雲一つない満月の夜。
 風が凪ぎ、家の裏手の山中にある湖に、月の姿が美しく映る『水鏡(みかがみ)の日』にだけ、九重悠希は、異世界へと旅立つことが出来た。
 事の発端は、自身を育ててくれている祖父母との約束を、軽い気持ちから破ったことから始まった。

――満月の日の夜は、裏山の湖にだけは近付いてはならない。あそこには、子どもを食っちまう化け物が住んでいるから――

 悠希の住む集落の辺りでは昔からそんな言い伝えがあるようで、祖父母でなくとも、たまたま通りがかった近所のおじいさんからも、同様のことを言われてきた。
 悠希はそれを、子どもに一人だけで山遊びをさせないようにする為の躾け文句、早い話が『嘘』なのだろうと思っていた。

 しかし、子どもからすれば、家やその近所の何もないところで遊ぶだなんて、とにかくもつまらないものな訳で。
 両親の顔も未だ覚えていない時分に死に別れた悠希は、物心つく頃には既に、ある田舎で暮らす祖父母と共に居たのだが、そのせいで近所に年の近い者はおらず、毎日同じような日々を送っていた。
 小学校へ上がる前まではそれでも良かったが、何となく点けるテレビや新聞、たまに親の帰省で着いてくる近所の子どもらと接し、その話が理解出来るようになってくると、六つの少年は、次第にその日々に退屈さを覚えるようになってしまったのだ。

 そんなある日。

 好奇心、冒険心といったものがとにかくも強い少年であった悠希は、ある夏の日の夜、帰省してきた近所の子と山で花火大会をしようという話がある、と嘘を吐き、一人山中の湖へと向かうことにした。
 そんな言葉を、祖父母は始め、心配そうな表情で聞き返した。が、その子らの親が着いてきてくれるから大丈夫だ、と重ねた嘘に安心した様子を見届けると、そのまま家を後にし、悠希は湖へと走った。
 今日は丁度、水鏡の日――何もなければ帰ればいいし、次からは来る必要もない。反対に、何かあれば面白い遊びが一つ増える。

 そんな、軽い気持ちだったけれど。
 湖へと到着した悠希は、我が目を疑った。

――光ってる――

 水面に映る月がキラキラと輝き、辺りを照らす。
 それはまるで、自分のことを歓迎してくれているかのようで……。
 悠希は、知らず知らずの内に、その湖へと一歩、また一歩と近付いていった。
 その刹那、

「うわっ!」

 身体を、意識を引っ張られるような感覚。
 暗転。
 そうして数秒の後、

「う、ぅん……」

 開いた視界いっぱいに色とりどりの花々、それらから漂う甘い香りが広がった。

「えっ……えっ⁉」

 思わず大きな声を出したその後で、隣で蠢く幾つかの影に気が付いた。

「おや?」

 くねくねと動くそれらの正体が、大きな狐の尾であり、その尾を携えているのが綺麗な女性であることを、悠希はすぐには理解出来ず、しばらくの間、固まってしまっていた。