気づけば、翌週の火曜日になった。
明日から試験が始まるせいか、教室内が少し張り詰めた空気になっているのを感じる。
今日までの約1週間のあいだ、青衣くんは学校に来なかった。それは彼から直接聞いていたから分かっていたことだったけれど、やっぱり寂しかった。
夜は、日曜日以外は浜辺でお喋りして、さらに青衣くんとは仲が深まったと勝手に思っている。もはや習慣と化していて、彼と話すことが当たり前になっていた。
相変わらず学校も家も息苦しいけれど、青衣くんと話すだけで、心がうんと軽くなる。塾でも、彼と会えると考えるとワクワクして、逆に集中できる日が続いていた。
今日は来るかなあ、と彼が教室に現れることを期待を胸に待つ。昨日の夜、『曲だいたい作れたから明日もしかしたら行けるかも』と言っていたから、扉のほうばかり見てしまう。
でもその日、結局彼は朝から学校に来ることなく、沈んだ気持ちになる。そうしているうちに昼休みになった。
「あー明日からテストかあ。だるいなあ」
3人で机をくっつけてお弁当を食べていると、莉奈がはあっとため息をついた。
「それな。早くテスト終わらないかな」
「うん、まだ始まってないよ? 美蕾」
「だってさー、花梨。今日も帰ったら勉強しないといけないって考えたら辛いじゃん」
「んーわかるよ。精神的に参っちゃうよね」
「そうなんだよ……、嫌だなあ」
美蕾が本当に嫌そうに言うから、苦笑いしてうなずいた。
試験期間は確かにしんどい。結果を出さないとお母さんにまた小言を言われるから、どうしても成績は下げられない。
今朝も『期待してるからね』と家を出る前に声をかけられ、かなりの圧を感じた。
期待に応えるために、頑張らなきゃ。そう思うのに、そう思えば思うほど、どんどん逃げ出したくなるのはどうしてだろう。
「赤点取ったら、りんりんに前みたいに勉強教えてもらおうかな……」
頭を抱えながら、莉奈が言う。
勉強が苦手な彼女は、中間考査のときも悲惨な結果だったらしく、私に泣きついて来た。
勉強を教えるのは苦じゃないし、中学のときから頼まれることは慣れていたから、彼女の言葉に小さくうなずいた。
「もちろん。そのときは一緒に頑張ろうね」
「はー……りんりんってなんでそんなに優しいの? ありがとう、女神様!」
「こら、莉奈。花梨に甘えてないで、ちゃんと自分で今日も勉強するんだよ?」
「うう……っ、わかってるよおお」
3人で話していると、こうやって自然に笑みが浮かぶことも多い。莉奈と美蕾はどちらもサバサバしているから、関わりやすいのだ。
「でも試験が終わったら体育祭が待ってる!」
「わ、ほんとだ。しかも体育祭が終われば夏休みだね」
「うわーっ、最高! 早くテスト終われええ」
私自身、行事ごとは性格上あまり盛り上がるタイプではない。それでもやっぱり、もっとこのふたりと仲良くなって、“3人グループ”でいることの違和感を拭えるようになるかも、という願いに近い期待はある。
そんなことを心の中で考えながら、莉奈たちと他愛もない話に花を咲かせているときだった。
突然、ガラッと教室の扉が開いた。
その瞬間に、扉付近に立っているその人に教室中の視線が集中した。私が思わず声を漏らしそうになったとき、手塚くんが「え、青衣じゃんっ!!」と駆け寄って行き、当の本人は涼しい顔をして教室に入ってきた。
「寝坊したわ」
ふわっとあくびをしながら、手塚くんにそう言う青衣くん。そのお顔は少し疲労が滲んでいるように見えたけれど、今日も今日とてカッコよすぎて直視できなかった。
「寝坊ってお前、もう昼休みだぞ?! どんだけ寝てるんだよ!」
「あーなんか、アラーム掛けるの忘れてたんよな」
「適当かよっ」
手塚くんはそんなツッコミを素早く入れながらも、青衣くんが登校してきたことが嬉しいのが丸わかりで、ハイテンションで彼に話しかけに行く。
