらしていることも知っていた。悔しくなかったと言えば、嘘になる。私だって本当はずっと、梨斗の親でいたかったんだ……」
ほろりほろりと、彼の頬を涙が滑り落ちてくる。奥の席だから、幸い他のお客さんには見られなくてほっとした。
「そんな……そんなことって」
梨斗の声が震えている。受け入れ難い現実を、どう受け止めるべきか迷っているようだった。
「お母さんは私が不倫をしたと梨斗に嘘をついた手前、梨斗を私に会わせようとしてくれなかった。私も、梨斗に合わせる顔がなかったから、反論できなかった。会えなくても、新しい家庭で幸せに暮らしていると信じていたんだ。……立ち上げた会社は徐々に大きくなって、何店舗も店を展開できるようになった。従業員数もそれなりに増えた。数年でここまで成長するとは思ってなかったから、そこは嬉しい誤算だったよ。廃園した遊園地を買い取ったのは、去年の春のことだった。これから事業で使うのに広い土地が必要だったから。だけど、あの土地を整えて新しい事業を展開するまでに時間がかかる。遊園地の遊具はまだ使える状態だったから、なんとか活用できないかって思ったんだけど、思い浮かんだのは、梨斗の顔だけだった」
梨斗の顔に驚きが広がる。見開かれた目はそのままに、彼はスボンのポケットにそっと手を添える。そこには、遊園地の鍵が入っているのだと分かった。
「遊園地の門の鍵を、梨斗の家のポストに入れたのは私だよ。梨斗に届くか分からなかったけれど、何もしないよりマシだと思って。梨斗に、父親としての役割を全うしてやれなくて、後悔したんだ……。だからせめて、遊園地で楽しい気分になってくれたらと思って。時々、アトラクションの点検にも行っていたんだ」
ああ、そうだったのか。
だから葉加瀬さんは、度々遊園地に姿を現していたんだ。
単に自分の持ち物をチェックしに来たものそうだが、梨斗がアトラクションを楽しめるように、壊れていないか見てくれていたのだ。
葉加瀬さんの中に溢れる、梨斗への愛情がありありと伝わってくる。梨斗も同じだったのか、「僕は……」と声も、瞳も、震わせていた。
「知らなかった……。あなたが、そんなことを思ってこの鍵を届けてくれたなんて。僕は……家に居場所がなくって、あの遊園地で過ごす時間だけが、唯一の心の拠り所だった。この鍵を届けてくれたのは誰なんだろうって、ずっと疑問に思ってたけど……。あなただったんだ。お父さん……ありがとう」
梨斗の口から紡ぎ出された「お父さん」という呼び名に、葉加瀬さんの瞳が大きく見開かれる。
やっと……やっと、繋がった。
梨斗だって本当は、お父さんに会いたかったんだ。
そうだよね。信じたかったんだよね。実の父親が、自分を捨てたわけじゃないって。仕方がない理由があったんだって、信じたかっただろう。
「梨斗、私は一度たりとも、お前のことを忘れたことなんてなかった。父親なのに、父親としての責任が果たせなくて、すまなかった。本当に、お詫びしても仕切れない。こんな父さんだけど……許して、くれるか?」
葉加瀬さんの瞳に憂いが滲んでいる。梨斗はそんな彼の目をじっと見つめながら、ゆっくりと頷いた。
「僕はずっと、お父さんのこと疑ってた。僕とお母さんを捨てた人だって疑って、遠ざけて、自分から会おうともしなかったんだ。でも今ようやく分かったよ。僕のお父さんは、あなただけだ。僕は、この先もお父さんとずっと一緒にいたい。許すとか許さないとか、そんなの必要ないよ。僕のお父さんは、唯一無二の存在だから……」
サーッと、雨のように葉加瀬さんの頬を伝う涙がテーブルの上に、ぽろぽろと滑り落ちる。私はそんな彼に、ポケットから取り出したハンカチを差し出した。
「梨斗、葉加瀬さん。聞いてください。二人が良ければ、一緒に暮らすべきだと思うんです。一度手放した親権も、しかるべき手続きをすれば、取り戻せると聞きました。だから、諦めないでほしいです」
私が、梨斗や葉加瀬さんに励まされて、家族と分かり合うことを諦めなかったように。
彼らにも、大切な人と一緒にいることを諦めないでほしかった。
「ありがとう、深町さん。梨斗とこうして再会できたのはきみのおかげだ。それから、梨斗のことを支えてくれて、本当にありがとう。諦めずに、闘ってみるよ」
違うんです、お父さん。
支えられていたのは私なんです。
