それからどれくらいの時間待っただろうか。
「日彩、こんばんは。遅くなってごめん」
門の前で三角座りをして膝に顔を埋めていた私は、待ち焦がれていた人の声で顔を上げた。
「梨斗、こんばんは」
座り込んで待っていた私を不思議に思ったのか、彼は「大丈夫?」と心配そうな表情で覗き込んできた。
「うん、ごめん。ちょっと早く着きすぎちゃって」
「そうなんだ。逆に僕の方は少し遅れて、申し訳ない」
彼にそう言われて、スマホのホーム画面の明りをつける。00:15と表示されていた。確かにいつも、二十四時ぴったりに来てくれる梨斗からすれば遅れている方だ。けれど、十五分遅れたぐらいで、そこまで申し訳なさそうな顔をされると、逆に早く来たこちらの方が悪いような気がした。
「とにかく行こうか」
「うん」
これ以上謝ったり謝られたりするのは嫌だと思っていた矢先、彼は空気を読んですぐに歩き出してくれた。
いつものように観覧車のスイッチを入れて、ゴンドラに乗り込む。彼が管理室に入っている間、頭をよぎったのは先ほど名刺をくれた“葉加瀬さん”のことだ。
梨斗に聞いてみようかな。
ふとそう思ったのだけれど、ゴンドラに乗った途端に、「日彩、何かあったでしょ」とすぐさま問いかけられた。
「何か……うん、あった。色々と」
「良かったら話してくれない? その、話したくなければいいんだけど」
「……話したい」
彼に促されて素直に思った。
私は、いつも以上に今日の学校でのこと、家でのことを梨斗に話したいと思ってたんだ。他の誰でもない、梨斗に。
機械音を聞きながら、梨斗と向き合って座る。もう何度目の観覧車だろうか。真夜中の景色はいつも変わり映えしない。真っ暗な空に登っていく時、世界には私と梨斗の二人だけしかいないような感覚に陥る。二人ぼっちだけれど、寂しくはない。一人で乗っていたら、よほど寂しいのだろうけれど。梨斗の息遣いを聞いていると、暗い空の下でも、自分を取り戻せるような気がした。
「今日ね、学校で、友達が……いや、友達だった子が、別の友達から悪口を言われているところを見たの。その子、美玖っていうんだけど——……」
私は、今日学校で美玖と恵菜、吹奏楽部の子たちが分断している現場を見たことを話した。それから、美玖がピロティで恋人の男の子に良いように扱われていたことも。
私は美玖を庇ってあげられなかったこと。
美玖の恋人の男の子、雄太という少年が、「リト」と名前を口にしたこと。
「その男の子、“雄太”っていう名前らしいんだけど、梨斗知ってる? 雄太はリトのこと、兄貴だって言ってて」
梨斗は“雄太”という名前を聞いた途端、驚きに目を大きく見開いた。
「その人……ガタイが良い男の子だった? 一年生?」
「う、うん。やっぱり知ってるの?」
私の疑問に、彼は小さく頷いた。
「そいつ……、僕の弟」
「えっ」
雄太が梨斗の弟だということに驚いたのではない。
それよりも普段温厚な彼が、雄太のことを“そいつ”と呼んだことにびっくりした。それから、兄弟だというのに雄太が梨斗と全然違う見た目と性格をしていることも。
「弟、だったんだ。まさか美玖の恋人があなたの弟だなんて、すごい偶然」
「確か、中学の頃から付き合ってる彼女がいるって言ってたけど……その美玖ちゃんのことだったんだ」
「中学の頃から……? 私、美玖と同じ中学校なんだけど、梨斗は同じ中学じゃないよね?」
「ああ、雄太のやつ、塾で出会ったって言ってた。近隣の中学校の生徒が集まっている塾だったから、違う学校でもおかしくないよ」
「そういうことか」
もしここで梨斗の中学校のことが分かれば、彼のことを少しでも理解できるかと思ったんだけど、一筋縄ではいかないらしい。梨斗は自分から出身中学校の話なんてしないだろうし。
「なあ、雄太の話はもういいから、日彩の話を聞かせて。友達の美玖ちゃんを庇ってあげられなかったって言うけど、具体的にどんな感じだったの」
弟の話にはこれ以上触れてほしくないのか、梨斗は分かりやすく嫌悪感に顔を歪めた。それからすぐに、やっぱり私の心配をしてくれているらしく、またいつもの優しい顔つきに戻った。
「私が、恵菜や吹部の子たちが教室で美玖の悪口を言っているのを聞いて、過呼吸になりかけたんだ。美玖はそんな人じゃないって否定したいけど勇気がなくて、色々迷っている間に、気分が悪くなってね。その時、美玖が教室に入ってきて声をかけてくれたんだけど……」
——保健室、行った方がいいよっ。一緒に行こうか?