すごく明るくて、そこにいるだけで教室の雰囲気が良くなるような男の子。それが手塚くんだ。
そんな彼を引き連れながら、青衣くんはそのまま気だるげに自分の席まで歩いて行く。
私たちの席を通る間際、ふと視線をこちらに向けた彼と、パッと目が合った。
夜の浜辺で会うのと学校で会うのとは全然違くて、動揺してお箸を落としてしまいそうになる。
なんとか平静を装っていたら、そんな私の様子に気づくわけでもなく、青衣くんは小さく舌を出した。
『遅くなった』
そう彼の表情が物語っているのを感じて、心臓がぎゅっと締め付けられる感覚に陥る。
……待ってたのに、遅いよ。
そう言いたい気持ちをぐっと堪え、私は青衣くんに対して少しだけ肩をすくめた。
それを見てふっと微笑んだ彼は、手塚くんと一緒に自分の席に向かった。
「なあー、俺寂しかったよ! 最近ずっと青衣がいなくて!」
「その言葉なんで手塚が言うん。なんでお前なんや」
「え、待って青衣ちょっと半ギレ?! 俺なんか変なこと言った?」
「知らん。寝る」
「うぉーい! さっきまで寝てたんじゃないのかよっ」
そうしているうちに、机に突っ伏して寝る体勢に入った青衣くん。そんな彼を悲しそうに見つめる手塚くんとの、漫才のような掛け合いにくすりと微笑んだ。
先ほどのアイコンタクトは誰にも気づかれていない。そんなふたりの秘密が嬉しくて、しばらくにやにやが止まらなかった。
「青衣くん、学校来てくれたね。それだけで午後の授業頑張れそう……」
途端に元気になる美蕾に、莉奈が「単純か」とツッコんだ。ふたりのやりとりに少し罪悪感を抱きながらも、にこにこと笑みを浮かべた。
青衣くんと、毎晩一緒にで浜辺で話しているだなんて、……ふたりには言えない。特に【am】のファンである美蕾には、どう思われるかわからない。嫌われるかもと思うと、臆病な私は口火を切ることが出来ない。そんな自分が嫌いだし、変えたいと思う。だけど、そう簡単な問題じゃないことは自分でも重々承知している。
「あっそういえば、美蕾。昨日のドラマ観た?!」
「観た観た! 泣けたよねえ、最終回気になる」
「いやそれな? ヒロインの女優さんも可愛くて最後だよね!」
「ほんとそれ。花梨も観ればいいのに!」
ふたりにしか分からない話題だからと、黙々とお弁当を食べながら静かに口を噤んでいると、突然美蕾に話を振られてびっくりする。
テレビは正直、見続けるとお母さんが怒るから、最近は避けていた。ドラマの話になると、ふたりに全くついていけなくなるのは悲しいけれど、こればかりはどうしようもない。
お母さんが厳しいとは言いづらくて、脳内で言葉を選んで口を開いた。
「あっ、いや私は……。テレビはあんまり観なくて」
「まあ、だよね。りんりんは真面目だもん」
「ほんっと、尊敬。うちらとは違うよね」
「そんなこと、……ないよ」
私だって、ふたりと何も変わらないのに。そうやって一歩線引きされるのは辛い。でも、きっと、線引きしているのは私のほうなのだ。言いたいことを堪え、愛想笑いばかりしている私のほうが、自ら彼女たちから線を引いている。
『うちらとは違う』
その“うちら”が、私以外のふたりを指しているということも、いまの私はしんどいと思った。
「りんりんみたいに真面目なら、あたしも明日からのテスト撃沈しないのになあ」
「莉奈、しっかり撃沈する気満々じゃん。そんなんだと、本当にそうなるよ」
去年から同じクラスのふたりは、会話のテンポが早くて、ときどき置いて行かれてしまう。
そういうときは、ニコニコしながらうなずくのが吉だということはもう学んでいる。
「美蕾もそう言いながらやばいでしょ? あたしと同じくらい」
「いーや、実はちゃんと毎日勉強してますよ。私は莉奈とは違うんだからね?」
「うわーっ、美蕾のうらぎり者だ! 3人のうちあたしだけが赤点確定か……」
「今日帰ってから勉強したら変わるかもだから、やってみるだけやってみなよ」
