その日の夜。
 試験前夜ということもあって、不安なところを見直していたら、いつもより30分ほど塾を出るのが遅くなった。

 急いで浜辺に向かうも、既に、いつもはふたりで帰る時間帯だ。

 もしかしたら青衣くん帰っちゃったかな……。
 早足で砂浜を歩き、街灯の近くへとたどり着く。そこには私の不安を消し去るように、ヘッドホンを付けて海を眺めている青衣くんがいた。

「青衣くん、来たよ」

 嬉しくてそう呼びかけるも、ベッドホンのせいか、彼に声が届かない。
 それが悔しくて、青衣くんのところまで小走りで向かい、彼の顔を覗き込んだ。

 それに目を見張って反応した彼は、私だと認識すると、ふっと表情を和らげて口を開いた。

「花梨か。脅かさんでや」
「だって、声かけても気付いてくれなかったから」
「あーそれはごめんやん」

 全然思ってもなさそうな棒読みに、思わずぷっと吹き出した。

「なんで笑うん」
「え、だってさっきの青衣くんの『ごめん』、全然心こもってなかったもん」
「うわ、花梨ひどいわー。俺の誠心誠意込めた謝罪をそんなふうに言うなんて」
「うそばっかり」

 ふたりでそんなことを言いながら笑い合う。そんな時間が楽しくて仕方ない。

「今夜は来やんのかと思った」

 彼がそう口にする。私の目を見て不思議そうに首を傾げる青衣くんに、慌てて返答する。

「明日からテストだから。勉強してたら、遅くなっちゃって」
「あーなるほどな」

 そう短く言葉を区切った青衣くんは、ふっと私から目を逸らして言い放った。

「危ないから、あんまり夜遅くにひとりで町歩くんやめてな」
「え、慣れてるから大丈夫だよ。それに家近いし」

 きょとんとする私に、青衣くんは焦ったように言葉を重ねる。

「あほ、そういう問題ちゃうねん」
「ど、どういう問題?」
「……花梨は女の子やねんから夜道は危険! やから心配させんでって話!」
「えっ、あ……はい、わかりま、した」

 怒ったような口調で彼に畳み掛けられてびっくりしたけれど、かけられた言葉はすごく優しくてドキッとしてしまう。
 照れたようにツンとそっぽを向いているのも青衣くんらしくなくて、だんだんと頬が熱くなる。

 ……青衣くん、心配してくれてるんだ。
 それがすごくすごく嬉しくて、胸がぽっと温かくなる。

「小さい町やとしても、危ないもんは危ないねんで? わかってるか、花梨」

 その口調は、幼い子を叱る親のようだ。だけど表情には心配が滲み出ていて、その優しさと温かさが伝染する。

「わかってるよ……! でも、どうしても青衣くんと話したかったから」
「もー……またそういうこと言うやろ」

 困ったように微笑む青衣くんは、海風のせいで揺れる髪を鬱陶しそうにかき上げる。街灯に照らされた彼は美しくて、思わず息を呑んだ。
 その美しさに魅了されていると、ふとある疑問が浮かび、ちらりと彼を見る。

「ねえ、もしここで私と毎晩話してるって誰かに知られたら、青衣くんの活動に影響出たりしない……?」

 言葉にすると、余計に不安が湧いて出る。
 青衣くんはいまをときめく有名人で、現代の、特に若い人たちには絶大な人気を誇っている。そんな人が、ふたりで毎晩異性と話していると知られれば、彼の音楽活動に悪影響が出るのもうなずける。

 だけど当の彼自身は、なんでもなさそうに首を振って否定をした。

「それはない。俺は事務所に入らず個人で活動しているだけやし、メディアにも出てないから、普通に一般人なんや」
「でも、いつかテレビとかに出るようになったら、問題になるかもだよ?」
「俺はアイドルやないし、問題にはならんって。何があっても花梨には迷惑かけへんから安心して」
「……そっかあ」

 いまとなりにいる彼が、テレビの音楽番組に出演していることを想像する。迷惑かけない、というフレーズが彼を遠い存在に感じさせて、少し悲しい。それに、曲はもちろん良いのに、加えて顔立ちが整っているから、テレビなんかに出たらたちまち話題になるだろう。

 そんなに有名になったときも、私と変わらず話してくれるのだろうか。
 いつかそのままどこかへ消えてしまいそうな彼だからこそ、そんな不安に駆られた。

 ちらりと青衣くんを垣間見る。しかし彼も私のほうをじっと見ていたらしく、バチッと音が鳴りそうなほど目があった。
 しばらくそのままでいると、先に視線を逸らした彼は、おもむろに口を開いた。

「俺は俺の音楽を、世界中の人たちに聴いてもらいたいわけじゃないねん」
「えっと……それはつまり、どういうこと?」
「メディアの露出とかは、たぶんしやんってこと」

 青衣くんは、いまどこを見ているのだろう。隣にいるはずなのに、すごくその存在が遠く感じる。

 その横顔が孤独を映していて、ただそばにいたい衝動に駆られる。私なんかが、彼に何かしてあげられるとは到底思えない。だけど、ただすぐ近くにいて話を聞くことは出来ると思った。

「……所詮音楽に囚われてるんよな、俺は」

 今日の青衣くんは、難しい表情をすることが多い。言葉の真意を問いたくても、詮索できない空気を纏っているから仕方ない。
 青衣くんが話したいときに、話してくれたら良いと思う。彼を孤独にしている何かから、楽にしてあげたいと思う。

