「――――ぅうん……あれ…?」
目が覚めた。いつもの部屋だ。
大きな伸びとともに、大きな溜息も零れた。
何だか、妙に身体が重たい。けれど、休んでいる暇はない。
母が帰って来るまで、もうあまり時間もない。そこが目標ではないけれど、仕上げるだけ仕上げて、驚かせないと。
そう思うと同時に、また電話でのことを思い出す。
「夢……」
初めにそれを抱いたのは、まだ年端もいかない頃に見た、母の姿。
音色、それを奏でる表情――どれも、昨日のことのように思い出せる。覚えている。
本当はずっと弾きたくて、それでも弾くことが出来なくて、一度は諦めた。
けれど今になって――まだまだ疑問は多いし、不完全なものではあるけれど、無茶をしてでも縋りつきたいチャンス。
「今しか、出来ないんだから」
重い体に鞭を打つ。
何キロにも及ぶ鉛が、身体中そこかしこに取り付けられているように重い。
それでも、私は楽譜を手に取る。
何に追われているのか。何に怯えているのか。自分でも分からないままに、ただ楽譜を手に取り、目を通す。
一つ二つと、読んだ端から詰んでゆく。
少し、呼吸が荒くなってきた。重だるさも感じて来た。
「これと、これ――あっ、これも」
言い知れない恐怖の正体は、本当は分かっていた。
寝ている間にだけ行ける、あの世界――唯一、楽譜が読めて、ピアノだって弾ける世界が、いつまであるとも分からないことだ。
一週間後までなのか、あるいは一年後か。はたまた今日中にもう終わってしまう可能性だってある。
期限が分かっているのなら、それを踏まえた上で計画を立てられる。きっぱりと諦めるか、地道に頑張るか。
しかしそれが分からない以上、目的、夢というものを抱いてしまった以上、それを実現できる可能性がある内は、立ち止まる訳にはいかない。
ある日途端に消えてしまうようなものだとしても、やっと手に入れた手段なのだ。
本当はずっと、ああなりたかった。母のように偉大で、素晴らしい奏者に――
「読まなきゃ。何でもいいから」
目についたものから無造作に引っ張り出しては、読むだけ読んで、詰んでゆく。
手当たり次第に知識を貪った。
まるで、この十数年の内に出来なかった、やりたかったことを、全て今この瞬間に取り戻すように。
「コホッ。風邪でもひいたのかな……まぁいっか。これと、これも……」
手にしたそれらは、上へ上へと積んでいるつもりだったけれど、気が付けば、次々と溢れて床へと落ちてしまっている。
ゴン、ガタン、と大きな音を立てて落ちて、パタンと倒れるそれらすら、私は意識の埒外へと追いやっていた。
身体が熱くなってゆく感覚がある。ただぼんやりと熱っぽいだけものだったけれど、次第に視界はぼやけ、意識も遠のいてゆき、終いには足元も覚束なくなった。
ふらふらと本棚に縋りながら、それでも楽譜を手に取って、手にしたそれは目を通すことなく落としてしまう。
「あとは――あっ…」
本棚について身体を支えていた筈の右手が、空を掴んだ。
まずいと思いながらもフォローは間に合わず、鈍い音を立てながら身体をぶつけ、そのまま倒れ込んでしまった。
すんでのところで床に両手をついたおかげて何事もなく済んだけれど、幼少のころからこの部屋に入って来る度に眺め、温かい気持ちになっていた、まだ私が産まれたばかりの頃の写真――それを綴じていたガラスケースが、ぶつかった衝撃で床に落ち、割れてしまっていた。
咄嗟に退き、破片を割ける。
「あー……や、やっちゃった……」
細かく砕けた透明な欠片の中で、思い出が泣いている。
何を焦り、何に焦らされているのか、もう自分でも分からなくなってきた。
少しの落ち着いたところで立ち上がり、写真の立てかけてあった一画を見やる。するとその奥に、見たことのない桐の箱が置いてあることに気が付いた。
これまではただ、写真を眺めるばかりだったから、そこに何があるかも知らなかった。
駄目なことだろうか――そう思いながらも、私は箱を手に取った。
それは、私の手の中にさえ納まるくらい、小さな箱だった。封や鍵の類はない。
まずいか。戻した方が良いか。そう思いもしたけれど、それ以上に好奇心が勝ってしまった。
僅かな逡巡の後、聊かの罪悪感も抱きながら、私はその箱に指を掛けた。
拒むことなく、蓋は正直に浮いてゆく。そのまま勢いで開け切ってしまう。
「えっ――――こ、これ……」
私は思わず、放るようにして棚の上へと戻した。
蓋はずれ、中身は晒されたまだ。
固唾を飲んで、改めて覗き込む。
私が開けた桐の箱。その中には、更に一回り小さなガラスケースが入っている。すっかり弱って見えるそれは、写真と同じく思い出の品――誕生した命、その生の証。
臍の緒だった。
けれど、ただそれだけであったならば、私だって投げ捨てるようなことはしなかった筈だ。
私が産まれた証だ。大切な代物だ。感動こそしたって、拒むような気持ちにはならなかっただろう。
「臍の、緒……でも、えっ、これって……なんで」
声にならない声が零れる。
誰に聞こえるでもなく空気に溶けると、途端に寒気が襲って来た。
全身総毛立つ感覚。ぞわりと震える背中。途端に乾いてゆく喉。
唾を飲み込むことも忘れた私に聞こえるのは、ただ、自分の荒い息遣いと、五月蠅いくらいに強く、速く打つ心臓の音。
こうしている今も時を刻んでいる筈の時計の音も、届かない。
「どうして……」
口にしかけた、その刹那。
全身の力が抜ける感覚のまま、私は意識を手放した。
