次の日の朝。
微睡の中でスマホのアラームを止め、そのまま冴えない頭でインスタグラムを開いた。
莉奈と美蕾のSNSが更新されていて、タップしてそれらを見る。
ふたりで撮ったプリクラがあがっており、ほんの少しだけ、心がズキッと痛んだ。
……ふたりは、私がいないほうがきっと楽しいんだろうな。
そんなことを思うべきではないことはわかってる。でも、ふたりで仲良さげに抱き合って撮っている写真を見ていたら、そう考えてしまうのも仕方ないことだと思う。
ため息をつきながらベッドから降り、身支度を始める。
鏡を見ると、幸の薄い表情をした自分がいて、慌てて口角を上げた。こんな顔をしていたら、親にも、友達にも、なんて言われるかわからない。私は、いつでもどこでも笑顔で過ごさないといけないんだから。
準備がある程度終わり、リビングへ向かうために階段を降りた。
テーブルには朝ごはんが並べられており、私が席に着くと、洗い物をしていたお母さんがこちらを一瞥した。
「そういえば、花梨。1週間後にテストよね」
おはよう、という言葉さえ発することなく、そんなことを朝から私に聞いてくるお母さんに苛立つ。
私のことなんて、まるっきり興味ないくせに。
私がお母さんにとって、良い娘かどうかが重要なだけなのだ。この人は。
口を開けば、勉強のことしか聞いてこない。学校生活のことなんか、尋ねられたことなんてほとんどない。
要は、お母さんは私個人に関心がないんだと思う。
感情を押し殺し、ハムエッグを頬張りながら小さく答えた。
「そうだね。いい結果出せるように頑張るよ」
無理やり微笑んでそう口にした私に、お母さんは眉根を寄せて言う。
「最近成績が落ちてるって塾の先生が言ってたわよ。ちゃんとしないと、志望校に受からないでしょう」
「……わかってるよ」
「あのね、お母さんは、花梨のために言ってるのよ?」
「うん、知ってる。もっと頑張るから」
「頼んだわよ。高い塾代だって払ってるんだから」
息を吐き、お母さんは仕事に出る準備をし出す。
『ちゃんとしないと』
『花梨のために』
聞き飽きた台詞に私が答える言葉は、ぜんぶ『頑張るから』だ。
頑張るという言葉は呪文のようだと思う。でも、何度も言うと、頑張れない気がしてくるのだ。私は何のために身を削ってるんだろうか。そう考えてしまうから。
私だって、成績が下がりたくて下がっているわけじゃない。自分では出来ているつもりなのに、結果はそう簡単に出ないというだけだと思っている。
そもそも、私に志望校などない。“お母さんの志望校”を受験するよう言われて、従っているだけだった。勝手に決められる不満は、すごくある。だけどもし反論して、『じゃあ何がしたいの?』と聞かれたら、きっと何も言えない。私はそういう、薄っぺらい人間なのだ。
お母さんは私が高校受験に失敗してから、以前に増して勉強に口出しするようになった。私が悪い、お母さんの期待に応えられなかったのが悪い。そう思えば思うほど、がんじがらめになっていく。
そんなことを悶々と考えていると、朝ごはんが喉を通らなくなり、お箸を置いた。
「あら、残すの?」
「うん……。ごめん、お腹空いてなくて」
「昨日の夜ごはん何食べたのか知らないけど。せっかく作ったのに残念だわ」
……夜ごはん勝手に食べなさいって言ったくせに。
昨夜は私が誰もいない家で、余っていたカップ麺を食べたことくらい、ゴミ箱を見ればわかるはずなのに。
お母さんは、自分勝手だ。
心の中では、いくらでも言えるのに。お母さんをいざ目の前にすると、反論なんて出来るわけもなく、渇いた笑いしか浮かべられなくなっていた。
黙って食器を片付け、そして部屋に戻ろうとしたとき、お母さんが声をかけてきた。
「今夜も仕事が終わらないだろうから、夜ごはん自分で済ませておいてね」
「……わかった」
もう何も言う気になれなくて、小さくうなずくだけで精一杯だった。
……今日も孤独な夜を過ごすんだ。
そう思ったけれど。
『夜はだいたい、ここにおるから好きなときに来たらいい』
そう言ってくれた青衣くんとの昨夜の出来事を思い出し、思わず口角が上がる。
そうだ、私はひとりじゃない。
夜だって、寂しくない。
そう思うと気持ちが浮遊して、お母さんの小言もあまり気にならなくなってくる。
自分の部屋に戻り、もう一度自分の顔を鏡越しに見る。
そこには、先ほどより幾分か血色を取り戻した私がいた。
青衣くんの、おかげかもしれない。自然と口角が上がってくるのだから。
早朝から仕事に出ているお父さんと、いま家を出たお母さんがいなくなり、ひとりになる。
スクバを持ち、そのまま階下に降りて家をぐるりと見回した。
朝と夜じゃ、同じ家なのに違う場所に見えるのだから不思議だ。孤独を感じるのは、圧倒的に夜。
暖かい日光が窓から差し込んでいるのを見つめ、いまは朝なのだと実感する。
今日も、一日頑張ろう。
そう決意し、イヤホンを耳に挿しながら昨日ダウンロードした音楽アプリを開いて、【am】の新曲『日常シンドローム』を聴きつつ学校へ向かった。
