それは、今年初めての夏日に、学校帰りに二人で寄った喫茶店でのこと。
中間テストが終わり、少しだけ気持ちにも余裕ができた、そんな日だった。
「友達の話なんだけど」
ガムシロップを二つ分入れたアイスコーヒーは汗をかいていた。赤いラインの入ったストローがグラスの中でくるくる回る。
「モテる人が気になっているんだって」
青吾の手元を眺めていた俺は、視線をあげた。二人の間で恋愛の話題が出るなんて、とても珍しいことだった。
気温が高くなっても袖のボタンをきっちりと留め、ネクタイをしめてベストまで着ている青吾は、その見た目通り真面目で、清廉潔白で、純粋無垢だ。俺をのぞきこむ目も、やや青みを帯びて澄んでいる。
「でさ、どうすれば自分のことを気にしてもらえるのかなって言っていて。彬はモテるだろ。どうすればいいのか、教えてよ」
アイスカフェオレを飲んでいた俺は、答えあぐねて青いラインの入ったストローから口を離せない。
さて、なんて答えればいいんだろうね。
俺が気にしている人は、青吾だけなのに。
☆
青吾と出会ったのは、中学一年生のとき。
但馬青吾というクラスメートのことはもちろん知っていたけど、真面目、というくらいの印象しかなかった。その頃は、自分を守るのに精一杯で、周りに目を向ける余裕がなかったから。
小学生のときはよかった。
小さな頃から一緒に過ごしていた同級生たちは、日本人の母よりもイギリス人の父に似ている俺を見た目で特別扱いすることはなかった。かっこいいと言われたこともあったし、好きと言われたことも二回あったけれど、インドア派で大人しい俺よりも、同じクラスの足が速くて頭がいい佐藤くんのほうがずっとモテていた。
つまり俺の日常は、わりと平凡で平和だった。それが中学校に入ったとたん、急にごたごたとし始めた。
他の小学校から来た子たちは、俺を「ハーフ」として見てきた。背が高く、かっこよく、運動ができて、英語もペラペラという偶像を押し付けられた。
そして、あっという間に失望された。
『あの見た目で運動神経も別によくなくて英語も普通とか、逆にかっこ悪くない?』
女の子たちが笑いながらそう話しているのを耳にしてしまったことがある。
そのままの自分で過ごしていれば平均点をもらえていた俺は、そのままの自分で過ごしていると減点されるという世界線に、知らぬ間に立たされていた。
そのうち、男子たちは俺をネタにするようになった。
『日下部、今からいう言葉、英語に訳して』
『日下部ならスリーポイントシュートも楽勝だろ』
できないと分かっていることを笑いながら言われるたび、こちらも笑って『うるさいな』と返す日々。
いじめと言うには微妙なラインで、でも、心は少しずつ萎れていった。
そうして春が過ぎ夏が過ぎ秋が深まって、心がずいぶんと歪な形になった頃。青吾と俺は席替えで初めて前後の席になった。
前に座る青吾の髪は、金髪も混ざる俺の茶色いくせ毛とは全然違って、真っ黒で真っすぐだった。こんな髪だったらいじられることもなかったのかな、と形のいい頭を俺は眺めた。
席替えのあとすぐ、国語の小テストがあった。
後ろから集めて、という先生の指示に従ってテストを前に回すと、青吾が後ろを振り向いた。
『日下部って、字が綺麗だね』
『……どうも』
『大人みたいでかっこいいな』
青吾はそれだけ言って前を向いた。こんなふうに純粋にかっこいいと言われたのは久しぶりで、萎んでいた心が少しだけ震えた。
小さな事件が起こったのは、そのおよそ半月後。英語の授業で、二学期の期末テストを返されているときだった。
一人ひとり名前を呼ばれ、俺の番になったとき『日下部は、英語に関してはほんと見掛け倒しだなぁ』と先生が笑った。それを聞いたクラスメートたちもクスクスと笑い、一人の男子が『その顔で日本人顔の俺らより英語できなかったらやばいっしょ』と大声で言った。
顔が熱くなった。手の中にあるテストは八十九点。平均点よりは上のはずだった。それなのに、見た目のせいで期待外れだと思われる。俺だけ。こんな顔だから。
いつものように笑顔を張り付けることもできず、俺はうつむいたまま席へと戻った。
教室の中がしんとして、恥ずかしさと悔しさとそんな空気にしてしまったことへの気まずさが相まって俺は机に突っ伏した。
『あ、じゃあ次――』
先生が取り繕うように言ったとき、頭のすぐ近くで椅子ががたんと音をたてた。
『先生は、日下部が何点をとれば見た目通りだと思ったんですか』
青吾のよくとおる声が教室に響いた。
『いや、別に、何点とかはないけど、まあ、もうちょっと点数がよくてもいいなとは思ったかな』
『そのもうちょっといい点数が、何点なのか聞いてるんです』
そろそろと顔をあげた俺の目の前で、青吾はクラス中の視線を受けながら真っすぐに立っていた。凛と。
『うーん、まあ九十点あればいいんじゃないの』
めんどくさそうに答える先生に、青吾はすぐに切り返した。
『先生の理論でいくと、日本人顔の自分たちは、国語のテストで九十点とらないと見掛け倒しってことですね。今回、国語の平均は七十八点だったって先生が言ってたから、見掛け倒しの人間がかなりいるってことだ』
青吾の言葉に、私も見掛け倒しだわ、俺もだし、私もそう、とみんながざわざわし始める。
『そういうくだらないことを……』
『先生が日下部に言ったことです。くだらないって思うなら先生がまず謝ってください』
俺のために一歩も引かない構えを見せる青吾の背中は、キラキラとしていた。それはきっと、こぼすまいと堪えた涙に反射する蛍光灯の光のせいで、でも、俺にとっては、真っ暗な部屋にさし込む光のように見えた。俺の中にあった暗くくすぶっていた影は取り払われ、萎んでいた心は温められた。
その日から俺の世界は青吾を中心として回り始めた。何かと気にかけてくれるようになった青吾の優しさに付けこんで距離を縮め続け、親友と言う立場を得た。同時に、俺と一緒にいることで青吾の価値が下がらないように勉強も運動も努力し続け、一つ、二つと自信を得て今の俺がいる。
青吾の持つ光は、崩れかけていた俺の心と俺の世界を立て直してくれたのだ。
だから、もしかしたらこうして俺に告白してくれる子は、俺ではなく青吾を好きになったと言ってもいいのかもしれない、なんて、告白されている最中だというのに考えてしまう。
「それで、なんだか日下部くんが気になるようになって――」
というか、そんなことまで考えてしまうほど、目の前の子はいつどこで、どんなところを好きになったのかを延々と語ってくれている。
普通に可愛い子だと思う。でも、それだけ。道端に咲いているたんぽぽを可愛いと思うのと同じで、通り過ぎたら可愛いと思ったことすら忘れてしまう、そんな感じ。
小学生の頃は女の子を好きになったこともあったんだけどな、と思う。
太陽のような青吾に視線を奪われてから、もう地上に咲く色とりどりの花に目がいかなくなってしまった。
「なので、もし彼女がいないなら付き合ってくれませんか?」
長い前置きが終わり、ようやく告白のクライマックスがやってきた。俺はいつものように困った笑顔を作ってみせる。
「彼女はいないんですけど、好きな人がいるので」
ごめんなさい、と言いかけた俺の言葉にかぶせるように、女の子が前のめりで口を開く。
「あの、相手の人、年上の女性って本当ですか」
「……ごめんなさい」
肯定も否定もしていない。でも否定しないのは肯定だってみんなが受け取る。今、頭を下げて走り去った子も、きっとそう。
そうしてまた、年上の女性に遊ばれている男だっていう話が溶けたアイスクリームみたいに広まって、蟻のように群がった人たちが持ち帰ってあちらこちらで美味しく噂する。
でも、それで構わない。そうすれば、本当は誰を好きなのか、必要以上に探られることもないから。
教室に向かって歩き出す。ポケットからスマホを出して確認すると、クラスが違う青吾と過ごせる貴重な昼休みは、残り十分しかなかった。
やや急ぎ足で青吾の教室にいくと、窓際でクラスメートの井沢と二人で机を挟み、和やかに話す姿が見えた。
教室の窓から入る光に照らされる黒髪は、天使の輪をのせている。その輪を崩すように頭に手を当て「よ」と声をかけると、青吾が振り仰いだ。
「遅かったね」
「ちょっと先生につかまって」
「そう」
近くの席から椅子をガタガタと引き寄せて井沢と青吾と同じテーブルに弁当を置くと、青吾も弁当を袋から取り出した。
「あれ、食べてなかったの」
「半分残しておいた。一人で食べるのってなんか寂しいだろ」
当たり前のように言う青吾は、今日もかっこいいし優しいし可愛い。
「俺はそんな気を遣う必要ないって言ったんだけどね」
井沢が頭の後ろで手を組み、椅子を傾けてゆらゆらさせた。
「だって、絶対先生じゃないじゃん。どうせ告白だろ」
声量を下げることもなく能天気に言い放った井沢の言葉に、教室のあちらこちらから視線が集まるのを感じる。
井沢は悪い奴ではないが、たまにこうして余計なことを言う。
黙ったままやり過ごすのって感じが悪いかな、と考えながら弁当箱の蓋を開ける俺の前で、青吾が井沢のことを真っすぐに見て口を開いた。
「彬が先生につかまったって言うなら、それでいいだろ」
「え、でも気になるじゃん」
「野次馬禁止。彬が言わないなら、それは言いたくない理由があるってこと」
青吾の正論に、井沢がまあそうだけど椅子を戻し、みんなの渦巻いた好奇心も、するっと解けていった。
口に放り込んだ卵焼きと一緒に青吾の良さを改めて噛みしめながらも、俺はちょっと引っかかるものを感じていた。
これまで、告白されたことを、青吾に話した記憶はない。帰りに待たせることになったとしても、友達に呼ばれて、とか、忘れ物しちゃって、とか言っていたし、女の子に目の前で呼び出されても、相談事があったんだって、と言っていた。
いつも、それを疑いもせずに受け止めてくれる青吾の純粋さも愛しく思っていたのだけれど、もしかしてこれまでも全部告白って分かっていながら、今言ったような理由で流してくれていたのだろうか。
ということは、これまで話題に出たことはないけれど、もしかして、俺が年上の女性を、という噂話も知っていたりする?
