「湊先輩。これ、リストにしてみたんですけど……」
「おっ? この前のやつか」
「そうですそうです、先輩が考えてくれたシチュエーションです」
恋愛相談を受けた数日後、おれ達は今日も同じファミレスで同じメンバーで、この前の話の続きをする……はずだった。
けれど今ここにいるのは、おれと律の二人だけ。湧はどうしても外せない用事が出来てしまったらしく、今日はいない。
律の差し出したリストには、おれが先日少々興奮気味で語った『少女漫画でよく見る、女の子がキュンとするようなシチュエーション』のメモが書かれていた。
・重い荷物を持つ
・放課後の図書室で高いところの本を取る
・好きな本の話で盛り上がる
・雨降りに相合い傘(濡れるのを気にせず傘を傾ける)
・通学中のトラブルで助ける(そのまま自転車二人乗り)
・満員電車で庇う
・靴箱にラブレター
・屋上で告白
実践するには難易度の高い偶然の出来事も混ざっていて、律の作戦のためというよりも、自分の好きなものについて熱く語ってしまっただけのような気がする。申し訳ない。
「リストの中からいくつか出来そうなのを選ぶといいよ。あとはお前が勇気を出すだけだ。がんばれよ!」
あの日おれが思いついた作戦は、ネーミングこそダサいと湧に一括されたけど、内容としては悪くないと思うんだ。
少女漫画が好きな子は多いだろうし、そんな胸キュンシチュに実際遭遇したらどうだろう。きっとあっという間に律を好きになるに違いない。
もともと律のスペックはレベルが高い。ちょっとコミュ障なだけで、そのへんをどうにか頑張ればあとはスムーズに物事が運ぶだろう。
おれは律に向かって、背中を押すような気持ちでガッツポーズをした。
律はおれにとって、弟の友達で、幼馴染で、可愛い後輩でもある。
お前の恋が成就するといいな……そう願っているはずなのに、何故か心のずーっと奥の方がチクリと痛んだ。
少女漫画のような胸キュンシチュを実践するには、タイミングを見図らないといけない。いかに自然に偶然を装うかが勝負だ。
そのためには、ストーカーばりに好きな子を見張っていなければならないのに、何故か律はおれの前にばかり現れた。
思い返せば、律が胸キュンシチュリストをおれに見せた次の日から、何かおかしかったように思う。
◇
「うわぁ……、まじかよ」
いつものように駅まで自転車に乗っているときだった。
家を出た時からなんとなく変な感じがしていたけど、今日はいつもより時間ギリギリだからこのまま行こうと家を出た。
ところが、やけに振動が大きいなと思ってコンビニ駐車場で確認したら、どうやら空気が抜けているらしい。
家まで戻れる距離だけど、今日はもうそんな時間はない。どうするか、引きながら走るか?
ブツブツと小さく口に出しながら思案していると、突然後ろから肩を叩かれた。
「湊先輩、おはようございます! どうしたんですか?」
聞き馴染みのある声に振り返ると、やっぱりそこにいたのは律だった。
おれの顔と自転車を見て瞬時に判断したらしく、自分の自転車をそこに停め「ちょっと待っててくださいね」と言ってコンビニに入っていった。
そしてすぐ戻ってくると、今度はおれの自転車をコンビニの裏に引いて行き、手ぶらで戻ってきた。
「従業員用の自転車置き場に置かせてもらいました。さぁ先輩、後ろに乗ってください」
「え? 乗って……?」
「遅刻しちゃいますよ? ゆっくりしてる暇はないでしょう。ほら早く」
「あ、ああ」
半ば押し切られるような形で、律の自転車の後ろにまたがった。
「落ちると困るので、しっかり掴まっていてくださいね。僕にピッタリとくっついていいんですよ」
「わ、わかった」
確かに、人が乗るように設計されているわけではない荷台に乗るのだから、しっかりと掴まらないと危ないだろう。
おれは遠慮がちに律の肩を掴んだ。
「先輩、それじゃ危ないです。僕の腰にしっかりと腕を回してください」
「こ、こうか?」
「そうです。じゃあスピード出すので、気をつけてくださいね!」
なぜだろう。律の声は弾んでいた。
ああ、そうか。好きな子と自転車の二人乗りをしているシーンを想像して、嬉しくなってしまったんだろう。
おれにもその気持ちはわかる。このシチュエーションは、おれが少女漫画でときめいたお気に入り上位に入るシーンだ。
意中の人に助けてもらっただけではなく、ピタッと密着して身を委ねる。読むたびにおれも主人公と一緒になってドキドキするんだ。
けれどおれの場合は、男に感情移入するのではなくて、いつも女の子の目線で物語を追ってしまう。
それが普通ではないと薄々感じ始めたのは、小学校高学年になる頃だった。
