私、森下陽和は幼少の頃、ピアノを即興で弾くのが得意だった。
ピアニストである母が、家でピアノを触っていない時に、気まぐれから何となく触ってみたことがきっかけだった。
ふとして頭に浮かんだ音の並びが、プロの母から見ても秀逸だったのだとか。それをただ何となく弾いていた私を、母は驚いたような表情で褒めてくれていたのをよく覚えている。
当時の私には、よく分からない話だったけれど。
もう少し大きくなったらピアノを習うのも良いかもしれないわね――そんな会話をしたことも、はっきりと覚えている。
母が大変に喜んでくれていた為に、私も楽しんで弾いていた。あの頃の私は多分、母の喜ぶことなら何でも楽しかったんだと思う。
うちには、父親がいないから。
持病のナルコレプシーこそ厄介なものではあったけれど、通学中や大事な時に発作が起こったことはなかった。それ以外の時間は、弾いて、笑って、楽しい時間は沢山あった。
そんな親子のやり取りに、家政婦として日々出入りしている山本涼子さんも、一緒になって喜んでたっけ。
笑顔が溢れて、とても温かい時間だった。
月日は流れ、小学二年生に上がった頃。そろそろピアノを習おうかという話が持ち上がった。
私自身、それは待ち望んでいたことだったから、話が纏まるのは早かった。母の知り合いで、厳しいけどちゃんとした技術が身につくと噂の、元ピアニストだった先生がやっている教室へ通うこととなった。
久しぶりね。何年ぶりかしらね。楽しそうに再会を喜ぶ大人二人だったけれど、私の目には、美しい姿を堂々と曝す、珍しい『純白』色のグランドピアノが映っていた。
やがて、その様子に気が付いた先生が、とりあえず何か弾いてみてくれるかと提案したことをきっかけに、私は跳んで喜びながら椅子に座った。
その時にはもう、一つの旋律が、漠然とではあったけれども浮かんでいた。
けれど、蓋を開けた瞬間、言い知れない緊張感に包まれた。
少し不快にも思える感覚の正体は、私が自宅以外の場所、人の前では、今まで一回たりとも弾いたことがないことからくる、重圧のようなものだった。
休み時間、あるいは音楽の授業なんかでその機会があったならば、また感じ方も変わったことだろうが、私はかなりのあがり症でもあったから、人前で何かをするということを極端に避けて来たのだ。
お遊戯会、運動会など、そのどれでも、脇役か、極力目立たない種目だけに徹してきた。
それでも、先生を唸らせるに足る演奏が出来たこともまた事実であったらしい。
こんなことがあるのか。まだ楽譜というものの見方も知らない子に、こんなことが可能なのか。そう話していた。
先生は、私のレッスンを進んで買って出た。
今にして思えばそれは、読めないからこその自由度だったのだろうと思う。
読めていた、いや読もうとしていたなら、結果はまた違ったものになっていたはずだ。
だって、私は――
きっかけは、レッスンが始まってからすぐのことだった。
何度目かのレッスンの時。
私の気持ちとしては、本当なら母に教えてもらいたいところだったのだけれど、当の本人がそれを強く拒んだ。
理由は簡単だ。母が、教えるのに向いていないタイプだったから。
母は『感覚派』の天才と言うのか、言葉や行動で、話して見せて教えることが、どうも苦手なのである。
それには自覚もあるようで、『基礎からしっかり固めて、地道な成長を遂げて欲しい。正しい経験、知識といったものは、間違いなく未来の財産になるから。プロになるか否かは、そのあとでいい』それが、母の気持ちだった。
そうして、いざレッスンが始まったは良いけれど、それはそれはつまらないものだった。ピアノには触らず、まずは基礎の基礎――音符や記号の読み書き練習から始まったからだ。
必要なことだと頭では分かっていても、子どもなんて好きなことをやりたいと思うのが普通。私は、とにかくピアノを弾きたかった。弾く為の勉強がしたかったのだ。
それが、これは何だそれは何だと、ずっと教本と睨めっこ――と、そう上手く進むこともなかった。
「陽和ちゃん。これ、全部間違ってるわよ?」
それは、簡単な楽譜の作成学習をしている時のことだった。
先生にそう指摘された私は、一度全部消して書き直して、再提出した。直したそれは、私の目には、さっきのものと全く同じに映っていた。
これでどうして間違っているのだろう。そう思いながらも、また先生に見せたところ、
「――また、全部。と言うか、さっきよりもぐちゃぐちゃよ?」
そんな。どうして。あり得ない。
慌てて取り返したそれをもう一度見やると、やっぱり合っている。筈だと思う。けれど、念の為また全部消して、書き直した。
合っている筈だ。ちゃんと、習った通りに出来ている筈だ。どこも間違ってなんかいない。間違っているはずがない。
そんなことを思いながら、また消して、書いて、消して、書いて――何度繰り返しても先生の答えは、
「…………違うわね。さっきと比べても、まったく」
先生は難しそうな表情で、首を横に振った。
「そんな……」
狼狽える私の様子を見かねてか、ちょっと待っててねと言い残すと、先生は一度部屋を後にした。