じっと青吾を見ると、おにぎりを頬張りながら、なに?とでも言いたげに見返してきた。
☆
梅雨前の晴れた空の下、学校から解放されて家路につく。その道中、いつも通り他愛もない話をしながらも、噂話を知っているかどうかを聞くタイミングを俺はうかがっていた。みんなには誤解されてもいいけど、青吾にその噂を信じられるのは、嫌だった。
さりげなく切り出すって難しいな、と思う俺の隣で「そういえばさ」と青吾が話し出した。
「友達に彬のアドバイス伝えたんだけど」
「アドバイス?」
聞き返したあとに、あぁ、昨日の友達の恋愛話か、と思い出す。学校の友達かと聞いたら、塾の友達だと言っていた。
結局、ギャップを見せるといいのでは、そうすれば、恋愛にすぐに結びつかなくても興味は持ってもらえるかもしれないしと、当たり障りのない返事をして、塾へ行く青吾を見送った。
「ギャップって難しいなって話になって。例えばどんな感じ?」
「うーん、そうだなぁ……」
適当に答えていたのだから、すぐにいい答えが浮かぶこともなく、俺は「たとえば、青吾ならピアスを開けるとか?」と言ってみる。
俺の言葉を聞いた青吾はびっくりした顔になって、自分の耳たぶを触った。
「ギャップのためだけにピアスは開けられないよ」
「たとえば、の話だって。青吾の話じゃないんだし」
実際、青吾がピアスを開けた姿は想像できないし、体に傷をつけるようなことしてほしくない。そのままの青吾が一番だ。
「そうだけど……ほかになんかない?」
「んー、青吾の友達がどんな人かも分からないし、相手の人もどんな人かわかんないからな。難しいよ」
俺の返事に青吾は少し考えるように目を伏せた。
「俺の友達は、まあなんていうか俺みたいな感じで、恋愛経験も全然ない人」
青吾みたいな人間がほかにいるわけないだろ、と思わず反論したくなるが頷くにとどめる。青吾は進学コースに在籍しているらしい。きっと同じコースに通う真面目な友達なのだろう。
「で、友達が好きな人は……優しいし、努力家だし、かっこいいけど、彼女はいないって。ただ、片思いしてる相手がいるっていう噂があるから難しいとは思ってるみたい」
「そうかぁ」
その子が言うとおり難しいだろうな、と正直なところ思う。自分もいくら告白されたところで青吾以外に気持ちが向くことはない。
でも、そんなことを言ってしまったら元も子もないから、俺は最もらしく言葉を続ける。
「まあ、片思いの人がいるっていっても、好きな人以外を恋人に選ぶ可能性だって十分あると思うけどな。報われない相手よりも、確実に報われる相手のほうがいいってこともあるし、付き合っているうちに本気で好きになることだってあるだろ」
まあ、俺の場合はないけど、と心の中で続けたところでふと気づく。
「ってか、その 友達って女の子なんだ」
「あぁ、うん、そう。女の子だとまたアドバイスも変わる?」
「いや……でも女の子だったら髪型とか変えてギャップを出せるかもね。その子、髪長い?」
「肩下くらいだと思う。いっつも一つに結んでるからちゃんとは分からないけど」
「なら、髪を下すだけでも雰囲気変わるんじゃないかな」
「なるほど。伝えてみる」
真面目に頷く青吾を見ながら、黒い染みが胸の中に広がるのを感じる。その塾の子、相談するふりして青吾に近づこうとしているんじゃないだろうか。
青吾は決して派手な見た目ではないし生真面目な性格だからか、すごくモテるわけではないけれど、その魅力に俺のように気づいてしまう人がたまに現れる。
俺は青吾のことばかり見ているから、自分と同じように青吾に視線を向ける女の子はすぐ分かる。でも、俺がちょっと優しくして笑いかければその子たちは青吾より俺を見るようになり、そのたびに、そんな程度の気持ちしか持たないやつに、青吾を奪われるわけにはいかないと、俺はますます青吾に対してのセキュリティを高めていった。
でも、学外まではさすがに見張れない。油断していた。
「彬、どうした?」
「え」
「いや、なんか険しい顔してるから」
「あ、ほんと? ちょっと眩しいなって思って」
「確かに天気いいな」
空を見上げた青吾の顔の上で街路樹から漏れ出る光が踊るのを見つめながら、とりあえず一回塾に様子を見に行くかと考えていると、ふいにその視線が俺へと向けられた。
「彬はどうなの?」
「なにが?」
「彬も年上の人にずっと片思いしてるんだろ。それでも、ほかの人に気持ちが向く可能性はあるの?」
話したかったことを、青吾から正面切って問われて、動揺する。
「いや、それ、誤解って言うか、ただの噂で」
無垢な目でじっと見てくる青吾に言い訳をするように俺は早口で続けた。
「高校入ってすぐくらいに、年下と年上のどっちがいいかって聞かれたことがあって、どちらかと言えば年上って答えたんだけど、それが年上の女の人に片思いしてるって改変されて広まってるっぽい」
「じゃあ、好きな人がいるってのも誤解なんだ」
「それは……」
俺は、唾をのんだ。その好きな人を前に、どう答えるのが正解なのだろう。分からないけど、嘘はつきたくなかった。
「それは、本当」
少しだけ、声が掠れた。
☆
そもそも、今回の友達の話って、本当に友達の話なのかどうか。
鳥型のクッションを抱えベッドに寝転がり、ぐるぐると考える。
今、考えられる可能性としては三つ。
一つ目は、青吾の説明通り、塾の友達が俺たちが知らない人を好きだというだけのパターン。
二つ目は、考えたくないが、塾の友達が青吾のことを好きで、相談と言う体で青吾に近づいているパターン。
そして、三つ目。ないだろうし、まさかとは思うが、友達の話と言いながら青吾が自分の話をしているパターンがあるのではと思えてきた。自分の気持ちを知られないように友達の話という体で相談したりする場面、漫画でも何回も見たことある。
――その場合、相手はおそらく……俺?
心の中で呟いて「いやいやいやいや」と俺はクッションをぎゅうぎゅうに抱きしめて悶える。そんな都合のいいことあるだろうか。
四年近く片思いしているけれど、これまでそんな気配一ミリもなかった。
青吾と俺との間に、何かきっかけになるような出来事も起こっていない。
――あ、でもクラスが別れたか
中学のとき、青吾と俺はずっと同じクラスで、高校に入っても同じクラスだった。でもこの春、高二になって初めてクラスが別れた。
昇降口に貼りだされた新クラス名簿を見て、ショックで立ちすくんだ俺に対し『まあ、これまで一緒だったほうが奇跡だよな』という感想だけを青吾は述べ、そのあっさりとした態度に再度ショックを受けたわけだが、もしかしたら、クラスが別れたことで俺の存在の大きさを意識したとか。そして、自覚していなかった自分の気持ちに気づき、みたいな。
だって、たまたま青吾と似たタイプの友達が、たまたま俺と似たような相手を好きになって、たまたま青吾に相談するなんてことあるだろうか。
考えれば考えるほど、三つ目の可能性が高いような気がしてきて、心臓がドコドコと鳴り響く。
どうにも落ち着かず、ベッドの上に起き上がった俺は、一応告白をすべきかどうかについても考えてみる。
さすがに、青吾の気持ちがはっきり分からない今の段階では、もうちょっと様子を見るべきだろう。青吾にまったくその気がなかったら、親友としての立場も失いかねない。
でも、今日、俺が好きな人がいると言ったら、青吾は少し考えている様子だった。もし俺のことを好きになっていたのに、あれで諦めようと思わせてしまっていたら大変だ。
「どうするのがいいのかなー」
窓の外を見る。まだ空はうっすらと明るい。
今頃、青吾は塾で頑張って勉強しているのだろうな、と思っていたら玄関のチャイムが鳴った。時間的に家庭教師が来たのだろう。ちょうどいいから相談してみようと、俺はクッションを放りなげ、玄関へと向かった。
「先生はさ、いいなと思っている子がいたらどんなふうにするの」
俺の解いた数学の問題集の丸付けをしている先生に頬杖をつきながら聞くと、ゲホゲホとむせた。
「大丈夫?」
「いや、彬が俺に聞く?って思ってさ」
「なんで」
「どう見ても、俺より彬のほうが恋愛偏差値上でしょ」
高校に入ってから家庭教師をしてくれている大学生の古賀先生は、眼鏡をかけた見た目からして賢そうだし、実際にいい大学に通っている。付き合って三年になる彼女がいるそうで、写真を見せてもらったけど可愛い人だった。つまり実はけっこうモテるのではと踏んでいる。
「いや、絶対先生のほうが上。俺、付き合ったことないし」
「え、そうなの!?」
俺の顔を、古賀先生がまじまじと見た。
「告白されたりとかは」
「それはあるけど」
「そういう子と付き合わないの」
「好きな人がいるんだから付き合わないよ」
俺の返事に、古賀先生は目を手で覆って天を仰いだ。
「ほんと、今日の今日まで君を誤解していたことを申し訳なく思う」
「なんだと思ってたの、俺のこと」
「女をとっかえひっかえしている陽キャ、というのは嘘だけど、まあこれだけスペック高いんだから普通に彼女の一人や二人はいると思ってた」