教室に入ると今日は莉奈も美蕾も、さらに青衣くんもまだ登校してきていなかった。
というか、青衣くんに関しては、学校に来るほうが珍しいのだから、今日は休みなのかもしれない。
少し残念な気持ちを持ちながらも、席に着いて【am】の曲の歌詞を眺める。
一昨日音楽アプリにアップされた新曲『日常シンドローム』は、既に何万人のひとが再生しており、どれほど彼の曲を待ち侘びていた人がいたか思い知らされた。
私は初めて彼の曲を聴いたけれど、繊細で落ち着く低音の声が、優しい歌詞を彩っていると感じた。この曲の歌詞は、時に立ち止まってしまう若者ならではの悩みを吐露したようなものだけれど、寄り添うような言葉を紡いでいるからか、同年代だけでなく幅広い世代から共感を呼んでいた。
他にも【am】の曲を探していると、彼の曲にひとつ共通するものを見つけた。
それは、恋愛ソングがないこと。
恋愛ソングがヒット曲に多い現代の世の中では、少し違ったテイストの【am】の歌は悩める人たちの拠り所になっているんだろうなと勝手に推測した。
こうして見ていると、青衣くんが本当に有名人なのだと実感させられる。昨夜、浜辺でとなりに座って喋っていた彼と同じだとは考えがたい。
「りんりん! おはよー」
「おはよう、花梨」
スマホに夢中になっていると、そう私の名前を呼ぶ大きめの声が聞こえてきて顔を上げた。
今日もふたりで登校してきたらしく、莉奈と美蕾はにこにこと微笑みながらこちらにやって来た。
「おはよう。莉奈、美蕾」
私の挨拶に笑顔でうなずいた莉奈は、突然ずいっと私のスマホの画面を覗き込んできた。
私が、えっ、と言う間もなく彼女は素っ頓狂な声を上げた。
「【am】の曲じゃん! もしかして、りんりんも聴いてるの?!」
「えっ、いや、その……違くて」
違うわけではないのだけれど、このままだと余計な誤解を招きそうだと思い、必死に否定する。
でも私のスマホ画面には【am】の曲がずらりと並んでいるせいで、まったく説得力がなくなってしまう。
「あ……、花梨も【am】の曲好きだったの?」
困ったように眉を下げて聞いてくる美蕾の表情を見て、途端に冷や汗をかいたのを自覚した。
美蕾の目が、咎めるような視線に感じたのだ。
いままで本当に【am】に興味がなかったから、彼女が彼のファンだということも流していた。今日までいっさい聴いたことすらなかったのだから、それは本心だ。
それに。
昨日の朝の出来事もあり、私と青衣くんに関してナイーブになっているであろう美蕾には誤解してほしくなかった。
「……ごめんね。私、花梨も【am】が好きだと知らずに、一緒に話しかけてよだなんて無神経なこと言って」
「ち、違うの、美蕾。本当に私興味なんてなかったんだけれど、美蕾がそんなに好きな曲ってどんなんだろうって気になっただけなの」
本当は青衣くんと約束したから、だなんて言えるわけがない。それに美蕾は有名人としての【am】だけでなく、クラスメイトの青衣くんとして好意を持っているように思えた。それなのに、私が昨夜の出来事を話すなんてあまりにも無神経だと感じたのだ。
「あ、そうだったの? なら早く言ってよ!」
ほっと安堵したように肩を撫で下ろす美蕾を見て、ズキッと心が痛んだ。
私は嘘を付いている。それがいつかバレたら、私たちの友情なんてパキッと割れて終わってしまうのだろう。
痛んだ心を隠しながら、私は無理やり笑顔を作った。
「ごめんね、美蕾。でも、【am】の曲すごく良かったよ! 音楽に疎い私でも感動したもん」
これは本当だ。なんでいままで知らなかったんだろうと思うほど、彼の曲は一言でいうとすごかった。
聴きながら思わず涙を流してしまいそうな、優しさが詰まった声は、唯一無二だと思う。
「そうでしょ?! 本当に同じ歳だなんて思えないよね。初めて【am】の曲を聴いたとき気づいたら泣いちゃってたもん」
「そんな人が同じクラスにいるなんて、不思議な話だよね……」
そう呟きながら、ちらりと彼の席を見た。
窓際のいちばん後ろ。教室でいちばんいい席なのに、当の本人はぜんぜん学校に姿を現さない。
青衣くんはまるで幻のような人だと思う。いつかふっと消えてしまいそうで、そうなったとしても不思議に思えない人。
まだ彼のことをよく知らないのに、そんなことを考えている私はおかしいのだろうか。
「ほらー、予鈴鳴るぞ。席座れー」
間伸びした声が扉のほうから聞こえて来たと思えば、担任がもうホームルームを始めようとしていた。
時計を見ると、もう予鈴が鳴る1分前に迫っていた。どうやら、やはり今日は青衣くんは来ないらしい。
「あー今日も青衣来ないのかよ! 残念」
後ろの方で、手塚くんがそう叫んでいた。
私も同じ気持ちだから、首を縦に振りたくなる。
来るかもってちょっと期待したのにな……と残念に思いつつ、友人ふたりに手を振りながら窓際の空席を眺めた。