それまでは女の子に混ざって少女漫画の話で盛り上がっていても、まわりは何も言わなかったし、女の子が好むようなものを好きな男の子もいるだろうとそんなには気に留めなかった。
けれどその違和感が決定的になったのは、中学生に上がってからだった。
中学時代の出来事を思い返すと、声をはずませる律とは対照的に、おれの心はずっしりと重くなった。
おれは中学生の時もテニス部に入っていた。
中学三年生の最後の夏の大会も終わり、荷物をまとめるために部室に入ろうとしたときだった。中から部員の声が聞こえてきた。
「なぁ、もうすぐ三年生引退だけどさ、月島先輩いるだろ?」
「ああ、先輩がどうした?」
「あの先輩、お前のこと良くジロジロ見てたけど、お前に気があるんじゃねーのかなって思って」
「はぁ? 何言ってんだよ。男の先輩が俺をそんな目で見るわけ無いだろ?」
「彼女がいたこともないっていうしさ、そっちのけがあるのかと思って」
「おいおいやめろよ、気持ち悪い。勘弁してくれよ」
「あはは! だよなー」
「たとえそれが本当だとしても、俺は男には興味ないから。好きなのは清楚な女の子だからな」
「俺だって可愛い女の子が良いに決まってるさ!」
「アハハハ!」
バカにしたような笑い声。身に覚えのないことで、陰でこんなことを言われているとは思わなかった。
おそらく会話していたのは二年生だろう。ペアで練習をしていた後輩でもないし、むしろ交流が少なかったと思う。
まさかこんなふうに思われていたなんて。無意識に後輩をそんな目で見ていたのかな、おれ……。
ドアノブを回そうとした手を引っ込め、くるりと向きを変えようとした時、また別の声がした。
「湊先輩がそう言ったんですか?」
この声は、律だ。おれは帰ろうとしていた足を止め、耳を傾けた。
「いやそういうわけじゃ……」
「なら、憶測で物を言うのは良くないと思います」
「でも……なぁ?」
さっき、気があるんじゃないかと言った方の後輩が、もうひとりに賛同を得るように問いかけた。
けどその声に対する答えは聞こえてこない。
「本人のいない場所で、しかも憶測でプライベートなことに土足で入るようなことは、やめてもらいたいです。湊先輩に失礼です」
コミュ障で、家族とおれと湧の前以外では縮こまってしまうような律が、先輩に対してこんなにはっきりものを申せるなんて。ここにいるのは本当に律なのだろうか。
でも、おれはすっげー嬉しかった。かばってくれたのもそうだし、律がはっきり意見することが出来たのも嬉しかった。
おれは、律のお陰で悲しみが薄れるのを感じながら、その場をそっとあとにした。
このときから、おれの律に対する思いに変化があったように思う。
けどきっとその小さな思いは、大きく育ててはいけないものだ。自分でも気付かぬうちにそう悟ったおれは、心の奥底にしまい込み、何重にも鍵をかけた。
◇
中学校の時の苦い思い出を久しぶりに思い出したからだろうか、夢にまで見てしまった。
そのせいでどうも寝不足だった。授業にも身が入らず、船を漕ぐ始末。
放課後残って復習と課題を進めたいところだけど、今日の天気予報は、夕方から降水確率が高くなるというものだった。
昇降口で靴を履き替えていると、わずかに土が湿ったような匂いが漂ってきた。
あれ? もしかして雨か? 天気予報当たったなぁ……と思いながらバッグの中を探したけど、折り畳み傘がない。
まいったなぁ。駅まで走るか? 自問自答しながら外に出ようとしたところで、律の声がした。
「先輩! 雨降ってきちゃいましたよ」
律の声に導かれるように外へ出ると、細かな雨粒が静かに落ち始めていた。乾いていた地面に、ポツポツと印をつけていく。
困っているおれの横で、律が手際よく傘をさすと、ニッコリと微笑み手招きをした。
「さ、先輩はこっちです。入ってください」
「なんで?」
「だって先輩傘ないでしょう?」
「なんで分かるんだよ」
「先輩がバックの中を見て、外を見てため息を付いていたからです」
「おまえ、そういうのはな、好きな女の子にしてやれよ」
そこまで言ってから、あ、これもおれの理想の胸キュンシチュのひとつじゃないかと気付いた。
「ああ、お前、おれで練習してるのか?」
「まぁ良いじゃないですか。さ、帰りましょう」
なんとなくはぐらかされたような気がする。けど深く考えている間に、雨はひどくなってしまうだろう。
おれは素直に律の差し出した傘に入れてもらうことにした。
「大きな傘持ってきてよかったです」
「ああ、助かったよ」
「ほら、先輩もっと近くによって」
「いや、大丈夫だ」
律はおれを近づけようとする。そりゃくっついたほうがお互いに濡れないだろうけど、何せ歩き辛い。
……それに、律に近付くと、おれの心臓の鼓動が早くなるんだ。どうしたんだ、おれ。最近なんかおかしいぞ?
