「麻衣も早く彼氏作りなよ」

 目の前に座っている理沙は楽しげな笑みを浮かべながら、緑のストローを指でくるくると(もてあそ)んでいる。
 
 私たちはこの日、カフェでランチを楽しんでいた。

「うちらだって、もう二十七歳じゃん? やっぱり彼氏っていいよぉ。心も身体も若返るーって感じ」

 理沙は声のトーンを上げて、まるで初彼が出来たかのように浮かれていた。

「理沙ってば極端すぎでしょ。一ヶ月前は『一人サイコー!』って言ってたのに」
「それはそれ。やっぱ、『人を愛する』『人に愛される』って大事だわあ」

 理沙は乙女のような表情でフラペチーノを一口すすり、物憂げに続ける。
 
「あーあ、誕生日、どうしよっかなあ」
「女子高生か」

 カフェにあははと笑い声が響いた。

「……彼氏ねえ。もう全然興味ないんだけどなあ」

 私は頬杖をついてため息をつく。
 
「そんなこと言ってると、あっという間に三十路! そんで三十五歳になってるよ! 結婚、出産を考えるなら今しかないって! 麻衣だって、いつかは家族ほしいでしょ?」
「そりゃそうだけど……出会いないし」

 平日は職場と家を往復するだけ。
 休日だからと特にやることもない。適当にご飯食べて、適当に動画見て、適当に過ごしている。
 
 誰にも縛られずに一人で自由に過ごせる時間は好きだ。
 けれど、SNSに上げられる友人たちの結婚や出産報告を見るたびに、羨ましい気持ちになってたのも事実だった。
 
「出会いなんてそこら中にあんじゃん。私が遼と出会ったマチアプ教えようか?」

 理沙の目が少女のように輝いていて、断るタイミングを逃してしまった。
 正直、マッチングアプリというものに興味がないわけではない。

「……まあ、話くらいは聞いてみてもいいけど」

 私がそう答えると、理沙は待ってましたとばかりにスマホを取り出し、画面を見せながら楽しげに説明をしてくれた。

 ◆◆◆◆

 その日の夜。
 帰宅した私はスマホを手にしていた。
 画面には見知らぬ男性とのメッセージが並んでいる。

「今から会えますか?」
「大人の付き合いできますか?」
「割り切った関係で」

 見るからにヤリモクのメッセージが次々と届く。
 ため息をつきながらも画面をスクロールすると、一通のメッセージが目に留まった。

「はじめまして。
 僕はY市に住んでいます。
 日々職場と家の往復で出会いもなく、マッチングアプリに登録してみました。
 慣れていなくて緊張しているのですが、まずはメッセージからお近づきになれたら嬉しいです」

 礼儀正しく、誠実そうな文章が並んでいる。
 そしてそれは、どこか自分が抱いていた事情や感情に近いものだった。

 ──まあ、とりあえずメッセージだけでもしてみるか。

 深くは考えず、私はその人にだけ返信をした。

 ◆◆◆◆

 細々とメッセージのやり取りを続けて、ついに彼と対面する日がきた。

 待ち合わせは十一時、場所は相手の最寄駅。
 Y市は隣街だから移動は苦ではないし、なにより自分の地元でデートは少し気が引けた。

 とりあえず自分の身なりなど、特徴をメッセージで伝える。

 ──なんか、めっちゃドキドキするわ……。

 プロフ画像から相手の顔は知ってはいるものの、写真なんてどうとでも加工できる。
 写真と全然違う人がきたらどうしよう、なんて考えていたら──。

「麻衣さん?」

 聞き馴染みのない低い声で名を呼ばれた。
 目を合わせると、そこにいたのはあの写真の人だった。
 角度や光で多少の違いはあれど、ほぼ写真と変わらない。
 特別かっこいいわけでもないが、優しそうで清潔感があって、実物を見た瞬間、胸が高鳴った。

「あ、はい。隼人(はやと)さん、ですか?」

 たどたどしく尋ねると、彼は照れくさそうに微笑んだ。
 
「よろしくお願いします」

 二人で頭を下げて、初デートが始まった。

 ◆◆◆◆

 といっても、デートらしいデートではない。
 駅近くの喫茶店に入り、お互いのことを知ろうという流れだった。

 ──とは言うものの、何を話せばいいの?
 