「無理無理。だってスマホがあたしのこと大好きだから、勉強に浮気できないもん」
「何言ってんの。花梨を見習いなって」
私はふたりに真面目だと思われているし、それを否定しようとも思わない。確かに毎日塾で勉強しているけれど、それはお母さんに小言を言われることや、親がいないときに静かな家で孤独を感じたくないことが理由だなんて、口には出せないのだ。
私だって、莉奈や美蕾が羨ましい。
ふたりのご両親は優しくて、テレビを一緒に見る日常がある。子どもが勉強熱心で真面目だということより、もっと大事なものが、ふたりの家庭にはある気がする。
家庭のことを友だちに話すことは避けている。だって、聞いてもらったところで別に何も変わらないから。ふたりならきっと、気まずそうな表情で顔を見合わせるだろうという想像だってある。
きっと、私の気持ちは誰にもわかってもらえない。
それでいい。何も、求めてなんかない。
「あ、次移動教室じゃん! 早く準備しないと」
美蕾がそう慌てたように言い、我に帰る。確か、次の授業は化学の実験だ。急いでお弁当を食べ、机を離す。
必要な教材を持ち、3人で当たり前のように廊下を並んで歩く。
だけど前から人が通るのに、3人で広がって歩くと通路のじゃまになっていると感じると、すぐに私は彼女たちの一歩後ろに下がった。その私の行動に気付かず、ふたりはきゃっきゃと楽しそうに話をしている。後ろからぼーっと莉奈と美蕾を眺めていたら、彼女たちと私とのあいだに果てしなく高くて厚い壁が立ちはだかっているように見えた。
3人で行動しているのだから、勝手に私が遠慮するべきじゃないんだとわかっている。だけど、心のどこかで、ふたりの輪に頑張って入るのはしんどいなと思うのだ。
……頑張ることを、すべてやめてしまいたい。
そんな衝動に駆られ、瞼の奥が熱くなった。
……いますぐ、青衣くんと喋りたいよ。優しい声で、私を包んでほしい。早く、夜にならないかな。
そんなことを俯きながら考えていると、幾分離れて歩いていた莉奈が声をかけてきた。
「あれりんりん、考え事? 置いてくよー?」
前を向くと、ふたりは不思議そうに私を待っていた。その様子で、私の存在をきちんと認識していたことに、なぜか急に安心した。ふたりにいつか、私の存在ごと忘れられて居場所がなくなることを、無意識に想像していたのかもしれない。
悪いことを考えると、負のループに陥る。だから、無理やり口角を上げてでも、自分を奮い立たせるべきだ。
「……ごめん! ぼーっとしてた」
「もー、りんりんってば、ときどき不思議ちゃん発動するよね」
「うんうん。何考えてるかわからないとき、結構ある」
「そ、そうかな……」
心の扉を開けていないことを責められているように感じるけれど、美蕾の表情からはそういう気持ちは込められていないことがわかる。
感情を表に出すことは難しい。何を言われるかわからなくて怖いから。友だちにそんな気を遣うべきじゃないことも理解している。
「青衣って移動教室とかするんだ! 新鮮だな!」
「当たり前やろ。俺やって普通の高校生やねん」
「高校生に見えねえくらい大人びてるけどな!」
3人で廊下を歩いていると、青衣くんと手塚くんが私たちを追い越した。
青衣くんの背中を見たら、ふっと心が軽くなる。彼の声を聞くだけで、幸せな気分になる。
この不思議な現象は学校だと余計に強くなるらしく、いつもはモノクロの学校という場所が、途端に彩りある場所のように思えた。
……やっぱり、青衣くんはすごいなあ。
私のヒーローみたいだ。辛いとき、悩んだとき、そこにいてくれるだけで元気になれるんだもの。
さきほどまでの消極的な考えは綺麗に流れて、自然と笑みが浮かぶ。
……ありがとう、青衣くん。
手塚くんとボケツッコミを繰り返している彼に向けて心の中でそう呟き、軽い足取りで実験室へと入った。