「今日は自転車持ち帰れないですね」
「そうだな。改めて別の日に取りに行くよ」
コンビニに預けた自転車のことから、夕飯に何を食べたいか? なんていう何気ない会話をしながら、ゆっくり帰路を歩いた。
途中前方から車が来れば、さっとおれを歩道側に誘導する。水たまりを車がはねても、自分だけ濡れてもおれにはかからないようにする。
ほら、やっぱり胸キュンシチュをおれで練習してるんじゃないかな、律は。
本人は何も言わなかったから、おれは黙って練習の相手を続けることにした。
律と相合い傘で帰った日から、二日間ほど雨が続いた。雪の降る地域なら積雪するだろうと思うような冷たい雨だった。
やっと晴れた今日、コンビニに置きっぱなしの自転車を取りに行き、修理してもらおうと思っていた。
けれど、数日間自宅マンションの工事が行われることになっている。きっと落ち着かないと思うから、学校の図書館で課題をやってから帰ることにした。
移動の途中、テニスコートを見るとテニス部が部活をやっていた。後輩たちよ頑張れーと、心の中でエールを送りつつ図書室へ向かう。
終わらせないといけない課題はあるけど、先に借りたい本を探すことにした。
友達に勧められたライトノベルで、異世界転生冒険の話だ。タイトルは「転生して魔王になったけど、勇者たちが怖すぎる件」読み始めたらすっかりハマってしまった。
借りたい本を見つけ手を伸ばすけど、残念ながら平均身長よりも小柄なおれの手はその本に届かない。
つま先立ちになり頑張っていると、すっと上から手が出てきて難なく本を取り出すと、はいどうぞと手渡された。
「先輩その本好きなんですか?」
声のした方に視線を向けると、そこには部活動中のはずの律が立っていた。
おれより頭ひとつ分背の高い律なら、本棚の一番高いところにも容易に手が届くだろう。男としてちょっと悔しかったけど、素直に例を言った。
「ありがとう、助かったよ」
「いえ、先輩のお役に立てて嬉しいです」
「でもなんでここに? 部活中だろ?」
さっきここに来る途中で、テニス部が試合形式の練習をしているのが見えた。ダブルスならペアもいるし、部活を抜け出してきたのなら迷惑がかかってしまう。
おれは、先輩として忠告する意味も込めて問いかけたのに、律はどこ吹く風といった感じだ。
「廊下を歩いてる先輩を見かけたので、今日の練習はキリの良いところで終わらせてきました」
「は? だめだろ、そんな勝手なことして」
「大丈夫です。──先輩、僕もそのシリーズ好きなんですよ」
律はニッコリと微笑むと、おれの問いかけから話をそらすように、話題を変えた。
うーん、この笑顔におれは弱いんだよなぁ。まぁ、優等生の律が大丈夫だというのなら大丈夫なのだろう。
幼い頃から知っている律に甘い自覚はある。おれも大概だなーと思いつつ、部活動の追求はそこでやめた。
その後おれと律は黙々と課題を進めていた。
ここは図書室だから私語は慎まなければならない。
集中して課題をやっていると、すぐ近くに気配を感じて顔をあげた。
──!!
うわ、びっくりした。イケメンがおれの視界いっぱいに広がっている。
眩しすぎて直視できないっての。
バクバクと高鳴る心臓をごまかすように、急いでノートなどをバッグに押し込んだ。
「もう帰るかな! 律、お前も気をつけて帰れよ!」
ガタガタっと立ち上がり、急いでその場から去ろうとしたら、腕をガシッと掴まれた。
「先輩、何急いでるんですか。一緒に帰りましょうよ」
「いや、一人で帰れるし」
「でも先輩、自転車まだコンビニに置きっぱなしでしょ? そこまで送ります」
そうだ。雨が続いてしまったから、空気の抜けた自転車はまだコンビニに置きっぱなしだ。
駅から歩いて帰れないわけでもないし、律の一緒に帰ろうというお誘いを断ることはできる。
けど、目の前でくーんと耳を垂らしている律を見ると、断るのがしのびなくなってしまった。
「わ、わかった。……帰るか」
おれは、なぜか熱を帯びた顔に気付かれないように、律よりも先を歩いて図書室をあとにした。
◇
はじめは、なんのことはない、ただの偶然だと思っていた。
次第に、律がおれ相手に予行練習をしているのだと思った。
そんな日が続き、今はこの状況だ。
おれと律は帰りの電車に揺られている。
そしておれは、律に守られるように、ドア側に押しやられている。
いやまて。たしかにおれはさっきバランスを崩したよ? 律に支えてもらったよ?
だからって、おれをドア側に立たせて、まるで壁ドンのような形でおれを守らなくても良くないか?
「なぁ、律? そこまで忠実に胸キュンシチュを再現しなくてもいいんだぞ?」
「何言ってんですか。また先輩がふらついたら困るので、僕が守ります」
「だーかーらー! 好きな子相手にやってやれと言ってるだろ?」
おれは、頭ひとつ分背の高い律を見上げるようにしながら訴えるけど、律は急におれから顔を背けた。
ほら、本当は嫌がってんじゃないか。
律の態度に申し訳なくなって、律から離れようとしたら、おれにしか聞こえないような小さい声が聞こえてきた。
「上目遣いとか、可愛すぎます」
「はっ?」
おれは、律が何を言っているのか全く理解が出来ずに、普通の音量で聞き返してしまった。
「いえ、なんでもないです。気にしないでください」
率は顔を背けたままで返事をするから、きっと、これも練習なのかもしれないとおれは思った。
好きな女の子の可愛いところを褒めてあげたい練習。でも相手がおれだから間違えたって思っちゃったんだろうな。
でもおれは、律に恋愛相談を受けたあの日から、何重にも鍵をかけたはずの心の扉が、少しずつずれ始めているような気がした。
一月も終わりに近づこうとしていた。おれたち三年生は二月から自由登校になる。
だから律に、おれ相手の練習はもう終わりにして、そろそろ本命に実践しろと言いに行くつもりだ。
おれは屋上の手前にある、階段の踊り場へ向かった。
普段あまり人が来ない穴場で、ひとりゆっくり弁当を食べるには最適な場所だった。
なのに最近はなぜか、そこで律と一緒にお弁当を食べている。
人の気配がしたので、先に律が来てるのかな? と思ったら、何やら話し声が聞こえてきた。
……え? 女の子の声?
