声にならない言葉があるとしたら、それは二人にだけわかる言葉となるのかもしれない。
 声にならない言葉があるとしたら――。声にならない想いがあるとしたら――。

 中学時代不良少女だった愛花。
 地頭が良かったので、進学校に進学後、優等生デビューを果たした。

 中学時代真面目で地味だった翔太。
 友達をたくさん作るべく進学校に進学後、チャラいキャラとして高校デビューを果たした。

 共に逆デビューした二人が同じクラスになり、席が隣になった。
 まさに逆デビューの二人が再会した。

 実は、二人は中学時代に出会っていたが、翔太はその人だとは気づかずにいた。
 というのも愛花の外見があまりにも別人だったからだ。

 中学時代、塾の帰りの夜道。
 カツアゲされているところを目撃され愛花に助けられた翔太。
 翔太の髪の毛は真っ黒で現在の金髪とは全然違っていた。
 洋服は母親が買ってきた安い無名ブランドのTシャツ。
 いかにも勉強できますという雰囲気のメガネ。
 女子にモテる要素はひとつもなかった。男友達もほとんどいなかった。
 翔太は救世主の怖そうな女子に半泣きでお礼をした。
 正直この姿に惚れる女子はいないと思う。
 実に情けない姿だった。

「ありがとうございます。名前を教えてください」
 不良女子は目つきが鋭く明るい茶色い髪色だった。
 髪は長くストレートで、大きなピアスが光っていた。
 隣の学区の中学の制服を着ていたので、中学生らしいとは思ったが、補導されてもおかしくない時間帯だった。
 怖そうな人だとは思ったが、助けてくれた恩人だ。
 きっといい人なんだろう。
 その人は強く美しく見えた。
 今まで会ったことのない大人びたオーラがあった。
 一方的な一目惚れだった。

「愛花。富町中の三年だ」
 声もかっこいいと翔太は愛花を好きになった。
 こんなダサくて弱い男にこの人が惹かれるはずはないと思っていた。
 でも、翔太の中で決意が固まっていた。
 高校に入ったらもう一度この人に会ってお礼を言おうと。

「名前は翔太。長沢中の三年です。いつかこのご恩はお返しします」
「別にいいよ。ここら辺は治安が悪い。早く帰りな」

 この日から愛花に見合う男になりたいと思うようになった翔太。
 受験勉強の傍ら、おしゃれについてネットで検索し、髪型から服装まで調べまくった。
 高校に入学する頃、メガネからコンタクトに変えた。
 元々勤勉で真面目な翔太は真面目にチャラい男となるために勉強を重ねていた。
 愛花の情報は富町中の三年生であるという情報しかない。
 高校に入って富町中の同級生がいたら彼女の情報を聞き出そうと思っていた。
 そのために、会話術を動画で勉強して、別人を作り上げた。
 ガリ勉翔太からチャラい翔太に変貌を遂げた。

 無事第一志望の公立高校に合格した翔太。
 進学校ではあるが、公立で生徒の自主性を尊重するため、髪色もピアスも自由な校風だ。
 私服のため、おしゃれのセンスも問われる。
 愛花に会いたい。恩返しがしたい。気持ちを伝えたい。
 そう思い、高校生になった。ただ、愛花がどこの高校に進学したのかは不明だった。
 少なくとも進学校であるここにはいないだろうと思い込んでいた。

「富町中出身、及川愛花です」
 クラスの自己紹介の時に体が硬直した。
 富町中出身というワードが胸を刺した。
 下の名前が愛花というのもどきりとした一因だった。
 しかし、隣の女子を見ると、どう見てもあの時の愛花とは別人のようだった。
 髪は真っ黒でメガネをかけた真面目な生徒という印象だ。
 この人に聞けば、あの時の愛花の情報が聞けるかもしれない。
 愛想はなく服装もいたって地味で進学校にいそうな勉強ばかりしてきた女子という印象だった。
 不良とは縁遠そうだ。
 同じ中学でも、あの時の愛花とはとても同じグループにいたとは思えないし、仲が良かったとも思えない。
 話しかけにくいオーラを放っており、初日から話しかける勇気はなかった。
 そもそも高校デビューの翔太は女子に免疫がない。
 見た目こそ派手だったので、他の中学でもいわゆる陽キャと言われているような男子が休み時間になると声をかけてきた。話術はある程度学んでいたので取り繕うことはできた。翔太は無理をして明るいキャラを演じていた。