——一人で……行くよ。
心配そうな顔で私を覗き込む、美玖のことを思い出す。あの時私は、美玖の厚意を受け取ることができなかった。
「私は、親切に声をかけてくれた美玖のこと振り切った。怖かったの。仲良しだった美玖や恵菜が、あんなふうにギスギスした雰囲気になってるのを見たら、友達ってなんなんだろうって分からなくなった。私も美玖から裏ではやっぱり付き合いが悪いやつだって思われてるんだろうなって考えたら、怖くて彼女の手を握れなかった」
あの時の、胸が疼く感覚を思い出すと、今でもチクチクと針で刺されるような痛みに襲われる。
梨斗はただ黙って、私の話を聞いてくれていた。いつもと同じだ。彼はいつだって、私の話を聞いて、優しく微笑んで励まして——。
「だから、逃げたんだ?」
ぷすり、とまた一回り大きな針で突かれたような心地がした。
優しさだけじゃない。
逃げたんだ、という言葉が孕む失望がじわじわと彼の中から溢れてくる。私はその流れてきた暗い感情を一心に受け止めた。
「逃げた……うん、そうだね」
私は逃げたのだ。
美玖や恵菜と向き合うことから逃げた。
自分は彼女たちの壊れていく関係の渦中にはいないのだと自分に言い聞かせて、ただ傍観者のふりをして目を逸らした。美玖が差し伸べてくれている手を振り払って、自ら独りになった。
そんな私の弱さを、梨斗は指摘しているのだ。
「ねえ日彩。僕がなんで日彩に声をかけたのか、今こうして一緒に観覧車に乗っているのか、きみは知りたいって言ってたよね」
「うん」
静かな部屋の中で私はこっくりと頷く。
この時間は確かに心地よい。梨斗と、彼についてほとんど何も知らない自分が、唯一二人きりになれる時間。けれどやっぱり私は、梨斗の真意を知りたいと思うし、できれば観覧車以外でも彼と会いたいと思ってしまう。
そのために、彼のことを知る必要がある。だけど今のところ、何一つ、梨斗のことが分からない。
「だったらやっぱり、きみに自分自身と向き合ってほしいんだ。自分と向き合うっていうのはつまり、周りの人間と向き合うことでもある。美玖ちゃんや、恵菜ちゃんと、きちんと話してみたら? きみが二人に対して思っていること。家のこととか、全部。話してみて、それでも友達でいられないなら、もうそれまでだって割り切るしかないと思う。でも話を聞く限り、二人はきみのこと、突き放したりしないと思うよ」
どうしてだろう。
梨斗は美玖や恵菜に会ったことがないはずなのに。
梨斗に大丈夫だと言われたら、本当に大丈夫な気がして。
ああ、そうか。
私は、世界で一番、梨斗の言葉を信じているのだ。
母親でも先生でも友達でもない。出会って間もない彼のことを、一番信じている。梨斗には、他人の懐にすっと入り込んでくる不思議な力があった。
「……梨斗、あのさ」
観覧車は頂上に辿り着く。
真っ暗な闇の中にぽつんと浮かんでいるこの瞬間が、一番目の前の彼と向き合える時間だ。
「いつか……いつか、真夜中だけじゃない景色を見てみたいね」
「……」
思わず漏れてしまった本音に、梨斗は何も言わずに私を見つめた。その瞳がふるりと揺れて、何かを考え込むようにして瞬く。
「私、もっと梨斗と長く一緒にいたい。今日、おばあちゃんがね、私のこと完全に赤の他人だって思い込んでた。敵を見るような目で私を見てて……その時私、とうとうおばあちゃんの中から消えてしまったって思って、悲しかった。今までおばあちゃんのことを助けてきたことも、おばあちゃんの中ではなかったことになってるの。だったら私、本当に何のために今まで頑張ってきたのか、分からなくなって……自分があやふやで、壊れそうだって思って、おばあちゃんからも逃げた。梨斗だけは、私のことをまっすぐに見てくれるから、梨斗に早く会いたいって思ったんだ……」
一度溢れ出した気持ちは、頭の中で上手く言葉にしてまとめる前に口からそのままこぼれ落ちる。
梨斗は神妙な面持ちで、私の目と、膝の辺りに視線を行ったり来たりさせながら、話を聞いてくれているようだった。
「僕も、きみに会いたいって、毎日思いながら生きてる」
ぽつり、と降り始めた雨のように細い声だった。
驚いて顔を上げる。
梨斗は、今まで見たことのないくらい憂いの滲む表情を浮かべていた。
どうしたんだろう。
ほのぼのとした空気感を纏う彼は、今この場にはいなかった。代わりに、彼の中に巣食っている痛みや苦しみの波がどっと押し寄せてきたみたいだ。彼は、初めて会った日に「同じ痛みが分かる人間に、出会ってみたかったんだ」と言った。同じ痛み。梨斗が抱えている痛みは、私のそれよりも大きいような気がして、胸がぎゅっと締め付けられた。
「じゃあさ……真夜中以外にも、会えないかな? お互いの気持ちが一致してるなら、私はあなたに、もっと長く会いたいと思う」
心の底から感じていることを素直に口にして伝える。
これまで、家族や友達には本音を言うことができないでいたのに。
梨斗、あなたには本当の自分を知ってもらいたいって思うんだ。
トクトク、と心臓の音が激しくなるのを感じた。てっぺんから降りていくゴンドラが、私たちを静かに現実へと引き連れていく。
まだ終わらないで。
このまま、この人のそばにいさせて。
何度願っても、規則正しく、回り続ける。
「それは、だめなんだ」
期待していなかったといえば嘘になる。
出会って間もない頃は、「観覧車が回っている十五分間だけ会える」という条件をのんだけれど、もっと仲良くなればその条件もとっぱらってくれるんじゃないかって、心のどこかで思っていた。
でも違った。
梨斗は頑なに、私にこれ以上時間を割いてくれない。
十五分間しか彼に会えない。
寂しい。
ふと芽生えた感情に、気づくのが遅かった。
ああ、そうか。
私、寂しいんだ。
梨斗と別れて一人になるのが寂しい。
彼の気持ちを、毎日十五分以上自分のものにできないのが悲しい。
私はこんなにも、梨斗のことを——。
「ごめん、日彩」
悲壮感が表情から滲み出ていたのか、梨斗は辛そうに謝った。
「ううん、こっちこそ、無理なお願いしてごめん。やっぱりこれからも、二十四時に、会おう。それから……」
まだ彼に話していないことがある。
話していいものか分からなかったけれど、やっぱり伝えておくべきだと感じたこと。
「さっき、梨斗がここに来る前、男の人に会ったの。この遊園地の持ち主だって言う人。その人、葉加瀬さんって名乗ってた」
私は、先ほど葉加瀬さんからもらった名刺をポケットから取り出して見せた。
すると梨斗の顔が一瞬にして凍りつく。
同じ苗字で、この遊園地のことを知っていて、知らないはずがないよね。
「この人、葉加瀬さんって、梨斗のお父さん?」
予想していたことを彼に告げる。
みるみるうちに顔面蒼白になる梨斗。
その反応を見て、やっぱり葉加瀬さんは梨斗の父親なのだと理解した。
でも、なんで?