「いないし」
「そっかー」
古賀先生は赤ペンを問題集の上に置いて、真面目な顔で俺に向き合った。
「彬から告白はしないの」
「……まだ、相手の気持ちが分からないから。けっこう長いつきあいで、関係性を壊すのが怖いって言うのもある」
「いつから好きなの」
「中一のときから」
「中一!?」
純愛すぎる、と古賀先生が再び天を仰ぐ。
「で、なんでいまさら、どんなふうにすればいいのかとか考えてんの」
「ちょっとね。もしかしたら、俺のこと好きなのかも、みたいに思うことが最近あって。でも勘違いかもしれないし、でも、もし本当にそうならチャンスを逃したくないし、どんなふうにするのがいいんだろうと思って」
「なるほどなぁ……だとしたら、ありきたりなアドバイスだけど、好きな子はちゃんと大事にして、特別扱いするのが一番大事だと俺は思う。駆け引きとかそういうのも、相手の子が恋愛経験豊富ならやってもいいかもしれないけど、そうでないならあえて不安にさせるようなことはしないほうがいいだろうな。付き合えたあとも根本的なところで信用してもらえなくなる」
「相手の子は全然恋愛経験ないって言ってるし、俺も駆け引きとか全然わかんないから」
「じゃあ大丈夫だな。あと、相手の気持ちが知りたいなら、例えばサプライズでバイト先とかさ、そういうところに会いにいってみれば? 喜んでくれるか、不審がられるか、そういうのでも少しは分かるかも」
「サプライズ……」
青吾相手にするとしたら、塾の終わりを待つのがいいかもしれない。どちらにしても、青吾に好意を寄せている女子がいないか、塾に一度確認しにいくつもりだったし。
「分かった。ありがとう。やってみる」
「いやー、それにしても彬がそんなに好きな子ってどんな子なんだろうな。うまくいったら紹介してよ」
会ったことあるけど、と内心で思いつつ「うまくいったらね」と答える。
去年、家庭教師になってもらって間もない頃、一緒に自分のレベルに合う参考書を選びにいったときに、たまたま塾帰りの青吾と遭遇したのだ。
簡単に挨拶して、すぐに別れたから、古賀先生も青吾もお互いを覚えているかどうかは分からないけど。
「ま、それはそうと、間違っているところが二か所あるから一緒にやってみようか」
「はい……」
いったん青吾のことは意識の外に追いやって、先生が赤ペンで指した問題をもう一度読み直す。
青吾と同じ大学に行く。その目標のためには、苦手な数学も頑張るしかなかった。
☆
金曜日の夜、塾の前の花壇に腰かけた俺は、ジンジャーエールを飲みながら青吾を待っていた。塾が終わる時間は、普段の会話の中からリサーチ済みである。
夏が近づいているといっても、夜はまだ涼しい。思ったよりも冷たい風が吹いてきて、肘下までまくりあげていた長袖シャツを手首のほうまでおろす。
しばらくすると、ちらほらと生徒たちが出てきた。
俺を横目で見た女子たちが「彼女とか待ってんのかな」と囁きあうのが聞こえてくる。
その言葉に、自分が好きな人を待っているのだということを急に意識してしまう。同じ人を待つのに、友達だと思って待つのと好きな人だと思って待つのでは、ずいぶん違う。
それから数分経って、青吾がスマホを見ながら出てきた。
こちらを見ることもなく通り過ぎようとするのに、小さく深呼吸してから「青吾」と声をかける。びっくりしたように顔をあげた青吾はキョロキョロとし、俺を見つけて目を見開いた。
「彬。どうしたの?」
「んー、ちょっと出かけてて。帰るとこだったんだけど、ちょうど青吾の塾が終わるくらいの時間だし会えるかもって思ったから来てみた」
俺の言葉を聞いた青吾は微妙な顔になった。その顔の意味が分からず黙って様子をうかがっていると、後ろから「但馬くんの友達?」という女子の声がした。
もしや青吾に相談している女子か、と振り向こうとした俺の背中を青吾が押しながら「そう、またね」と答えて歩き出す。
押されるがままに俺も素直に歩く。
駅前の雑踏を抜けたところで、ようやく青吾が背中から手を離し、隣にならんできた。
「なに、なんか俺が会ったらいけない人だった?」
「いや、前から彬を紹介しろって一部の女子から言われてて」
「俺を?」
「俺たちと同じ中学校だった子が、同じ塾にいてさ。コースは違うんだけど。そこから、彬の話が広まったらしくて、俺が親友だからって、一緒に遊びに行こうとか女子のグループからよく言われてて。さっき声かけてきた子も、そのグループの一人だったから」
「そうなんだ。ごめん、迷惑かけて」
「彬のせいじゃないから」
ようやく笑顔を見せた青吾にほっとしたのも束の間、また後ろから「たじまくーーーん」「たじまくーん」と数人で呼ぶ声が聞こえ、俺らは顔を見合わせる。
「逃げよう」
そう言ったかと思うと、青吾が俺の手首をつかんで走り出し、人通りもまばらな街灯に照らされた道を駆け抜けていく。
しばらく走っても「待ってー!」と後ろから声が追いかけてきて「根性あるな」と青吾が呟き、笑ってしまう。
「そこの角曲がろう」
勢いよく曲がったところで、遠心力に負けた青吾の手がすべって離れていく。
慌てて手を伸ばし、青吾の手をしっかり握った俺は、今度は自分が引っ張るようにして住宅街の中を走っていく。
世界は青く染まっていた。ワンワンと犬が吠えていた。三日月が光っていた。遠くから車のクラクションが聞こえた。公園のブランコが風で揺れていた。カレーの匂いがした。
最後、二人ではぁはぁと息を吐きながら、俺たちはどちらからともなく立ち止まった。念のため振り向いたが、さすがに女の子たちの姿はなかった。
繋いだままの手を持ち上げて、青吾があははっと笑う。
「手をつなぐ必要、なかったんじゃないの?」
「なんとなく、はぐれたらヤバイ気がして」
「あの子たち別にゾンビとかじゃないからね」
青吾の手の力が抜け、その温もりに未練を残しながら、俺も握っていた手を開く。
「でも、こんな全速力で逃げるくらいには、めんどくさそうな相手なんだよね。逆に次の塾のときとか色々言われて大変なんじゃない?」
「いや」
青吾が首を振る。
「別に大丈夫。でも、彬は嫌だろ。女の子たちに見世物みたいにされるの」
「うん……」
「それに、俺も彬と二人のほうがいいし」
笑顔で言われてどきりとする。
月明かりに照らされた静かな夜道。俺を見上げる少し火照った可愛い顔。
もう告白してしまおうか、と思う。
ここで抱きしめて、ずっと好きだったよって、付き合ってって言って、そして断られても聞こえなかったふりで、受け入れてくれるまで手をつないで夜の中を永遠に一緒に歩いて。
「なんてね」
小さい声で呟き、青吾が「ん?」と聞き返してくるのに笑顔を向ける。
「なんか食べて帰らない?」
「賛成。走ったから喉乾いたしお腹空いた」
お母さんに連絡するわ、とスマホを取り出しながらまた駅のほうへ歩き出す青吾の後ろをついていく。
「そういえば、今日どこに出かけてたの」
青吾が聞いてきて、「カテキョの勉強終わってから、先生と出かけてた。おすすめの本があるっていうから」と答える。
おすすめの本を買いにいったのは本当。古賀先生と出かけていたのは嘘。そもそも今日は家庭教師にこない日。
「そうなんだ」
「そう。で、どこ行く? ファミレス?」
俺の問いに、青吾は振り返って「バーガー食べたい」と笑顔で答えた。
結局目的は何も達成できなかったけど、この笑顔を見られただけでも来た意味はあったな、と俺も笑い返した。
☆
「そういえば、友達はどうなった?」
俺がその話題を出したのは、夜の中を全速力で駆けた次の週の土曜日のこと。
二人で見ようと約束していた映画を電車に乗って見にいき、夏服を買いにいき、チェーン店のラーメンを食べ、ゲーセンに行き、小遣いをほぼ使い果たした俺らは、自販機で買ったジュースを飲みながら小さい公園のベンチに座っていた。
デートだと思って青吾をできるだけ大切に扱おうと意気込んできたが、男気のある青吾にむしろ大切に扱われることも多く、このままじゃ何も変わらないままになってしまうというちょっとした焦りもあった。
メロンソーダを飲んでいた青吾は、少し首を傾げた。
「なにが?」
「ほら、好きな人に気にしてもらいたいって言ってた」
「あぁ……」
青吾が思い出した、と言いたげに数回軽く頷いたあと、少し言いにくそうに続ける。
「片思いしてる相手がいるっていうのが、噂じゃなくて本当だって分かったんだって。だから、諦めることにしたらしい」
「え」
「相談のってもらったのにごめんねって言ってた」
ちょっと待て、と思う。
これが、本当に青吾の友達の話だとしたら、それでいい。その片思いの相手が俺たちの知らない人だろうと、青吾だろうと、理由がなんであれ勝手に終わらせてもらえればいい。
でも、もし、友達の話でなく、青吾の話だったら?
その、片思いの相手が俺だとしたら?
この間、聞かれたときに好きな人がいると答えた、あれが決定打になっていたとしたら?