 進学校ゆえ、みんなある程度の常識を持った生徒が多く、ヤンチャに見えても勉強をやる時はやるという姿勢のある生徒たちだった。きっと愛花はどこか別の高校に行ったのだろうと容易に想像はできた。生粋の不良はこの高校にいそうもなかったからだ。

 話をしていると富町中学だった男子がいたので、不良の愛花について聞いてみた。
「及川愛花、高校デビューしたんだよな」
 意味が分からなかった。
「同じクラスの及川愛花。あいつ、中学の時は見た目も怖い不良だったんだけど、高校に入ったら別人みたいに真面目デビューしててさ。地頭よかったから、学校にそんなに来なくても成績は良かったみたいなんだよな」

 思わず面食らった。
 ずっと憧れていた一目惚れの愛花が隣の席にいた真面目女子だという事実に。
 逆にどうして愛花がキャラ変したのかもわからなかった。
 話しにくいオーラは元不良のせいだったのかもしれない。
 真面目で寡黙というのも裏を返せば一匹狼の不良時代の名残がそうさせているのかもしれない。
 愛花は別な方向で高校デビューしていた。
 愛花になにがあったのだろうとも気になっていた。

 翔太は愛花が好きそうであろう今時のおしゃれな男にデビューしたのだが、これが愛花の好みかどうか自信がなくなっていた。勝手な思い込みで愛花はこういう男が好きなんじゃないかと思ってキャラを作りこんでしまった。
 金髪で女子ウケのよさそうな髪型を選び、ネットで知った流行の服を着ている自分。
 本当の自分ではないことに翔太も気づいていた。
 無理をして作り出した人物像だった。
 今の翔太を見て、愛花は惹かれるだろうか。
 実際隣の席にいても全く興味を示されていない。
 愛花の好みはもっと地味で真面目な男だったのかもしれない。失敗したかと思う。
 でも、このキャラのお陰で、中学時代には女子に話しかけられることもなかった翔太に話しかける女子は多くなったのは事実だった。きっと高校デビューは間違っていない。そう自分にいい気かせた。

 愛花は、翔太という名前を聞いても反応もない。
 あの時の自分とは全然違うから、別人だと思うのは無理もない。
 というか翔太という名前すら憶えていないかもしれない。
 あの時助けたことだって忘れているかもしれない。
 本人を目の前にして、翔太は何も言えなくなっていた。

 愛花は普通に授業を受け、真面目な生徒という印象しかなかった。
 消しゴムを落としてしまい、愛花の足元に転がってしまう。
 すると、愛花は消しゴムを拾い、無言で渡してくれた。

「ありがとう」
 消しゴムを拾ってくれてありがとうという意味だったが、ずっと言いたかった言葉がとめどなくあふれていた。
「あの時は、ありがとう。中学三年の塾帰りに助けてくれた恩は一生忘れない」
 こんなことを言ってもあの時のことなんてわかるはずもないのに。
「別に。カツアゲされてるの見て見ぬふりはできない性格なんで」
 思わぬ返事が返ってきた。
 あの時のことを覚えていてくれた。
 翔太のことを見ることもなく、視線を逸らしたままぶっきらぼうな様子はあの時の愛花だった。
 メガネの奥の瞳はあの時見た強いまなざしだった。