なんでそんなに苦しそうな顔をするんだろう。
「その人には会いたくない」
きっぱりとした口調だった。
会おうと誘ったわけじゃない。まして父親ならば普段から一緒に暮らしているはずだ。それなのに「会いたくない」とはどういうことだろう。
私の疑問に答えるかのように、彼が再びそっと口を開いた。
「ごめん、言ってなかったんだけど僕、両親が離婚して、母親とその再婚相手の男と暮らしてるんだ。さっき日彩が言ってた美玖ちゃんの彼氏——雄太は、新しい父親の連れ子で、苗字は藤川。本当は僕、“葉加瀬”じゃなくて“藤川”なんだ」
「え——」
衝撃的な事実に思わず目を見開いた。
今まで透明なベールに包まれていた梨斗の一部に、色が付く。彼のパーソナリティを少しだけ垣間見て、ようやく自分と同じ人間だったのだと納得する。
私は今まで、梨斗のことを、やっぱりどこか遠い国から来た不思議な存在のように思っていたんだ。
「嘘ついてごめん。“葉加瀬”の方がしっくりくるからそう名乗ってた」
それだけ言うと、彼は口を噤む。まるでこれ以上は話したくないと言っているようだった。
「そう、だったんだ。びっくりしたけど、そういう事情があったんだね。じゃあ、あの葉加瀬さんは——」
そこまで言った時、観覧車がちょうど下まで辿り着いた。
私たちの今日は、これで終わりだ。
聞けていないことも、知りたいこともまだまだたくさんあるけれど、これ以上は何も教えてくれないと分かって、身体から熱が引いていく。梨斗は「よいしょっと」とわざとらしく声を上げてゴンドラから降りた。
「日彩、今日は色々と話してくれてありがとう。友達と、ちゃんと話すんだよ」
「う、うん。こちらこそ、聞いてくれてありがとう」
結局核心的なことは何も分からなかった。
でも、今まで何も知らなかった梨斗の一部を知れて、その日は家に帰って眠りにつくまでずっと、心臓がドクドクと鳴って止まらなかった。
「美玖」
翌日、昼休みになると、真っ先に美玖に声をかけた。緊張したし、振り向いてくれるか不安だったけれど、梨斗の顔を思い出しては勇気を振り絞った。
美玖は今日も一人で席に座っていた。恵菜は昼休みになるとすぐにお弁当を持って教室から出て行った。美玖と恵菜が仲違いをしているのは火を見るよりも明らかだ。
私に話しかけられたと知った美玖は、驚いた顔をして振り返った。
「日彩……どうしたの」
声に張りがない。
明るくてリーダシップがあって、積極的な普段の彼女からは想像もできないほど、その声は不安げに揺れていた。
「昨日のことで、話したいことがある。今から時間、ある?」
四月に美玖と恵菜との約束を守れなかった時から、彼女たちに話しかけるのがずっと怖かった。もう私のことなんて忘れてしまったんじゃないかって思っていたし、話しかけても迷惑になるだけだと恐れていた。
でも、美玖はしばらくじっと私の顔を見つめた後、「うん」と頷いてくれた。
その反応にどっと安堵が押し寄せる。
「私、購買でパン買ってくるから、お昼、一緒に食べながら話そう」
こんなにもはっきりと自分の意思を伝えたのは久しぶりだ。
美玖は「分かった」と言い、机の横にぶら下げていたお弁当の袋を手に取った。
美玖を引き連れて購買へと向かい、パンを買う。今日はコッペパンがなくて、あんぱんが余っていた。お昼に甘いものだけ食べるのには抵抗があったけれど仕方がない。
どこで食べようかと迷っていると、美玖が「音楽準備室」と呟いた。
「あそこ、昼休みは誰も来ないし、お昼食べてても多分ばれないから」
「え、いいの?」
「なんで?」
「だって私……」
吹奏楽部じゃないのに。
口にするときっと寂しい気持ちに襲われるから、出かかった言葉をのみこんだ。
「とにかく大丈夫だから、行こう」
美玖が私の腕をぐいっと掴み、四階の音楽準備室まで連れて行ってくれた。次期部長の特権で、常に鍵を所持しているらしく、ポケットのキーケースから一つの鍵を取り出して部屋の扉を開ける。
高校の音楽準備室に入ったのは、初めてかもしれない。
もわりとした空気の中、木の温もるような香りが漂う。中学校の音楽準備室で嗅いだ懐かしい匂いと同じだった。所狭しと楽器の収められた部屋は、畳二畳分ぐらいしか空いているスペースはない。
ちょうど窓の真下に美玖が座り込む。どうしようかと迷っていると、美玖が「隣、座らないの?」と聞いてきた。
隣に……座ってもいいんだろうか。
今日美玖と話そう声をかけたのは自分なのに、こんなことで躊躇ってしまって情けない。
美玖の瞳をじっと見つめる。彼女は、さも当然のように、よいしょっと腰を浮かせて少し横にずれた。私が座るだけの十分な隙間が出来上がる。
ここにいていいよって、言われているみたいだった。
ゆっくりと、彼女が空けてくれたスペースに腰を下ろす。美玖とこうして密着して座ったのはいつぶりだろうか。
「日彩っていつも購買のパン食べてるよね」
「あ、うん。お弁当作る暇がなくて……」
「作る暇がないってことは、自分で作るつもりだったの?」
「まあ、ね。でも結局、高校生になってから一度も作れてない。少なくともお母さんに頼むつもりはなかった」
「そうなんだ」
何か事情があると察したのか、美玖は目を大きく見開いた。
「あのさ、昨日の、ことなんだけど」
私は、あんぱんを一口食べたあとにすぐに本題に入った。「え、もう?」と言わんばかりに、美玖があたふたと視線を泳がせる。彼女はまだお弁当箱の蓋を開けただけだ。
「あんまり時間ないから、すぐに聞こうと思って。昨日ね、美玖がピロティで男の子と話してるところを見たんだ。雄太って名前の子。一年生で、美玖の彼氏、だよね?」
