どれだけ怒鳴られても、逃げないと決めた。両親と向き合うのは怖いけれど、絶対に途中で怖気づかないと、ふたりと約束した。
────ガチャ、とドアを開ける。
すると、昨日のデジャヴのように、お母さんが飛び出してきた。その目は真っ赤で、泣き腫らしたように目尻に滲む涙が光っている。幾分か老けたように思える母の姿を見て、ギュッと胸が苦しくなった。
……お母さん、きっと寝ないでわたしのこと待ってたんだ。
そう確信したら、何も言えなくなってしまう。お母さんにはわたしに対する愛が全くないとは思っていないからこそ、とても辛かった。
母は何かを言おうとして、口を開く。『どこに行ってたの?!』『どうして返信しないの?!』と怒られることを予測して、ギュッと目をつぶった……けれど。
「…………、おかえり」
「っ、え」
まったく予想だにしていなかった言葉が耳に入ってきて、呆けた声が出てしまう。聞き間違いに違いない、だってお母さんがそんなことを言うはずがないのに。
それなのに。
「おかえりなさい。……花梨」
「……っ、」
「ごめんね、ごめんね花梨。無事に帰ってきてくれて、本当に良かった……」
安堵したように涙を流す母を見たら、わたしの涙腺も決壊してしまう。
お母さんはちゃんと、わたしのことを見てくれている。頭ごなしに怒らず、朝に帰れば心配して泣いてくれる。それがわかっただけで、充分だった。
良かった良かったと、泣きながら繰り返すお母さん。わたしが昨日放った言葉で、傷付いたかもしれない。だけど反対に、わたしも母の言動に傷付いた。ずっとずっと苦しくて、耐えてきた期間があったから、こうやっていま向き合えている。
「……お母さん。わたしも、勝手に出て行って、ごめんなさい」
本心だった。ふるふると首を横に振る母は、いつもより小さく見えた。
ふたりで泣き崩れていると、奥から静かにお父さんが現れた。いまの時間、いつもなら仕事に行っている時間のはずなのに。もしかしたら、わたしが帰って来ないから待っていたのかもしれない。
ゆっくりと顔を上げると、父は目の前にしゃがんで、困ったように眉を下げた。
「……花梨、帰ってきてくれてありがとう」
久しぶりに、父と目が合った。最後にこうやって真正面から話したのは、いつだっただろうか。いつから父はこんなに、疲れた顔をしていたのだろう。
本当は、帰りたくなんかなかった。誰も理解してくれないこの家になんか、帰りたくもなかった。だけどいま初めて、帰ってきて良かったと、心から思えた。
「……昨日、花梨が出て行ってから、母さんとふたりで話し合ったよ。勝手に大人の、親の理想を押し付けて、すまなかった」
お父さんはわたしに向かって頭を下げた。昨夜、暗い家で話し合っている両親の姿を想像するだけで胸が痛くなる。
どうせ何を言っても、親はわかってくれない生き物だと決めつけていた。大人は身勝手で、子どもを正規のレールに敷きたがるものだと思っていた。両親がこんなふうに、わたしと向き合ってくれるだなんて考えてもみなかった。
……ねえ、青衣くん。案外、ぶつかってみるのも悪くないね。
「……花梨は反抗期がなかったし、小さい頃から本音をずっと聞いてなかったなって、昨日お父さんと話していて気付いたの。でもきっと、お母さんがこんなだから、……花梨は、良い子でいなきゃって言いたいことも言えなかったのよね。親失格だわ……本当にごめんね」
「……お母さん、」
「これからは聞かせて。花梨が言いたかったこと、……ぜんぶ教えてね。口喧嘩になっても、折れずにたくさん話してほしい」
「……っ、うん」
「良い子じゃなくていいから。無理して勉強しなくてもいいから。だから……っ、もう、家出なんてしないで」
お母さんはぐしゃぐしゃに泣いていて、どれほど心配かけたのか痛感する。
わたしも負けないくらい涙が溢れてきているけれど、これは悲しい涙じゃない。
「……言っても、いい、? わたしの本音」
お母さんもお父さんも、こくりとうなずいてくれた。
……ずっとずっと、心の中に隠していたことがたくさんある。言いたくても言えなくて、何度も喉元でつっかえた言葉がある。
衝動的じゃなくて、落ち着いてきちんと話す。ちゃんと会話をする。両親がうなずいてくれるから、安心して言葉にすることができた。
塾をサボってしまったことや、昨日ふたりに大嫌いだと言ってしまったことは、きちんと謝った。塾に関してはお金をかけてもらっているぶん、それを無駄にしてしまったのは事実だから。
「……たくさん我慢させちゃって、ごめんね」
「……もう謝らなくていいよ、お母さん」
「ダメよ。子どもに限界まで無理させたんだもの……何回でも謝るわよ」
“ごめんなさいよりも、ありがとうが聞きたい”。どこかで目にした文字列だったけれど、いまはすごく共感できた。
「これから、たくさん聞いてほしいな……。学校のこととか、友だちのこととか」
「……そうね。3人でご飯食べながら話せたら良いね」
「そうだな。父さんも、なるべく早く帰ってくるようにするよ」
その日の夜は、3人で食卓を囲んだ。莉奈や美蕾との楽しい日々や、わたしが変わるきっかけをくれた青衣くんに出会ったことを両親に話した。ぎこちないわたしの喋りだったけれど、ふたりは嬉しそうに聞いてくれたし、『青衣くんって子に感謝しなきゃね』と笑っていた。
……ねえ、青衣くん。わたし、頑張ったよ。変われたよ。
『えらいなあ、花梨』って、また出会えたら、そう言ってほしいな。