「恥ずかしながら、高校デビューしてみまして。俺のことわからないかなって思ったんだけど」
「人の顔立ちはそんなに簡単に変わらない。髪型や髪色を変えても私はすぐにわかったけど」
「似合ってないかな」
「別に。好きにすればいい。自分のことなんだから」
 愛花がどうして見た目を変えたのかはこの距離感で聞く勇気はなかった。
 ただ、愛花は人を見た目で判断する人間ではないということはわかった。
 強い信念を持ち、自分を持った強い人間だということがわかった。
「あれから、筋トレして格闘技も始めようかなって思ってるところなんだよね」
「勝手にすれば。人は簡単に変われない。でも、変わりたいならそうすればいい」

 人は簡単に変われない、なんだか絶望的な言葉だ。
 愛花はそう思って生きているのだろうか。
 なんであの日、夜遅くに出歩いていたのだろうか。

 ようやく愛花と話せたと思ったら、クラスの派手な容姿をした男子が話しかけてくる。
 ここは友達を作っておかないと。
 媚びを売り、作り笑顔を即席に作成する。
 愛花は席を立ってしまい、会話は途切れた。
 お礼も言えたし、目的はあっけなく達成されてしまった。
 もっと高校を特定したり、接触に時間がかかると覚悟しての高校デビューだったので、これからどうしたらいいのか目的を失ってしまった。

 会話の中で富町中の奴がいたら、愛花についてどうして変わったのかを聞いたりしたけど、誰もわからない様子だった。単に不良に飽きたのかもしれないとか、イメチェンしたんじゃないかとか憶測でしか想像することはできなかった。

 部活を選ぶ期間になり、運動部経験者でもなく、やりたいこともない翔太は途方にくれながら帰宅していた。
 隣とはいえ、話しかけることもできず、ただ時が過ぎていた。
 目の前にいても、告白する勇気もないし、仮に告白してもフラれることは目に見えていた。

「なんでグループを抜けたんだよ」
 帰宅時、見た目の派手な女子たちに囲まれている愛花を見かけた。
「めんどくさくなったんだよ」
 愛花らしい一言だった。
「進学校に行って優等生気取りかよ」
「あんたらには関係ない」
「今までさんざん悪いことしておいて、今更いい子を演じても無駄なんだよ」
「無駄かもしれないね」
 諦めた様子の愛花。彼女はとても冷めていた。全てにおいて冷めていた。

 ひともんちゃくあった後、愛花は一人になった。
「あのさ」
 翔太は咄嗟に話しかけてしまった。でも、何を話そうかと戸惑う。こんな男の言葉なんて無視されるかもしれないと思う。
「なんで、あの日、夜遅くに街中にいたの?」
 思ったよりもシンプルな質問ができた。
「仲間と夜の街で悪いことしてたって言えば満足する?」
 何かを試すような顔をする愛花。
 胸の内を簡単に見せない。
「俺を守ったじゃないか。いいことしてるじゃないか」
 思ったよりも必死な回答をしてしまった。
「私には居場所がなかったんだよ。だから、あの時間は夜の街が居場所だったんだよ」
「家庭の事情とか?」
「なんであんたに話さなきゃいけないんだよ」
「そうだよね。話したくなければ話さなくていい。でも、同級生なんだから、居場所がなかったら俺に連絡してほしい」
 友達作りのために作った自分のアカウントのIDと電話番号を書いたメモ帳を渡す。早速役に立ったらしい。
「こんなの持ち歩いてるの? 高校デビューは大変だな」
 嫌味たっぷりだったけど、愛花の顔はどこか嬉しそうに見えた。
 アカウントのフォローを待ち、電話番号の追加も期待したが、その夜は特に何も起きなかった。仕方がない。話ができただけでも良かったと翔太は思うことにした。

