「あーっもう卒業かあ……。早かったなあ、3年間」
 

 首元までボタンを締めたワイシャツ、いつもより気合を入れて巻いた髪、手に持った卒業証書。
 早くも2月最後の日になり、今日卒業式が開かれた。

 青衣くんが転校してしまい、両親と良好な関係になれた頃から、半年ほど経っている。あれからというもの、青衣くんとは相変わらず会えないままだったけれど、お母さんとお父さんとは何かにつけてよく話し合うようになった。

 大嫌いだった夜も、息苦しかった環境も、すべての過去を愛せるようになった気がする。何かを境に劇的に変わることなど難しいけれど、それでもゆっくりとわたしは前を向けているはずだ。

「りんりんはさ、春から大学生だよね? 確か将来の夢は編集者だったっけ?」
「うん。あんなにお母さんたちに反発したし喧嘩しちゃったんだけど、なんだかんだ受験はしようかなって思えたの。いまは、あの頃嫌々でも勉強して良かったと心から感じてるし」
「そっかあ……。家出事件、懐かしいね。あの夜3人でオールしたの、めっちゃ楽しかったけどなあ」

 あの日があったから、いま私は清々しい想いで卒業できているのだろうと実感する。ふたりが受け入れてくれたから、そばにいてくれたから、こうして将来の夢が見つかったのだ。

 私が編集者になりたいと思った理由は、小さい頃から小説や雑誌が大好きだからだ。読書はお母さんが唯一許してくれた娯楽であり、ときに辛いことがあっても、本の世界に浸れば少しの間忘れられることが多かった。

 母に『受験はしない』と啖呵を切ったけれど、よく考えた末に、今後も受験勉強に専念することにした。それは自分がやりたいことを形にしたくて頑張ったのだ。両親は何度も、無理しなくて良いと諭してくれたけれど、それでもわたしは勉強を続けた。

 そして無事に、目標にしていた大学に合格でき、私はこの春大学生になる。両親も自分のことのように喜んでくれて、頑張って良かったと思えたのだ。

 服飾の専門学校に進む莉奈と、地元の大学に進学する美蕾。3人バラバラの道になるわけだけれど、この絆は長く続くと信じている。

「まあ、さ。『やりなさい』って言われたら絶対やりたくなくなるじゃん? だから親にちゃんと意志を伝えてさ、花梨が自らやろうって思えたのなら、結果的に良かったよね」
「うんうん。受験期のりんりん、どこか楽しそうだったもん」
「ふふ。楽しくは……なかったけど、自分からやりたいと思って始めたことはいままでなかったから、新鮮だったのかも」

 そんなことを話しながら、ふたりと写真を撮った。広い中庭で、手塚くんの声が響いている。彼が楽しそうにじゃれている姿を見て、青衣くんがいないことを痛感してしまう。

 ……青衣くんと、卒業したかったな。

 担任の先生によると、彼は大阪にある通信の高校へ転校したらしい。事情はさすがに聞かなかったけれど、彼が大阪へ帰ったことには少なからず驚いた。

 転校後何ヶ月かすると、美蕾がSNSで青衣くんの情報をキャッチしてきた。どうやらここに来る前にやっていたように、大阪の路上で弾き語りを再開したらしい。私も気になって検索すれば、すぐにヒットした。その土地でも、青衣くんが戻ってきたことはかなり話題になっていたのだ。
 そのとき画面に映る彼が少し痩せたように思えて、今すぐにでも会いたくなった。だけれど、いまは受験に集中することが最善だと考えて諦めたのだ。

 青衣くんにもらったピックがないと、とても不安だ。彼がそばにいると思えなくて辛い。だけど画面上の彼が歌う声を聴けば、それだけで生きていける気がするのだから不思議だ。

「あっ、りんりんいま青衣くんのこと考えてるでしょ〜!」
「ね? 私たちはお見通しだよ」
「……うっ、図星、です」
「「やっぱり!」」

 さすがは親友たち。私の考えていることなど、当たり前のようにわかってくれる。

「今日、いまから彼に会いに行くんでしょ?」

 美蕾の言葉に、こくりとうなずく。以前までは恋のライバルだった彼女はいま、全力で私の恋を応援してくれている。

『やっぱり私はさ、青衣くんを遠くで見ているだけで充分で、彼の歌を聴けたらそれでいいって考えで腑に落ちたんだ。だけど、花梨は違うでしょ? 今すぐにでも会いに行きたいんだよね』