目が覚めた。いつもの部屋だ。
大きな伸びとともに、大きな溜息も零れた。
何だか、妙に身体が重たい。けれど、休んでいる暇はない。
母が帰って来るまで、もうあまり時間もない。そこが目標ではないけれど、仕上げるだけ仕上げて、驚かせないと。
そう思うと同時に、また電話でのことを思い出す。
「夢……」
初めにそれを抱いたのは、まだ年端もいかない頃に見た、母の姿。
音色、それを奏でる表情――どれも、昨日のことのように思い出せる。覚えている。
本当はずっと弾きたくて、それでも弾くことが出来なくて、一度は諦めた。
けれど今になって――まだまだ疑問は多いし、不完全なものではあるけれど、無茶をしてでも縋りつきたいチャンス。
「今しか、出来ないんだから」
重い体に鞭を打つ。
何キロにも及ぶ鉛が、身体中そこかしこに取り付けられているように重い。
それでも、私は楽譜を手に取る。
何に追われているのか。何に怯えているのか。自分でも分からないままに、ただ楽譜を手に取り、目を通す。
一つ二つと、読んだ端から詰んでゆく。
少し、呼吸が荒くなってきた。重だるさも感じて来た。
「これと、これ――あっ、これも」
言い知れない恐怖の正体は、本当は分かっていた。
寝ている間にだけ行ける、あの世界――唯一、楽譜が読めて、ピアノだって弾ける世界が、いつまであるとも分からないことだ。
一週間後までなのか、あるいは一年後か。はたまた今日中にもう終わってしまう可能性だってある。
期限が分かっているのなら、それを踏まえた上で計画を立てられる。きっぱりと諦めるか、地道に頑張るか。
しかしそれが分からない以上、目的、夢というものを抱いてしまった以上、それを実現できる可能性がある内は、立ち止まる訳にはいかない。
ある日途端に消えてしまうようなものだとしても、やっと手に入れた手段なのだ。
本当はずっと、ああなりたかった。母のように偉大で、素晴らしい奏者に――
「読まなきゃ。何でもいいから」
目についたものから無造作に引っ張り出しては、読むだけ読んで、詰んでゆく。
手当たり次第に知識を貪った。
まるで、この十数年の内に出来なかった、やりたかったことを、全て今この瞬間に取り戻すように。
「コホッ。風邪でもひいたのかな……まぁいっか。これと、これも……」
手にしたそれらは、上へ上へと積んでいるつもりだったけれど、気が付けば、次々と溢れて床へと落ちてしまっている。
ゴン、ガタン、と大きな音を立てて落ちて、パタンと倒れるそれらすら、私は意識の埒外へと追いやっていた。
身体が熱くなってゆく感覚がある。ただぼんやりと熱っぽいだけものだったけれど、次第に視界はぼやけ、意識も遠のいてゆき、終いには足元も覚束なくなった。
ふらふらと本棚に縋りながら、それでも楽譜を手に取って、手にしたそれは目を通すことなく落としてしまう。
「あとは――あっ…」
本棚について身体を支えていた筈の右手が、空を掴んだ。
まずいと思いながらもフォローは間に合わず、鈍い音を立てながら身体をぶつけ、そのまま倒れ込んでしまった。
すんでのところで床に両手をついたおかげて何事もなく済んだけれど、幼少のころからこの部屋に入って来る度に眺め、温かい気持ちになっていた、まだ私が産まれたばかりの頃の写真――それを綴じていたガラスケースが、ぶつかった衝撃で床に落ち、割れてしまっていた。
咄嗟に退き、破片を割ける。
「あー……や、やっちゃった……」
細かく砕けた透明な欠片の中で、思い出が泣いている。
何を焦り、何に焦らされているのか、もう自分でも分からなくなってきた。
少しの落ち着いたところで立ち上がり、写真の立てかけてあった一画を見やる。するとその奥に、見たことのない桐の箱が置いてあることに気が付いた。
これまではただ、写真を眺めるばかりだったから、そこに何があるかも知らなかった。
駄目なことだろうか――そう思いながらも、私は箱を手に取った。
それは、私の手の中にさえ納まるくらい、小さな箱だった。封や鍵の類はない。
まずいか。戻した方が良いか。そう思いもしたけれど、それ以上に好奇心が勝ってしまった。
僅かな逡巡の後、聊かの罪悪感も抱きながら、私はその箱に指を掛けた。
拒むことなく、蓋は正直に浮いてゆく。そのまま勢いで開け切ってしまう。
「えっ――――こ、これ……」
私は思わず、放るようにして棚の上へと戻した。
蓋はずれ、中身は晒されたまだ。
固唾を飲んで、改めて覗き込む。
私が開けた桐の箱。その中には、更に一回り小さなガラスケースが入っている。すっかり弱って見えるそれは、写真と同じく思い出の品――誕生した命、その生の証。
臍の緒だった。
けれど、ただそれだけであったならば、私だって投げ捨てるようなことはしなかった筈だ。
私が産まれた証だ。大切な代物だ。感動こそしたって、拒むような気持ちにはならなかっただろう。
「臍の、緒……でも、えっ、これって……なんで」
声にならない声が零れる。
誰に聞こえるでもなく空気に溶けると、途端に寒気が襲って来た。
全身総毛立つ感覚。ぞわりと震える背中。途端に乾いてゆく喉。
唾を飲み込むことも忘れた私に聞こえるのは、ただ、自分の荒い息遣いと、五月蠅いくらいに強く、速く打つ心臓の音。
こうしている今も時を刻んでいる筈の時計の音も、届かない。
「どうして……」
口にしかけた、その刹那。
全身の力が抜ける感覚のまま、私は意識を手放した。