 富町中の愛花と仲が良かったという女子と知り合いになった。
 外見パワーは意外と大きい。
 翔太は小柄で華奢な体型だったので、案外色々な服装に挑戦することができた。
 もし、翔太がイケてない髪型にイケてない服装だったら話すことはなかったかもしれない。
「愛花って最近親が離婚したらしいんだよね。中学の時は、父親の経営する飲食店で働かされてたっていう話だけど。未成年だからばれないように店でお酒を出していたらしい。そういう影響もあって見た目が派手になっていってさ。最近離婚が成立して、父親とは縁が切れたとか」
 有益な情報が手に入った。
 彼女は居場所がなかったといっていた。
 それは、自宅に居場所がなかったのかもしれないし、この世界に居場所がなかったのかもしれない。父親の虐待みたいなことがあったのだろうか。今、母親と一緒にいて彼女は幸せなのだろうか。
 様々な想いがぐるぐる回る。
 あのメガネの真面目な姿が本当の愛花なのだろうか?
 それを言ったら、高校デビューのチャラい姿が本当の翔太なのだろうか。
 自分でもわからないことばかりだ。
 
 鏡に映る姿が本物なのかなんて誰にもわからない。

 使われていない空き教室となっている物置部屋がある。昼休みに愛花が物置部屋にふらっと入っていく姿を見て、思わず声をかけてみた。
 今は使われていない空き教室。物置部屋として使われている空間は誰にも邪魔されることのない空気が流れていた。

「俺のアカウント追加してくれた?」
「なんでここにいるわけ?」
 非常に迷惑そうな顔をする愛花。
「全然アカウントの追加してくれないからさ」
「そのうち追加するから」
「いますぐ追加してよ」
 中身も積極的になった翔太は思いを述べた。
「めんどくさいなぁ。わかった。追加するよ」
 めんどくさそうにスマホを触ると愛花はアカウントを追加してくれた。
「あんた、こんなにうざいと女子に嫌われるよ」
 よく見るとメガネは伊達メガネのようで、ガラスに厚みはなかった。
 あの時と同じ瞳を間近で見る。
 ずっと話してみたいと思っていた人と対等に話すことができて、翔太はとても満足だと思っていた。
「ずっと女子に嫌われてきた人生なんで。そんなの慣れっこだよ」
 メガネ男子でイケてないタイプは女子にモテない。
 気の利いた会話もできないし、面白くもない人間だということは承知の上だ。
「私は男っていう生き物が苦手だ」
 もしかして、中学時代の店の客だろうか。
「だから、つい威嚇してしまう。でも、あんたは今までみてきた男とは随分違うな。見た目を変えても中身は簡単に変わらないよな」
「俺、男とか女とかそういう括りで見てほしくない。渡辺翔太として見てほしい」
「なんだそりゃ」
 愛花が呆れた顔をする。
「まぁ、がんばれ。私は昼休みにここで昼寝することが多いんだ。またな」
 またなという言葉はまたここで会おうということだろう。
 愛花の後ろ姿が廊下の方へ消えていく。
 謎の多い愛花に近づけたような気がした。
 古いソファーが二人の指定席になったような気がした。