 1ヶ月ほど前にそう言ってくれた美蕾は、清々しい表情をしていた。最初は私に気を遣っているのかと不安だったけれど、『これが私の本音』と自信満々に言われてしまえば何も返せなかった。

「……うん。青衣くんに、会いに行くよ。いまから電車乗り継いで、大阪まで」
「会えなかったらどうするの……って、聞くのも野暮かあ」
「うー……ん。不思議と会える気がするんだけど、会えなかったときはそのときかな」

 会いに行く、と言っても、連絡を取って待ち合わせているわけではない。連絡先は知らないから、美蕾が教えてくれたSNSの情報を頼りに探しに行くのだ。見知らぬ土地で彷徨うのは怖いけれど、なんとかなるとポジティブ思考で今日まで乗り切った。

 彼はいつも同じ場所、同じ時間に路上でギターを弾いているらしい。周りには大勢の人がいて、近付くのも難しいのだと何かのコメントで読んだ。
 行き当たりばったりの計画だけれど、ふたりは応援してくれて、本当にどうにかなる気がしている。美蕾はわたしの様子を見て、ふっと目を細めた。

「なんか、花梨変わったね。かっこよくなった気がする」
「そうかな……」
「そうだよ。花梨ならきっと青衣くんに会えるね」
「……うん。……会いたいな」

 1日たりとも彼のことを忘れた日はなかった。彼がくれたピックはなくても、脳内ではずっと、彼特有の柔らかい声が再生されていたから。

「がんばれ、りんりん!」
「応援してる。また後日、話聞かせてね?」

 学校から駅まで送ってくれたふたりは、バイバイと手を振ってくれた。莉奈と美蕾に励まされながら、長い旅に出る。

 電車に揺られている間、絶えず【am】の曲を聴いていた。イヤホン越しに伝わる彼の優しい声に、また恋に落ちた。

 私が目の前に現れたとき、彼は何を言うだろう。きっと驚くだろうけれど、『しつこいなあ』なんて笑うかもしれない。でも彼が元気でいてくれたら、それ以上の幸せはない。

「……どうか、会えますように」

 ローカル線から新幹線へ乗り継ぎ、小さな声で願っていると、わたしの隣に誰かが座った。視線を寄越すと、スーツを着た20代くらいの女性が私が持つスマホを、じっと見つめていた。

 ……ど、どうしたのだろう?

 まごついていると、隣の席の女性は私のそんな様子を気にせず、長い黒髪をかきあげて嬉しそうに目を見開いて話しかけてきた。

「あなた、【am】好きなの……?!」
「……えっ、大好き、です」

 どうしてわかったのだろう。イヤホンを両耳とも取り、しどろもどろになりながら答えると、彼女の表情は、ぱあっと華が咲いたように明るくなった。

「私も私も! 座るときたまたま【am】のプレイリストが目に飛び込んできて、あなたのスマホの画面じろじろ見ちゃった。つい嬉しくて……! ごめんなさいね」

「あっ……そうだったんですね。私、【am】の『日常シンドローム』という曲がいちばん好きでなんです」
「あ〜わかる〜っ! 私もその曲が最高に好きだなあ。毎朝【am】の曲聴きながら、仕事に行くの。今日も頑張ろうって気持ちになれるからね」

「私もです……! 何か嫌なことがあっても、すぐに忘れられるというか」
「そうそう! まさか新幹線の隣の席の人と、こんなふうに【am】のお話ができるなんて思ってもみなかった。今日が一気に、良い日になったわ」

 嬉しそうに微笑んでくれる女性に、じんわりと胸が熱くなる。歳の差なんて感じられないほど気さくに話してくれる彼女は、きっととても優しい人だ。

「そういえば今着てるのって、制服よね? もしかして、今日卒業式だったの?」
「はい、卒業……しちゃいました」

 まだあまり、実感がないけれど。青衣くんは、もう卒業したのだろうか。

「ふふ、そっかあ。じゃあ、いまからその足で誰かに会いに行くの? 言いたくなかったら全然良いんだけど……もしかして、遠距離中の彼氏とか?」
「あっ、彼氏とかじゃないんですけど……ずっと、会いたかった人がいて、……その人を探しに行く、みたいな感じなんです」
「う〜ん、なるほどねえ。かなり青春の匂いがするなあ」

