現実でもピアノが弾けることを知ってから、早一週間が経過した。
 一度も急な眠気や寝落ちはおとずれなかったけれど、却って都合は良かった。
 まだよく分かってはいないけれど、心の在り方次第だと言っていたように、強く望まなければあの不思議な世界に落されることもないらしい。
 学校での他愛ない会話や、母との日常――そんな、何でもない夢ばかりが続いている。

 その間、私は次あの世界に行けた時の為に、必死になって知識を貪っていた。
 モーツァルト。シューマン。シューベルト。ショパン。ドビュッシー。リスト。あらゆる楽譜を、時間の許す限り読み込んだ。
 何度か吐き戻すこともあったけれど、それを耐えてでも成したいと思えることが――目標のようなものが、まだ漠然とではあるけれど、私の中に芽生え始めていたからだ。

 それと平行して、不思議なことも起き始めていた。

 読めない、吐気、嘔吐――そういった症状が、少しずつではあったけれども、確実に緩和していっていた。
 それに気が付いた頃には、読んだ楽譜のほんの一部分だけでも、正しい旋律として、頭の中に浮かぶようにもなっていたのだ。
 読めば読むほど、それに比例して症状が緩和されていっているように。
 それは悪いことではなかった。寧ろ良いことだろう。
 学校に行けば佳乃に「楽しそうじゃん」と笑顔を向けられ、家に帰れば涼子さんに「最近生き生きしてるわね」と優しく言われる。
 今までの自分が他人にどう映っていたのか――それを確かめるようなことはしないけれども、私自身、誰よりもそれを鮮烈に感じ取っていた。

 楽しい。心の底から、そう思えて仕方がない。
 これが『充実している』ってことなんだろうな。

 あの一曲が弾けて以来、未だあの世界には行けていないから、どれもまだこちらでは弾けない。弾こうと思って鍵盤に指を置いても、頭の中にイメージが沸かない。
 それでも、私は日々を楽しんで過ごしていた。あの部屋に入ることが、ピアノを目にすることが、楽譜を読むことが、どれも楽しくて仕方がない。

 そんな、ある日のことだった。

 土曜日の朝早く、スマホが震える音で目を覚ました。
 重くて開かない瞼は放っておいて、手探りでスマホを手にする。誰かは分からないけれど、佳乃辺りだろう。

「もひもーひ……」

『あらあら、随分と眠そうな声ね。ふふっ。起こしちゃったかしら?』

 声の主は、佳乃よりもよくよく聞き覚えのある声だった。

「涼子さん!?」

 私の頭は一気に覚醒した。
 今まで一度も、朝に電話がかかってきたことなんてなかった。スペアの鍵を渡してあって、私が目覚める頃には既に、朝食の準備に取り掛かっているからだ。
 驚きながら、私は思わず顔から話した画面を見やる。
 そこには、確かに『涼子さん』と表示されていた。

『おはよう、陽和ちゃん。元気?』

「お、おはよ。うん、元気だけど――珍しいね。何かあった?」

『ええ、それなんだけど。ごめんね、三十八度近い熱が出ちゃって、今日だけ大事を取らせていただこうかと思うわ。勿論、美那子さんの方にも後から連絡を入れるけれど――あ、別に、身体の方は何ともないのよ、本当に、何もないわ』

 そう話す声は、いつもと違う。鼻声だし、くぐもって聞こえる。

「いやいや、三十八度近く出てて何ともないわけないでしょ。涼子さんはきっと働きすぎなんだよ。神様が『休め―!』って警鐘を鳴らしてるんだね」

『もう、何それ。ごめんね、今日は一人で――』

「大丈夫! この間お母さんを見送ってくれた日だって、何とかなったんだし。こっちのことは良いから、ゆっくり休んでしっかり治すこと! いい?」

『ふふっ。はーい、それじゃあお言葉に甘えて。朝からごめんなさいね。陽和ちゃんも、せっかくの日曜なんだし、しっかり身体を休めてね』

「うん、ありがとう。またね」

 答えると、少ししてからプツっと通話が切られた。
 程なくして切り替わった画面には、母と二人で映っている写真が表示される。母が初めて開催したソロコンサートの終演直後に撮ったものだ。