 傲慢かもしれないけれど、私が彼に救われている部分がとても多いから、そう考えることは許してほしい。

「ねえ青衣くん。明日、学校来る?」

 沈黙を破るように私がそう尋ねると、彼はもちろんと言うふうに首を縦に振った。

「当たり前や。前も言うたけど、結構単位危ないんよな」
「お願いだから……留年はしないでね?」
「あ、花梨俺のことバカにしてるやろ。残念やけど花梨の後輩には絶対ならんからな」

 その言葉に、『花梨センパイ』と超絶嫌そうに呟く青衣くんを想像する。現実味があまりないけれど、なんだか笑えてくる。それに気づいた彼は、拗ねたように唇を尖らせた。

「良くない想像してるやろ」
「うふふ、……うん。後輩になった青衣くんも悪くないかもなって思ってた」
「うわー、花梨ひどいって。でも、ほんまにそうならへんように明日からなるべく毎日学校行くわ」

 曲作りもひと段落ついたし、と付け足す彼の言葉に、思わず自分の表情が明るくなったのを自覚した。

「ほんとに?」

 1トーン上がった私の声に気付いたのか、青衣くんが可笑しそうに口を開く。

「花梨って、俺のこと大好きやな」
「なっ……! そういうのじゃないし!」
「へえ、やっぱ素直じゃないなあ」

 くすくすと目を細めて笑う青衣くん。今日も透き通るような甘い声で、私を柔らかく包み込んでくれる。

「でも、青衣くんが来てくれたら……学校がいつもよりずっと、意味のあるものに思えるんだ」
「えー、そんなん言われたら毎日登校してまうって」
「あ、無理はしないでね。青衣くんは青衣くんが来たいときに学校に来てほしいから」
「それは、花梨もやで」

 えっ、と口を半開きにさせて固まる私に、青衣くんは再度言う。

「花梨も、行こうって思ったとき学校に行けばいいねん。心殺して、自分の気持ち知らんふりして行ったらあかんで」

 その声はいつもより一段と優しくて、冷え切った心がゆっくりと解凍していくように思えた。

「どうしても頑張られへんときは、頑張らんでいいねん。無理に心と身体に鞭打って、もう何も出来ひんくらいだめになった人見てきたから、花梨にはそうなってほしくない」
「うん、……ありがとう。だけど大丈夫だよ、私は。……ぜんぜん他の人より頑張ってるわけじゃないし、限界ってほど辛いわけじゃないから」

 そういえば、【am】の新曲『日常シンドローム』にこんなフレーズがあったのを思い出す。

  “ 誰かより、がんばっているわけじゃない
   毎日が辛いわけでもない
   それなのになぜかすごく泣きたい日がある”

 本当にその通りだなと感じた。別に私は、特別頑張っているわけじゃないのだ。世の中のたくさんの人たちの悩みをかき集めたら、きっと私の悩みなんてすごくすごくちっぽけだ。

 そう考えたから無意識にさっきのようなことを口にしたけれど、その私の言葉に、青衣くんは困ったように微笑んだ。

「他の人から見たら、自分の悩みなんかちっぽけやと思うかも知らん。たぶん、みんなそう思って生きてる。でも、自分にとっては、花梨にとっては、そう簡単に片付けられるもんちゃうやろ」

 青衣くんはどうして、いつも私に寄り添ってくれるのだろう。
 当たり前のように学校に行くべきだなんて言わずに、私の好きなようにしろと言う。他と比べず、バカにせず、私の言葉を聞こうとしてくれる。

 ただそれだけなのに、それだけのことがすごくすごく嬉しくて、瞼の裏が熱くなった。

 ……泣いたらきっと、青衣くんが困っちゃう。
 そう思ってなんとかぐっと、涙を堪えた。

「大丈夫やで、花梨。学校休んだって、自分の本音ぶつけたって、世界は進んでいく」

 青衣くんは、何気なく話しているのかもしれない。それくらい、彼の横顔は柔らかかった。ぽろっと涙をこぼす私をちらりと見て、青衣くんは少し乱雑に、自分の服の袖で私の目元を拭ってくれる。

「俺を見てみ? 単位危ないわ本音言いまくるわしてるけど、こうやって日常を送れてるねんからさ」

 冗談めかして言う青衣くんに、ふっと笑ってしまう。
 青衣くんみたいに、自由に生きてみたいと思う。それが実現できるのは、何年先かわからない。私が、私自身を変える決意を固めないと、前に進めないのだ。

 それでも、いままで靄がかかっていた未来が幾分か明るく思えたのは、紛れもなくとなりにいる彼のおかげだと思う。

「青衣くんは……すごいね」

 彼がこういう考えを持つようになるまで、どれほどの過程があったのかは計り知れない。
 彼の過去を聞くには、私はまだ未熟だ。もし私がもう少し自分を大切にできるときが来たら、彼のとなりで彼の言葉に耳を傾けたいと思う。

「ぜんぜん。俺はいつだって、逃げてばっかりや」

 悲しそうに微笑む彼は、海をじっと眺めた。私から見えている彼は、どこまでも強くてカッコいい。自由で、自分の翼で飛び立っている気がする。それなのに、逃げてばかりだと自嘲する彼は、何を想っているのだろうか。

「そんなこと、ないよ……」
 私の小さな呟きは、冷たい風にさらわれて海の底へと沈んでいった。