 その相手が【am】の正体である青衣くんだなんて、思ってもみないだろうなあ……。

 隣の女性は腕を組みながらうなずいている。少し気になって、反対に彼女は何しに行くのか尋ねてみた。

「私はね、いまから出張。結構重大なプレゼンがあってさ、お偉いさんたちの前で失敗したらどうしようって、実はさっきまでガチガチに緊張してたの」
「そうだったんですね……」

「だけど、隣の席があなたで良かった。緊張がほぐれたから、プレゼンもうまく出来そう」
「私も、会いたかった人に会える気がしてます」
「ふふ。一期一会って、良いものね」

 青衣くんが、【am】が繋げてくれた人。もう会うことがないからこそ、一度きりの出会いを大切にしたい。
 笑顔が素敵な大人の女性。私も数年後には、こんなふうに憧れられるような人になりたいと思った。

 彼女と話していると、あっという間に大阪に着いてしまった。同じ駅で一緒に降りながら、大事なお仕事がうまく行くようにと最後に声をかけると、ニコッと微笑んでくれた。

 そのまま人の波に流されないように気を付けながら、さらに電車を乗り継ぐ。やっと青衣くんがいるらしい駅に着き、足早に目的地へ向かった。

 美蕾に調べてもらった【am】が現れる歩道橋の下を、マップアプリで調べる。もう既にあたりは暗く、人工的な明かりに街が照らされていて、慣れずに戸惑った。

 人が多く、何度もぶつかってしまい、申し訳なさとともに帰りたくなる。だけどここまで来て、青衣くんがいる街へ来て、会わずに帰るのは悔しい。
 たくさんの人に潰されながら駅を出た。

 その瞬間、ギターの柔らかな音が耳に届く。

「……青衣、くんだ」

 すぐに、青衣くんがいるとわかった。直感だけれど、間違えるわけがない。音が纏っている雰囲気だけでも、確信できる。

 そうこうしているうちに、彼の歌声が遠くから聴こえてきた。久しぶりに彼を近くに感じて、ぶわっと涙が溢れてしまう。

 急いで人の間を縫って彼を探す。あたりを見渡すと、車が通る音が下から聞こえた。どうやらいま立っているのが歩道橋のようだった。駅から出るときに階段を上ってしまったからだと気付く。

 歩道橋から下を見下ろした。すると、涙で滲んだ視界でもわかるほど、明らかな人だかりが出来ている場所があった。その中心に色素の薄い髪が垣間見えた瞬間、ドクッと心臓が飛び出そうになる。

 ……青衣くんが、いる。

 彼のいるところへ向かうために歩道橋の階段を駆け降りる。……本当に会えた、どうしよう、緊張する、……何を言えばいい? 私、どんなふうに話してたっけ?

 全く考えがまとまらないまま、なんとか人だかりの外に立った。

 サラリーマンや学生、日々に忙殺されながら雑踏を歩く人々が、青衣くんの歌声を聴くためだけに足を止める。ただ救われたくて、寄り添ってほしくて、彼の前にはまた大きな人だかりができていく。

「【am】おるやん。大阪戻ってきたって、マジやったんや」

 そう呟く声が聞こえた。私の横に立った大学生くらいの男女ふたりが話している。

「【am】さ、ここおらんかった間、なんかあったんかな。陳腐な言い方かもしらんけど、前より儚くなった気がする」
「あーわかるわそれ。【am】ってすげえ謎なんよな。あんなにイケメンやし歌もうまいのに、どこか生きづらそうでさ。俺らとなんも変わらん人間なんやって、いつも聴きにくるたび思う」
「そうよな。私も何回も救われてる。戻ってきてくれてほんまに嬉しいし」

 青衣くんは、こんなにも多くの人に必要とされている。彼の歌声が聴きたくて、足を止める人がたくさんいる。

 それを実感して、また涙が出てきてしまう。だけど周りには彼の声を熱中して聴いている人たちばかりで、わたしが注目を浴びることはなかった。

 ついにラストの曲が終わった。大勢の人に拍手を受けていて、私も負けじと手を叩いた。

 ぱらぱらと人が散っていく。中には【am】に声を掛けている人もいて、自分のことのように胸が満たされる。

 涙がぽろぽろと落ちるのを気にせずに、ただ人が去って行くのを待った。ひとり、またひとりと雑踏に溶け込んでいって、ついに私が最後に残る。

 いつまでも帰らない客がいて不思議に思ったのか、ギターをケースに直している青衣くんがチラッとこちらを見た。途端に、目が大きく見開かれる。小さく口を開けて、驚いている。