駆け引きをするのは好きじゃないから、単刀直入に聞いた。
美玖の肩がピクンと跳ねる。
「……見られてたんだ」
ふう、と観念したように息を吐く美玖に、申し訳ないと思いつつ話を続けた。
「教室でいつもみたいに恵菜と一緒にいないのが気になって、昼休みに後をつけちゃったんだ。ストーカーみたいなことして本当にごめん。その彼氏くんと、美玖が上手くいってないのが分かって……それに、吹奏楽部で揉めてるみたいだったから、心配になった。本当は昨日、美玖に直接聞けば良かったんだけど、それも怖くてできなくて。今になってやっと勇気が出た」
言いたいことが、一気に身体の深部から溢れ出るみたいだ。珍しく饒舌になる私を見て、美玖は何を思っているのだろう。ただ驚いていることだけは分かった。
「美玖、本当は恵菜たちに言いたいことがあるんじゃない……? 一人で抱えてること、あるでしょう? 良かったら私に話してくれないかな。私は美玖のことも、恵菜のことも、まだ友達だと思ってる……ううん、友達でいたいと、思ってるから」
彼女たちに対してずっと心に抱いていたこと。
家のことで忙しくなってから、二人と歩幅がずれて寂しいと感じていた気持ちが溢れ出す。
美玖は一瞬、声にならない吐息を漏らして、ごくりと唾をのみこんだようだった。私に、本当の気持ちを話すべきか否か、迷っている。その様子に、ああ、同じなんだと悟る。
美玖だって、私と何も変わらない。
言いたいことが言えずに腹の底でくすぶっている気持ちに翻弄されてるんじゃないかって。
窓の外から、グラウンドでサッカーやテニスをする人たちの掛け声が遠く響いてくる。今の私たちとは絶対的に温度の違う声に、二人の時間が異空間に切り離されているような感覚に陥った。
「……はは、ばれちゃったか」
美玖は、はーっと楽器を構えてロングトーンをするように細く長い息を吐いて、眉を下げて笑った。その寂しそうな笑顔に、心臓を素手で鷲掴みにされた心地にさせられる。
「たぶん、日彩が聞いたら馬鹿馬鹿しくて笑っちゃうと思う。それでもいい?」
何を言い出すのかと思いきや、予想外の言葉に戸惑う。でも、すぐに彼女が本音を話そうとしていることが分かって、反射的に首を縦に振った。
「ありがとう。じゃあ話すね。話すって言っても、日彩が予想してる通りだと思うけど……。日彩が昨日ピロティで見た雄太は、さっき言った通り私の彼氏。中三の頃、受験対策で通ってた塾で出会ったの。当時の私って、クラスで学級委員してて、正義感がうざいってみんなから疎ましがられててさ。学校で居場所がないって感じてたんだ。そんな時、塾で出会った彼は、私を必要としてくれて……。単純バカな話だけど、それで恋してしまったの。日彩は塾にも行ってなかったし、部活も引退した後だったから、知らなくて当然だと思う。話してもなかったし。そこはごめんね」
「いや、美玖が謝ることじゃないよ」
「そう? ありがとう。時々さ、女友達と恋バナしてて最後の方に『私彼氏いるんだけど』って薄情したら、『えー裏切り者ー!』って言われることがあるから。まあほとんど冗談だろうけど、なんかそういうノリが苦手で、あんまり周りには言えてなかったんだよね。日彩がそういうタイプじゃなくて良かった。……で、話を戻すけど、ぶっちゃけると、その彼氏がいつも上から命令してくるタイプというか……なんとかハラスメント? って疑われるような感じなんだよね」
「それはなんとなく……そんな感じかなって思った」
「ふっ、そっか。昨日の一幕でばれるんなら、相当じゃん。私にとってはもう日常になりすぎて、感覚がおかしくなってるのかも。それでさ、雄太が土日とか連休とかに、私と予定を入れたがって、言うこと聞けってうるさくて。でもずっと、そんな雄太をなんとか宥めて部活だけは休まないようにしてたんだけど。このゴールデンウィークの予定は、彼に逆らえなくてね……。顧問には体調不良だって嘘ついて休んでた。私、次期部長だから、彼氏とのデートで休むなんて言えなかったの」
ほんと、笑えないよねー馬鹿だよねーと、逆に笑いながら話す美玖。私は、彼女の胸の痛みが伝染したように、居た堪れない気持ちになった。
「だけど、みんなに私が彼とのデートで休んだことがばれてしまって。たった一度の休みで、みんなが一斉に敵に回っちゃったみたい。まあ、全部私が悪いんだけど。みんな、これまで私に対して思うとろがあったんだろうね。溜まってたものが一気にバーっと出ちゃった感じ? それで、恵菜も私に呆れたんだと思う……」
恵菜が、吹奏楽部の子たちに囲まれて美玖の悪口を言っていたのを思い出す。いや、正確には、みんなが美玖の悪口を言うのを聞かされていただけかもしれないけれど。それでも、仲良くしていた恵菜が“あちら側”に回ってしまったと知った時の美玖の悲しみがズンと伝わってきた。
「今まで、みんなのためを思って、ちょっと厳しい練習メニューも考えてきたんだ。私自身、しんどい練習にへこたれそうになったこともあった。職員室で、『あなたがもっと率先して練習に打ち込まないとダメでしょう』って、顧問にこっぴどく怒られた日もある。それでも、夏の大会で成果を出すため、先輩たちの最後の夏にみんなが悔し涙を流さずに済むようにって、必死だった。だけど……それがみんなにとっては、ありがた迷惑でしかなかったみたい。ふふ、本当、一人空回りして、何やってんだか……。私は次期部長失格だね」
みんなのために、自分が大変な思いをすることが分かっているのに、リーダーとしての役割を果たそうとした美玖。
