きみにとっての“誰か”になりたい



「お、今日も来たんか」

 その日の夜。
 昨日と同じく学校が終わってからは塾の自習室で勉強し、そのあと浜辺にやって来た。

 自分で思っていたよりもこの時間が楽しみで、少しだけ昨日より早い時間に塾を出てしまったのは内緒だ。

 ここへ向かっているあいだは、青衣くんがいなかったらどうしようとか、昨日の出来事が夢だったらどうしようとか、そんなことを考えていた。でも、それは杞憂で。街灯に照らされて色素の薄い髪が光っているのを見た瞬間、安心して泣きそうになってしまった。

 砂浜を歩く私の足音で気づいたらしく、こちらを振り向くことなく尋ねてきた。

「来たよ。……不真面目くん」

 ちょっとだけ拗ねた口調でそう言い、となりに座る。
 心の機微を感じ取ったのか、グレーのパーカーを着ている彼は、私の顔を不思議そうに覗き込んできて、そのあとふっと笑った。

「なんやその呼び方」
「……だって、今日学校に来てなかったから」
「いつものことやろ。昨日は気が向いたから行っただけや」
「そんなふうに言えるの青衣くんだけだよ……」

 学校に行かなくてはならない。それは私たちにとっては当たり前のことのようだけれど、彼にとってはそうではないのだろう。
 青衣くんは、転入してきたときからとても変わった人だった。

 遡り、あの事件を思い出す。

 ――彼が転入して来て1週間ほど経ったときのことだ。
 【am】がうちの学校に来たという噂は同じ学年どころか学校中に広まり、他学年からも人が押し寄せ、彼の周りには人が絶えなかった。
 だけど、当の本人の青衣くんは最初のほうはある程度そういう人たちとも会話をしていたけれど、数日後にはヘッドホンを耳につけて外界をシャットダウンするようになったのだ。
 それから同学年とは思えないほど大人びている青衣くんは、人と馴れ合うことをせず、ずっとひとりで行動していた。

 それでも【am】と仲良くなろうと興味津々に話しかける人は絶えることなく。大人気だなあ、と他人事のように思っていた、そんなある日のことだった。

『俺、青衣と仲良くなりたいんだけど!』

 クラスでお調子者の手塚くんが、いつものように耳をヘッドホンで塞いでいる青衣くんに大きな声を掛けていた。
 もちろん、彼はフル無視。そこまでは日常だった、んだけれど。

『にしても、本物のギターとかかっけえなあ』

 手塚くんが本当に興味本位で、花宵くんのギターに触れたその瞬間だった。

『触んな』

 ひと言も話さなくなっていた彼が、突然そう静かに怒ったのだ。

『えっ』

 驚いて手塚くんがぴたりと動きを止めて、表情には焦りが滲んでいて。教室中が固唾を飲んで見守る沈黙の中、青衣くんは怒気をはらんだ声音でこう吐き捨てた。

『あんたらが仲良くしたいのはここにいる俺やなくて、アーティストの【am】やろ』

 そうして、その日から青衣くんは休み時間もひとりになった。
 だけど昨日のように、当の手塚くんだけは、青衣くんに対して負けじと声を掛けていた。

 数日ほどそんな手塚くんを訝しげに見ていた青衣くんだったけれど、あまりにも明るく手塚くんが話しかけてくるからか、いつしか普通に接するようになっていた。
 だけど、その頃から青衣くんはあまり学校に来なくなっていて、最近では2週間に一度くらいしか顔を見せない。

 そんなに休んでいて単位は大丈夫なのだろうか。そう聞きたい気持ちはあるけれど、彼は抜群に成績が良いといという噂は何度か耳にしたことがあったから、尋ねるのは我慢した。

「花梨は? 学校行ったん?」
「うん……行ったよ」

 制服着てるでしょ、と指で学校指定のカーディガンをつまむと、青衣くんは微笑んだ。

「えらいやん」

 そう言って、小さくうなずいたと思ったら、ぽんっと私の頭に……手を乗せた。

「え」

 思わずフリーズした私のことなんか構わず、彼は口角を上げて、優しく私の頭を撫でる。
 ……青衣くんの手、大きくて温かい。
 みるみる顔が赤くなっているのを感じていると、彼は私の目を見ながら言った。

「毎日学校行くって、みんな当たり前みたいな顔してやってるけど、そんな簡単なことちゃうやろ」

 パーカーのフードを被っているのと暗闇が相まって、あまり彼の顔が見えない。
 でも片手で肘をついてもう片方は私の頭に置いて、海を眺める青衣くんは、柔らかく私を包んでくれるような気がした。