「懐かしいなぁ……」

 母はあの頃から容姿が全くと言っていいくらい変わっていないけれど、私は十以上も歳を取った。隣に並んでいる様が、何だか不思議に思える。

「――よしっ! やるか!」

 気合十分に頬を叩く。しかししっかりと痛みにひりつく頬を撫でながら、大丈夫かなと自問。
 これまで『家政婦』という仕事である涼子さんに、家のことは全て任せっきりだった。
 さっきはああ言ったけれど、この間は洗濯や掃除はする必要がなく、昼と夜の食事だって用意されていた。ともすれば、私は何もやっていないに等しい。
 かと言って、見栄を切ってしまった手前、今からかけなおして尋ねる訳にもいかない。母への電話の第一声も、決意表明と決めている。

「…………大丈夫。出来る出来る」

 呪文のように言い聞かせると、私は意識を切り替えて、一つ一つ順に消化していく道筋を考え始める。休日ならば尚更、やるべきことは山積している。
 朝食――は、どうとでもなるから、一旦置いておくとして。

「まずは洗濯、かな」

 イメージはついている。以前、涼子さんが洗濯機の設定をしている場面にでくわしたことがある。

「今は便利な世の中だもん。大丈夫大丈夫。確か、透明な玉みたいなやつを入れて、回してたっけ」

 単純明快。文明の利器に感謝だ。
 私は小走りで洗面所の方へと向かった。昨夜に出していた私自身の衣類を投げ込むと、傍らに置いてあったケースを手に取る。
 中には、イメージしていた通りの水溶性の固形洗剤が入っていた。

「この香り……昔、私がこれが好きだって言ってたの、ずっと覚えてるとか……? まさか――いや、涼子さんなら有り得るのかな」

 一つ放り込んで電源を入れ、スタートボタンをポチ。いとも簡単に回り始める洗濯機。

「おぉー……」

 感嘆の声を上げつつ、次は朝食の準備にでも取り掛かろうかと足の向きを変える。
 そんな時、外の方でバイクの音が聞こえた。家のすぐ前で止まったかと思うと、それはすぐにまた走り去ってゆく。

「あ、そっか、郵便」

 いつもは涼子さんが取っていて、起床した私がリビングへと足を運ぶ頃には、既に机上へと置かれている。
 改めて、本当に毎日やって来ているのだな、と思う。いっそ、ここに住んでしまってもいいのに――と考えて思い出すのは、私がまだ小学校に上がる以前のこと。
 よくよく懐く私を見た母が、涼子さんにその旨で相談した。けれども涼子さんは、仕事は仕事、それ以外の日はただ遊びに来ているようなものだから、と言って断った。
 公私混同は避けるべきだ――そんなことを言う涼子さんが、子ども心に『真面目な人だな』と思ったことを、今でも覚えている。

「あー、思い出しちゃった……あの時、私すごく泣いてたような」

 大きくなると、どうせ毎日会えるんだからと思えるようにもなったけれど、それまでは、どうして一緒に住まないのかと、毎日のように詰め寄っていた。
 そんな思い出と共に心機一転、私は自分で鍵を開けて、次いで扉も押し開けた。
 普段は目にしない時間帯の太陽は、それは眩しい光を放っていて、思わず目を瞑ってしまう。
 ゆっくり開くと、昨夜に少しばかり降った雨によって濡れた草花が、朝日に照らされて、見慣れた庭先がとても幻想的に映った。

「わ、綺麗……」

 キラキラと光る草花。そこからぽたりぽたりと滴り落ちる水の粒。
 視覚から、聴覚から、嗅覚からも楽しめてしまう。
 胸いっぱいに朝の空気を吸い込んで、何度か深呼吸を繰り返してから、私はポストの方へと歩いた。取り出した手元には、新聞、広告類に加えて、何やら見慣れない封筒が一つ。
 差出人の名前はない。が、

「森下家の方へ、って……え、何これ?」

 あまりに怪し気な代物である。中身だけ検めて、変なものなら捨ててやろうか。
 そう思いもしたけれど、万一重要なものであったらダメだ。とりあえずは家の中へと持ち込んで、机上にでも置いておこう。