同じだった。私は美玖のように部活には所属していないけれど、家で家事や祖母の面倒を見るのに孤軍奮闘しているところは、美玖と何ら変わらない。
それなのに、私たちはどうして今、こんなにも虚しくて空っぽになっているんだろう。
「日彩にも……ずっと、ひどいこと思ってた。高校に入って、付き合いが悪くなったこと、心のどこかで軽蔑したんだと思う。それが態度に出ちゃって、日彩を傷つけたんだって、昨日反省した。本当に、ごめんなさい」
美玖の、心からの謝罪を聞いて、私ははっと彼女の顔を凝視する。
美玖がこんなにも自分の心の内を曝け出しているのに、私がこのままでいいはずがない。
一度、大きく息を吐いて、吸う。
グラウンドから聞こえていた生徒たちの声が、聞こえなくなった。
「私、美玖や恵菜に、話してなかったことがあるの」
美玖が「なに?」と言わんばかりに隣に座っている私の方に顔を向ける。ドキドキと心臓の音が急に速くなった。
「私の家、お母さんとおばあちゃんの三人暮らしだって話はしたことあったかな」
「うん、それは知ってる」
「そっか」と、一息つく。
「四年前にね、おあばちゃんが認知症だっていうのが発覚したんだ。分かったのがその時であって、本当はもっと前から認知症になっていたんだと思う」
認知症、というワードを出したとたん、美玖がごくりと唾をのみこんだのが分かる。身近に認知症患者がいなくても、どういう病気なのか、大体は知っているだろう。
「最初はそれほど物忘れもひどくなかったんだけどね。ちょうど中三になった頃から、おばあちゃんの症状がどんどん重くなっていって。一人でできないことが増えて、私が手伝うことになったの。もちろんお母さんが中心になっておばあちゃんの面倒を見てたんだけど、お母さんは仕事が忙しいから。代わりに私が家事と介護を担うようになった。お母さんは精神的に脆いところがあって、よく愚痴を吐いてくるから、お母さんの愚痴を聞くのも私の役割でね。日に日に悪くなるおばあちゃんの症状についていくのに必死で。高校に上がる頃には、かなり悪くなってた。だから私は高校では部活に入ることもできなくて、放課後になるとダッシュで家に帰って家事と介護に追われる毎日、なんだよね」
祖母の状態や、自分が置かれている現状を他人に話すのは梨斗以外で初めてで、ちゃんと順序立てて話せているかどうか、不安でたまらなかった。でも、美玖は途中で口を挟むこともなく、静かに私の話を聞いてくれている。安堵しながら、続きを話した。
「本当は私、放課後にみんなで遊びに出かけたり、部活に打ち込んだりする青春時代を送りたかった。だけど、家族のことも大事だから放っておくことなんてできない。ずっと、理想の自分と現実の自分の間で、上手くいかないことが多くて苦しいって思ってた。美玖たちにこのことを話せなくて、放課後の約束を守れなかったりもしたよね……。あの時は本当にごめんなさい。格好悪い自分を、見せたくなかったんだ」
そうだ、そうだったんだ。
私は、美玖や恵菜の前で、“普通の”女の子でいたかった。
どこにでもいるような、友達との時間を謳歌する女子高生になりたかった。
だけど現実の私は、みんなとは違う。放課後にまっすぐ家に帰宅して、家政婦のように働く毎日。家族のためだって分かっているはずなのに、この現実から逃げ出したいって思っていた。
「私は、弱い人間なんだ」
ぽつり、とこぼれ落ちた声は狭い音楽準備室の中で、いやに大きく響いた。
美玖は私の話を聞いて何を思っただろう。
繰り返される彼女の呼吸音が、胸に差し迫って聞こえる。梨斗と二人で観覧車に乗っている時とは違う、特別な緊張感が漂っていた。
やがて美玖がゆっくりと口を開く。
「どうして今まで言ってくれなかったの?」
「え……?」
聞き間違いではない。
心の底から私のことを心配してくれているような優しさが滲み出た声色をしていた。
「だから、どうして言ってくれなかったのって!」
美玖が声を張り上げる。私は眉を上げ、両方の目をぱっと見開いた。
「どうしてって……だって、話したら今までの関係が壊れちゃうかもって思って、怖くて……」
高校生なのに家のことや介護なんかしなくちゃいけないなんて、可哀想。
美玖たちにまでそんなふうに思われるのが嫌だった。
私は可哀想じゃない。可哀想な高校生じゃないんだって、自分に言い聞かせてきた。家族のことが好きだから、助けたいだけだって。
美玖や恵菜にこの話をしたら、彼女たちだって私のことを憐れんでくるかもしれないと思うと、怖かった。
「そんなことで壊れる関係なら、とっくに壊れてる! 私はむしろ、どんどん日彩が心を閉ざして、私らを避けるようになったから、嫌われたのかなって思ってた……!」
「ち、違う! 嫌ってなんかないよ。二人のこと、今でも友達でいたいと思ってる」
そうだ、これが私の本音。
家の状況がどんなだって、美玖や恵菜とは友達でいたい。
もう一度三人で笑い合いたい。
ずっと、こんな単純な願いを心の奥底に封じ込めて生きてきたんだ。
「うん、今分かった。言ってくれなきゃ分かんないよ。私だって、日彩と友達でいたいんだから。それとね、日彩。あんたは弱い人間なんかじゃない。そんなふうに家族のために毎日頑張る日彩は、間違いなく強いよ。私が保証する」
ぶわりと、次から次へと溢れてくるものが涙だと気づいた時、膝の上に、大量の水滴が落下していた。
ああ、私。
なんで今まで美玖に事情を話さなかったんだろう。
美玖だけじゃない、恵菜も。きっと二人は笑わずに最後まで話を聞いてくれたのに。二人の間に壁をつくっていたのは、他でもない私自身だった。
「美玖、日彩、そこにいるの?」