おれは見つからないように、ギリギリ様子をうかがえる場所で立ち止まった。
「あ、あの……。いつも、律くんには優しくしてもらって……」
「転校してきたばかり、だし」
「でも、それだけじゃなくて……。私、律くんと……」
これは──。
おれの心臓はドキリと跳ねた。
この様子からすると、おそらく律の想い人はこの子だ。
湧が言っていた。高校一年生の夏休み明けという変な時期に転校してきた子がいて、律はその子のそばにいるのをよく見かけると。
相手の子の言葉からも想像するに、ふたりは両思いではないか。こんなところで、おれが邪魔するわけにはいかない。
そーっと静かに足音をたてないように、急いでその場から立ち去った。
◇
それから間もなくして、律から怒涛の連絡が入った。でもおれは応答する気持ちにはなれず、未読スルーと着信無視。
続いて、湧からも何件か連絡が入っていた。学校では無視して会わないように出来たけど、流石に兄弟だから家で顔を合わせないわけにはいかない。
湧にはあっさりと捕まった。
「兄貴、なんで律からの連絡無視するのさ?」
「んー? いや、他の用事を優先させてたらさ、後回しになっただけじゃん」
「でも兄貴が律を後回しにするなんて、珍しいね?」
さすが弟。容赦なくグイグイ聞いてくる。
適当なことを言っても離してくれなそうなので、ここ一ヶ月ほどのことを簡潔に話すことにした。
「──って感じでな、律はおれを練習相手にしてるわけ。もうそろそろ本命に実践しろって思うんだよ」
「あー。律はそんなことをねぇ……」
湧はウンウンと頷きながら、ふっと笑った。
「なんだよ? 律みたいに顔の良いやつが、おれの理想の胸キュンシチュを仕掛けてくる。それがどんな気分かわかるか?」
「へー。どういう気分なの?」
「ど、どういうってな! とにかく、もうおれは練習に付き合う気はないの! それを言おうとして……」
そこまで言って、あっと口が止まった。
これは流石にプライバシーの侵害になる。おれはモゴモゴと言い淀むと、バッと立ち上がった。
「もういいだろ。ほら、部屋から出ろよ。おれは勉強があるんだ!」
「はいはい、出ていくから。押さないでよ~」
「律に余計なこと言うなよ!」
そう言っておれは湧を部屋の外へ追い出した。
律に余計なことを言うなよってそのセリフが、そもそも余計なことなんだと気付いたのは、お風呂の中だった。
「あー。何冷静さを失ってんだ、おれは」
湯船の中で、お湯をちゃぷんと手で弄びながら、ひとりごちた。
学校でのあの子の言葉の続きを想像してしまう。それを聞いた律はなんて答えたんだろうか。もちろんOKだよな、両思いなんだから。
律は練習とはいえ、おれにめちゃくちゃ優しくしてくれた。勘違いして、絆されそうになるほどには。
だから、これ以上律のそばにいちゃだめだ。冷静な判断ができなくなる。
──律と距離を置かないと。
幸いなことに、あと数日で自由登校になる。授業はもうないし、出席日数も足りている。
中学生時代の苦い思い出が脳裏をよぎる。
もうあんな思いはしたくない。
「もう、律のことで心乱されるわけにはいかない……」
おれは、体調不良ということにして、あと数日学校を休むことにした。
そう決めたら、少し心が軽くなった気がした。
スマートフォンに目を落とすと、律からの怒涛の連絡が届いている。
「もう、これ以上おれに構うなよ。あの子と仲良くな」
おれはスマートフォンに向かってそう呟くと、すべてを拒否するように、電源を落とした。
それから一時間もしないうちに、扉の向こうから、湧の音をあげる声が聞こえてきた。
『おかけになった電話は電波の届かない~……』というアナウンスが流れたのだろう。律から湧へ鬼電がかかってくるようになったらしい。
「兄貴ぃ……電話出てやってくれよ~。律が話したいことがあるって言ってんだよ~」
「おれはない。今日は体調が良くないから、さっさと寝る。もう話しかけてくんな」
「えー、さっきまで普通だったじゃないか~」
湧には悪いけど、もう返事をせずに無視を決め込むことにした。
律も律だ。仲良くしてる幼馴染がちょっと距離をおいたくらいで、ワーワー騒ぐなよ。おれは気を利かせて、距離を置いてんだ。もうこれ以上、心をかき乱さないでくれ。
「明日だけでいい。一日だけでいいから登校して、話聞いてやってくれ」
半分泣きそうな湧の声に、いとも簡単に決意が揺らいだ。強気の態度でいられないのが、おれらしいと言えばおれらしいのだけど。
懇願する湧の言葉に根負けしたおれは、「わかった」そう一言だけつぶやいた。
一月最終日。
おれは律に会わないように、登校時間をずらして早くに学校に来た。
自転車のトラブル以降、律がおれの登校時間に合わせるようになって、そのうちなぜかそれが当たり前のように一緒に登校するようになった。
今までは別にいいと思っていたけど、律と距離を置こうと思っている今はだめだ。早朝からばったり会ったら、逃げられずにまた簡単に言いくるめられてしまう。
簡単に決意が揺らぐことのないように、自分自身にしっかりと気合を入れた。
──と思っていたのに。
神様はおれを弄んでいるのだろうか。