「……その片思いの相手の人が、自分だっていう可能性もあるんじゃないの」
俺の言葉に、青吾は目を見開く。
「そんな都合のいい話、ないだろ」
「直接聞いたの?」
「うん。聞いたって」
「なんて聞いたって?」
「いや……そこまでは、詳しく知らないけど」
青吾が困ったような顔になる。
「でも、これからも顔を合わせるから、気まずくなりたくないっていう気持ちもあるだろうし、気持ちがばれるような聞き方はしてない――と思う」
「じゃあ、ちゃんと聞かないと」
「無責任なこと言うなよ」
青吾がため息をついて、手の中にあるメロンソーダに目を向けた。
「無責任じゃない。ちゃんと責任を取るつもりで聞いてる」
「責任って」
俺は息を吸う。
やっぱり、友達の話は、青吾の話なのだと確信する。
青吾から言ってほしいと思っていたけど、それは俺の甘えで。俺が言うのを怖いと思うように、きっと青吾だって怖いと思うだろう。
青吾は、きっと俺の好きな人が別にいると思っている。だって、俺がそう思わせたんだから。だから、俺が誤解を解いて、俺が好きだって言わないと。
「青吾」
俺の真剣な声に、青みがかって見える綺麗な目が俺に向けられる。
「俺、青吾のこと好きだよ」
青吾が目の前で息をのむのが分かった。緊張で手の中にあるジンジャーエールのペットボトルがぺこりとへこむほど、指に力が入る。
「だから、諦めるなんて言わないで。俺と付き合おう」
「待って、彬」
目の前で、青吾は口を押さえ、目を泳がせた。
「ごめん、なんでそんな話になってるの」
「え、だって、俺に好きな人がいるから、諦めようってしてる……」
「だから、それは、俺の友達の話で」
心臓がとまった気がした。全身から、血の気が引いていく。
勘違い? すべて俺の勝手な思い込み?
本当に、友達の話だった?
呆然とする俺の前で、青吾はもごもごと続けた。
「塾の、同じコースの女の子で。男子の意見が聞きたいからって、俺、相談に乗ってて。相手の人、同じ塾の先輩で、受験が本格的になる前にってその子も言ってたんだけど、あんまりしつこいと迷惑になりそうだからって――」
最後まで聞き終える前に力の入らない足で立ち上がった俺は「ごめん」とだけ言って、青吾に背をむけてふらふらと歩き出した
青吾も、追ってこなかった。
☆
こんなに学校に行きたくないのは中一のときぶりだ、と思いながら俺はいつもより早く家を出た。
本当は、さぼろうかと思った。だって、青吾と同じ大学に行くためだけに俺は勉強を頑張っていたのだから、もう高校に行く意味はない。
勉強だけじゃない。すべての努力も、もう必要ない。青吾の隣にいるために、青吾の価値を落とさないようにというのが理由だったのだから。もう、何もかもに意味はないのだ。
でも、もし俺が学校に行かなくなったら。もし俺が自暴自棄になってしまったら。
きっと青吾は自分のせいだと、自身を責めるだろう。傷つくだろう。青吾は、何も悪くないのに。
だから、せめて高校にはいかなければと思う。大丈夫だと、青吾に見せなければと思う。
大きなため息をつき、俺は重い足を学校へと向けた。
空は今日も晴れ渡っていた。でも、青吾という要を失って崩れ落ちた俺の世界は、今にも雨を零しそうな鼠色の雲に覆われていた。この先、俺の世界が整うことは、もう二度とない。それは、俺の世界の創造神である青吾を手に入れようなどという、身の程をわきまえない望みを持ってしまったことへの天罰。
学校では、一日中教室の中で過ごした。休み時間は寝たふりをし、昼はイヤホンをつけて一人で弁当を食べた。青吾と自分が別のクラスだというのが、唯一の救いになるというのは皮肉な話だった。会いにいかなければ青吾の顔を見ずに済む。青吾にも、こんな男の顔を見せなくて、済む。ただ機械的に授業を受け、チャイムと同時に教室を飛び出した。
走りながら、このままどこかへ行ってしまいたいと思う。走って走って、走り続けて、誰もいない場所へ。でも、そんなことは到底無理で、息が切れた俺は足をゆっくりととめる。
青吾と手をつないで走ったときはもっと遠くまで走れたのに、と思った瞬間、涙が出てきた。青吾がいなくなっただけで、俺は、こんなに駄目になる。
なんで、あんなことを言ってしまったのだろう。青吾は、嘘をつくようなやつじゃない。青吾が友達の話だと言うなら、それは友達の話なのだ。分かっていたはずなのに。それなのに、小さな「もしかしたら」を願望で大きく膨らませ、その願望越しに青吾を見て自分に都合よくゆがませてしまった。本当に、なんて最低なことを。
汗をぬぐうふりをしながら、涙をぬぐい歩き出す。とりあえず今日一日頑張った自分を、少しだけは許してやろうと思った。
青吾と会わないまま、一週間が過ぎ去っていった。もちろん、隣のクラスだから見かけることはあったけど、できるだけ目をそらし、存在を自分の中から追い出した。
さすがに、周りもおかしいと思っていただろうけれど、触れてくれるなと言う俺の無言のバリケードを突破してくるほど勇気がある同級生はおらず、放っておかれていた。
ただ、井沢だけは一度話しかけにきた。
イヤホンをつけた俺の前に座って両手をふるから、さすがに無視できずに片耳のイヤホンをとると、いつもの能天気な声で『弁当食べにこねーの?』と言ってきた。
『いかない』
『そっかー。青吾が最近ぜーんぜん飯食わなくてさ。彬が来てくれたら食べるかなって思ったんだけど』
自分のことで悩ませているのは確実だったけど、だからといって俺が行っても結局悩むのは同じだから『ごめん』とだけ言って、俺はまたイヤホンをつけた。
家でも、俺の様子が変だということは家族も気づいていただろうけど、やはり何も言わずに放っておいてくれた。
唯一、古賀先生にだけは、失恋したと話し、少し泣いた。古賀先生は慰めてくれたけど、『給料をもらっているからには』と言って、勉強は手加減してくれなかった。
そしてようやく土曜日になった。学校へ行かなくていいのはいいけど、暇な分だけ余計なことを考えてしまい、俺はごまかすように朝から漫画を読み始めた。
数冊目に入り、ようやく集中してきたところで着信音がなり、なんだよ、と思いながらスマホに手を伸ばす。
スマホにはDMの通知が表示されていて、その送り主を見て、俺は固まった。
無視することもできた。でも、井沢が飯を食わないと言っていた青吾のことはやっぱり心配で、自分が無視することで悪化させる可能性があるとしたら、見ないわけにはいかなかった。
『友達の話だけど』
DMはそう始まっていた。
『相談に乗ってもらったから、一応報告しておこうと思って。結局、俺が先輩に直接好きな人について聞きにいってきた。先輩の好きな人は同じ高校の同級生で、友達は失恋したけど、はっきりしてよかったって言ってた。彬が言ってくれたおかげ。有難う。』
そっか、と思う。友達のほうも、はっきりさせることで失恋したのか。
でも、それでよかったと言える友達は、俺とは全然違ってかっこいい。俺は、まだ無理だから。言わない方がよかったって、今でも思っているから。こんな気まずい状況でもきちんと報告してくれる律義さを、やっぱり好きだと思ってしまうから。
せめて、一言返した方がいいだろうかと、勝手に出てくる涙をぬぐいながら青吾からのDMを見ていると、シュポッと新しいメッセージが現れた。
『次に俺の話だけど』
びくりとする。友達と話して、はっきりと断ったほうがいいと思ったのかもしれない。続きを読む勇気がなく慌てて閉じようとするが、その前に、また新しいメッセージがシュポッと現れた。
『ずっと彬が好きだった』
目を見開いた俺の前に、次々に新しいメッセージが現れる。
『でも、彬は家庭教師の先生のことを好きだって知って、諦めてた』
『けど、前に先生が彼女と歩いているところ見たから、彬は大丈夫なのかってずっと気になってた』
『だから、友達に相談されたときに、それを彬に相談するふりして、どうなってるのかさりげなく聞きだそうとした。ごめん』
『そうしたら、家庭教師の人をまだ好きみたいだったのに、俺のこと好きだって言われたから、混乱した』
『そのあと考えて、彬が報われない相手よりも、確実に報われる相手のほうがいいって言ってたことを思い出して、俺が好きなことに気づいたから、応えてくれようとしているんだって、分かった』
『でも、俺で本当にいいのか、自信がなくて悩んでた』
まだメッセージは続いていたけど、俺は急いで連絡先を出して、青吾のアイコンをタップした。
呼び出し音がなっても、なかなか通話にはならず、もう一回かけなおすか、と思ったところでようやく繋がる。
『……もしもし』
「なあ、ほんと俺が家庭教師を好きだとか、どっから来たの? それ」
聞きながら俺は部屋を出て階段を駆け下りる。
『……だって、最初に会ったとき、彬がこの人に運命を託そうと思ってるって嬉しそうに言ってただろ』
「あー、言ったかもしんないけど、それは青吾と同じ大学にいけるようにしてください、よろしくって意味」
『……いろんなかっこいいこと、どこで知ったのかって聞いたら家庭教師の先生からってばっかりだった。憧れてるからって』
「本当は自分でネットで調べました。好きな人にかっこよく思ってもらいたいけど、ネットでいちいち調べてるのはかっこ悪いって思って、先生からって言いました」
『……あと、好きな人の話のとき、年上の女の人っていうのは否定したけど、年上そのものは否定しなかったし』
「いや、年上も女の人も両方とも否定したつもりだったんだけど」
『……それに、この前、塾にきたときだって、家庭教師がない日なのにわざわざ外で会うとか、そんなの特別だからって思う――』
「あれ嘘。理由もなく青吾を塾の前で待ってたら不審がられるかなって思って、話をでっち上げました。おすすめの本を買ったのはほんとだけど、先生とは出かけてない」
『……なにそれ。ぜんぶ俺の思い込みってこと?』
電話の向こうで青吾が小さく呟く。
俺は笑いながら靴を履き、ドアを大きくあけた。明るい日差しが玄関に差し込む。
「青吾、今から行くから話をしよう。友達の話じゃなくて、俺たちの話」