 ……学校に行っているだけなのに、えらいだなんて初めて言われた。
 当たり前のことだと思って、行かなきゃと思って、家を出ていたけれど。

 青衣くんの言葉を思い返したら、その温かさに少しだけ瞳が潤んだのを自覚した。

「……うん、頑張って学校行ったよ」

 涙声が出てしまったのが恥ずかしくて、三角座りをして俯く。それなのに、頭に乗ってる大きくて温かい彼の手がぜんぶ受け入れてくれるようで、更に瞳が潤んでしまう。

「えらいなあ、花梨」
「……うん」
「あ、ちょ、泣くなよ。俺、泣かれるのほんまに弱いねんって」

 ぐずっと鼻を啜っていると、青衣くんは慌てて私の頭から手を離す。まだ涙は溢れていなかったけれど、彼は心配の表情を隠さない。
 青衣くんの、透き通った瞳に吸い込まれそうになる。

「……泣かないよ」

 泣かない。私は強いから。
 誰にも弱音なんか言わずに、いままで耐えられたんだから。

 私なんか、ちっぽけな悩みなんだ。勉強のことに口うるさい家族も、3人グループが辛い学校も。

「あー……もう、泣きそうな声で言われても説得力ないわ」

 そう言って躊躇いがちに私の背中をゆっくりとさすってくれる青衣くん。不器用な優しさに、心臓がぎゅっと掴まれる。

 しばらくそうしていると、いまにも落っこちそうだった涙が引っ込み、さきほどの青衣くんの言葉が気になってきた。

「青衣くんは……ほかにも、たくさんの人が泣いているのを見て来たの?」

 泣かれるのに弱い、と漏らした彼。
 私が初めてではないのは事実だろう。もしかしたら、彼は昔はやんちゃで、いろんな人をたくさん泣かせて来たんだろうか……と一抹の不安がよぎっておそるおそる聞いてみる。

 すると、青衣くんは苦い表情をして首を横に振った。

「いや、その逆や」
「え、逆?」
「そう。涙なんか流されへんくらい、感情押し殺して生きてるような人を見てきた。やから隣で泣かれたら、どう接していいんかわからへんのや」
「泣かない、人?」
「そ、――俺の母親やな」

 ヒュッと胸に、冷たい風が通った。
 私の悩みなんて杞憂だったらしく、青衣くんが淡々と答えた言葉を反芻する。

 青衣くんの口調が投げやりになったのを、私は見過ごせなかった。
 かなり思慮しがたい話のため、言葉に詰まる。なにも言えないでいると、彼は自虐気味に口を開いた。

「……俺の母親は、毎日無理して笑ってるような人やねん」

 遠く遠く広がる水平線に右手を翳し、彼は言う。
 聞かなければならないのに、海風が青衣くんの小さな声をさらっていく。聞き逃すまいと、彼のほうに少しだけ近づいた。

「父親とは、最近離婚した。それで俺は母親の生まれ育ったこの町に引っ越して来て、花梨たちの学校に転校してきたんや」
「……うん」

 他人事のように身内のことを話す青衣くんには、いままでにいくつもの苦悩があったのだろう。私には計り知れないほどに、辛い思いをしてきたんだと感じた。

 寄り添うように静かに耳を傾ける私に、青衣くんは尋ねてくる。

「恋愛って怖いやろ」
「……怖い?」
「そう。必死に追いかけて縋って、最後は呆気なく孤独になる。そんなの、幸せって言われへんやろって」

 どこか投げやりに呟き、彼は海に翳していた右手をぎゅっと握り締めた。
 独り言なのかもしれない。そう錯覚させるくらい独りよがりな考えに、私は不思議に思った。

 ……彼を、こんなふうに思わせた原因は何なのだろう。
 少なくとも、青衣くんのお母さんやお父さんが関係していることはなんとなく感じる。

 となりにいる彼は、ますます儚い印象を濃くしていく。孤独を背負い、海風に存在丸ごと攫われそうになりながら。
 言葉を発することなくうなずいているだけの私に対してか、それとも独り言なのかわからないけれど。
 青衣くんは、固い声で言う。

「俺は絶対、恋愛なんかせえへん」

 そんな言葉を彼が放つなんて思ってもいなかったから、刹那、頭が真っ白になった。
 反射的に青衣くんの横顔を見ると、彼は私のほうを見ずに、まっすぐ海を眺めていた。

「……どうして?」

 動揺を隠せず、震える声でとなりの彼に尋ねる。
 ねえ、青衣くん。あなたはどんなふうに生きてきたの? どんな想いで、いまここにいるの? どうしてそんなに悲しそうな表情を浮かべるの?