目の前には、おれの靴箱をこっそり開け、何かを入れている律がいた。
流石にこれは無視できない。俺から声をかけて問い質さなければ。
「おい、律。なにやってんだよ?」
なるべく低く、なるべく機嫌の悪いような声を出した。いつものおれなら、こんな声は出さない。平和主義で喧嘩腰は嫌いだ。
でも今回は事情が違う。距離を置きたいと思っている律が、勝手におれの靴箱を開け、何かを放り込んだ。
その何かを確認するべく、ズカズカと靴箱の前まで行くと、隠そうとする律を押しのけて中身を確認した。
「律、なんだよこれ。まだ胸キュンシチュの練習をおれでやってるのか?」
「え……? ち、違います!」
「じゃあなんでだよ? お前は、あの子と上手くいったんだろ? 告白したいと思っていた相手に、告白されたんだろ?」
「ちょっ、先輩なんのことを言って……」
戸惑う律は、本当になんのことを言っているのかわからない様子だ。
あの告白の場面におれがいたとは思わないだろう。……覗き見みたくなってしまったのは申し訳ないけど。
胸キュンシチュの練習だろ? と、証拠を叩きつけるために、律の入れた手紙を開けて読むことにした。
『月島湊先輩へ。放課後屋上に来てください。お話したいことがあります。一年A組 東雲律』
ほらやっぱりそうだ。ご丁寧におれの名前まで書いてある。ここまで忠実に再現しようとしなくてもいいのにな。
おれはゆっくり手紙をしまうと、律を見た。怒っているような、泣き出してしまいそうな、そんな複雑な表情をしていた。
昨日電源切ってまで無視したことを怒ってるのだろうか。それとも悲しんでるのだろうか。──おれにはわからない。
「先輩、お話があるのは本当です。放課後、屋上に来てください。すみません、僕、係の仕事があって行かなきゃいけなくて。……絶対ですからね、来てくださいね」
必死にそう言うと、何度も振り返りながら階段を登っていった。
昨日、湧に『一日だけでいいから登校して、話聞いてやってくれ』と言われた。
うんと頷いてしまった以上は、約束を破る気はないけど正直気は重い。
さっきはおれの言っている意味がわかっていない様子だったけど、おそらく話というのはそのことだろう。
好きな子と両思いになりました。ご協力ありがとうございましたってやつだ。
律は真面目だから、おれと湧に報告と御礼をしたいんだろうな。……ほんと、律儀なやつだ……。
それに比べておれは何をやっているんだろう。勝手に、律に裏切られたような気持ちになってしまったんだ。
幼馴染ということで恋愛相談され、意中の子にアタックするための練習相手になり、見事に両思いになったのになぜか律はそのことをすぐに報告してこなかった。
さっき問い質した時は、おれが知っていたことへ驚きとっさに誤魔化したのだろう。
でもなぜこんなにイライラするのかは、自分でも良く分からなかった。
おれは、はぁーと大きく息を吐くと、自分の教室へと向かった。
◇
放課後。おれは約束通りに屋上へ向かう階段を登っていた。
薄情者と言われても良いから、もうこのまま引き返そうか。おれがこの学校を卒業して会わなくなれば、すぐ忘れるだろう。
屋上手前の踊り場に出た。この前律と女の子がいた場所だ。その前までは、おれと律のお昼の場所だったのに……。
はぁーとまた大きなため息をついたあと、屋上の扉のドアノブに手をかけゆっくりと回した。
扉を押すと、ギギギーっと軋む音がする。
今度はため息ではなく、大きく深呼吸をしてから屋上へ出た。
「湊先輩! 来てくれたんですね!」
とても嬉しそうな声がしたのでそっちを見ると、大きな尻尾をぶんぶんと振っている……ように見える律がいた。
特に時間を決めていたわけではないから、一体いつからいたのだろうか。
「いつから来てたんだよ。体冷やすだろ」
今日は比較的寒さが緩んでいるとはいえまだ一月だ。思わず律を心配する声をかけてしまった。
そしたら、目の前の大型犬律は、わふっとでも鳴いて喜びを身体全体で表すのだろうか。更に激しくふる尻尾が見えたような気がした。
「大丈夫です! さっき来たばかりです! 先輩こそ寒くないですか?」
「ああ、だいじょうぶだ。……それよりもさ、もう、おれで胸キュンシチュの練習はやめないか? そもそも、律の好きな子に振り向いてほしくて提案された作戦だろ? もう必要ないじゃないか」
おれは、雑談している時間は必要ないと思って、単刀直入に本題に入ることにした。
「月島湊先輩」
律は改まっておれの名前を呼ぶと、真っ直ぐな瞳をこちらに向けた。
「僕からの話、聞いてくれますか?」
「あ、ああ……」
律の話を聞くというより、さっさとこちらから話をして、すぐ帰るつもりでいた。本当は、もうずっと距離を置いたままにしようと思ってたんだから。
だけど、こうも改まって名前を呼ばれまっすぐ見つめられたら、逃げてないでちゃんと律の話を聞いてやらなきゃって思った。
「先輩、ありがとうございます。……あの、屋上に呼び出しておいてなんですけど、すみません、夕方にもなると屋上って寒いですよね。場所を移動しましょう。先輩が風邪引いたら困ります」
「……え?」
覚悟を決めて、律からの報告を聞こうとしたのに、ここから移動??
