「――うん、今日も綺麗な街並みだね。異常なし」

 朝の空気を胸いっぱいに吸い込むと、青年は高らかに声を上げた。
 妖たちの集う都『桜花(おうか)』で最も高い建物である鐘楼からの眺望は、青年がここでの活動を本格的に初めてからこっち、たまの楽しみになっていた。
 街を見渡し、何か問題事を見つければ駆け付け、それを解決した後で仕事へと向かうのだ。
 上司からの招集に対し多少の遅れは生じるものの、目についたそれらを放っておけないのは、青年生来の性格故。
 もっとも、上司から言わせればそれは『ただ面倒事に自分から首を突っ込んでいる』だけなのだそうだが。

「ほっ――――っと」

 一息に飛び降りた青年が何事もなく着地を決めると、辺りにいた者の視線が青年へと向けられた。
 頭上から落ちてきた影に驚いたから、ではなく、

「おう、坊主。鐘楼への侵入は罰則対象だったろ?」

 青果店の店主が声を掛けてきた。
 その問いかけに、青年はバツが悪そうに苦笑い。
 そう。鐘楼は、この国に於いては神聖な建造物である為、特別な許可がない限りは誰であっても原則立ち入りを禁止されている。

「おはようございます。朝から精が出ますね、おじさん」

「すっとぼける芝居ばっか上手くなりやがって。これで何度目だ? 俺はもう雲外(うんがい)様をごまかしてやんねぇぞ」

「そこを何とか。あの面倒くさがりな雲外様だって、毎日ここらの偵察に来るわけでもないんですから」

「それはそれ、だ。お前がこれまで他に何をしでかして来たのかは知らんが、顔を合わせる度に『ユウは何か粗相をしていないか』って尋ねられるんだよ。毎度毎度違う言い訳考えてるこっちの身にもなってくれや」

 肩を落とし、呆れたように大きな息を吐く店主に、青年――ユウは、申し訳なさそうに笑う。

「で? そんなこともお構いなしにのぼってった割にゃあ、随分と早く降りてきたな。飽きたか?」

「まさか。ここの素敵な街並みは、何度目にしたって飽きることはありませんから」

「そいつは結構。ここでずっと商売をしてる身としちゃあ、嬉しいこった。なら招集か? 忙しそうで羨ましいこった」

「羨望されるような仕事内容であったなら良かったんですけどね。今朝、声がかかったんですよ。雲外様から直接の命なので、咲夜(さくや)様か菊理(くくり)様からの仕事かと」

「へえ、勅令って訳だ。ちっと前までうちの荷車の周りではしゃぎ回ってたガキが、随分と立派になったもんだ」

 店主が懐かしそうに話すものだから、ユウも釣られて、昔日の思い出が蘇った。
 ユウがまだ少年だった頃、修行の合間の遊び場は、いつもこの辺りだった。
 何人かでかくれんぼや鬼ごっこをしていたものだから、露店を営む者からすれば、鬱陶しいことこの上ない存在であったことだろう。事実、何度も露店主から怒られた。
 しかしこの青果店の店主だけは、そんな子どもたちのことを笑い飛ばし、その度、これから売り物になる筈の果物まで与えていた。

 子どもは元気が一番。それだけで宝だ。
 そう、口癖のように言っていた。

 今にして思えばそれは、五月蠅い大人の言葉なんか右から左だ、と励ましてくれてもいたかのように思う。
 互い、懐かしい思い出である。

「しかし、凄い装飾ですね。一夜にして、ここまで景観が変わってしまうなんて」

 ユウが、辺りに目を配りながら言う。
 新しい街灯に提灯、小物の装飾、建物それ自体が変わっている所もある。
 昨夜、青年が最後に見た街並みにはどこも、そういった類のものは施されていなかった。

「一夜ありゃあ十分ってな。俺もその内だが、ここにゃそれに長けた『奴ら』が沢山いるんだからよ」

「そうでした。専門中の専門が、ね」

「おうともよ」

 店主が大きく頷く。
 そうしてまた、ユウは様変わりした街並みに目をやった。
 それら装飾の類は、ある一つの、大きな行事の為のものだ。

 『千年巡礼』――あるいは縮めて『巡礼』とも呼ばれるそれは、文字通り先年に一度執り行われる祭典のことを指す。
 一年を通して大いに盛り上がり、楽しみ、国を挙げて喝采する行事。
 一生涯を何百年と過ごす妖でも、それに参加することはおろか、準備に取り掛かることすら叶わないことが大半だ。
 故に、参加出来るの者は出来るだけ盛大に、出来るだけ派手にやるのだそうだ。

「華々しいじゃねえか。年間通して各地を行脚するって咲夜様の使命は疲れそうだが、その為の、言ってみりゃあ祈りみてぇなもんだからな、俺らの騒ぎはよ」

「――ですね」

 ユウは、少し抑揚のない声で頷いた。

「お前さんも立場上、咲夜様や菊理様に着いてくんだろ? 気ぃ付けて、しっかり気張って来いよ」

「ええ。きっと、無事に帰って来ます」

 無理やり作った笑顔の意味が、露店主にどのくらい伝わったのか。
 ニッと笑うと、蓄えた立派な髭を撫で回しながら口を開いた。

「そこで、だ。物は相談だがよ、坊主。雲外様にゃあ黙っててやるから――」

「うっ……い、良い果物ですね。今日の営業が終わった時に余ったもの全部、僕の名前で城に届けさせてください」

「おう! へへっ、毎度あり!」

 思いがけず高くついた口止め料。
 次回の給金支給まで食い繋ぐことができるだろうか――そんなことを考えながらも、鬼のような懲罰を免れられるのなら安いものかと飲み込んで、ユウは城への道を急いだ。