それだけ告げた俺は、スマホをポケットに入れて駆けだした。今日はきっと、どこまででも走れる。青吾が待っていてくれるから。
End
中間テストが終わり、少しだけ気持ちにも余裕ができた、そんな日だった。
「友達の話なんだけど」
ガムシロップを二つ分入れたアイスコーヒーは汗をかいていた。赤いラインの入ったストローがグラスの中でくるくる回る。
「モテる人が気になっているんだって」
青吾の手元を眺めていた俺は、視線をあげた。二人の間で恋愛の話題が出るなんて、とても珍しいことだった。
気温が高くなっても袖のボタンをきっちりと留め、ネクタイをしめてベストまで着ている青吾は、その見た目通り真面目で、清廉潔白で、純粋無垢だ。俺をのぞきこむ目も、やや青みを帯びて澄んでいる。
「でさ、どうすれば自分のことを気にしてもらえるのかなって言っていて。彬はモテるだろ。どうすればいいのか、教えてよ」
アイスカフェオレを飲んでいた俺は、答えあぐねて青いラインの入ったストローから口を離せない。
さて、なんて答えればいいんだろうね。
俺が気にしている人は、青吾だけなのに。
☆
青吾と出会ったのは、中学一年生のとき。
但馬青吾というクラスメートのことはもちろん知っていたけど、真面目、というくらいの印象しかなかった。その頃は、自分を守るのに精一杯で、周りに目を向ける余裕がなかったから。
小学生のときはよかった。
小さな頃から一緒に過ごしていた同級生たちは、日本人の母よりもイギリス人の父に似ている俺を見た目で特別扱いすることはなかった。かっこいいと言われたこともあったし、好きと言われたことも二回あったけれど、インドア派で大人しい俺よりも、同じクラスの足が速くて頭がいい佐藤くんのほうがずっとモテていた。
つまり俺の日常は、わりと平凡で平和だった。それが中学校に入ったとたん、急にごたごたとし始めた。
他の小学校から来た子たちは、俺を「ハーフ」として見てきた。背が高く、かっこよく、運動ができて、英語もペラペラという偶像を押し付けられた。
そして、あっという間に失望された。
『あの見た目で運動神経も別によくなくて英語も普通とか、逆にかっこ悪くない?』
女の子たちが笑いながらそう話しているのを耳にしてしまったことがある。
そのままの自分で過ごしていれば平均点をもらえていた俺は、そのままの自分で過ごしていると減点されるという世界線に、知らぬ間に立たされていた。
そのうち、男子たちは俺をネタにするようになった。
『日下部、今からいう言葉、英語に訳して』
『日下部ならスリーポイントシュートも楽勝だろ』
できないと分かっていることを笑いながら言われるたび、こちらも笑って『うるさいな』と返す日々。
いじめと言うには微妙なラインで、でも、心は少しずつ萎れていった。
そうして春が過ぎ夏が過ぎ秋が深まって、心がずいぶんと歪な形になった頃。青吾と俺は席替えで初めて前後の席になった。
前に座る青吾の髪は、金髪も混ざる俺の茶色いくせ毛とは全然違って、真っ黒で真っすぐだった。こんな髪だったらいじられることもなかったのかな、と形のいい頭を俺は眺めた。
席替えのあとすぐ、国語の小テストがあった。
後ろから集めて、という先生の指示に従ってテストを前に回すと、青吾が後ろを振り向いた。
『日下部って、字が綺麗だね』
『……どうも』
『大人みたいでかっこいいな』
青吾はそれだけ言って前を向いた。こんなふうに純粋にかっこいいと言われたのは久しぶりで、萎んでいた心が少しだけ震えた。
小さな事件が起こったのは、そのおよそ半月後。英語の授業で、二学期の期末テストを返されているときだった。
一人ひとり名前を呼ばれ、俺の番になったとき『日下部は、英語に関してはほんと見掛け倒しだなぁ』と先生が笑った。それを聞いたクラスメートたちもクスクスと笑い、一人の男子が『その顔で日本人顔の俺らより英語できなかったらやばいっしょ』と大声で言った。
顔が熱くなった。手の中にあるテストは八十九点。平均点よりは上のはずだった。それなのに、見た目のせいで期待外れだと思われる。俺だけ。こんな顔だから。
いつものように笑顔を張り付けることもできず、俺はうつむいたまま席へと戻った。
教室の中がしんとして、恥ずかしさと悔しさとそんな空気にしてしまったことへの気まずさが相まって俺は机に突っ伏した。
『あ、じゃあ次――』
先生が取り繕うように言ったとき、頭のすぐ近くで椅子ががたんと音をたてた。
『先生は、日下部が何点をとれば見た目通りだと思ったんですか』
青吾のよくとおる声が教室に響いた。
『いや、別に、何点とかはないけど、まあ、もうちょっと点数がよくてもいいなとは思ったかな』
『そのもうちょっといい点数が、何点なのか聞いてるんです』
そろそろと顔をあげた俺の目の前で、青吾はクラス中の視線を受けながら真っすぐに立っていた。凛と。
『うーん、まあ九十点あればいいんじゃないの』
めんどくさそうに答える先生に、青吾はすぐに切り返した。
『先生の理論でいくと、日本人顔の自分たちは、国語のテストで九十点とらないと見掛け倒しってことですね。今回、国語の平均は七十八点だったって先生が言ってたから、見掛け倒しの人間がかなりいるってことだ』
青吾の言葉に、私も見掛け倒しだわ、俺もだし、私もそう、とみんながざわざわし始める。
『そういうくだらないことを……』
『先生が日下部に言ったことです。くだらないって思うなら先生がまず謝ってください』
俺のために一歩も引かない構えを見せる青吾の背中は、キラキラとしていた。それはきっと、こぼすまいと堪えた涙に反射する蛍光灯の光のせいで、でも、俺にとっては、真っ暗な部屋にさし込む光のように見えた。俺の中にあった暗くくすぶっていた影は取り払われ、萎んでいた心は温められた。
その日から俺の世界は青吾を中心として回り始めた。何かと気にかけてくれるようになった青吾の優しさに付けこんで距離を縮め続け、親友と言う立場を得た。同時に、俺と一緒にいることで青吾の価値が下がらないように勉強も運動も努力し続け、一つ、二つと自信を得て今の俺がいる。
青吾の持つ光は、崩れかけていた俺の心と俺の世界を立て直してくれたのだ。
だから、もしかしたらこうして俺に告白してくれる子は、俺ではなく青吾を好きになったと言ってもいいのかもしれない、なんて、告白されている最中だというのに考えてしまう。
「それで、なんだか日下部くんが気になるようになって――」
というか、そんなことまで考えてしまうほど、目の前の子はいつどこで、どんなところを好きになったのかを延々と語ってくれている。
普通に可愛い子だと思う。でも、それだけ。道端に咲いているたんぽぽを可愛いと思うのと同じで、通り過ぎたら可愛いと思ったことすら忘れてしまう、そんな感じ。
小学生の頃は女の子を好きになったこともあったんだけどな、と思う。
太陽のような青吾に視線を奪われてから、もう地上に咲く色とりどりの花に目がいかなくなってしまった。
「なので、もし彼女がいないなら付き合ってくれませんか?」
長い前置きが終わり、ようやく告白のクライマックスがやってきた。俺はいつものように困った笑顔を作ってみせる。
「彼女はいないんですけど、好きな人がいるので」
ごめんなさい、と言いかけた俺の言葉にかぶせるように、女の子が前のめりで口を開く。
「あの、相手の人、年上の女性って本当ですか」
「……ごめんなさい」
肯定も否定もしていない。でも否定しないのは肯定だってみんなが受け取る。今、頭を下げて走り去った子も、きっとそう。
そうしてまた、年上の女性に遊ばれている男だっていう話が溶けたアイスクリームみたいに広まって、蟻のように群がった人たちが持ち帰ってあちらこちらで美味しく噂する。
でも、それで構わない。そうすれば、本当は誰を好きなのか、必要以上に探られることもないから。
教室に向かって歩き出す。ポケットからスマホを出して確認すると、クラスが違う青吾と過ごせる貴重な昼休みは、残り十分しかなかった。
やや急ぎ足で青吾の教室にいくと、窓際でクラスメートの井沢と二人で机を挟み、和やかに話す姿が見えた。
教室の窓から入る光に照らされる黒髪は、天使の輪をのせている。その輪を崩すように頭に手を当て「よ」と声をかけると、青吾が振り仰いだ。
「遅かったね」
「ちょっと先生につかまって」
「そう」
近くの席から椅子をガタガタと引き寄せて井沢と青吾と同じテーブルに弁当を置くと、青吾も弁当を袋から取り出した。
「あれ、食べてなかったの」
「半分残しておいた。一人で食べるのってなんか寂しいだろ」
当たり前のように言う青吾は、今日もかっこいいし優しいし可愛い。
「俺はそんな気を遣う必要ないって言ったんだけどね」
井沢が頭の後ろで手を組み、椅子を傾けてゆらゆらさせた。
「だって、絶対先生じゃないじゃん。どうせ告白だろ」
声量を下げることもなく能天気に言い放った井沢の言葉に、教室のあちらこちらから視線が集まるのを感じる。
井沢は悪い奴ではないが、たまにこうして余計なことを言う。
黙ったままやり過ごすのって感じが悪いかな、と考えながら弁当箱の蓋を開ける俺の前で、青吾が井沢のことを真っすぐに見て口を開いた。
「彬が先生につかまったって言うなら、それでいいだろ」
「え、でも気になるじゃん」
「野次馬禁止。彬が言わないなら、それは言いたくない理由があるってこと」
青吾の正論に、井沢がまあそうだけど椅子を戻し、みんなの渦巻いた好奇心も、するっと解けていった。
口に放り込んだ卵焼きと一緒に青吾の良さを改めて噛みしめながらも、俺はちょっと引っかかるものを感じていた。
これまで、告白されたことを、青吾に話した記憶はない。帰りに待たせることになったとしても、友達に呼ばれて、とか、忘れ物しちゃって、とか言っていたし、女の子に目の前で呼び出されても、相談事があったんだって、と言っていた。
いつも、それを疑いもせずに受け止めてくれる青吾の純粋さも愛しく思っていたのだけれど、もしかしてこれまでも全部告白って分かっていながら、今言ったような理由で流してくれていたのだろうか。
ということは、これまで話題に出たことはないけれど、もしかして、俺が年上の女性を、という噂話も知っていたりする?