音楽準備室の扉の向こうから、恵菜の高い声が聞こえてきたのはちょうどその時だった。私は美玖と顔を見合わせる。美玖の表情がすっと硬くなるのが分かった。そんな彼女の手を、私はぎゅっと握りしめる。さっき、美玖が私にくれた温もりを、彼女に分け与えるように。
「ごめん、実は今の話、外で聞いてたんだ。さっき教室に戻ったら二人がいなくて、他のクラスメイトに聞いてきた。どうしても、二人のことが気になって、探し回ってここに着いたの。美玖、日彩、私も中に入ってもいい……?」
恵菜の声は、不安の色を帯びていた。
彼女も、私たちに話したいことがあるのだ。
そうと分かり、私は美玖の顔を見つめながら、頷く。
「うん、入っていいよ」
失礼します、と小さな声が廊下から響く。窓の下で寄り添うように座り込んでいる私たちを見て、恵菜がぱっと驚いたのが分かった。
「あのね、美玖、私——」
「ごめんなさいっ」
隣の美玖が、ガバッと頭を下げた。私と恵菜は咄嗟の出来事にはっと美玖の方を見やる。
「私が……みんなのこと差し置いて遊びに出かけたりなんかしたから……不快な思いさせて、本当にごめん。みんなのことも裏切って、ごめんなさい」
深く深く、地面に頭がつきそうなほど首を垂れ続ける美玖に、恵菜が慌てて「違う!」と否定した。
「謝らなくちゃいけないのは、私のほうっ! 美玖がいつもみんなのために頑張ってるの知ってたのに、他のメンバーの陰口を止められなかった。それに、美玖のことも一瞬だけ軽蔑してしまってた。でも、二人がここで話してるのを聞いて、反省したの。私は美玖のこと何も分かってなかったんだって……。美玖、彼氏と上手くいってないんだよね……? 相談、してくれたら良かったのに。気づいてあげられなくて、ごめんなさい」
今度は恵菜が頭を下げる。
二人して謝り続けるところを見て、私は胸が締め付けられる思いだった。
みんな、お互いのことを思いやっていたのだ。だけど、少しの勘違いで、心がすれ違っていた。言葉が足りなかったのだ。心に思うことを、声に出して言葉にしなければ、相手には伝わらない。その最たるものを、今私は目の当たりにしていた。
「それから日彩も、最近付き合いが悪くなったって、正直思ってた。でもそんな事情があったんだね……。助けてあげられなくて、本当にごめんね」
恵菜の口から紡がれる思いやりに満ちた言葉に、胸にきゅううっと切なさが広がる。
「ううん、私のほうこそ、話せなくてごめん」
恵菜と、久しぶりに心が通じ合った気がする。
なんだ、こんなに簡単なことだったんだ……。
どうして私、今まで二人に話せなかったんだろうね。
助けてほしいって、言えなかったんだろう。
直接彼女たちに助けてもらうのは難しくても、話を聞いてもらえるだけでも、きっとストレスは減っていたと思う。
「もう、みんな、何よこれ」
美玖がくすっと笑い声を上げた。
それまで緊張で張り詰めていた糸が一気に弛緩したように、三人の間に柔らかい空気が流れ始める。
「私ら、青春映画の主人公みたいじゃない? 互いを見失って、また見つけてーってやつ」
「確かにそうだね。これぞ、青春!」
「二人とも、そんな呑気に……」
真剣な話をした後だったから、突如として空気感が変わって、一人ついていけない私。
「私、決めた。あいつとは別れる」
「あいつって、雄太のこと?」
「そう。もうあんなやつの言いなりになんかならないっ。それで、部のみんなとも、恵菜と日彩とも、とことん向き合って、残りの青春を謳歌する!」
「うん、それがいいよ。私も全力でサポートする。別れる時に何かされそうになったら、私が助ける。日彩も、手伝ってくれるよね」
恵菜が私に問いかける。
「う、うん、もちろん」
友達が困っているのなら、全力で力になりたい。
当たり前の感情がむくむくと湧いて、勇気に変わっていく。
「ありがとう、二人とも。それから日彩」
「何?」
美玖が私の肩の上にぽんと手を置いた。
自分についてこいと、安心させるような力強いまなざしを向けて。
「おばあちゃんのことや家のこと、専門家に相談してみるのはどう? というか、相談するべき! 日彩って、いわゆるヤングケアラーなんだよね。私、言ってなかったけど、実は公認心理士になるのが夢なの。それで、ヤングケアラーについても少しだけだけど調べたことがある。一人で抱え込まずに、エキスパートに頼るべきだよ」
淡々とした口調の中に滲む、彼女の優しさと実直なアドバイスに胸を打たれる。
「専門家……」
「そう。考えたことなかった?」
「う、うん、まったく。家のことだし、家族の問題だから、他人にどうこうしてもらおうっていう考えがそもそもなかった」
「そっか。なんか私がヤングケアラーのこと調べた時も、そんなふうに感じてしまう人の体験談を読んだよ。自分の家庭に問題があるって思ってない人が多いことが分かったんだ。でもやっぱり、自分や家族の中で抱え込んで、潰れちゃう人もいるらしくて。日彩には、そんなふうになってほしくない。だから頼ってみようよ」
今までの私だったら、きっと家庭の問題は自分で解決するべきだと、美玖の言葉を素通りしていただろう。
けれど、私のことを思って提案してくれている友達の気持ちが嬉しくて、素直に頷いていた。
「分かった。相談してみる」
美玖と恵菜が、ほっとした様子で柔らかな笑みを浮かべる。
音楽準備室に明るい日差しが舞い込んだ。
「もう、こんなとこに楽器置いてたら日が当たっちゃうっての」
楽器が焼けないように、美玖と恵菜がいくつかの楽器を窓から離れたところに移動させる。私はカーテンをそっと閉めた。