 とりあえずプロフィール上の話題から埋めていった。
 石井隼人、三十一歳。サラリーマン。実家住み。一人っ子。趣味はドライブ。
 お互い知っていることの情報交換だったが、隼人は終始笑顔で敬語を崩さずに話してくれた。

「いつか麻衣さんとドライブしてみたいですね。今は寒いですが、夏になったら海の方へ行くのも素敵かな、なんて」
「海ですか、いいですね! 私、免許は取りましたがペーパードライバーで……ドライブとか憧れます」

 初手でドライブデートを誘ってこなかった隼人に、また好感度が上がった。
 初対面の人との初デートで車に乗るなんて、無理に決まっているからだ。

 だんだんと気も許してきたこともあり、気がついたら喫茶店に入ってから二時間経っていた。

「あ、じゃあ今日はこの辺でお別れですかね」

 隼人が名残惜しそうに口を開く。
 このあとに彼は家族との予定があるそうで、もともと対面する時間はそれほど設けてはいなかった。
 
 私もそれでいいと思ってこの日を組んでいた。
 なぜなら、もし気が合わない、無理だと思った相手だったら、少し我慢すればすぐに帰れると思ったからだ。

 けれど今、この別れを惜しいと感じている自分がいた。

 彼は席を立つ前に、一冊の小さなノートとボールペンを鞄から取り出した。
 こちらには見えないように、さらさらと何かを記入している。

「なにかのメモ……とかですか?」
「日記のようなものです。こうして思ったことや感じたこと、それと麻衣さんのことを記しておきたいんです」

 怪訝(けげん)な顔をして尋ねた私に、隼人はにこりと微笑んで答えてくれた。
 スマホのフリックで簡単に記録ができてしまう今の時代、どこか古風なその姿にまた好感度が上がってしまった。

 …………

「今日はありがとうございました」

 喫茶店を出て、また互いに頭を下げた。

「ちょっと待ってくださいね、喫茶店の代金お渡ししますので……」

 そう言って財布を鞄から取り出そうとする私を、隼人はスマートに止めてくれた。

「じゃあ、次回お茶する時は私が支払いますね」
「ありがとうございます。また会えるなんて、光栄です」

 照れて笑う隼人の姿を見てハッとした。
 私の方が先に、また会いたいと匂わせてしまったのだ。
 
 恥ずかしすぎて、「駅まで送る」と言ってくれた隼人を振り切ってしまった。
 顔を熱くしながら、足早に駅へと向かう。

 ふと後ろを振り返り、彼の方を見る。
 目が合い、手を振ってくれた。

 ──これは……やばい! 好きになりそう!

 階段を駆け上って電車に乗り、窓から彼を探す。
 先ほどの喫茶店の前に、まだその姿があった。
 あのノートを開いて、右手を軽やかに滑らせている。

 ──なんて書いてくれてるんだろう。

 しばらくの間、鼓動の音がうるさいくらいに聞こえた。
 
 ◆◆◆◆

 それから三度、私たちはデートを重ねた。
 彼はずっと誠実で真面目で、手すら繋いでこようとしない。
 どこか物足りないような気もしたが、私のことを大切に思ってくれているのだと嬉しくもあった。
 そして別れ際、彼はいつもあのノートに日記を書いていた。

 ──いつか見てみたいな。

 恋人同士になったとき、きっと二人で読むのも楽しいだろうなと、そんな想像が頭をよぎった。
 

 そうして今日、四度目のデートの日。
 昼間にしかしてこなかったデートも、この日は夜の待ち合わせ。
 いつも以上におめかしして、約束している場所へと向かった。

「お待たせ、隼人さん」

 待ち合わせ場所は、住んでいる地域で一番都会的な街の駅。
 もう人混みの中でも、すぐに彼を見つけられるまでになっていた。
 
 そして約束の時間より十分早く着いたのに、いつものように彼は先にいてくれた。

「全然待ってないよ。麻衣さんだって、約束の時間より全然前に来てるじゃん」

 彼の笑顔から溢れる息の白さに愛おしさを感じてしまう。

 ──いつから待っててくれたんだろう。

 彼の紳士的な行動にどんどんと惹かれている自分がいた。

「じゃあ、行こうか。お腹空いてる?」
「うん、空かしてきた」

 にっこりと笑って答え、彼の隣を歩く。
 すっかり敬語も抜けていて、お互いの距離も近くなっている気がした。

 
 彼のエスコートでたどり着いた場所は、とあるビルの最上階。
 エレベーターが開かれ、目の前に現れた(きら)びやかな夜景に息を呑む。
 そこは、夜景の見えるレストランだった。

 ──デート四回目……このシチュエーション……。

 きっと今日、決定的な瞬間が訪れるに違いない。
 自然と目が泳ぎ、身体に緊張が走った。

 ………………

 会話を弾ませながら、絶品のコース料理を一皿ずつ堪能していく。

「これも美味しい!」
「ね。本当、予約できてよかった。次デートするならここって決めてたんだ」
 
 彼と目が合った瞬間、胸が高鳴った。
 そして、最後のデザートまで食べ切った。

「全部美味しかったね! お腹いっぱい」
「ならよかった。……ねえ、麻衣さん」
 
 不意に彼が真剣な眼差しになる。

 ──もしかして……。

 ついにその瞬間がくるのかと、背筋をぴんと伸ばした。

「僕の……」

 ──僕の……?