 久しぶりに、目が合った。やっと、手の届く距離に近付けた。ゆっくりと青衣くんのもとへ歩けば、やっぱり少し痩せた彼がそこにいた。

「……花梨」

 聞き流してしまいそうなほど、小さく放たれた彼の声。掠れていて、それでいて大好きな声。

「……なんで、おるんや」

 私たちの周りにはたくさんの人が行き交っているはずなのに、ふたりだけの世界に放り込まれたように静かに思えた。

「会いに、来ちゃった」

 少しでも可愛い姿で会いたくて莉奈にメイクしてもらったのに、台無しなほど泣いてしまっている。だけど、揺れる瞳で私を見つめる彼を目にしたら、そんなことどうでもいい気がした。

「青衣くんが……いなくなって、寂しくて、でもこの世界のどこかに青衣くんがいるって思ったら、頑張れたの。だけど、もう限界になって、……ここまで来ちゃったよ」

 青衣くんがいなくても、大丈夫なわけがない。卒業式のあと、すぐに駆け付けてきてしまうほど会いたかったのだから。

「今日、……卒業式じゃないんか」
「そうだったよ。だから終わってすぐ、電車に飛び乗ったの」

「……何してんの。ほんっま……あほやなあ、花梨」

 そんなことを言いながら、青衣くんは顔を歪めて泣いた。私は知ってる、これが彼の照れ隠しなのだと。涙を落としながら、強引に滴を拭う仕草が懐かしい。

「なんも言わんでいなくなったのに、なんで花梨は、会いに来てくれるんや。……こんな臆病な俺やのに、なんで」
「青衣くんのことだから、事情があって転校したのはわかってるもん。それに、いつか絶対に会えると思ってたから」

「……そんな優しいこと言うなや。さっき目合った瞬間、『突然いなくなって青衣くんのバカやろう!』くらい言われる覚悟できてたのに」
「ふふ、転校しちゃったときはそう思ったけどね」
「思ったんかい」

 いつもの調子が出てきてふたりで笑い合えば、夜の浜辺を思い出す。海の音と、彼の声。環境は違えど、大切だった時間がまた戻ってくる。

「ちょっとこっち来て。大通りから死角やから、あんま見られんで話せる」

 青衣くんに連れられ、少し窪んだスペースに座る。路上だったから、青衣くんは自分が着ていた上着を私の下に敷いてくれた。いいよ、と断っても、いいから、と諭され、ありがたくその上に座った。

 隣を見ると、そこには青衣くんがいる。色素の薄い髪は半年前より伸びていて、襟足が立っていた。少しの変化でも気付けてしまうのは、暗い夜の中でも、彼のことをよく見ていたからだ。


「……花梨は、薄々察してるかもやけど」

 彼は静かに、白い息を吐いた。彼が転校してしまったときは暑かったはずなのに、時が過ぎてとても寒い季節になっている。

 何かを話し出そうとしてくれている彼に、こくりと首を縦に振った。そんなわたしの様子を見て、彼はふっと表情を和らげたあと、ひとりごとのように小さく言った。

「俺が転校した理由は、母親が亡くなったからやった」

 青衣くんは遠くを見つめるように話し出す。その横顔は思わず触れたくなるほど綺麗だ。覚悟していた内容だったけれど、胸が痛くて苦しい。

 青衣くんは悲しみから抜け出せないまま、きっといま話してくれている。

「いつかこうなるってわかってたはずやのに……マジでひとりになった実感が湧いたとき、なんかすげえ恐ろしくてさ。あーもう俺無理や、生きてかれへんって、母親がおらんくなって本気で思った。
やけど、知らんうちに母親が大阪におる友達に俺の世話頼んでたらしくて、その人頼りにこっちに戻ってきた。さすがに学校通うメンタルになれんくて、いまは通信行ってる。そんでいま助けてくれてるその人に恩返しするために、なんとか生きてる」
「うん……」

「俺、生きてる資格なんかないねん。それやのに、ふとしたときに花梨に会いたくなってた。花梨がおったらこんな寂しくないのにって、半年間ずっと考えてた」
「そんなの……私もだよ。ずっと青衣くんの声が聴きたかった。それに、青衣くんが生きる資格ないだなんて、そんなことあるはずないよ……?」