その日、家に帰って、早速ヤングケアラーの人たちのカウンセラーをしている専門家について調べた。『バルーンの会』という、ヤングケアラーたちの集いがあるらしく、そこに所属している心理カウンセラーの人たちが顔写真付きでHPに載っていた。
『困ったことがあれば、いつでもご相談ください。相談窓口はこちら』
という一文のもと、メールアドレスが記載されている。
ここにメールをすれば、この人たちに繋がるんだ。
そうと分かると、メールアドレスをスマホにメモする。
今すぐメールをする勇気はないけれど、近々連絡させてもらおう。
心に決めて、その日の家事をこなした。
「梨斗、私、美玖たちに自分の気持ちを打ち明けたよ」
二十四時、いつものように梨斗と遊園地の観覧車に乗り込んだ私は、早速彼に今日のことを報告した。美玖や恵菜と向き合おうと思ったのは、梨斗のアドバイスがあったからだ。彼に報告しないわけにはいかなかった。
「本当に? どうだった?」
「二人とも、なんでもっと早く話してくれなかったのって言ってた。話してくれたら力になったのにってちょっと怒られちゃった。でも、私のことを考えてくれてるからだって分かって、すごく……嬉しかった」
もう二度と、美玖と恵菜とは友達でいられないと思っていた。
でも、ほんの少し勇気を出して本音を打ち明けただけで、今こんなにも清々しい気分で満たされている。
「そっか……それは、本当に良かった」
梨斗がにっこりと笑う。
私が大好きな、彼の笑顔。
いつも見ているはずなのに、どういうわけかこの時は心臓がどきんと大きく跳ねた。
「ん、どうしたの日彩」
「いや、なんでもない! なんか、気持ちが変わると見える景色も変わってくるんだなあ、と思って」
咄嗟に誤魔化しながら窓の外を見る。梨斗もつられて、「本当だ」と外を見て声を上げた。
「街の灯りがいつもより明るい」
「梨斗にもそう見える?」
「うん、見える。日彩が前向きになってくれて、僕も嬉しいから」
彼の言葉の一つ一つが、胸にしんと沁みていく。
この時間は永遠ではない。分かっているけれど、今だけは永遠であってほしいと願ってしまう。
私、梨斗ともう少し隣に——。
無意識のうちに身体が前のめりになっていることに気づき、慌てて引っ込める。私ってば、何をしようとしてたの? 恥ずかしくなって、彼と顔を合わせないようにもう一度外を見た。
「隣、座る?」
「え?」
ふと柔らかな声でそんなことを言われてばっと彼の方を振り向く。
「いや、いつもこうして正面に座ってるから、たまには隣に座るのはどうかなって」
そう言う彼の頬が、薄暗い中でも上気しているのが分かった。梨斗のこんな顔、初めて見た。思わずまじまじと見つめてしまう。彼は恥ずかしさを堪えているのか、じっと私の方を見たり、窓の方を見たりして視線を泳がせていた。
「う、うん。隣に、座りたい」
気がつけば口から本音が漏れていた。
私の答えを聞いた梨斗が、徐に立ち上がり、隣に座る。片方の椅子に二人が座っても、ゴンドラはちゃんと水平を保っている。少しだけ揺れたけれど、すぐに幸福感に満たされた。
何これ……。私、今すごく幸せだ。
胸がドキドキとして、隣の彼に聞こえないか心配になったほどだ。梨斗からは、清潔な石鹸のような良い匂いが漂ってくる。彼の匂い。出会ってからあまり意識したことはなかったけれど、この匂いを嗅ぐと、梨斗がそばにいてくれると安心させられる。だから好きな匂いだった。
「少しずつだけどさ、日彩の表情が前より明るくなってるような気がして、僕も嬉しいんだ」
「梨斗……」
不意に彼が呟いた。そんなふうに思ってくれていることが嬉しくて、それから、どういうわけか切なさに胸が揺れた。
彼の声色に、私を心配してくれる憂いが滲んでいる。
梨斗はどうしてそこまで、私を想ってくれているんだろう。
彼に聞いてみたいけれど、なんとなく、聞くのが憚られた。
「日彩、今度はお母さんとも話してみたら」
彼にどう声をかけようかと迷っていたら、梨斗の方が再び口を開いた。
「お母さんと?」
「うん。だって日彩が抱えている問題は、日彩だけのものじゃないでしょ。家族で話し合って初めて解決されるんだと思うよ」
言われてみればその通りすぎて、反論の余地はなかった。私は、今まで家のことを問題だと捉えていなかったけれど、第三者から見れば十分問題なんだ、と改めて悟る。
「分かった。お母さんとも話してみる」
「そうしてみて。またどうなったか、僕に教えてほしい」
「うん」
梨斗に背中を押されると、ふっと身体が軽くなったような気がするから不思議だ。見えない翼を広げて、このままどこまででも飛んでいけそうな気分にさせられる。
「梨斗、今日はいつもより星が綺麗に見えるね」
「本当だ。ずっと快晴だったからだね」
観覧車の頂上から、普段よりもうんと近くなった夜空を見て実感する。
「いつか、梨斗のことも知れたらいいな。そうしたら私——」
その先の言葉を紡ごうか迷ったけれど、やめた。
ここで自分の気持ちを吐き出すのは野暮だと思ったからだ。
梨斗の息遣いをいつもよりも間近に感じながら、祈る。
この二人の温かな空間が、ずっと続きますように。
そしていつか、あなたに本当の想いを伝えられますように。
触れた肩から感じる温もりが、初めて彼と出会った日から随分と遠くへと運んでくれたなと思わせてくれた。
「お母さん、今日って夜の仕事ある?」
翌朝、目が覚めた私は、食卓で朝食を食べながらニュースを見ていた母に尋ねた。
「今日? 今日はお休みよ」
「そっか。じゃあちょっと話があるんだ」
改めて母に話がある、なんて言うのは少し恥ずかしかった。母は案の定、「何?」と目を丸くしている。