じっと青吾を見ると、おにぎりを頬張りながら、なに?とでも言いたげに見返してきた。
☆
梅雨前の晴れた空の下、学校から解放されて家路につく。その道中、いつも通り他愛もない話をしながらも、噂話を知っているかどうかを聞くタイミングを俺はうかがっていた。みんなには誤解されてもいいけど、青吾にその噂を信じられるのは、嫌だった。
さりげなく切り出すって難しいな、と思う俺の隣で「そういえばさ」と青吾が話し出した。
「友達に彬のアドバイス伝えたんだけど」
「アドバイス?」
聞き返したあとに、あぁ、昨日の友達の恋愛話か、と思い出す。学校の友達かと聞いたら、塾の友達だと言っていた。
結局、ギャップを見せるといいのでは、そうすれば、恋愛にすぐに結びつかなくても興味は持ってもらえるかもしれないしと、当たり障りのない返事をして、塾へ行く青吾を見送った。
「ギャップって難しいなって話になって。例えばどんな感じ?」
「うーん、そうだなぁ……」
適当に答えていたのだから、すぐにいい答えが浮かぶこともなく、俺は「たとえば、青吾ならピアスを開けるとか?」と言ってみる。
俺の言葉を聞いた青吾はびっくりした顔になって、自分の耳たぶを触った。
「ギャップのためだけにピアスは開けられないよ」
「たとえば、の話だって。青吾の話じゃないんだし」
実際、青吾がピアスを開けた姿は想像できないし、体に傷をつけるようなことしてほしくない。そのままの青吾が一番だ。
「そうだけど……ほかになんかない?」
「んー、青吾の友達がどんな人かも分からないし、相手の人もどんな人かわかんないからな。難しいよ」
俺の返事に青吾は少し考えるように目を伏せた。
「俺の友達は、まあなんていうか俺みたいな感じで、恋愛経験も全然ない人」
青吾みたいな人間がほかにいるわけないだろ、と思わず反論したくなるが頷くにとどめる。青吾は進学コースに在籍しているらしい。きっと同じコースに通う真面目な友達なのだろう。
「で、友達が好きな人は……優しいし、努力家だし、かっこいいけど、彼女はいないって。ただ、片思いしてる相手がいるっていう噂があるから難しいとは思ってるみたい」
「そうかぁ」
その子が言うとおり難しいだろうな、と正直なところ思う。自分もいくら告白されたところで青吾以外に気持ちが向くことはない。
でも、そんなことを言ってしまったら元も子もないから、俺は最もらしく言葉を続ける。
「まあ、片思いの人がいるっていっても、好きな人以外を恋人に選ぶ可能性だって十分あると思うけどな。報われない相手よりも、確実に報われる相手のほうがいいってこともあるし、付き合っているうちに本気で好きになることだってあるだろ」
まあ、俺の場合はないけど、と心の中で続けたところでふと気づく。
「ってか、その 友達って女の子なんだ」
「あぁ、うん、そう。女の子だとまたアドバイスも変わる?」
「いや……でも女の子だったら髪型とか変えてギャップを出せるかもね。その子、髪長い?」
「肩下くらいだと思う。いっつも一つに結んでるからちゃんとは分からないけど」
「なら、髪を下すだけでも雰囲気変わるんじゃないかな」
「なるほど。伝えてみる」
真面目に頷く青吾を見ながら、黒い染みが胸の中に広がるのを感じる。その塾の子、相談するふりして青吾に近づこうとしているんじゃないだろうか。
青吾は決して派手な見た目ではないし生真面目な性格だからか、すごくモテるわけではないけれど、その魅力に俺のように気づいてしまう人がたまに現れる。
俺は青吾のことばかり見ているから、自分と同じように青吾に視線を向ける女の子はすぐ分かる。でも、俺がちょっと優しくして笑いかければその子たちは青吾より俺を見るようになり、そのたびに、そんな程度の気持ちしか持たないやつに、青吾を奪われるわけにはいかないと、俺はますます青吾に対してのセキュリティを高めていった。
でも、学外まではさすがに見張れない。油断していた。
「彬、どうした?」
「え」
「いや、なんか険しい顔してるから」
「あ、ほんと? ちょっと眩しいなって思って」
「確かに天気いいな」
空を見上げた青吾の顔の上で街路樹から漏れ出る光が踊るのを見つめながら、とりあえず一回塾に様子を見に行くかと考えていると、ふいにその視線が俺へと向けられた。
「彬はどうなの?」
「なにが?」
「彬も年上の人にずっと片思いしてるんだろ。それでも、ほかの人に気持ちが向く可能性はあるの?」
話したかったことを、青吾から正面切って問われて、動揺する。
「いや、それ、誤解って言うか、ただの噂で」
無垢な目でじっと見てくる青吾に言い訳をするように俺は早口で続けた。
「高校入ってすぐくらいに、年下と年上のどっちがいいかって聞かれたことがあって、どちらかと言えば年上って答えたんだけど、それが年上の女の人に片思いしてるって改変されて広まってるっぽい」
「じゃあ、好きな人がいるってのも誤解なんだ」
「それは……」
俺は、唾をのんだ。その好きな人を前に、どう答えるのが正解なのだろう。分からないけど、嘘はつきたくなかった。
「それは、本当」
少しだけ、声が掠れた。
☆
そもそも、今回の友達の話って、本当に友達の話なのかどうか。
鳥型のクッションを抱えベッドに寝転がり、ぐるぐると考える。
今、考えられる可能性としては三つ。
一つ目は、青吾の説明通り、塾の友達が俺たちが知らない人を好きだというだけのパターン。
二つ目は、考えたくないが、塾の友達が青吾のことを好きで、相談と言う体で青吾に近づいているパターン。
そして、三つ目。ないだろうし、まさかとは思うが、友達の話と言いながら青吾が自分の話をしているパターンがあるのではと思えてきた。自分の気持ちを知られないように友達の話という体で相談したりする場面、漫画でも何回も見たことある。
――その場合、相手はおそらく……俺?
心の中で呟いて「いやいやいやいや」と俺はクッションをぎゅうぎゅうに抱きしめて悶える。そんな都合のいいことあるだろうか。
四年近く片思いしているけれど、これまでそんな気配一ミリもなかった。
青吾と俺との間に、何かきっかけになるような出来事も起こっていない。
――あ、でもクラスが別れたか
中学のとき、青吾と俺はずっと同じクラスで、高校に入っても同じクラスだった。でもこの春、高二になって初めてクラスが別れた。
昇降口に貼りだされた新クラス名簿を見て、ショックで立ちすくんだ俺に対し『まあ、これまで一緒だったほうが奇跡だよな』という感想だけを青吾は述べ、そのあっさりとした態度に再度ショックを受けたわけだが、もしかしたら、クラスが別れたことで俺の存在の大きさを意識したとか。そして、自覚していなかった自分の気持ちに気づき、みたいな。
だって、たまたま青吾と似たタイプの友達が、たまたま俺と似たような相手を好きになって、たまたま青吾に相談するなんてことあるだろうか。
考えれば考えるほど、三つ目の可能性が高いような気がしてきて、心臓がドコドコと鳴り響く。
どうにも落ち着かず、ベッドの上に起き上がった俺は、一応告白をすべきかどうかについても考えてみる。
さすがに、青吾の気持ちがはっきり分からない今の段階では、もうちょっと様子を見るべきだろう。青吾にまったくその気がなかったら、親友としての立場も失いかねない。
でも、今日、俺が好きな人がいると言ったら、青吾は少し考えている様子だった。もし俺のことを好きになっていたのに、あれで諦めようと思わせてしまっていたら大変だ。
「どうするのがいいのかなー」
窓の外を見る。まだ空はうっすらと明るい。
今頃、青吾は塾で頑張って勉強しているのだろうな、と思っていたら玄関のチャイムが鳴った。時間的に家庭教師が来たのだろう。ちょうどいいから相談してみようと、俺はクッションを放りなげ、玄関へと向かった。
「先生はさ、いいなと思っている子がいたらどんなふうにするの」
俺の解いた数学の問題集の丸付けをしている先生に頬杖をつきながら聞くと、ゲホゲホとむせた。
「大丈夫?」
「いや、彬が俺に聞く?って思ってさ」
「なんで」
「どう見ても、俺より彬のほうが恋愛偏差値上でしょ」
高校に入ってから家庭教師をしてくれている大学生の古賀先生は、眼鏡をかけた見た目からして賢そうだし、実際にいい大学に通っている。付き合って三年になる彼女がいるそうで、写真を見せてもらったけど可愛い人だった。つまり実はけっこうモテるのではと踏んでいる。
「いや、絶対先生のほうが上。俺、付き合ったことないし」
「え、そうなの!?」
俺の顔を、古賀先生がまじまじと見た。
「告白されたりとかは」
「それはあるけど」
「そういう子と付き合わないの」
「好きな人がいるんだから付き合わないよ」
俺の返事に、古賀先生は目を手で覆って天を仰いだ。
「ほんと、今日の今日まで君を誤解していたことを申し訳なく思う」
「なんだと思ってたの、俺のこと」
「女をとっかえひっかえしている陽キャ、というのは嘘だけど、まあこれだけスペック高いんだから普通に彼女の一人や二人はいると思ってた」