 追加されたアカウントにスタンプを送ってみた。
 既読スルーされたが、つながった嬉しさがこみあげてきた。
 目には見えないつながりができた。

 次の日から昼休みになると、早めに弁当を食べて物置部屋へ行ってみる。
 やはり愛花は昼休みすぐにここへ来て昼寝をしているようだ。
 愛花はあまり弁当を食べている印象がない。
 お腹が空いているかもしれないと思い、菓子パンを持参した。
「食べる?」
 愛花は嬉しそうな顔をした。
「お昼食べてないだろ」
「ダイエットできるし、お金ないから食べないのがちょうどいい」
 愛花は痩せていた。不健康な感じがした。
 もしかして、離婚をして母親に稼ぎがないのかもしれない。
「俺、昼飯おまえの分も作ってくるから、一緒に食べないか?」
「悪いよ」
「俺が食べきれない分を食べてよ。俺の弁当量が多いからさ」
「なんでそんなに優しいの?」
「カツアゲのお礼。夜の街で怖くて不安だった時に愛花さんが一筋の光だったから。受験生だったし、不安しかない毎日に愛花さんと出会えて俺は変わったから」
 愛花のお腹の音が鳴る。
 お腹が空いているサインだ。
「俺ができることはなんでもやりたいんだ」
「わかった。その代わり私も何かお礼をするよ」
「じゃあ、俺と休日会ってくれませんか?」
 少し間をおいて、愛花は「別にいいけど」と言った。
「この菓子パンあげるから、食べて」
 なんだか翔太はとても恥ずかしくなった。
 いわゆるデートの誘いのような真似事をけしかけたことに照れていた。
 翔太の中で、愛花を好きだという気持ちは日に日に大きくなっていた。
 愛花が美人だったのもあるし、声も体型もたたずまいも全部好きだと思っていた。 少しでも近くで過ごせることがとても嬉しかった。
 この頃には他の女子からどう見られているかとか、そういったことはどうでもよくなっていた。ただ、必死に愛花にいい人だと思われたいと願っていた。
 お昼は多めに持っていき、愛花と分けて食べた。
 菓子パンも多めに買って愛花に分けた。
「充分カツアゲのお礼してもらったから、他の友達と遊んでいいのに」
 愛花はいつも主役になろうとはしなかった。
 いつもどこか一歩引いた様子だった。
 普通の女子ならば好意を寄せられているのを感じて、もっとうぬぼれそうなものだが、愛花は冷静だった。
「でも、まだ一緒に出掛けてないし」
 あの約束もうやむやにされそうだったので、翔太は思い切って言ってみた。

「私なんかと一緒にいてもつまんないと思うけど」
「昼休み、一緒にいて面白いし、愛花さんのこと結構好きだし」
 言ってしまった。
 普通の女子高生ならば赤面するかもしれないが、愛花は表情一つ変えず、ただ翔太の瞳を見つめていた。
「あんたは私の何が欲しいの?」
 何が欲しいというのはどういう意味だろう。
 ただ、仲良くなりたいだけなのに。
「愛花さんの心が欲しい」
 少しばかり驚いた顔をする愛花。
「恋愛したい人って対価を求めるんだよね。無償の愛って基本ないからさ。心ってことは私の自由を奪いたいとか束縛したいとかそういうこと?」
 ひねくれた考えもここまでくると感心してしまう。
「ただ、こうやって話をしたりしたいだけ」
「ガキだな」
 愛花は笑いながらデコピンをした。
 愛花の方から触れてきたのはこれが初めてで指先が触れる瞬間、翔太の胸は高鳴った。
「私は現在とても貧乏で、生活がしんどいんだ。だから、恋愛よりも無償の奨学金が得られる勉強のほうが自分にメリットがある。恋愛はするつもりはないんだ」
 とても誠実な回答だった。
「恋愛しなくてもいいから、ただ友達でいてください」
 自分でも格好悪いなと思うけど、必死に握手を求めた。
「話すだけなら、いいけど。恋愛感情を求められても困るんだよね」
 きっと人間の嫌な部分を見て来たから、こういう反応なのだろう。
「恋愛っていつか冷めるでしょ。友達でいたほうがずっと気楽」
「永遠に友達でいてください」
「必死だな」
 思わず愛花は苦笑いをした。
「こんなに一途で実らない時間を過ごしても損すると思うけど」
「この時間を損得で捉えたくはない」
「たしかに、損か得かで二択できるほど人生はシンプルじゃないかもしれないね」
 妙に達観した愛花のまなざしはどこか優し気な気がした。
 恋愛じゃないけど、友達としていい関係を築くことが自分にとっても最大の幸せだろうと思う。
 愛花は少し神妙な面持ちで言葉を放つ。
「私、病気なんだ。だから、いずれ耳が聴こえなくなるんだって」
 一瞬耳を疑った。
 あまりに普通に話されたので、そんなに大事な話だとは思わなかった。
「障害を背負うことがわかっている女より、健康な女と仲良くなった方がいいと思うんだよね」
「それは、確定なの?」
「徐々に聞こえなくなっていくんだ。聞こえにくい生活が待ってる」
「俺、手話覚えるよ。たくさん音を記憶しよう。俺の声も記憶の中で覚えていてほしい」
「なにそれ」
「筆談でもいいから、俺はずっと愛花さんと話をしたい」
 突然愛花の頬が赤らんだ。このタイミングで愛花が照れた。
 それは、障害を受け入れてくれたという喜びと、秘密を共有し、それでも一緒にいたいという気持ちが心の淵に触れたからなのかもしれない。

