家の玄関を開けると、電気が点いていた。
下を見ると靴が揃えてあり、母親の気配を感じて少し気を張り詰める。
お父さんはまだ帰ってきていないらしい。話し声がいっさい聞こえない。
ただいま、と言うためにおそるおそる廊下を歩く。
「試験前日なのに、どこほっつき回ってたの?」
リビングに入ると、お母さんは厳しい表情をしながら硬い声で尋ねてきた。今日はいつもより帰りが遅くなったから、きっと怒っている。
ぴりぴりと家中の空気が張り詰め、さきほど青衣くんのおかげで溶けかけていた心がまた徐々に冷えて行く。
「塾で勉強してたら……遅くなっちゃって」
小さく答えると、お母さんは途端に声を荒げた。
「嘘言わないでよ! 最近お母さんの帰りが遅いときも、家にいないらしいじゃないっ! 塾の閉校時間はとっくに過ぎてるでしょ?!」
2日ほど前、その日も変わらず青衣くんと話していて夜遅くに帰ると、お父さんがお母さんより先に帰宅していたときがあった。
私が帰ったときに、お父さんは普通に接してくれたけれど、あとでお母さんに『花梨の帰りが遅い』というように告げ口したに違いない。それでいま、お母さんは私が、試験を気にせず遊んでいると思って怒っているのだ。
お父さんは、いつもそうだ。私に直接注意せずに、お母さんに全部言うのだ。そういうところが、いつだって嫌いだ。
お母さんはお母さんで、全然私の話を聞いてくれない。だからいつも、反論できずに怒られ続けるのだ。
……違う、勉強はちゃんとしてる。ただ、青衣くんとの時間は、私にとって何よりも大切なの。
そんなことを訴えたって、お母さんには絶対に響かない。頭ごなしに叱られ、ぐっと言葉に詰まって、こんなときだって何も言い返せない自分に苛立つ。
私が黙っているのをいいことに、お母さんは怒りをヒートアップさせる。
「お母さんだって仕事やら家事やらで忙しいんだから、これ以上面倒ごと増やさないでよ!」
ぐっと唇を噛み締める。
……わかってる。お母さんがどれほど忙しいかも、そのせいで最近すごく苛々していることも。子どもの私が想像する以上に大変なのだろう。
だけど、こんなふうに私のことを“面倒ごと”と言ってしまうお母さんが少し怖かった。どうしたらいいのか、本当にわからない。
「ごめん、なさい……」
俯いて小さく謝った。掠れた声だったけれど届いていたらしく、お母さんは長いため息を吐いてから口を開いた。
「花梨は真面目で良い子でしょう? お母さん、わかってるから期待してるの」
「……うん」
「お願いだから、良い子でいてね」
“良い子”って、何? お母さんの思う“良い子”は、黙って勉強して、怒られても反論しなくて、真面目な子どものこと?
不完全な感情が黒く渦巻いていく。私はどこまでも、この人の人形なのだろうか。彼女は私の奥にある本質を、まったく見ようとしないのに。
でも、“良い子”でいるのは慣れてしまった。そうあることが、お母さんの求める像なのだと中学生になった頃から理解していたのだ。
私を怒っていたお母さんの顔は、よく見たらかなり疲弊の色が滲んでいた。仕事が忙しくて、夜ごはんを作っている暇などないことは、私だって幼くないのだからわかる。
……あの浜辺で、家族3人で遊んでいた頃が懐かしい。
あれほどキラキラした純粋な日々は、年を重ねるごとに遠くなっている気がする。
「ごめんなさい。私、頑張るから」
きっと私は何も変われていない。
青衣くんと話すようになって、少し強くなった気がしていたのに、全然だめだ。
いつまでもお母さんのしがらみから逃れられない。本当の気持ちを伝えるのには、すごくすごく勇気がいることだということを改めて実感した。
「……頼んだわよ」
そう言い残すと、お母さんはお風呂に向かう。リビングにひとり残された私は、テーブルの上にラップにかけられているお皿を見つけた。
それは私とお父さんの夜ごはんだった。
帰って急いで作ったのだろう。簡易的な生姜焼きだったけれど、最近お母さんの手作り料理を食べていなかったから嬉しかった。
こうやって同じ家にいるのにバラバラで食事するようになったのは、私が塾に通いだし、さらにお父さんとお母さんの仕事が忙しくなった数年前からだ。
冷え切った夜ご飯を電子レンジで温め、取り出して「いただきます」と手を合わせた。
お母さんの味はずっと変わらなくて、泣きそうになる。
もっと本音で言い合える親子関係でい続けられると信じて疑っていたかったのに……どうしてこうなるんだろう。
私は明日からも、“良い子”でいなければならない。
そう考えると終わりのない日常に吐き気がして、お箸を動かす手を止めた。
「……私、変われるのかな」
小さく呟いた声は静かなリビングの宙を舞い、誰にも届くことなく消えていった。