『僕と』じゃないことに少し疑問を抱きながらも、その先の言葉をドキドキとしながらじっと待つ。

「僕の、お母さんみたいな人になってください」

 ──……………………え?

 おかあさん? お母さん……? 母……?
 んん? これは新手のプロポーズなのか?
 
 不意打ちすぎる言葉に、頭の整理が追いつかずにいる。
 隼人はこちらの様子に気づく様子もなく、顔をほころばせていた。

「僕のお母さんに、麻衣さんの点数をつけてもらったんだ。メッセージのやり取りから、デートの記録まで、全部お母さんに見せたんだよ」

 彼は楽しそうに続けた。

 ──点数? それにメッセージまで見るって……。デートの記録……って、いつも書いてたあの日記のこと……?

 頭の中は大きく渦を巻く嵐のように混乱していた。

「まだ改善するところはあるってお母さんは言ってたけど、それでも高評価だったよ。お母さんに認められるなんて、さすが麻衣さんだね」

 満面の笑みで告げられる。

「それで、僕のお母さんの得意料理はハンバーグなんだ、世界一美味しいんだよ。それを作れるようになってほしいな。洗濯物も、うちは乾燥機は駄目なんだ。天日干しが気持ちいいよねって、お母さんが。それに、子供は三人ほしいかな、僕一人っ子だったし、お母さんにもたくさん孫に会わせてあげたいんだ。それで、お母さんが……」

 お母さん、お母さん、お母さん。
 なんだ、この地獄の時間は。

 ──もう無理! 聞いてらんない!

 込み上げる怒りや気持ち悪さを抑えて、精一杯の苦笑いで彼の言葉を遮る。

「隼人さん……! つまり、私に、あたなの大好きなお母さんになれと……?」

 自分でも驚くほど、声がわずかに震えていた。
 怒り、悲しみ、嫌悪、とにかく負の感情を集めたような、なんとも言えない感覚が胸を(えぐ)るよに押し寄せる。
 
 そんな私のいつもと違う態度を察することもなく、目の前のマザコン野郎は穏やかに微笑んで肩をすくめる。
 
「お母さんみたいな完璧な女性は無理だろうけど、できるなら近づいてほしいな」

 あんなに素敵だと思っていた笑顔が、今は気持ち悪くて仕方ない。

 ──あ、もう無理だ。

 感情が一周した私は、ぷつりと糸が切れたかのように冷静になってた。
 あれほど胸を焦がして、久々の恋に心をときめかせていたのに。
 そのすべてが、一瞬にして凍りついた。
 
「隼人さん、私ちょっとお手洗いに行ってきますね」

 にこやかな笑みを浮かべて、私は異様な空間から立ち去る。
 もう、夜景の見えるこの席に戻ってくることはない。

 ………………
 
 トイレでレストランの名前を検索し、コースで出された料理から値段を調べた。

 ──あと、お酒が三杯で……。よし。

 レジにいるウェイターに「あの席のお会計、一人分置いていきますのでよろしくお願いします」と言い残して、エレベーターに乗り込んだ。

 ◆◆◆◆

「いや、本当散々だったわ。マザコンとかちょっと無理」
「うん。本当……お疲れ様って感じ」
 
 目の前にいる理沙が同情めいた表情で慰めた。
 私たちは、いつものカフェでランチを過ごしている。
 
「でもまあ、早めに見切りつけられてよかったじゃん」
「まあね。あのまま正体明かされずにズルズルいってたらと思うと……うわ、無理」

 思わず身震いしてしまう。
 その先を想像してしまった自分を恨んだ。

「で? 次は?」
「次?」
「そりゃ、新しい出会いでしょ」

 理沙は軽い調子で笑っているが、私はため息をついて首を横に振る。

「……もうしばらくいいかな」

 そう答えると、理沙は苦笑いを浮かべて小さく息を吐いた。

「まあ……あの後だもんね」

 同情にも似た声色に、私はわずかに肩をすくめる。
 
「うん。もう少し、一人の時間を楽しむわ」

 理沙は「いつかいい人に出会えるよ」と柔らかい笑みを浮かべた。
 
 カフェの窓の外では、真っ白な結晶がしんしんと舞い落ちていた。