「また夕方に話すよ」
「そう。分かったわ。ちょうど今日、早退しようと思ってたの」
「早退? なんでまた」
「最近体調がすぐれなくてね。上司に相談したら、半休を取るよう勧められて」
「そっか。大丈夫なの?」
「ええ、軽い貧血だろうから半日休めば十分よ」
「分かった。じゃあまた夕方に」
体調が悪いというのは気になったけれど、淡々と返事をしてくれて、気分がほっと和らぐ。色々と勘ぐられるのは好きじゃない。母の無防備な受け答えが、今の私にとってはありがたかった。
学校に着くと、昨日までと違って美玖と恵菜が揃って挨拶をしてくれた。
「おはよう!」
「おはよう、美玖、恵菜」
昨日まで、私たちの間にはギクシャクとした空気が流れていたのに。腹を割って話したことで、気まずい気持ちがなくなっていた。それどころか、前より二人と仲良くなれた気がして嬉しかった。
「私、今日あいつに別れようって言おうと思ってるんだ」
美玖が決意に満ちたまなざしで言った。
「え、雄太に?」
驚き。昨日、確かに別れるとは言っていたけれど、昨日の今日でもう行動に移そうだなんて。
「早いよね。美玖っていつもやると決めたら即行動! の人間だから」
「そうだよ。だって、早いとこ部のみんなとも仲直りしたいし、示しをつけたい。そのためには、今すぐ彼と別れるのが一番だって思ったんだ」
「そっか。美玖はすごいよ。頑張って」
別れ話をするのに「頑張って」というのはちょっと違うのかもしれない。けれど、一昨日見た雄太の性格の感じだと、別れてと言っても食い下がってくる可能性がある。だからどうか、美玖が雄太と無事に別れられますように。
「日彩は? 色々と決心ついた?」
美玖の目が問いかける。
決心、というのは彼女が昨日勧めてくれたヤングケアラーの専門家に相談する決心ということだろう。
「うん、少しずつ調べてる。でも今日はその前に、お母さんと一度話しておこうと思って」
「ああ、確かに。家族と話すのが先だね。忙しいみたいだけど、話し合う時間は取れそうなの?」
「大丈夫。きっとゆっくり話せばこれからのことも一緒に考えられると思う」
「そっか。じゃあ、日彩もファイトだね!」
美玖と恵菜が私に向かって拳を突き出してくる。
そこに自分の拳をコツンとぶつけた。
こんな日が来るなんて、思ってなかった。
中学で部活を引退してから、二人と私の間には溝ができていると思っていたから。二人の世界に、私はいない。それが寂しくて悲しくて仕方がなかった。
けれど今、もう一度三人で同じ時間を過ごすことができている。溝はいつのまにか埋まっていて、地続きの現実世界に、私は二人と息をしている。
無事に学校での一日を終え、放課後になった。
美玖たちを部活へと送り出した私は、いつにも増して早々と帰路に着く。
お母さんと、どういうふうに話そうかな。
なんて切り出そう。
頭の中でぐるぐると考えながら帰宅して、玄関の扉を開ける。
「ただいま」
「……」
返事はない。母は今日半休を取ると言っていたから、とっくに家に帰っているはずなんだけど。コンビニにでも出かけてるのかな。あ、でも、靴がある。よれたパンプスが、玄関の端っこにきちんと揃えて置いてあった。
だとすればトイレかもしれない。
ひとまず家に上がって、母の姿を探す。居間へと続く扉を開き、キッチンへと差し掛かった時、信じられない光景を見た。
「お母さん!?」
キッチンの前で、母が倒れていた。
仕事に出かける時のきちんとした服を着たまま、床に転がっている。
「お母さん、大丈夫っ!?」
気が動転しながら、咄嗟に母の身体を揺さぶる。でも、返事はない。背筋に冷や汗が流れる。母の脈を確認する。ちゃんと動いているし、息もしていた。少しだけ安心したけれど、それでも震えは止まらなかった。
ポケットからスマホを取り出して「119」のボタンを押した。
「あのっ、私のお母さんが、家で倒れてて……!」
救急車を呼ぶのは初めてで、声は上擦るし、きちんと状況を伝えることもできなくて泣きたくなった。けれど、救急隊の方が冷静に話を聞いてくれたおかげで、なんとか気を持ち堪える。
「はい……はい、分かりました。そのまま待ちます」
母が倒れた原因が分からない以上、むやみやたらに身体を揺するのはダメだと聞いて、そっと母の肩に手を添える。不安で不安でたまらない。
「梨斗……助けて」
咄嗟にこぼれ落ちた彼の名前が、部屋の中でこだまする。
助けて、誰か。
お母さんを助けて。
泣きそうになりながら、心の中で必死に祈る。
しばらくして救急車のサイレンが聞こえ、救急隊員が部屋に上がり込んできた時、ようやく少しだけ安堵した。
「娘さんですね。一緒に来てください」
「はい、あ、でもおばあちゃんが」
「おばあちゃん? いるんですか?」
「はい。認知症なんです」
「それじゃあ、おばあちゃんも一緒に」
「分かりました」
部屋で寝転がっていた祖母を連れて、救急車に乗り込む。
「ちょっと、何よ! 私は家にいたいんだっ」
「いいから来て!」
イヤイヤをする祖母を救急車に乗せるのに、一苦労した。
こんな時にどうして。どうして私とお母さんの邪魔ばかりするの!
早く運ばないと、お母さんが死んじゃうかもしれないのにっ。
思わず本音が口からこぼれそうになり咄嗟に口を塞ぐ。
冷静になれ……と言い聞かせても、やっぱり心のざわめきは止まらない。
おばあちゃんがもっとしっかりしていれば。お母さんが倒れた時にすぐに救急車を呼んでくれたら。
考えても仕方のないことをぐるぐる、ぐるぐる、永遠に考え続ける。救急車の中で終始怒った顔をしている祖母のことを、空っぽの心で見つめていた。