さっきまで無理をしていたんだろうな。律を見たら、腕をさすさすとさすっている。たしかに、日が落ちてきて寒くなってきている。
そんな緊張感の緩んだ律を見ていたら、思わずぷっと吹き出してしまった。さっきまでの緊張はなんだったんだろう。
律は、こういう変なところで抜けていることがある。普通、少女漫画に出てくるような胸キュンチュなんて、本気で再現すると思うか? それなのに律は大真面目だった。頭はいいのに、抜けているところがある。言い方が悪いけど、愛すべきバカだ。
「そうだな。たしかに寒くなってきた。……いつものファミレスでいいか?」
「いえ、僕の家はどうですか? ……ちょっと、外では話し辛い内容もあって……」
ああ、緊張の糸が切れて忘れかけてたけど、これから律のプライベートな話をするんじゃないか。
「わかった。律の家に行こう」
「ありがとうございます!」
湧に連絡だけ入れて、律の家に向かった。
律の家に行くと、お手伝いさんが紅茶とケーキを持ってきてくれた。
「こんな時間ですけど、もしよかったら食べてください。あとで、夕飯も食べていってください」
「ああ、ありがとう」
そんなに長居するつもりはなかったのだけど、学校の帰り道に約束を取り付けられてしまった。やっぱりおれは律に甘いらしい。
大切な話を控えているけど、とりあえずケーキを頂くことにした。
「ご両親は?」
「仕事です。今は海外に飛んでるようで、半月ほど顔を合わせていません」
「そうか。ご挨拶したいと思ったんだけど、いないならしょうがないか」
律の両親は仕事で家を空けることが多い。小さい頃にも湧と何度か遊びに来たけど、ご両親に会えた記憶はほとんどなかった。だから兄弟のいない律は、おれを兄のように慕い、懐いてくれてるんだと思う。
律から話があると言われてるのに、おれから切り出すのはちょっとずるい気がするけど、これはやっぱり言っとかないと。そう思っておれは先に話をさせてもらうことにした。
「なぁ、今日もさ、胸キュンシチュを試してたけど、もう練習はやめて本命に実践したらどうだ?」
「……もう、実践してます」
「え?」
そうですねという同意の言葉が出てくると思ったのに、律は想定外の言葉を放った。あれだけおれにべったりついて回っていたのに、いつ本命に実践する時間があったんだ?
「僕の好きな人……振り向いてもらいたい人に、実践してます」
「……どういう……ことだ?」
「いつ気付いてくれるかなって、ずっとドキドキしながら待ってました。……でも、なかなか気付いてもらえなくて」
「だって、実践してた相手って、おれで。……でもお前が好きなのは、あの女の子で……」
律の言ってることと、おれの最近の出来事と照らし合わせようとするけど、理解が追いつかない。こいつは何を言ってるんだ? 律の好きなのはあの子で、告白も成功して、両思いになって……。
「僕の好きな人は、ちょっと鈍感なんです。……そこが可愛いところなんですけどね」
「鈍感って!」
律の言葉は、おれが言われたわけではないのに、なぜか言い返したくなってしまう。鈍感ってなんて言い草だよって。
「僕があんなにアピールしてるのに、なかなか気付いてもらえなくて。……だから、クラスメイトを利用させてもらいました。ヤキモチやいてくれるかなって」
「クラスメイト? やきもち?」
「あの転校生は、僕に恋愛感情なんて一切ないんですよ。興味があったのは、僕の頭脳らしいです。呼び出されたからなにかと思ったら、勉強教えてもらえないかって言われました」
「あの時の……!?」
「やっぱり見てたんですか。おかしいと思ったんですよ。急に避けられたから」
「別に、避けたわけじゃ……」
「ずっと練習だと勘違いしてるし、誤解して距離を取ろうとするし、焦っちゃいましたよ。──でも、今日話を聞いてもらえてよかった。湧には感謝しないとですね」
「そうだ! お前、鬼電しすぎだ! 湧が困ってたぞ!」
「先輩が出てくれないからじゃないですか」
「それは、おれはお前とあの子が……」
──と、そこまで言ってはたと言葉が止まった。
この会話だと、まるで律のいう鈍感な人っておれみたいじゃないか!
律が恋愛相談をしたあの日の言葉が蘇る。
『ずっと気になっていたんですけど、やっぱり僕の気持ちを知ってほしいなって思って……』
脳内で何度も何度も律の言葉を繰り返した。考えれば考えるほど、ひとつの答えしか導き出せなかった。
律の好きな人は、おれ、なのか?