「……違うんや。花梨に言えんかったけど、俺はマジで駄目な奴やねん」
「どうして、」

「────母親を死なせたのは、俺や」

 青衣くんの衝撃的な言葉に、息を呑んだ。隣を見れば、彼は無表情で右手を見つめていた。

 いつも海に向かって右手を翳していた青衣くん。その仕草にどんな意味があるのだろうと不思議だった。今の言葉で、きっと良くない意味が含まれているのだと察してしまう。

「ここからの話は、聞きたくなかったら聞かんほうがいい。花梨はもしかしたら、俺のこと嫌いになるかもやで」
「なるわけないよ。どんな青衣くんでも、絶対受け止める」
「……あーやっぱ、花梨ってええなあ」

 そんなふうに眉を下げて微笑む青衣くんのことを嫌いになるはずない。私の想いを彼は、ずっとずっとわかっていない。

「俺は、……父親をこの手で殴ったことあるんや」

 青衣くんは右手を開いて、夜空に向かって伸ばした。

「あのときの感覚が蘇ると、怖くて仕方なくなる。あんなクソみたいな父親を殴った俺なんか、生きる価値ない」

 違うよ、そんなことないよ、と言いたい。だけど言えなかった。青衣くんの横顔が辛そうに歪んでいたから。

「俺の親父は、そこそこ有名な作曲家兼アイドルのプロデューサーとかやっててさ、俺が小さいときから浮気ばっかしてた。あんな親父を間近で見てたから、恋愛なんてするもんじゃないと物心ついた頃から呆れてた。家族との時間なんか一切なかったけど、親父の才能に惚れた母親はそれを咎められへんかったらしい。でもさすがにキツくなって離婚しようと思ったみたいで、俺をひとりで養えるように仕事するようになった。やけど慣れへんことしたから、母親は過労で倒れたんや。
母親が入院したとき、クソ親父は病院で俺にこう言った。『お前さえおらんかったら、瑞季さえおらんかったら、さっさと離婚して柚季(ゆずき)との関係全て白紙にできたのにな』って。
あいつは、自分の人生において得か損かでしか動いてない。妻が倒れたことで、浮気やら何やらが世に出て、自分の名が汚れるのを恐れてた。それでいて、俺という子どもがおるせいで面倒な妻と離れられへんわとか思ってる奴やった」

「……そんな、」
「なんで、大人ってああなるんやろな。名誉よりも、大事なものあるやろ。母親があんなに一生懸命働いてくれたのに……マジでふざけんなやって思った瞬間、殴ってた。親父の頬を、思いっきり。曲がりなりにも血の繋がった親に手ぇ出してしまったあの感覚は……夢にも出てくるくらい恐ろしかった」

 当時のことを思い出したのか、青衣くんの右手は震えていた。怖くて怖くて仕方がないというふうに、彼の瞳は揺れていた。

 無言で青衣くんの右手をギュッと両手で包み込めば、戸惑いながらも、彼は一筋の涙を流した。

「でも……それが失敗やった。俺はあのとき、どれだけムカついても、我慢しなあかんかってん。俺があいつを殴ったせいで、あいつの方が有利な立場になって、いざ離婚ってときに金ぶん取ってやれんかった。母親を救いたかったのに、反対に母親を苦しめてしまった。俺に不自由させへんようにって働き詰めになって……それで、癌が見つかったんや。こんなんぜんぶ、俺のせいでしかない」
「青衣くん……」
「母親は俺を一切責めんかったから、余計辛かったな。その優しさが、苦しかった。最後の方はずっと『ひとりにしてごめんね』ばっかり言ってたわ。
ぜんぶ俺のせいやけど、わかってるけど。……ほんまに、なんで、俺はひとりなんや」

 気丈に振る舞っている青衣くんはここにはいなかった。誰も見ていない路地裏で、彼を抱きしめる。彼の孤独が少しでも薄れるように。

「なあ、花梨」
「どうしたの、青衣くん」

「なんか、前より頼もしくなったなあ。俺がおらん間、何があったん」
「いろいろあったよ。本当に青衣くんのおかげで、自分のやりたいことを見つけられた」

 1年前の私とは比べものにならないくらい、成長したんだよ。

「そうか……。それなら俺の生きてる意味、あったかもしらんな」
「あるよ、すごくある。青衣くんがいないと、私が困るよ」
「……うん」

 青衣くんは私を抱きしめ返してくれる。弱い力だったけれど、私はその分、また力強くギュッと抱きしめる。

 鼻をずずっと啜る彼は、少しだけ幼く思えた。

「……お願い、花梨。花梨はどこにも行かんで。そばにおって」

 それはずっと、青衣くんが言いたかったことなのかもしれない。誰かが離れていくことやそれを引き止めることはすごく怖いことで、ひとりになってしまってから、孤独に耐え続けていたに違いなかった。