「記憶の中で俺の声を覚えていてほしい。たとえどんなに不幸が襲っても君は愛花さんなんだから」
 愛花は初めて歳相応の意識した様子を見せた。
 早速音を記憶する作業をしようと提案した。
「名付けて失音プロジェクト。聞こえなくなるまでに音を記憶しよう」
 既に電話だと聞こえづらいという愛花とは、メッセージでやりとりした。
 翔太は高校デビューによって中学時代とは打って変わって女子に人気はあったけど、愛花との時間を優先していた。彼女には聴力の期限がある。
 好きなアーティストがいて、その人の歌声が聞こえなくなることが彼女にとっての辛さになると聞いた。毎日一緒にスマホで音楽を聞いた。
 音は時として懐かしさを感じる記憶となる。
 音楽を聞くとその時を思い出すことがある。
 今は共に音を聞いて共有するようにした。
 季節も音として記憶に残ることがある。
 例えば夏のセミの鳴き声やクリスマスソングは季節感を感じる音だ。
 共に過ごした時間は音と共にあった。

 いつの間にか愛花は翔太に心を開いていた。
 一見真逆な二人は同じ方向を見ていた。
 過去も生い立ちも全然違う二人は案外気が合っていた。
 適当な気持ちではない誠実な態度に愛花は心を打たれていた。
 貧しくて病が襲ってもそこには楽しい毎日があった。
 翔太の家は比較的貧しくはなかったため、おこずかいを愛花の食費や一緒に楽しむ費用に使った。それは贅沢な時間だった。
 愛花は不良仲間と縁を切り、放課後は翔太と共に時間を過ごすようになった。
 本当はアルバイトをしたいと言っていた。
でも、勉強を頑張って給付型奨学金を得るために学校の勉強に充てていた。体調面のこともあり、あまり無理をして聴力を早く落としたくはないという気持ちもあったようだ。

 一緒の音楽を聴いて、一緒の動画を見て、一緒に街を歩いて。そんなことをしているうちに季節は巡っていた。
 翔太のチャラい設定もいつの間にか消失して、本来の翔太らしい感じになっていた。愛花も不良から優等生に路線変更したかのように見えたが、いつのまにかメガネを外し、普通の女の子になっていた。不良でもなく優等生でもない普通の女の子だった。言葉づかいは男勝りなところはあったが、穏やかな口調になっていた。これは恋なのか友情なのか二人はわからなかった。ただ、なんとなく一緒にいてなんとなく過ぎていく。それが良いことだと思っていた。

 強面の父親が一度会いに来たことはあったが、愛花は無視をした。
 関わりたくないというのが本音だった。どんなに血が繋がっていたとしても、今までも記憶が拒絶を選んだ。たまに店に遊びに来いとかそう言って、父親は諦めた。というのも接見禁止令が出ており、本来は接触するだけで、警察に通報できる間柄となっていた。だから、そこまでしつこく会いに来ることは無くなった。

「大丈夫?」
「翔太は水商売手伝ってた女なんて嫌でしょ」
「最初に会った時のパンチの利いた愛花を知ってるから大丈夫」
 翔太は目つきの鋭い不良少女だった愛花を知っていた。
 愛花は水商売を手伝っていたという過去を気にしていた。
 温室育ちの翔太に幻滅されたくないという気持ちがあったのかもしれない。
 翔太はそんな彼女を全部受け入れた。
 大きな愛情であり友情だったと思う。
「最近耳鳴りがするんだ。聴力も落ちてきたみたい」
「スマホの画面で文字のやり取りをしよう」
 スマホの画面を見せる。
 そこには二人だけのトークルームがあった。
 翔太はにこやかに文字のやり取りをはじめた。
 耳の神経は敏感で、めまいを起こすこともある。
 時折、愛花はめまいを訴えることがあった。
 そんな時、隣に誰かいるだけで愛花は少し安心した様子だった。