「僕の好きな人は、月島湊先輩です」
おれの脳内の声と、律の声が重なった。
おれの考えている正解と、律の教えてくれた正解が一致した。
「ええええー!?」
思わずおれはまぁまぁ大きめの声で叫んでしまった。律の家がだだっ広い一軒家で良かった。多分誰にも迷惑はかけてないはずだ。
目を大きく開いて、目を白黒させるおれを見て、律はくすくすっと笑った。
そしておれの手を取り、手のひらにチュッとキスをした。
「湊先輩、大好きです。子供の頃からずっと好きです」
「お、おう」
「僕が振り向いてほしくて、胸キュンシチュを実践したいのは、先輩だけです」
「お、おう」
「僕のトラウマを解消してくれたのも、ストーカー行為をしたくなったのも、先輩が初めてです。最初で最後です」
「お、おう?」
「僕が先輩を好きになった理由、聞いてもらえますか?」
「わ、わかった」
律がおれを好きという事実がまだ受け入れられない状態で、どんどん話は進んでいく。頭ではまだ理解しきれていないのに、心臓の鼓動はどんどん大きくなっていた。心と体がなんかチグハグだ。
だから、律の話をしっかりと聞いて、心の中を整理しようと思う。何やら物騒なワードも聞こえてきたけど、それについては追々ということで……。
「僕の家庭事情、先輩は知ってますよね」
そう言って、律は話しだした。
忙しい両親の代わりの家政婦さんはとにかく怖い人で、ちゃんと話せなくて怒られて、怒られるのが怖くてもっと言葉が出なくなっての悪循環だった。
それがトラウマになって、幼稚園でも言葉が出ずに、煙たがられていじめられて孤立してしまった。
「僕は幼稚園に行くのがすごく嫌で、遠足なんてもっと嫌でした。両親は忙しくて参加できないし、先生は他の子を見なくてはならないし。あの日も僕は隅っこで大人しくしていました」
「ああ、覚えてる。おれ、小学生だけどちょうど休みの日だから、湧の遠足について行ったんだよな」
「そんな僕に手を差し出して『一緒に遊ぼう! 僕たち今日から友達だよ』って、太陽のような笑顔でそこから連れ出してくれたんです。こんな僕でも友だちになってくれる子がいるんだ、こんな僕でも一緒に遊んでいいんだって、すごく嬉しかったんです。僕のトラウマは、先輩のこの言葉で少しずつ解消されていったんです」
「え? そんな言葉で?」
「先輩にとっては、当たり前にかけてきた言葉なのかもしれないけど、僕の人生はその言葉で救われました。……その日から先輩は、僕の憧れで、大切な人になりました」
おれのあんな何気ない言葉で、律は救われたというのか。いまだに気持ちの整理はできないけど、でも、真っすぐでキラキラした瞳を向けられると、おれの心まで明るくなっていく。
「僕の人生の殆どが、先輩で出来ています。先輩が大好きすぎて、先輩を感じていたくて、先輩にお借りしたタオル、洗わずに大切に持っています」
「はっ? ちょ、それは流石に洗えよ!」
せっかく感動の話を聞いていたのに、何やら雲行きが怪しくなってきた。そういえばさっきストーカー行為がなんとかって言ってたような……。
「小学生の時に、湧の代わりに持ってきてくれた連絡帳とか、幼稚園の時の遠足で作ってくれたシロツメクサの指輪とか、……これは押し花にしてもらいましたが。先輩が美味しいと言っていたお土産の包装紙とか、先輩の隠し撮りとか、学校の発表会の時の音声録音とか、まだまだコレクションありますよ?」
「えっと……」
「先輩の後をつけて、よく行くコンビニとか本屋のチェックしたり、この高校選んだのだって、先輩がいたからです。一年だけだけど、一緒に通いたくて受験したんです」
「おかしいと思ったんだよ。律お前、学年トップだったろ? なのになんでこの学校に入学したか不思議だったんだよ」
「先輩より早く登校して、先輩の机に座って、先輩の荷物触らせてもらっていいにおいするし……」
「おれのいないところで、そんなことしてたのか?」
ストーカーという単語を聞いた時から嫌な予感はしたが、律の口から出てくる内容はますますエスカレートしていく。
でもなぜか、怒るとか気持ち悪いとか、そういう感情は全く湧き出てこなかった。笑いながらお前キモイなってツッコミを入れられそうなくらい、おれの心は晴れやかだった。
「謝らなきゃいけないことがあるんですけど……」
意気揚々と話していた律が、急にしおらしくなった。なにを今更。ここまでのキモいことをしておきながら。
「もうこの際だから、全部暴露しろよ。受け止めてやる」
「先輩、優しいです。ありがとうございます。……えっと、あの自転車の空気なんですけど、あれ細工したのは僕です。傘をバックから抜き出して机に入れておいたのも僕です。早朝の机の匂いを嗅いで英気を養っていたのも僕です」
「そっかそっか。あの偶然にしちゃあよくできてたあの胸キュンシチュはそういうことか。……でも律、机の匂い嗅ぐのはちょっとやめとこうか? まさか流石に舐めてはいないよな?」
おれの問いかけに一瞬止まる律。おい、マジか。
こんなにおかしな事実を目の前にしても、もう逆に楽しくなってしまった。ここまでしておれと一緒にいたいんだなって思うと、変な笑いが込み上げてくる。
ははは、おれも大概だな。
「おれがノンケだったらどうするつもりだったんだよ?」