梨斗がいたから、私は今ここで、二人の背中を押せているんです。
だから、ありがとうを伝えなくちゃいけないのは、私の方なんです。
そう、喉元まで出かかった言葉をのみこんだ。
言葉にしなくてもきっと、二人には伝わっている。
その証拠に、二人が私の目を優しく見つめて微笑んでくれていた。そっくりな垂れ目が、私に安堵と温もりを与えてくれる。二人はきっともう、大丈夫だ。
「そう言えば、これは梨斗に話したことがなかったんだけど。梨斗が生まれた時、綺麗な梨の花が病院の庭に咲いていたんだ。四月、ちょうど桜が咲く頃で、花に詳しくない私は最初、桜の花が咲いたんだと思っていたんだけどね。病院の先生が、あれは梨の花だって教えてくれて。梨の実は知っているけれど、花を見たのは初めてだった。思わず花言葉を調べたら、こう書いてあった」
和やかな愛情。情愛。慰め。
「どれも、私と、私の家族に必要なものだと思った。だから、生まれてきた我が子には、たっぷりの愛情を注ごう。そして、我が子も誰かに和やかな愛情を持ってくれるようにと願って、『梨斗』と名前をつけた。この店の名前の由来も、同じだよ」
梨の花。
葉加瀬さんがどれだけ梨斗の誕生を心から喜び、愛を育んできたか、肌で感じて胸がきゅっと締め付けられた。
梨斗の瞳から一筋、また一筋と涙が落ちる。私もつられて泣いた。三人で、泣き笑いをしながら、ご飯を食べた。少し冷めてしまった肉じゃがもやっぱり美味しくて、どこか懐かしい味がした。
真昼間の太陽が、私と梨斗の歩くアスファルトをきらきらと照りつける。五月も終わりになると三十度近くなり、すっかり夏の気配が漂っている。
「梨斗!」
自宅の最寄駅で、向こうから歩いてくる梨斗に手を振る。白いTシャツに、短パンを履いた梨斗は、私を見つけるとふわりと微笑んだ。
今日は日曜日。私の中間テストが終わり、二人でデートに行こうという話になった。誘ってくれたのは彼の方だ。ここから一時間ほど電車に乗り、目的地に向かう予定だ。かなり長旅になるが、梨斗と一緒ならまったく苦じゃない。
「こんにちは、日彩」
彼氏彼女の関係になってからも、梨斗は私と会う時はいつも「おはよう」や「こんにちは」と挨拶をしてくれる。いつまでも丁寧な感じが、彼らしくて好きだ。
「すごくいい天気だね。デート日和!」
「うん。さすが晴れ女」
「へへん、伊達に“日彩”をやってないからね」
思えば彼と出会ってから、ほとんど雨に降られたことがない。昼間は降っていても夜は止んでいることも多かった。
「それじゃ、さっそく行こうか」
彼に差し出された手をそっと握り、改札へと向かう。
この恋はまだ始まったばかり。
だけど、もうこれ以上無理だってくらい、胸ははちきれんばかりに高鳴っていた。
隣の県にある「夢が丘駅」で降り立った私たちは、駅直結の「夢が丘公園」へと辿り着いた。ここらで一番大きな公園で、園芸エリア、アトラクションエリア、大池エリア、と三つに区分けされている。公園が海に面しているので、園内に踏み入れると鼻を掠める潮の匂いにぎゅっと心を掴まれる。海を一望できる場所もあり、人気のスポットだ。風も強いけれど、そんなことは気にならないくらい、開放感に溢れていて素敵な場所だった。
今日はここで、半日デート。
この場所は私が行ってみたいとリクエストした場所だ。梨斗も同じことを考えていたらしく、二人して海風に当たりながら、まずは園芸コーナーを歩いた。
色とりどりの花が、花壇に美しく植えられている。スイートピー、ノースポール、ゼラニウム、カンパニュラ、と花の名前の札を見ながら観察していく。どの花も色鮮やかで、周りの緑の芝生に映えていた。
「可愛い花がいっぱいあるね。初めて見る花もたくさん」
「そうだね。珍しい花があって、見てて飽きないや」
梨斗は花が好きなのか、一つ一つの花をじっくり見つめて、匂いを嗅いだり優しく手で触れたりしていた。
「あっちに体験コーナーもあるみたいだよ。ハーバリウム作りって書いてある」
「ハーバリウムか。作ったことない」
「ねえ、良かったらやってみない?」
「いいね」
こういう時、ノリノリで応えてくれる梨斗が好きだ。私たちはいそいそと、「ハーバリウム体験」と看板に書かれている、小屋のような建物に向かう。壁が煉瓦になっていて、御伽噺に出てくる小さな家みたいで可愛らしい。小窓のついた扉を開けると、鼻腔をくすぐる花の香りに、思わずうっとりしてしまった。