その間、私はまた、自分で何度も書き直した。やっぱり合っている。間違っていないはずだ。どうしてこれで間違っているんだろう――そう、疑問に思うばかり。
程なくして戻って来た先生だったが、今日のレッスンはもう終わりだと言って教材をしまうと、代わりに「ゆっくりしてて」とお茶を差し出して来た。
何のことか分からず、考えている内、それには一口もつけられないまま。
数十分後、母が迎えに来た。
そのままの足で連れていかれたのは、大きなとある病院だった。
どうしてこんなところに。疑問ばかりが募る中、一人の医師の指示で、幾つかテストをさせられた。
結果、
「間違いありません。ディスレクシア、学習障害と呼ばれる症状です。局所性学習症と言いまして、基本的な生活を送る上での支障は凡そないものの、この頃の子どもの本分であるところの『学習』という点に於いて、軽度ないし決定的な障害がある状態のことを指します。分かり易い例を挙げますと、文章の中で平仮名だけ、あるいは漢字だけの読み書きが出来なかったり、数字は読めるけれども計算は出来ないといった、あれらです」
まだ幼かった私には、よく分からない難しい話だった。けれど、隣で服の裾をずっと握りしめていた母の様子から、明るい話題でないことはすぐに分かった。
しかしそれも、医師が「でも」と続けた後の言葉に、母はついぞ全身の力が抜けてしまう。
「長年、そういった境遇の子どもたちを沢山見て来た私ですが、これは初めてのことです。娘さんは――陽和ちゃんは、『楽譜』だけが読めない学習障害をお持ちのようです」
障害、という言葉より、楽譜だけが読めないと言われたことで、私もようやく自身の置かれている状況を理解した。
楽譜が読めない楽譜だけが、読めない。
難しいことは相変わらず分からなかったけれど、ただ漠然と、とても虚しいような、物悲しいような気持ちになったことだけは覚えている。
あんなに楽しいと感じていたピアノのことが、一瞬にして考えられなくなった。意識が遠のくような感覚とともに、周囲の声が何も入って来なくなる。目の前で話す、母と医師の声すら届かない。
後に、私は簡単な曲であっても、耳で聴いた通り再現する能力にも乏しいことが分かった。だから、幼い頃から、真似ではなく即興という形になってしまっていたのだということも。
だからこそその医師の言葉は、私たち親子の、言ってみれば最高のコミュニケーションツールになるはずだったものを壊してしまう、あまりに残酷な現実を見せることとなった。
ピアニストである母が、家でピアノを触っていない時に、気まぐれから何となく触ってみたことがきっかけだった。
ふとして頭に浮かんだ音の並びが、プロの母から見ても秀逸だったのだとか。それをただ何となく弾いていた私を、母は驚いたような表情で褒めてくれていたのをよく覚えている。
当時の私には、よく分からない話だったけれど。
もう少し大きくなったらピアノを習うのも良いかもしれないわね――そんな会話をしたことも、はっきりと覚えている。
母が大変に喜んでくれていた為に、私も楽しんで弾いていた。あの頃の私は多分、母の喜ぶことなら何でも楽しかったんだと思う。
うちには、父親がいないから。
持病のナルコレプシーこそ厄介なものではあったけれど、通学中や大事な時に発作が起こったことはなかった。それ以外の時間は、弾いて、笑って、楽しい時間は沢山あった。
そんな親子のやり取りに、家政婦として日々出入りしている山本涼子さんも、一緒になって喜んでたっけ。
笑顔が溢れて、とても温かい時間だった。
月日は流れ、小学二年生に上がった頃。そろそろピアノを習おうかという話が持ち上がった。
私自身、それは待ち望んでいたことだったから、話が纏まるのは早かった。母の知り合いで、厳しいけどちゃんとした技術が身につくと噂の、元ピアニストだった先生がやっている教室へ通うこととなった。
久しぶりね。何年ぶりかしらね。楽しそうに再会を喜ぶ大人二人だったけれど、私の目には、美しい姿を堂々と曝す、珍しい『純白』色のグランドピアノが映っていた。
やがて、その様子に気が付いた先生が、とりあえず何か弾いてみてくれるかと提案したことをきっかけに、私は跳んで喜びながら椅子に座った。
その時にはもう、一つの旋律が、漠然とではあったけれども浮かんでいた。
けれど、蓋を開けた瞬間、言い知れない緊張感に包まれた。
少し不快にも思える感覚の正体は、私が自宅以外の場所、人の前では、今まで一回たりとも弾いたことがないことからくる、重圧のようなものだった。
休み時間、あるいは音楽の授業なんかでその機会があったならば、また感じ方も変わったことだろうが、私はかなりのあがり症でもあったから、人前で何かをするということを極端に避けて来たのだ。
お遊戯会、運動会など、そのどれでも、脇役か、極力目立たない種目だけに徹してきた。
それでも、先生を唸らせるに足る演奏が出来たこともまた事実であったらしい。
こんなことがあるのか。まだ楽譜というものの見方も知らない子に、こんなことが可能なのか。そう話していた。
