『――――から、どうでしょう……ということも――』

 知らない声。聞き覚えはない。
 夢の中なのかは分からないけれど、これは陽向くんの声でもない。

「身体に異常はありませんね」

 声は次第に、言葉となって届くようになってきた。考えられる最悪の事態になっていないことだけは把握出来た。

「ぅ、ん……」

 頑張って瞼を押し上げる。
 真っ白で眩しい灯りが、目に痛い。思わず顔を覆うようにして伸ばした手元に、違和感を覚えた。
 薄く開いた視界で捉えるのは、透明で細いパイプのようなもの。何とかピントを合わせて確認するそれは、どうやら腕に繋がれているらしかった。
 てっぺんには液体の入ったパックもついている管。すぐ近くの方で、ピ、ピ、ピ、と無機質な音も聞こえる。特徴的な変な香りもする。
 そうか――私は今、病院にいるんだ。
 辺りをぐるりと見回す。瞬間、

「陽和ちゃん…!?」

 今度のそれは、よくよく聞き覚えのある声だった。
 まだはっきりとしない目で見ても、いや、見なくとも分かる。随分と心配そうな声だ。

「涼子さん……どうしてここに? 熱はもういいの……?」

「午後になって何ともなくなったから、様子を見に行ったのよ。そうしたら、どんなに呼びかけても返事がなくて……覚えてる? ピアノのある部屋で倒れていたのよ?」

「家に、って……もう、無理しちゃダメでしょ?」

「ばか、私の心配なんかしてる場合じゃないでしょ…! すぐに救急車を呼んで運んでもらったけど、いつになっても目を覚まさなくて――十時間近くも眠ったままだったのよ? ナルコレプシーの発作で寝ている時とは違って、酷く魘されてたし」

 運ばれてから十時間――それだけの時間、涼子さんもここにいたんだ。悪いことをしてしまった。

「なるべく危ないことはしない、危なそうなところには行かないって、自分からあれだけ気を付けてたはずなのに。どうしてわざわざ、あのガラスの写真立てなんかに近付いたりしたの?」

「えっと、それは……」

 涼子さんの言葉に、私は当時のことを振り返って頭を回す。
 どうして近付いたか、は簡単だ。近付いてしまったのだ。
 けれど、意識を失ったのはその辺りのことが理由ではなかった。
 身体はしんどかったし、熱っぽくもあったから、遠からず限界は来ていたことだろうとは思えるけれど、意識を失うような眠気もなかった。それは覚えている。
 ――――臍の緒だ。あれを見てしまったから、私は意識を失ってしまったのだ。
 しかし、それをそのまま伝えてしまうのはどうだろうか。あまり良くないのではないだろうか。

「えっと……ガラス以外に、何かなかった……?」

「以外? 倒れた貴女と、あの写真くらいだけれど――ええ、何もないわ」

 少し考えた後で、涼子さんはそう言った。何度か「うーん」と首を捻っていたけれど、それだけだと断言してみせた。
 あの土壇場で私は、桐の箱を元の場所に戻すような形をとっていた。未だ蓋こそ開いたままだろうけれど、涼子さんも私のことで焦っていたのか、その存在については気が付いていない様子だ。
 あるいは――

「うん、それ……久しぶりに、見たくなっちゃって」

「もう、気を付けないと駄目でしょ? あの写真をはじめ、ガラスとか危ないものの近くには、必ず私か美那子さんを誘ってから行っていたのに……でも、ごめんなさい。それを言うなら、私だって同じことかしらね。貴女がピアノなんて弾くものだから、舞い上がっちゃってたのかも。注意も忘れてね」

「い、いや、それは違うよ…! ほんと、私の不注意で……ごめんね、涼子さん。まだ病み上がりなのに」

「いいのよ、そんなことは。無事でよかったわ」

 涼子さんは大きく息を吐いた。
 ベッドサイドに跪く涼子さんに手を伸ばしたところ、私は腕に鈍い痛みを覚えた。そちらに目を向けると、大きくないものではあるものの、包帯が巻かれていた。
 私の視線に気が付いたらしい涼子さんから説明がなされる。

「各所軽度裂傷と打撲、それから軽い脳震盪、とお医者様は言っていたわ。命に別状はないし、どれも放っておけばすぐに治る程度のものだそうだけれど――しばらく、無茶は無しね」

「うん、そうみたい。これじゃピアノも弾けないもん」

 弾いたところで、上達するような満足のいく練習も出来ないことだろう。
 私は、溜息交じりに現状を受け入れ、力なく天井を見上げた。

「ほんとに、ごめんなさい」

「私の方こそ。無事でよかったわ。本当に」

 そう言うと涼子さんは、優しく、私の手の上に自身の両手を乗せた。
 きゅっと握られる手が温かい。

「…………うん」

 頷いて、私も涼子さんの手を握り返す。瞬間、また少しばかり痛みが響く。

「あ、はは、ちょっと痛いや」

 私はすぐに力を抜いた。

「痛いのも眩しいのも、ちゃんと生きている証拠よ。忘れないで」

 涼子さんは優しく笑った。
 感覚があるのは、生きてる証拠。
 涼子さんの言葉はしっかりと飲み込みながら、私は夢の住人に思いを馳せる。
 生きて、こうして温もりをくれる相手の前で、だ。
 こんなこと間違ってる。そう思うけれども、あの世界が一体なんなのか、彼は一体誰なのか、どうしてこっちでもピアノが弾けるようになったのか、そして――どうして、普通の睡眠ではなく、ナルコレプシーの発作による睡眠に限ってのみ、あの世界へ行くことが出来、彼と話すことが出来るのか。
 知りたいこと、ではない。これはきっと、私が知らなければいけないことなんだ。
 あの部屋に置いてあった、例の臍の緒――あれは間違いなく、この事象を説明する為の鍵だ。