『私たちって恋人同士だと思われてるかもね』
 メッセージが来る。
 愛花は文字のほうが本音に迫ったことを言う。
『これが恋愛じゃなくても俺にとって、愛花は大切な相棒だから』
 見ると愛花が照れた様子だ。
 最初の頃よりずっと表情も豊かになり、歳相応の顔をするようになった。
 それが翔太にとってはうれしいことだった。

『一緒に聞いた曲、ずっと耳に残ってるから』
『俺も忘れないから』
 メッセージで会話をすることが多くなってきた。
 大きな声を出しても聞き返されることも多くなった。
 その頃は聴覚が落ちてきて、授業は板書を中心に行っていた。
 先生たちも病気だということを共有していたので、愛花に答えさせる教師もいなかった。周囲もどこか気遣いを見せていたが、愛花は気丈に振舞っていた。
『これから、聞こえない世界で私はどうやって生きていったらいいのかな』
 とりとめのない不安がこみ上げてくると愛花はメッセージで翔太に聞いた。
 聞こえない世界はアウェイな世界だ。
 きっと一番本人が不安だ。未来が見えない。
 文字という形で愛花が頼ってくれることが翔太は嬉しかった。
 聞こえにくいという状態が続いていたが、完全に聴力を失うことはなく病状は安定しているようだった。
 翔太は少しずつ手話を覚えた。
 覚えたての手話で伝えたのは、「好きです」という言葉だった。
 告白は、すごく勇気のいることで、伝えるべきかどうかずっと悩んでいた。
 というのもずっと恋愛感情を愛花は迷惑に思っているようだったし、恋愛感情があることを隠していることに後ろめたく思っていた。
 恋愛感情をみせたらこの関係が終わってしまうかもしれないと思っていた。
 でも、好きという感情には様々な種類がある。
 友達としても恋愛としても好きだと思った。その想いを形にしたい。
 声ではなく形で伝えたい。

 初めての告白は慣れない手話。
 それを見て、愛花も「好きです」という手話で返した。
 声ではなく手話で想いを伝えあう。
 声にならない言葉がそこにあった。
 身振り手振りで想いを伝えあう。
 どんな言葉より重くて真剣でまっすぐな想いだった。
 想いが重なり、視線が重なる。
 二人の想いは想像以上に深く重いものだった。
 愛花のために精一杯尽くした翔太。
 想いは想像以上に重い。
 不器用で精いっぱいの想いを乗せて、一緒に聴いたあの曲を思い出す。
 音を感じる。リズムに乗せて体を揺らす。
 二人のてのひらが重なり合い、一緒に聞いたメロディーを思い出して体でリズムを取る。二人にとって音楽は聴くものではなく、感じ取るものとなっていた。

 愛花は給付型の奨学金を得るために勉強を頑張っている。
 愛花の母は正社員の仕事につくことができた。
 病状も安定しており、愛花自身の精神状態もとてもいい。
 あの時、カツアゲされていなかったら愛花とは出会わなかったかもしれない。とんでもない負の出会いだったけど、あれがあったから、今がある。愛花の黒髪は最近傷んだ毛先を切って、より美しく映える。翔太も入学の頃は髪色をやたら明るくしていたが、今は地毛の色に落ち着いた。絶対に仲良くなれないかもしれないと思った二人。案外二人は合うらしい。愛花の指が翔太の指先に絡む。お互いの心が絡み合う。気づいたらほどけないほど二人は愛に溺れていたらしい。恋愛って好きになろうと無理するものではなく、気づいたら好きになっているものだ。

 声にならない想いは、いつのまにか心に芽生えている。