同性同士の恋愛は、基本的には同じ性的指向によって成り立つんだと思う。おれはなんとなく普通ではないと感じてはいたけど、今まで男が好きだと思ったことはなかった。かといって女に興味があったわけでもなくて。
だから、律はどうなんだろう。ちょっと意地悪な質問をしてしまったかなと思ったけど、律は何の迷いもなくおれに言った。
「僕には性的指向がどうのとか関係ないんです。男が好きとか女が好きとかじゃなくて、湊先輩が好きなんです。それ以上でもそれ以下でもないんです」
ああ、そうか。そういうことなのか。
律の言葉が、心にストンと落ちた。
「中学の時、部室で陰口を言われた時があったんだ」
「……先輩、あの時近くにいたんですか」
「ああ、お前がかばってくれたのも知ってる。……あの時はありがとな」
あの時を境に、おれの気持ちに変化が現れた。けど、トラウマが邪魔をして、自分の気持ちに気づかないふりをした。
今ならわかる。あの時から律を見る目が変わっていたんだ。
「あの出来事以降、大多数と同じ道を進まなきゃ、また気持ち悪がられる……そう思って生きてきた。だから、お前がおれ相手に胸キュンシチュを仕掛けてきた時、無意識に勘違いだと思い込もうとしたんだ」
「先輩、僕があんなにアピールしていたのに、反応がいまいちだったから脈がないのかなって思ってました」
「あはは。お前は女の子が好きだと思い込んでいたからな。まさかおれのことを好きなんて思わないだろう?」
ほんと、すべての出来事が今思えばだ。
律は一言も好きな女の子とは言ってないし、胸キュンシチュのことだってそうだ。あんな偶然が何個も続くなんてことはありえないだろう。
それでもおれは思い込みで、すんなりすべてを受け入れてしまっていた。
今思えばって振り返っても、笑い事でしかないけど。
「先輩にその気がないのなら、そろそろ諦めなきゃいけないのかなって。それなのに先輩は上目遣いしてくるし、僕、我慢するの大変だったんですから」
「あ! だからあの時顔を背けたのか?」
「そうですよ。どうせ諦めるならって、先輩をそのまま襲ってしまいたい衝動に駆られました」
「おそっ……!?」
律の言葉を一瞬にして理解したおれの顔は、一気に熱を帯びる。
コミュ障だった律は、どこに行ったのだろう。次から次へと恥ずかしくなるような言葉が飛び出してくる。
「……あ、先輩かわいい。顔真っ赤ですよ」
「な……っ」
真っ赤になったおれを見て、フッと気が抜けたような照れ笑いを浮かべた。
おれは恥ずかしくて仕方がないのに、律はすごく幸せそうだ。
けどふと視線を下げ、寂しげな表情を浮かべた。
先程あんなにグイグイ畳み掛けるように話していたのに、今度はぽつりぽつりと言葉を探しながら話しだした。
「返事をしてもらえなくなった時、本当に悲しかったんです。……嫌われちゃったかと思ったら、急に怖くなって、どうにかして先輩と連絡取らなきゃって、必死だったんです。……すみません、執拗なくらいに連絡をしてしまって」
「屋上前の踊り場での出来事で、おれは完全に勘違いをしてしまったんだ。律は好きな子と両思いになったのだろう。それなら、これ以上踏み込んではだめだ、距離を置かないとって思ったんだ。……その行動が、律を不安にさせてしまったんだな。ごめんな」
「いえ。僕が本当のことを早く言わなかったのがいけなかったんです。すごく後悔しました」
「おれが勝手に勘違いして、これ以上踏み込んじゃだめだってブレーキをかけようとした。でもそう思った時点で、もうおれの心は律にあったんだろうな」
泣きそうになっている律の手を取ると、手の甲にチュッとキスをした。
「先輩!?」
「お前の熱い気持ちを聞けて嬉しかったよ。ありがとな。……おれの気持ちも、お前と同じだ」
「それって……」
律はおれの言葉の真意を探るように、じーっとこちらを見つめている。ああ、随分と遠回りな言い方をしてしまったな。おれもちゃんと言葉にして伝えないと。
「律、おれもお前のことが好きだ。もう距離を置こうなんて思わない。ずっとそばにいたい」
おれの告白を受け止めた律は、信じられないといったふうに大きく目を見開いた。そしておれの横まで来ると、ぎゅっと嬉しそうに抱きついてきた。
「僕が先輩を好きになることは、生まれる前から決まっていたと思うんです。離れたくない、そばにいさせてください」
「ありがとう。……自分の気持ちをちゃんと伝えられるようになってよかったな。トラウマを持っていたなんて嘘のようだ」
「先輩とたくさんお話したくて頑張ったんです。他の人と話すのは、今も怖いです」
初めて会った頃の律は、守ってあげないとって思わせるような子だった。だからおれは思わず声をかけたんだと思う。
でも今の律は、自分の意志でこんなにしっかりと思いを伝えることができるようになった。
「そっか。頑張ったな、律」
おれは、律がとても愛おしくて、抱きしめられたままの姿勢で頭を頭ぽんぽんと撫でてやった。
律はおれの肩のあたりに、甘えるように首をぐりぐりと押し付け、スーハーと深呼吸をした。
「先輩、いい匂いです……」
ああ、忘れていた。律は幼い頃からおれを追いかけ続けていた、執着強めのストーカーだ。
でも律に甘いおれはそれを許してしまうし、むしろもっとと追い求めてしまう。
「おれは、一生律から離れられないんだろうな」
そして、おれもお前を離すつもりはない。
おれは律の頭を撫でながら、幸せを噛み締めた。
(おわり)