「こんにちは! ハーバリウム体験へようこそ。二名様でしょうか?」
「はい、そうです」
「こちらのお席へどうぞ」
女性の店員さんに連れられて、二人掛けのテーブル席に座る。テーブルの上には、トレーと、その上に細長い瓶、オイル、ピンセット、ハサミが置かれていた。これがハーバリウムを作るのに必要な道具なのだろう。
「こちらのドライフラワー・プリザーブドフラワーコーナーからお好きな花を選んでいただき、瓶に入れてオイルを流し入れるだけで簡単にできます。どうぞ、お花を選んでください」
店員さんが、店内の一角にある、「ドライフラワー・プリザーブドフラワーコーナー」を案内してくれた。なるほど、生のお花じゃなくて、ドライフラワーやプリザーブドフラワーを入れるのか。乾いたお花も、生花とはまた違った味があって素敵だなと思った。
「定番はアジサイやカスミソウ、千日紅ですね。アジサイはオイルを注ぐと色がもう少しはっきりしますよ。他のお花が浮いてくるのを防ぐのに使うのもおすすめです」
「へえ。お花が浮いてきたりするんだ。結構頭使いそうだね」
「日彩はどれにする?」
梨斗とうんうん悩みながら、私は千日紅をメインとして、ところどころにアジサイを入れることにした。梨斗はカスミソウが気に入ったのか、水色と白のカスミソウを選んでいた。カスミソウは白のイメージが強かったが、他にもいろんな色があると知り、驚いた。
作業テーブルに戻ると、ピンセットで花を入れ始める。これが、思ったより難しい。どういう順番でお花を入れたら綺麗になるのか、分からないのだ。
「あまり考えすぎずにやってみてください。間にアジサイを入れると、千日紅なんかが浮いて来なくて良いですよ」
店員さんのアドバイスに従って、なんとなくの感覚で千日紅やアジサイを入れていく。梨斗も苦戦している様子だったけれど、なんとか全ての花を入れ終えた。
「最後にオイルを流し入れますね。そーっと入れてみてください」
「わ、すごい」
オイルを入れると、花の色が先ほどよりもくっきりと鮮やかに見え始める。艶めく花たちに惚れ惚れとして、瓶を蛍光灯の光に照らしてみた。オイルを入れるだけで、こんなに変わるんだ。大切な人と出会って明るい未来が見え始めた自分と重なる。
「日彩のハーバリウム、赤とかオレンジとか、明るい色で統一されてていいね。元気が出る」
「ありがとう。梨斗のは青系で、爽やかだ」
「作り手の性格に似るのかな?」
「自分で爽やかって言ってんじゃん。てか、私はこんなに明るい人間じゃないし」
「そう? 日彩は思ってるより明るいよ。眩しすぎるくらい」
「……もう」
こんなところで言われると照れくさいじゃん……!
梨斗は満更でもない様子で、出来上がったハーバリウムのボトルの口の部分に赤いリボンをかけた。反対に、私は青いリボンをつける。
「素敵なハーバリウムができましたね。ぜひご自宅で飾ってみてください」
「ありがとうございます!」
店員さんにお礼を伝えて、体験コーナーを後にする。
手作りのハーバリウムは鞄の中に入れて、今度はアトラクションエリアへとやってきた。アトラクションエリアはちょっとした遊園地のようになっており、子供から大人まで、たくさんの人で賑わっていた。
「何に乗る?」
「そりゃもちろん」
私は、アトラクションの中で一番背が高い観覧車を指差した。私たちがいつも乗っていた観覧車よりは小さめだが、海が一望できると人気だそうだ。
「いいね。よおし、乗りますかっ」
梨斗も同意してくれて、観覧車の列に並ぶ。かなり長い列ができており、自分たちの番が来るまで三十分はかかった。
「およそ十五分の所要時間になります。それでは足元にお気をつけて、いってらっしゃい」
スタッフさんに見送られ、ゴンドラの中で向かい合って座る。真昼間に二人で観覧車に乗ったのは、小三の頃、初めて出会った時以来だ。
「いつもと違うから新鮮だね」
「ああ。見える景色が全然違う」
「でも、ゴンドラにいると落ち着くのは一緒」
「なんでだろうね?」
そりゃ、あなたと二人きりだから。
なんて、口にしなくても梨斗は絶対に分かっている。分かっていてわざと聞いてくるところが彼らしかった。