「いるよ、隣に。私にも……青衣くんが必要だから」

 青衣くんが辛いとき、いちばんに頼ってほしい。私を暗闇の中から手を差し伸べてくれたのは青衣くんだったから。

 私も、隠していたことを伝えることにする。伝えたことで、青衣くんが嬉しくなれば良いな。

「ねえ、青衣くん。私、大阪にある大学受けたよ」
「……、え」

 戸惑ったように、彼が小さく声を漏らした。驚くだろうと思っていたけど、やっぱりその通りだ。

「結局ね、受験したんだ。無理やりじゃなく、自分の意思で。お母さんのレールじゃなくて、自分で選んだんだ。どうせなら独り立ちできるために遠くの大学受けようって決めて、ぱっと思いついた場所が大阪だったの。青衣くんが生まれ育った場所なら、何か辛いことがこの先あっても頑張れる気がしたから」

 私から身体を離して、彼は困惑したように見つめてくる。彼の指が私の頬を撫でて、涙を拭き取ってくれるその優しさが本当に大好きだ。

「……いいんか、それで。俺また怖くなって、花梨のそばから消えてしまうかもやのに」
「そのときは、私、全力で探すよ。何度でも、青衣くんが『もう逃げんの疲れたわ』って言うまで、追いかけ続けるから」

「……なんなん、大阪弁、うまいやん」
「ふふ。だって青衣くんのイントネーション、耳から離れないんだもん」

 イントネーションだけじゃない。
 きみの声も仕草も優しさも笑い方も。ぜんぶぜんぶ、私の心から離れてくれなくて困ってる。

 青衣くんの右手を、もう一度両手で包み込んだ。彼がこの手を嫌いでも、私は愛したい。

「大丈夫だよ、私が見つける。青衣くんがどこに行っても、今日みたいに私が見つけに行く。青衣くんがもう無理だって思っても、私が隣にいるから」

 だから、手が届かないほど遠くに行かないでほしい。

「ひとりじゃ耐えきれないことを、誰かに話したいときあるよね。私は青衣くんの“誰か”になりたい。あわよくば、青衣くんに私の“誰か”になってほしいな」

 青衣くんの瞳が揺れた。彼の瞳にはいつも、深海のような底のない暗闇が隠れている。だけど今、少し潤んだそれは、浅瀬のように透き通った光が映っていた。

「俺はたぶん……花梨に出会えたのが、人生最大の転機や」

 こくりとうなずけば、彼はふっと微笑んだ。

「母親はさ、音楽の道を進む俺を見るたびに親父のこと思い出してたと思う。申し訳なかったけど、どうしても好きなことはやめられんかった」

「うん……」
「でも、さ。母親は病院で俺の曲を聴いてた。『瑞季の曲は、いちばんの薬になるよ』とか言ってて……あのときはそんなことないやろって突っぱねてしまったけど、ほんまはすごい嬉しかった」

「私にとっても、いや……青衣くんの曲が好きな人たち皆んなにとってもそうなんだよ」
「……そうか。……うん、そっか」

 青衣くんは膝を折って、顔を伏せた。お母さんのことを思い出しているのかもしれない。孤独を耐えている彼の背中に、ためらいながらもそっと触れた。

 すると、ゆっくりと彼が顔を上げた。先ほどよりも凛々しく、頼もしい表情で。

「決めた。俺さ、この道で頑張ってみる。母親がどこかで俺の曲を聴いて、笑顔になってくれたらいい。それで、父親を追い越すくらい成功してやるんや」
「すごい。……かっこいいよ、青衣くん。」
「そうやって手放しで褒めてくれる花梨にも逃げられんように頑張るから、やから……そばにいてくれん?」