「いないし」
「そっかー」
古賀先生は赤ペンを問題集の上に置いて、真面目な顔で俺に向き合った。
「彬から告白はしないの」
「……まだ、相手の気持ちが分からないから。けっこう長いつきあいで、関係性を壊すのが怖いって言うのもある」
「いつから好きなの」
「中一のときから」
「中一!?」
純愛すぎる、と古賀先生が再び天を仰ぐ。
「で、なんでいまさら、どんなふうにすればいいのかとか考えてんの」
「ちょっとね。もしかしたら、俺のこと好きなのかも、みたいに思うことが最近あって。でも勘違いかもしれないし、でも、もし本当にそうならチャンスを逃したくないし、どんなふうにするのがいいんだろうと思って」
「なるほどなぁ……だとしたら、ありきたりなアドバイスだけど、好きな子はちゃんと大事にして、特別扱いするのが一番大事だと俺は思う。駆け引きとかそういうのも、相手の子が恋愛経験豊富ならやってもいいかもしれないけど、そうでないならあえて不安にさせるようなことはしないほうがいいだろうな。付き合えたあとも根本的なところで信用してもらえなくなる」
「相手の子は全然恋愛経験ないって言ってるし、俺も駆け引きとか全然わかんないから」
「じゃあ大丈夫だな。あと、相手の気持ちが知りたいなら、例えばサプライズでバイト先とかさ、そういうところに会いにいってみれば? 喜んでくれるか、不審がられるか、そういうのでも少しは分かるかも」
「サプライズ……」
青吾相手にするとしたら、塾の終わりを待つのがいいかもしれない。どちらにしても、青吾に好意を寄せている女子がいないか、塾に一度確認しにいくつもりだったし。
「分かった。ありがとう。やってみる」
「いやー、それにしても彬がそんなに好きな子ってどんな子なんだろうな。うまくいったら紹介してよ」
会ったことあるけど、と内心で思いつつ「うまくいったらね」と答える。
去年、家庭教師になってもらって間もない頃、一緒に自分のレベルに合う参考書を選びにいったときに、たまたま塾帰りの青吾と遭遇したのだ。
簡単に挨拶して、すぐに別れたから、古賀先生も青吾もお互いを覚えているかどうかは分からないけど。
「ま、それはそうと、間違っているところが二か所あるから一緒にやってみようか」
「はい……」
いったん青吾のことは意識の外に追いやって、先生が赤ペンで指した問題をもう一度読み直す。
青吾と同じ大学に行く。その目標のためには、苦手な数学も頑張るしかなかった。
☆
金曜日の夜、塾の前の花壇に腰かけた俺は、ジンジャーエールを飲みながら青吾を待っていた。塾が終わる時間は、普段の会話の中からリサーチ済みである。
夏が近づいているといっても、夜はまだ涼しい。思ったよりも冷たい風が吹いてきて、肘下までまくりあげていた長袖シャツを手首のほうまでおろす。
しばらくすると、ちらほらと生徒たちが出てきた。
俺を横目で見た女子たちが「彼女とか待ってんのかな」と囁きあうのが聞こえてくる。
その言葉に、自分が好きな人を待っているのだということを急に意識してしまう。同じ人を待つのに、友達だと思って待つのと好きな人だと思って待つのでは、ずいぶん違う。
それから数分経って、青吾がスマホを見ながら出てきた。
こちらを見ることもなく通り過ぎようとするのに、小さく深呼吸してから「青吾」と声をかける。びっくりしたように顔をあげた青吾はキョロキョロとし、俺を見つけて目を見開いた。
「彬。どうしたの?」
「んー、ちょっと出かけてて。帰るとこだったんだけど、ちょうど青吾の塾が終わるくらいの時間だし会えるかもって思ったから来てみた」
俺の言葉を聞いた青吾は微妙な顔になった。その顔の意味が分からず黙って様子をうかがっていると、後ろから「但馬くんの友達?」という女子の声がした。
もしや青吾に相談している女子か、と振り向こうとした俺の背中を青吾が押しながら「そう、またね」と答えて歩き出す。
押されるがままに俺も素直に歩く。
駅前の雑踏を抜けたところで、ようやく青吾が背中から手を離し、隣にならんできた。
「なに、なんか俺が会ったらいけない人だった?」
「いや、前から彬を紹介しろって一部の女子から言われてて」
「俺を?」
「俺たちと同じ中学校だった子が、同じ塾にいてさ。コースは違うんだけど。そこから、彬の話が広まったらしくて、俺が親友だからって、一緒に遊びに行こうとか女子のグループからよく言われてて。さっき声かけてきた子も、そのグループの一人だったから」
「そうなんだ。ごめん、迷惑かけて」
「彬のせいじゃないから」
ようやく笑顔を見せた青吾にほっとしたのも束の間、また後ろから「たじまくーーーん」「たじまくーん」と数人で呼ぶ声が聞こえ、俺らは顔を見合わせる。
「逃げよう」
そう言ったかと思うと、青吾が俺の手首をつかんで走り出し、人通りもまばらな街灯に照らされた道を駆け抜けていく。
しばらく走っても「待ってー!」と後ろから声が追いかけてきて「根性あるな」と青吾が呟き、笑ってしまう。
「そこの角曲がろう」
勢いよく曲がったところで、遠心力に負けた青吾の手がすべって離れていく。
慌てて手を伸ばし、青吾の手をしっかり握った俺は、今度は自分が引っ張るようにして住宅街の中を走っていく。
世界は青く染まっていた。ワンワンと犬が吠えていた。三日月が光っていた。遠くから車のクラクションが聞こえた。公園のブランコが風で揺れていた。カレーの匂いがした。
最後、二人ではぁはぁと息を吐きながら、俺たちはどちらからともなく立ち止まった。念のため振り向いたが、さすがに女の子たちの姿はなかった。
繋いだままの手を持ち上げて、青吾があははっと笑う。
「手をつなぐ必要、なかったんじゃないの?」
「なんとなく、はぐれたらヤバイ気がして」
「あの子たち別にゾンビとかじゃないからね」
青吾の手の力が抜け、その温もりに未練を残しながら、俺も握っていた手を開く。
「でも、こんな全速力で逃げるくらいには、めんどくさそうな相手なんだよね。逆に次の塾のときとか色々言われて大変なんじゃない?」
「いや」
青吾が首を振る。
「別に大丈夫。でも、彬は嫌だろ。女の子たちに見世物みたいにされるの」
「うん……」
「それに、俺も彬と二人のほうがいいし」
笑顔で言われてどきりとする。
月明かりに照らされた静かな夜道。俺を見上げる少し火照った可愛い顔。
もう告白してしまおうか、と思う。
ここで抱きしめて、ずっと好きだったよって、付き合ってって言って、そして断られても聞こえなかったふりで、受け入れてくれるまで手をつないで夜の中を永遠に一緒に歩いて。
「なんてね」
小さい声で呟き、青吾が「ん?」と聞き返してくるのに笑顔を向ける。
「なんか食べて帰らない?」
「賛成。走ったから喉乾いたしお腹空いた」
お母さんに連絡するわ、とスマホを取り出しながらまた駅のほうへ歩き出す青吾の後ろをついていく。
「そういえば、今日どこに出かけてたの」
青吾が聞いてきて、「カテキョの勉強終わってから、先生と出かけてた。おすすめの本があるっていうから」と答える。
おすすめの本を買いにいったのは本当。古賀先生と出かけていたのは嘘。そもそも今日は家庭教師にこない日。
「そうなんだ」
「そう。で、どこ行く? ファミレス?」
俺の問いに、青吾は振り返って「バーガー食べたい」と笑顔で答えた。
結局目的は何も達成できなかったけど、この笑顔を見られただけでも来た意味はあったな、と俺も笑い返した。
☆
「そういえば、友達はどうなった?」
俺がその話題を出したのは、夜の中を全速力で駆けた次の週の土曜日のこと。
二人で見ようと約束していた映画を電車に乗って見にいき、夏服を買いにいき、チェーン店のラーメンを食べ、ゲーセンに行き、小遣いをほぼ使い果たした俺らは、自販機で買ったジュースを飲みながら小さい公園のベンチに座っていた。
デートだと思って青吾をできるだけ大切に扱おうと意気込んできたが、男気のある青吾にむしろ大切に扱われることも多く、このままじゃ何も変わらないままになってしまうというちょっとした焦りもあった。
メロンソーダを飲んでいた青吾は、少し首を傾げた。
「なにが?」
「ほら、好きな人に気にしてもらいたいって言ってた」
「あぁ……」
青吾が思い出した、と言いたげに数回軽く頷いたあと、少し言いにくそうに続ける。
「片思いしてる相手がいるっていうのが、噂じゃなくて本当だって分かったんだって。だから、諦めることにしたらしい」
「え」
「相談のってもらったのにごめんねって言ってた」
ちょっと待て、と思う。
これが、本当に青吾の友達の話だとしたら、それでいい。その片思いの相手が俺たちの知らない人だろうと、青吾だろうと、理由がなんであれ勝手に終わらせてもらえればいい。
でも、もし、友達の話でなく、青吾の話だったら?
その、片思いの相手が俺だとしたら?
この間、聞かれたときに好きな人がいると答えた、あれが決定打になっていたとしたら?