「あのさ、梨斗。私、やっぱり自分の夢は大事にしたいから、メイクアップアーティストになるために専門学校に行くよ。誰かを綺麗にしたら、自分の心まで綺麗になるような気がして、すごく憧れるの」
「そっか。良かった。でもそう思えたのはどうして?」
「一番は梨斗と出会って、家族と向き合えたから。あとは、この間ヤングケアラーたちの集い『バルーンの会』に行ってきたんだけど、そこで自分と同じような境遇の人たちに出会って。みんな、社会から締め出されるのが不安だって言ってた。だからそうならないために、できるだけ早く、進学なり就職なり、真剣に考えるべきだってアドバイスをしてくれて」
そう。実は先週の土曜日に、以前会ったカウンセラーの秋元さんの勧めで、『バルーンの会』を訪れた。とあるマンションの一角で定期的に集いが開かれていて、そこで同じ年代のヤングケアラーたちに出会ったのだ。
私と同じように、祖父母の介護をする人、小さな兄弟の世話に追われている人、親が病気で家族の仕事を一心に担っている人……程度の差こそあれ、みんな家族のために自分の時間を犠牲にしていた。
そんな彼らは、このままこの生活を続けていたらまずいと感じて、『バルーンの会』に来るようになったという。
同じ境遇の人の話を聞いていると、自分の生活を客観視できる。私も、彼らと出会い、自分の将来を見つめ直してみたのだ。
「良い出会いがあったんだね。日彩の決断、素敵だと思う」
まっすぐに私を見つめる彼の瞳にはもう、孤独の色は浮かんでいない。
「ありがとう。梨斗は? これからのこと決めた?」
「ああ。今、お父さんと——この前会った実の父親の方だけど、一緒に暮らせるように話し合いをしている最中なんだ。だから、話がまとまったらお父さんと一緒に暮らす。それから、日彩と同じ高校に行けるように、勉強も頑張ろうと思うんだ」
初めて彼の口から聞いた話に、純粋に驚いた。と同時に、彼が大切な人とまた一緒に生活したいと決意してくれたことが嬉しくて、泣きそうになる。
「そっか。上手くいくといいね」
「うん。上手くいったら勉強教えてよ」
「うげ、勉強は勘弁〜。私だって今、美玖たちに教えてもらってるところなの」
「じゃあさ、今度美玖ちゃんたちから一緒に教えてもらえない?」
「うん、それならいいよ! 美玖と恵菜も、梨斗に会ってみたいって言ってたし」
どんどん進んでいく話に、胸の高鳴りが止まらない。
「美玖ちゃんたちによろしくね。日彩のおばあちゃんは? あれからどう?」
「おばあちゃんは、施設に入るように今勧めてるとこ。ちゃんと家族で話し合って、おばあちゃんも分かってくれたから近々申し込もうと思ってる」
「そうなんだ。寂しいだろうね」
「うん。定期的に自宅に帰って来ることもできるようにしてもらうつもりだよ」
「それは良かった。日彩たち家族が、これから幸せでありますように」
両手を合わせて祈るようなポーズを取る梨斗を見て、両目にうっすらと涙が浮かぶ。
ああ、ダメだ私、また……。
梨斗と出会ってから、どうやら涙腺が緩くなってしまったみたいだ。素直な気持ちを出せるようになった証拠だけれど、泣き虫だって思われたら嫌だな——。
「あ、見て日彩! 海がすごく綺麗だ!」
「わあ……」
梨斗が私の肩越しの景色の方を指さして、思わず振り返る。
青く澄み渡る空の下、広い海が太陽の光を受けて、きらきらと輝いていた。
こんなに……こんなに綺麗な景色を見たのはいつぶりだろう。
たとえ同じぐらい美しい景色を見たことがあったとしても、彼とこの場所で見る景色は世界でいちばん鮮やかで胸に沁みるはずだ。
はっとまた振り返ると、梨斗の顔がすぐそこまで迫っていた。
彼の唇が私の唇に触れた。
無用な心理テクニックなんて必要ない。ただ純粋に、好きの気持ちが繋がっていく。
「きみがいる場所が、僕の帰る場所だよ」
ずっと誰かに吐き出したかった。
私の居場所をください。
自分の人生を生きていいよって、言ってほしくて。
夜の真ん中で彼と出会って、私は変われた。
だから私も、きみの帰る場所になれたなら、すごく嬉しい。
朝も、昼も、夜も。空を見上げればそこにはいろんな色があるけれど、一つに繋がっている。私はこの先もずっと、きみの隣で移りゆく空の色を眺めていく。
あの日、観覧車の頂上で見た、あけぼの色の空の輝きを、覚えている。
【終わり】