先生は、私のレッスンを進んで買って出た。
今にして思えばそれは、読めないからこその自由度だったのだろうと思う。
読めていた、いや読もうとしていたなら、結果はまた違ったものになっていたはずだ。
だって、私は――
きっかけは、レッスンが始まってからすぐのことだった。
何度目かのレッスンの時。
私の気持ちとしては、本当なら母に教えてもらいたいところだったのだけれど、当の本人がそれを強く拒んだ。
理由は簡単だ。母が、教えるのに向いていないタイプだったから。
母は『感覚派』の天才と言うのか、言葉や行動で、話して見せて教えることが、どうも苦手なのである。
それには自覚もあるようで、『基礎からしっかり固めて、地道な成長を遂げて欲しい。正しい経験、知識といったものは、間違いなく未来の財産になるから。プロになるか否かは、そのあとでいい』それが、母の気持ちだった。
そうして、いざレッスンが始まったは良いけれど、それはそれはつまらないものだった。ピアノには触らず、まずは基礎の基礎――音符や記号の読み書き練習から始まったからだ。
必要なことだと頭では分かっていても、子どもなんて好きなことをやりたいと思うのが普通。私は、とにかくピアノを弾きたかった。弾く為の勉強がしたかったのだ。
それが、これは何だそれは何だと、ずっと教本と睨めっこ――と、そう上手く進むこともなかった。
「陽和ちゃん。これ、全部間違ってるわよ?」
それは、簡単な楽譜の作成学習をしている時のことだった。
先生にそう指摘された私は、一度全部消して書き直して、再提出した。直したそれは、私の目には、さっきのものと全く同じに映っていた。
これでどうして間違っているのだろう。そう思いながらも、また先生に見せたところ、
「――また、全部。と言うか、さっきよりもぐちゃぐちゃよ?」
そんな。どうして。あり得ない。
慌てて取り返したそれをもう一度見やると、やっぱり合っている。筈だと思う。けれど、念の為また全部消して、書き直した。
合っている筈だ。ちゃんと、習った通りに出来ている筈だ。どこも間違ってなんかいない。間違っているはずがない。
そんなことを思いながら、また消して、書いて、消して、書いて――何度繰り返しても先生の答えは、
「…………違うわね。さっきと比べても、まったく」
先生は難しそうな表情で、首を横に振った。
「そんな……」
狼狽える私の様子を見かねてか、ちょっと待っててねと言い残すと、先生は一度部屋を後にした。
その間、私はまた、自分で何度も書き直した。やっぱり合っている。間違っていないはずだ。どうしてこれで間違っているんだろう――そう、疑問に思うばかり。
程なくして戻って来た先生だったが、今日のレッスンはもう終わりだと言って教材をしまうと、代わりに「ゆっくりしてて」とお茶を差し出して来た。
何のことか分からず、考えている内、それには一口もつけられないまま。
数十分後、母が迎えに来た。
そのままの足で連れていかれたのは、大きなとある病院だった。
どうしてこんなところに。疑問ばかりが募る中、一人の医師の指示で、幾つかテストをさせられた。
結果、
「間違いありません。ディスレクシア、学習障害と呼ばれる症状です。局所性学習症と言いまして、基本的な生活を送る上での支障は凡そないものの、この頃の子どもの本分であるところの『学習』という点に於いて、軽度ないし決定的な障害がある状態のことを指します。分かり易い例を挙げますと、文章の中で平仮名だけ、あるいは漢字だけの読み書きが出来なかったり、数字は読めるけれども計算は出来ないといった、あれらです」
まだ幼かった私には、よく分からない難しい話だった。けれど、隣で服の裾をずっと握りしめていた母の様子から、明るい話題でないことはすぐに分かった。
しかしそれも、医師が「でも」と続けた後の言葉に、母はついぞ全身の力が抜けてしまう。
「長年、そういった境遇の子どもたちを沢山見て来た私ですが、これは初めてのことです。娘さんは――陽和ちゃんは、『楽譜』だけが読めない学習障害をお持ちのようです」
障害、という言葉より、楽譜だけが読めないと言われたことで、私もようやく自身の置かれている状況を理解した。
楽譜が読めない楽譜だけが、読めない。
難しいことは相変わらず分からなかったけれど、ただ漠然と、とても虚しいような、物悲しいような気持ちになったことだけは覚えている。
あんなに楽しいと感じていたピアノのことが、一瞬にして考えられなくなった。意識が遠のくような感覚とともに、周囲の声が何も入って来なくなる。目の前で話す、母と医師の声すら届かない。
後に、私は簡単な曲であっても、耳で聴いた通り再現する能力にも乏しいことが分かった。だから、幼い頃から、真似ではなく即興という形になってしまっていたのだということも。
だからこそその医師の言葉は、私たち親子の、言ってみれば最高のコミュニケーションツールになるはずだったものを壊してしまう、あまりに残酷な現実を見せることとなった。