「……その片思いの相手の人が、自分だっていう可能性もあるんじゃないの」
俺の言葉に、青吾は目を見開く。
「そんな都合のいい話、ないだろ」
「直接聞いたの?」
「うん。聞いたって」
「なんて聞いたって?」
「いや……そこまでは、詳しく知らないけど」
青吾が困ったような顔になる。
「でも、これからも顔を合わせるから、気まずくなりたくないっていう気持ちもあるだろうし、気持ちがばれるような聞き方はしてない――と思う」
「じゃあ、ちゃんと聞かないと」
「無責任なこと言うなよ」
青吾がため息をついて、手の中にあるメロンソーダに目を向けた。
「無責任じゃない。ちゃんと責任を取るつもりで聞いてる」
「責任って」
俺は息を吸う。
やっぱり、友達の話は、青吾の話なのだと確信する。
青吾から言ってほしいと思っていたけど、それは俺の甘えで。俺が言うのを怖いと思うように、きっと青吾だって怖いと思うだろう。
青吾は、きっと俺の好きな人が別にいると思っている。だって、俺がそう思わせたんだから。だから、俺が誤解を解いて、俺が好きだって言わないと。
「青吾」
俺の真剣な声に、青みがかって見える綺麗な目が俺に向けられる。
「俺、青吾のこと好きだよ」
青吾が目の前で息をのむのが分かった。緊張で手の中にあるジンジャーエールのペットボトルがぺこりとへこむほど、指に力が入る。
「だから、諦めるなんて言わないで。俺と付き合おう」
「待って、彬」
目の前で、青吾は口を押さえ、目を泳がせた。
「ごめん、なんでそんな話になってるの」
「え、だって、俺に好きな人がいるから、諦めようってしてる……」
「だから、それは、俺の友達の話で」
心臓がとまった気がした。全身から、血の気が引いていく。
勘違い? すべて俺の勝手な思い込み?
本当に、友達の話だった?
呆然とする俺の前で、青吾はもごもごと続けた。
「塾の、同じコースの女の子で。男子の意見が聞きたいからって、俺、相談に乗ってて。相手の人、同じ塾の先輩で、受験が本格的になる前にってその子も言ってたんだけど、あんまりしつこいと迷惑になりそうだからって――」
最後まで聞き終える前に力の入らない足で立ち上がった俺は「ごめん」とだけ言って、青吾に背をむけてふらふらと歩き出した
青吾も、追ってこなかった。
☆
こんなに学校に行きたくないのは中一のときぶりだ、と思いながら俺はいつもより早く家を出た。
本当は、さぼろうかと思った。だって、青吾と同じ大学に行くためだけに俺は勉強を頑張っていたのだから、もう高校に行く意味はない。
勉強だけじゃない。すべての努力も、もう必要ない。青吾の隣にいるために、青吾の価値を落とさないようにというのが理由だったのだから。もう、何もかもに意味はないのだ。
でも、もし俺が学校に行かなくなったら。もし俺が自暴自棄になってしまったら。
きっと青吾は自分のせいだと、自身を責めるだろう。傷つくだろう。青吾は、何も悪くないのに。
だから、せめて高校にはいかなければと思う。大丈夫だと、青吾に見せなければと思う。
大きなため息をつき、俺は重い足を学校へと向けた。
空は今日も晴れ渡っていた。でも、青吾という要を失って崩れ落ちた俺の世界は、今にも雨を零しそうな鼠色の雲に覆われていた。この先、俺の世界が整うことは、もう二度とない。それは、俺の世界の創造神である青吾を手に入れようなどという、身の程をわきまえない望みを持ってしまったことへの天罰。
学校では、一日中教室の中で過ごした。休み時間は寝たふりをし、昼はイヤホンをつけて一人で弁当を食べた。青吾と自分が別のクラスだというのが、唯一の救いになるというのは皮肉な話だった。会いにいかなければ青吾の顔を見ずに済む。青吾にも、こんな男の顔を見せなくて、済む。ただ機械的に授業を受け、チャイムと同時に教室を飛び出した。
走りながら、このままどこかへ行ってしまいたいと思う。走って走って、走り続けて、誰もいない場所へ。でも、そんなことは到底無理で、息が切れた俺は足をゆっくりととめる。
青吾と手をつないで走ったときはもっと遠くまで走れたのに、と思った瞬間、涙が出てきた。青吾がいなくなっただけで、俺は、こんなに駄目になる。
なんで、あんなことを言ってしまったのだろう。青吾は、嘘をつくようなやつじゃない。青吾が友達の話だと言うなら、それは友達の話なのだ。分かっていたはずなのに。それなのに、小さな「もしかしたら」を願望で大きく膨らませ、その願望越しに青吾を見て自分に都合よくゆがませてしまった。本当に、なんて最低なことを。
汗をぬぐうふりをしながら、涙をぬぐい歩き出す。とりあえず今日一日頑張った自分を、少しだけは許してやろうと思った。
青吾と会わないまま、一週間が過ぎ去っていった。もちろん、隣のクラスだから見かけることはあったけど、できるだけ目をそらし、存在を自分の中から追い出した。
さすがに、周りもおかしいと思っていただろうけれど、触れてくれるなと言う俺の無言のバリケードを突破してくるほど勇気がある同級生はおらず、放っておかれていた。
ただ、井沢だけは一度話しかけにきた。
イヤホンをつけた俺の前に座って両手をふるから、さすがに無視できずに片耳のイヤホンをとると、いつもの能天気な声で『弁当食べにこねーの?』と言ってきた。
『いかない』
『そっかー。青吾が最近ぜーんぜん飯食わなくてさ。彬が来てくれたら食べるかなって思ったんだけど』
自分のことで悩ませているのは確実だったけど、だからといって俺が行っても結局悩むのは同じだから『ごめん』とだけ言って、俺はまたイヤホンをつけた。
家でも、俺の様子が変だということは家族も気づいていただろうけど、やはり何も言わずに放っておいてくれた。
唯一、古賀先生にだけは、失恋したと話し、少し泣いた。古賀先生は慰めてくれたけど、『給料をもらっているからには』と言って、勉強は手加減してくれなかった。
そしてようやく土曜日になった。学校へ行かなくていいのはいいけど、暇な分だけ余計なことを考えてしまい、俺はごまかすように朝から漫画を読み始めた。
数冊目に入り、ようやく集中してきたところで着信音がなり、なんだよ、と思いながらスマホに手を伸ばす。
スマホにはDMの通知が表示されていて、その送り主を見て、俺は固まった。
無視することもできた。でも、井沢が飯を食わないと言っていた青吾のことはやっぱり心配で、自分が無視することで悪化させる可能性があるとしたら、見ないわけにはいかなかった。
『友達の話だけど』
DMはそう始まっていた。
『相談に乗ってもらったから、一応報告しておこうと思って。結局、俺が先輩に直接好きな人について聞きにいってきた。先輩の好きな人は同じ高校の同級生で、友達は失恋したけど、はっきりしてよかったって言ってた。彬が言ってくれたおかげ。有難う。』
そっか、と思う。友達のほうも、はっきりさせることで失恋したのか。
でも、それでよかったと言える友達は、俺とは全然違ってかっこいい。俺は、まだ無理だから。言わない方がよかったって、今でも思っているから。こんな気まずい状況でもきちんと報告してくれる律義さを、やっぱり好きだと思ってしまうから。
せめて、一言返した方がいいだろうかと、勝手に出てくる涙をぬぐいながら青吾からのDMを見ていると、シュポッと新しいメッセージが現れた。
『次に俺の話だけど』
びくりとする。友達と話して、はっきりと断ったほうがいいと思ったのかもしれない。続きを読む勇気がなく慌てて閉じようとするが、その前に、また新しいメッセージがシュポッと現れた。
『ずっと彬が好きだった』
目を見開いた俺の前に、次々に新しいメッセージが現れる。
『でも、彬は家庭教師の先生のことを好きだって知って、諦めてた』
『けど、前に先生が彼女と歩いているところ見たから、彬は大丈夫なのかってずっと気になってた』
『だから、友達に相談されたときに、それを彬に相談するふりして、どうなってるのかさりげなく聞きだそうとした。ごめん』
『そうしたら、家庭教師の人をまだ好きみたいだったのに、俺のこと好きだって言われたから、混乱した』
『そのあと考えて、彬が報われない相手よりも、確実に報われる相手のほうがいいって言ってたことを思い出して、俺が好きなことに気づいたから、応えてくれようとしているんだって、分かった』
『でも、俺で本当にいいのか、自信がなくて悩んでた』
まだメッセージは続いていたけど、俺は急いで連絡先を出して、青吾のアイコンをタップした。
呼び出し音がなっても、なかなか通話にはならず、もう一回かけなおすか、と思ったところでようやく繋がる。
『……もしもし』
「なあ、ほんと俺が家庭教師を好きだとか、どっから来たの? それ」
聞きながら俺は部屋を出て階段を駆け下りる。
『……だって、最初に会ったとき、彬がこの人に運命を託そうと思ってるって嬉しそうに言ってただろ』
「あー、言ったかもしんないけど、それは青吾と同じ大学にいけるようにしてください、よろしくって意味」
『……いろんなかっこいいこと、どこで知ったのかって聞いたら家庭教師の先生からってばっかりだった。憧れてるからって』
「本当は自分でネットで調べました。好きな人にかっこよく思ってもらいたいけど、ネットでいちいち調べてるのはかっこ悪いって思って、先生からって言いました」
『……あと、好きな人の話のとき、年上の女の人っていうのは否定したけど、年上そのものは否定しなかったし』
「いや、年上も女の人も両方とも否定したつもりだったんだけど」
『……それに、この前、塾にきたときだって、家庭教師がない日なのにわざわざ外で会うとか、そんなの特別だからって思う――』
「あれ嘘。理由もなく青吾を塾の前で待ってたら不審がられるかなって思って、話をでっち上げました。おすすめの本を買ったのはほんとだけど、先生とは出かけてない」
『……なにそれ。ぜんぶ俺の思い込みってこと?』
電話の向こうで青吾が小さく呟く。
俺は笑いながら靴を履き、ドアを大きくあけた。明るい日差しが玄関に差し込む。
「青吾、今から行くから話をしよう。友達の話じゃなくて、俺たちの話」
それだけ告げた俺は、スマホをポケットに入れて駆けだした。今日はきっと、どこまででも走れる。青吾が待っていてくれるから。
End