「起きて喋ってる様子を見たら、ちょっとだけ安心したわ。話さないわけにはいかないから、ちょっと美那子さんに連絡してくるわね」

 そう言って立ち上がると、涼子さんは病室を後にした。
 扉が閉められると、辺りは静寂に包まれた。
 人の気配もない。個室だったようだ。

「臍の、緒――」

 独り言ちて考える。
 けれども現状、それを確認する術、仮説を立てる為の材料はない。
 何か知っていそうな、知り合いと言える知り合いは、思いつく限り幼少の頃にピアノを習いかけた、あの先生くらい。母の旧友という話だった筈だから、何か知っているのは間違いないけれど、だからと言って今更会えるわけがない。
 私は、自分がどんな病院で産まれ、誰が立ち会い、どんなことがあったか等、幼子の時分の出来事を、何一つ知らない。
 母に詳しく尋ねなかったから、というのが大きな理由だけれども、それだって、周りと違って自分には父がいないと正しく認識した時から、自分の過去についてむやみやたらに詮索はしないでおこうと思ったからだ。
 それが、どうやら間違いだったらしい。
 幼く無邪気だったそれ以前に、何度か母に自分の過去のことを尋ねたこともあったけれど、その度、母は『また今度ね』『まだ難しい話だからね』『今は忙しいからね』と言って、頑なに避けて来た。
 今思えばあれは、誤魔化しか、教えたくないのか、あるいは教えてはいけないことだったのではないだろうか。
 言わないのではない。秘密にしている訳でもない。
 言ってはいけないことだったんだ。
 隠すに足る理由があるからこそ、私には言わないままで、これまで過ごしてきたのだ。
 あの臍の緒のことだって、この十六年間、知らなかったくらいなのだから。
 ――あんなところにあって、今まで気が付かなかったとは。
 いや、ここ数年はあの部屋にも入っていなかったからか。背丈が足りなかった時分には、写真は涼子さんか母に取ってもらっていたから、気が付かなかったんだ。

(隠す理由……)

 考えたところでふと、先日ポストに入っていた封筒のことを思い出した。
 コンビニでも買えるような、どこにでもある茶封筒。送り主の情報は書かれていなかったけれど、綺麗な手書きであった。
 『森下家の方へ』なんて堅い書き方をしていた割には、会社名などの記載だって一切なかったということは、誰か個人からのものだ。それも、名前を書かずとも字の癖なんかで分かるような――普段は涼子さんがポストの中身を精査していることから、母だけ、あるいは母と涼子さんだけが分かる相手。
 見知った仲だけれど何か理由があって、万一私が手に取ってしまった時でも上手く誤魔化せるよう、名前は書かず。
 二人以外、要は、私には名前を明かせない人物からのものなのだろう。
 私自身、文通をする相手や、重要書類が届くような企業だって相手にいない。学校からのものなら、その記載は必ずある。佳乃とはメールか電話でのやり取りしかしたことはない。仮に佳乃からのものだった場合、私個人の名前を宛てる筈だ。
 リビングのテーブルの上で野ざらし、というのも悪いからと、何となく自室の机に置いておいたけれど、気まぐれが、まさかこのような形で功を奏そうとは。
 涼子さんがもし熱も何もなく、いつも通り元気に来ていたならば、知る由もなかった。
 仮に、あれが送られてきたのが初めてだとするなら、住所はなくとも、最低でも名前か、何かしら分かるような目印の一つでも付けておくものではないだろうか。けれど、あれにはそういった類のものは見られなかった。
 差出人の名前や住所がない以外、不審な点は別段なかったはずだ。
 一度ではなく二度以上、ああして送ってきているものなのだと考えると、宛先が母であるかそうでないかは別として、涼子さんは全て知っているということに他ならない。私より早く起きていて、家にまで来ていて、それを今まで一日たりとも欠かしたことなんてなかったのだから。
 ああいうものがあるのだと、内容こそ知らずとも、存在は知っているはずだ。

 ……この読みが合っていようが外れていようが、今ここで涼子さんに尋ねるのは駄目だ。
 少しでも踏み込んだ話をすれば、あの時私が何をしていたのか、何を見たのかまで悟られて、せっかくの機会を一つ、失ってしまう。
 絶好のチャンス――と言ってしまうと涼子さんには、いや母にも悪いけれど、教えてくれないのであれば、自分から探し出さないといけない。
 あの臍の緒に隠された謎、真意は、私が知らなければいけないことなのだ。

(ごめんね、涼子さん……)

 心の中で強く、深く謝って、私は退院の時を待った。