 そんなの、当たり前だ。断る選択肢なんてあるわけない。不安そうな表情を早く覆したくて、大きくうなずいた。

「好きや、花梨」

 透き通るような綺麗な声で、甘く囁かないでほしい。私は彼に何度恋に落ちれば気が済むのだろう。

「私も、青衣くんが大好き」

 いつからか、自信を持って気持ちを伝えることができるようになった。それは隣の彼のおかげだ。

 青衣くんは私にとって、特別な人。

 青衣くんにグイッと腕を引かれて、そのまま抱きしめられた。包み込むように、優しくギュッとしてくれる。

「ありがとう」

 彼は、何をかは言わなかった。それでも充分に伝わるからうなずくだけにした。

「……本当はずっと、言いたかった。誰かに“寂しい”“助けて”って言いたかった」

 青衣くんは右手を、私の頭にそっと乗せた。

「その誰かになってくれて、ありがとう」

 彼の言葉は、私の胸を打つ。そんなもったいない言葉を私がもらってもいいのだろうか。
 青衣くんには、弱くても上手く生きられなくても良いと知ってほしい。私が隣にいるから、と。私が弱ったときは、青衣くんが隣にいてほしいと。

「私も青衣くんに、すごくすごく助けられたよ。友だちにも家族にも本音をぶつけられたし、自分の意思で決めることができるようになったの。青衣くんが突然いなくなっても、こうやって会いに来てしまう行動力まで持っちゃったよ。青衣くんは、わたしの自分が好きな自分になれる手助けをしてくれた」
「そんな大それた話ちゃうけどなあ」
「ううん、とっても大きなことだよ」

 食い気味に言えば、青衣くんは私を至近距離で見つめたあと吹き出した。

「つまりそれは、花梨にも俺がおらんとあかんってことやな」
「そう、……なります」
「あ、また敬語出た。照れてるやん」

 楽しそうに笑う青衣くんの横顔が眩しい。好きだという言葉じゃ足りないほど、大切で仕方ない。

 身体を離すと、彼が私に右手を差し出してくれた。その手を取って、立ち上がる。
 離れている間に少し背が伸びたのか、彼と身長差が開いているように思えてドキッとしてしまう。

「そういえばさ、大阪帰ってきてからまたあんま眠れんくなった。ぜったい花梨が近くにおらんかったからや」

 拗ねたように呟く彼は少し幼く見えて可愛い。本人にそう伝えたらさらに拗ねそうなので、そっと胸の奥にしまいこんだ。

「じゃあ、これからはよく眠れるね」

 だって、青衣くんのそばにいるから。

「……おう。なんか花梨ってさ、たまに不意打ちでドカーンって、でけえ爆弾発言落としてくよな」
「えっ、爆弾?」
「急にドキッとすること言うてくるなーって話」
「……、ばか」

 照れ隠しに、弱い力で背中を小突いた。だけどその手を取られ、彼は自分の手と合わせる。
 手を繋ぐだけで、心臓がうるさい。青衣くんの顔が見れないでいると、彼はそっと夜空を見上げた気配がした。

「花梨さ、いつ帰るん? ここ来たこと、親には言ってるんか」
「……実は、莉奈と美蕾にアリバイ工作してもらって、今日は帰らない予定、です」
「おー……?」

 変な声を漏らした青衣くんは、少し考えた末に、可笑しくなったのかふっと頬を緩めた。

「親に反抗する花梨、なんか新鮮やわ」
「……うっ、おかげさまで」
「じゃあうち来て、良かったら母親に手合わせたって。あの捻くれ息子が可愛い彼女できたーってぜったい喜ぶから」
「……え、いま可愛いって、」

 しかも、……彼女って。
 みるみるうちに顔が熱くなる私に負けないくらい赤くなってる青衣くんが、照れくさそうにそっぽを向いた。

「ずーっと思ってましたけど? なんや、文句ある?」
「あ、ありま、せん……」
「そーかそーか」

 お互い動揺しているのが丸わかりで、ふたりで目を見合わせた。数秒沈黙してから、どちらからともなく、ぷっと吹き出した。
 そのまましきりに笑い合ったあと、青衣くんは冗談めかしたように言う。

「夜な夜なギター弾くから、花梨聴いてくれる?」
「もちろんだよ。そんな幸せな時間ないもん」
「いい彼女や」
「青衣くんも、いい彼氏だよ」
「……バカップルやん」

 ふたりで手を繋いで見上げた夜空は、浜辺でいつも見ていた海よりも綺麗だった。

 周りに何もなくても、彼が隣にいてくれたらそれだけで幸せだ。彼にとって私がそんな存在であれば、もっと嬉しい。

 青衣くんに出会えてよかったと心から実感する。そうして、繋いだ手を離さないようにギュッと握りしめた。




 Fin.