おれは中学生の時もテニス部に入っていた。
 中学三年生の最後の夏の大会も終わり、荷物をまとめるために部室に入ろうとしたときだった。中から部員の声が聞こえてきた。

「なぁ、もうすぐ三年生引退だけどさ、月島(つきしま)先輩いるだろ?」
「ああ、先輩がどうした?」
「あの先輩、お前のこと良くジロジロ見てたけど、お前に気があるんじゃねーのかなって思って」
「はぁ? 何言ってんだよ。男の先輩が俺をそんな目で見るわけ無いだろ?」
「彼女がいたこともないっていうしさ、そっちのけがあるのかと思って」
「おいおいやめろよ、気持ち悪い。勘弁してくれよ」
「あはは! だよなー」
「たとえそれが本当だとしても、俺は男には興味ないから。好きなのは清楚な女の子だからな」
「俺だって可愛い女の子が良いに決まってるさ!」
「アハハハ!」

 バカにしたような笑い声。身に覚えのないことで、陰でこんなことを言われているとは思わなかった。
 おそらく会話していたのは二年生だろう。ペアで練習をしていた後輩でもないし、むしろ交流が少なかったと思う。
 まさかこんなふうに思われていたなんて。無意識に後輩をそんな目で見ていたのかな、おれ……。

 ドアノブを回そうとした手を引っ込め、くるりと向きを変えようとした時、また別の声がした。

(みなと)先輩がそう言ったんですか?」

 この声は、(りつ)だ。おれは帰ろうとしていた足を止め、耳を傾けた。

「いやそういうわけじゃ……」
「なら、憶測で物を言うのは良くないと思います」
「でも……なぁ?」

 さっき、気があるんじゃないかと言った方の後輩が、もうひとりに賛同を得るように問いかけた。
 けどその声に対する答えは聞こえてこない。

「本人のいない場所で、しかも憶測でプライベートなことに土足で入るようなことは、やめてもらいたいです。湊先輩に失礼です」

 コミュ障で、家族とおれと(ゆう)の前以外では縮こまってしまうような律が、先輩に対してこんなにはっきりものを申せるなんて。ここにいるのは本当に律なのだろうか。
 でも、おれはすっげー嬉しかった。かばってくれたのもそうだし、律がはっきり意見することが出来たのも嬉しかった。
 おれは、律のお陰で悲しみが薄れるのを感じながら、その場をそっとあとにした。

 このときから、おれの律に対する思いに変化があったように思う。
 けどきっとその小さな思いは、大きく育ててはいけないものだ。自分でも気付かぬうちにそう悟ったおれは、心の奥底にしまい込み、何重にも鍵をかけた。



 中学校の時の苦い思い出を久しぶりに思い出したからだろうか、夢にまで見てしまった。
 そのせいでどうも寝不足だった。授業にも身が入らず、船を漕ぐ始末。
 放課後残って復習と課題を進めたいところだけど、今日の天気予報は、夕方から降水確率が高くなるというものだった。

 昇降口で靴を履き替えていると、わずかに土が湿ったような匂いが漂ってきた。
 あれ? もしかして雨か? 天気予報当たったなぁ……と思いながらバッグの中を探したけど、折り畳み傘がない。
 まいったなぁ。駅まで走るか? 自問自答しながら外に出ようとしたところで、律の声がした。

「先輩! 雨降ってきちゃいましたよ」

 律の声に導かれるように外へ出ると、細かな雨粒が静かに落ち始めていた。乾いていた地面に、ポツポツと印をつけていく。
 困っているおれの横で、律が手際よく傘をさすと、ニッコリと微笑み手招きをした。

「さ、先輩はこっちです。入ってください」
「なんで?」
「だって先輩傘ないでしょう?」
「なんで分かるんだよ」
「先輩がバックの中を見て、外を見てため息を付いていたからです」
「おまえ、そういうのはな、好きな女の子にしてやれよ」

 そこまで言ってから、あ、これもおれの理想の胸キュンシチュのひとつじゃないかと気付いた。

「ああ、お前、おれで練習してるのか?」
「まぁ良いじゃないですか。さ、帰りましょう」

 なんとなくはぐらかされたような気がする。けど深く考えている間に、雨はひどくなってしまうだろう。
 おれは素直に律の差し出した傘に入れてもらうことにした。

「大きな傘持ってきてよかったです」
「ああ、助かったよ」
「ほら、先輩もっと近くによって」
「いや、大丈夫だ」

 律はおれを近づけようとする。そりゃくっついたほうがお互いに濡れないだろうけど、何せ歩き辛い。
 ……それに、律に近付くと、おれの心臓の鼓動が早くなるんだ。どうしたんだ、おれ。最近なんかおかしいぞ?

「今日は自転車持ち帰れないですね」
「そうだな。改めて別の日に取りに行くよ」

 コンビニに預けた自転車のことから、夕飯に何を食べたいか? なんていう何気ない会話をしながら、ゆっくり帰路を歩いた。
 途中前方から車が来れば、さっとおれを歩道側に誘導する。水たまりを車がはねても、自分だけ濡れてもおれにはかからないようにする。
 ほら、やっぱり胸キュンシチュをおれで練習してるんじゃないかな、律は。
 本人は何も言わなかったから、おれは黙って練習の相手を続けることにした。