 心の渦は消えることなく、ぐるぐると大きな渦を作っていく。
 私の問いに、彼は雰囲気を和らげて、困ったように微笑んだ。

「俺は恋したらあかんねん」
「なんで、そんなことないよ……」
「あるんや。そもそも、恋愛なんてするもんじゃないって思ってるから問題ないねんけどな」

 絶対、そんなわけない。
 青衣くん、昨日の朝の私みたいに、無理やり笑ってるくせに。

 そう言いたいのは山々だったけれど、そんな言葉をいま彼に掛けられるほど、私たちは心の窓を開けっ放しにしていなかった。
 何を口にするべきか逡巡する。

 しかし彼はきっと、私にただ聞いてほしいだけだったのだと悟り、彼が話し出すまで口を噤んでいた。
 そうしているうちに、夜が更け、肌寒くなっていく。
 カーディガンの袖を引っ張りながら寒さに耐えていると、それに気づいたらしい青衣くんは、自分のパーカーをさっと脱いで私に羽織らせてくれた。

「え……っ、青衣くんは? 寒いでしょ?」

 パーカーを脱いだ彼は、長袖のTシャツ1枚しか着ていない。カーディガンを着ている私より、確実に寒いのに、なんで。
 慌ててパーカーを返そうと試みたけれど、青衣くんに柔く腕を掴まれて阻止された。

「俺は別にいーねん。そんな寒ないし」
「よくない! 風邪引くよ」
「俺が風邪引くより、花梨が風邪引くほうが俺は嫌やから。黙って受け取っとき」

 ドキッと胸が高鳴る。
 そんなの……優しすぎる。嬉しいよ、青衣くん。

 無理やり彼の服を返そうとしていた私の動作はピタリと止まり、それに恥ずかしくなって俯いた。

「……ありがとう、青衣くん」
「おーどういたしまして」

 青衣くんの温もりを感じながら、彼のパーカーを肩に掛ける。
 彼に抱きしめられているような感覚に陥り、そんなことを考えている自分に顔が赤くなった。

「次は学校、いつ来るの?」

 気を紛らわせたくて、脈絡のない話を放り込む。
 火照る頬を冷ましながら、そわそわしつつ彼の返答を待つ。
 青衣くんは少しの間悩むそぶりを見せたあと、おもむろに口を開いた。

「んー……次の曲がだいたい形になってからやな」
「そうなんだ……。おととい新曲発表したばかりなのに忙しいね」
「どうしてもきちんと作り上げてからじゃないと、他のことが出来ひんねん。まあでも……1週間経たへんうちには顔出すと思う」

 思ったよりも早いことに対して率直に嬉しいと思いつつ、ふと疑問が浮かぶ。

「あ、そういえばちょうど1週間後から期末考査だけど、それは来れるの?」
「おう、さすがに単位取らなやばいからな。それまでに次の曲作り上げとくつもり」
「なるほど、わかった。楽しみにしてるね」

 青衣くんはすごいな。好きなことに熱心で、それなのに勉強も疎かにしない。

 羨ましい。素直にそう思うけれど、そんな彼のおかげで、いま私は笑えている。
 昨夜彼が言ってくれたように、私はきっといま、思うままに話せているから。彼の存在感は、これからも日に日に増していくんだと思う。

「花梨、俺が学校来やんから寂しいんやろ」

 からかうように私の瞳を捉える青衣くん。絶対に、私の反応を見て面白がっている。
 そんなの、……ずるい。

 かあっと顔が赤くなるのを自覚しつつ、そっぽを向きながら小さく答えた。

「寂しくない……って言ったら、嘘になる」
「ふはっ、素直じゃないなあ。俺の前では素直な花梨でいてなって言うたのに」
「充分素直です!」
「そー? なら嬉しいことですわ」

 本当は、毎日学校に来てほしい。それだけで、同じ空間なのにずっと息がしやすくなる。でもそんなことを言ったら、彼の負担になるかもしれない。彼の才能のじゃまになるかもしれないから。
 いまは、夜の浜辺でこうやって話せる時間が何より幸せ。そう自覚しているために、これ以上何も願わないのだ。

 ふたり並んで海を眺めていると、冷え切った風が頬を掠めた。
 思わず私がくしゅんとくしゃみを漏らしたら、彼はそんな私をちらりと見てから立ち上がって言う。

「ほら、帰るで。花梨」
「…………わかった、帰る」
「なんや、不服そうやな。そんなに俺と一緒にいたいんか?」

 またもやからかってくる青衣くんに、不可抗力でドキッとさせられる。
 それが悔しくて、私は彼に借りていたパーカーを押し付けてから呟いた。

「青衣くんといる時間が……楽しいのが、悪い」

 パーカーありがとねと付け足して、照れ隠しにさっさと砂浜を歩くも、青衣くんの足音は聞こえてこない。
 どうしたんだろう、と振り返ると、彼はその場に立ち尽くしていた。

 えっ、と思っていたらすぐに彼は歩き出し、私をあっさり追い越した。

「……あほ。花梨のほうがずるいやろ」
「え? なんて……」
「なんもない。置いてくでって話!」
「なんで?! 待ってよ、青衣くん」

 今日も今日とて送ってくれる彼の広い背中を見ていたら、また迫ってくるつまらない明日も彩りあるもののように思えた。
 やっぱり青衣くんは最強だな。そう笑みを漏らしながら、夜の町を彼と一緒に歩いていた。