その日の夜。
 いつも塾が終わって帰る時間帯になり、遊び疲れたわたしたちは各々の帰宅路へ向かった。莉奈と美蕾とは帰る方向が違うため、ひとりで夜道を歩く。

 その道中にいつもの浜辺があり、その明かりの下に色素の薄い髪が光っていないか眺めるのが癖になっていた。もちろん青衣くんの姿は見つけられず、肩を落としながら家へと歩いた。

 ……ああ、足が重い。

 両親に後ろめたいことをすると、家に帰るのがすごく怖くなる。鍵を開けるとき、玄関のドアを開くとき、バクバクと心臓が鳴って足がすくむ。

 いまの現状がずっと続くわけがない。いつか両親と向き合わなければならない日が来るとわかっているけれど、怖くて知らないふりを続けている。

 ドアの鍵穴に鍵をさす。ドクドクとうるさい鼓動を落ち着かせながら、そっとドアを開けた。

 その途端、血の気が引く。
 ドアが開いた瞬間に、お母さんが険しい顔でリビングから飛び出して来たからだ。

「花梨。あなた……いまから何を言われるか、わかってるわよね?」

 淡々と尋ねてくる声音は低い。塾に行かずに遊んでいたことなど、きっとバレているとわかった。

「今日塾から電話が来たわ。花梨が5日前から無断で欠席してるって。それは本当なのよね?」
「……はい」

 沸々と母の怒りが蓄積されているのが伝わる。そしてそのマグマ溜まりが爆発する寸前であることも。

 部屋の奥から、父親が静かに新聞をめくる音がした。仲裁にも入らず、他人事のようにただ時が過ぎるのを待つその様子に、もはや呆れが勝っていた。

「あなた、受験生の自覚はあるの?! 最近帰りが遅かったのも気にかかっていたけれど、挙げ句の果てには無断欠席なんて! 花梨らしくないじゃない!」
「……っ」

 らしくない、かもしれない。だけれど、そんなこと言われても、わたしはわたしなのだ。塾をサボったのは、他でもないわたしの意思だ。

 お母さんのなかでのわたしの像は、虚像だと早くわかってほしい。お母さんが信じているほど良い子じゃないし、早く親のしがらみから解放されたいと願っている子どもだ。

「花梨をそんなふうに育てた覚えはないわよ……。どうせ友達かなにかの影響でしょう? 悪いことを教えてくる友人なんて縁を切りなさいよ」
「……っちがう、友達は関係ない」
「そんなわけないでしょ。花梨が反抗的になったのは最近じゃない。クラス替えしてからよね」
「だから……っ、違うって!」

 思わず、大きな声が出た。いままで家でこんなふうに感情を露わにしたことがなく、自分でも驚いてしまった。母も信じられないというふうに、目を見開いている。

 なにより、わたしの言葉など一切聞かずに決めつけて話を進める母親に耐えきれなくなった。それに、莉奈や美蕾、さらに青衣くんが間接的に悪く言われるのはとても嫌だったのだ。

「どうして……お母さんは、いつもわたしの話を……聞いてくれないの?」

 震える声で、なんとか言葉を紡いだ。どうにかわかってほしいという思いで。少しでもわたしの話を聞いてほしいという気持ちを込めて。

「聞いてるじゃない。だけど花梨が言うことを聞かずに勉強してくれないから、仕方なく、あなたを思って叱ってるのよ」
「わたしを、思って……?」

「ええ。勉強しなかったら良い大学に行けないし、良い仕事にも就けない。これは大人になってからしかわからないのよ。いまは子どもだから不満に思うかもしれないけど、あなたにとって最善のことを教えているだけ」

「……わたしはっ、そんなの……望んでないよ」
「何言ってるの? 大人になって困るのはあなたなのよ? わかってる?」

 機械のように淡々とした言葉を使う母に辟易する。
 何を話しても無駄だ。
 きっと母はわかってくれない。だからわたしが諦めて従順に戻れば、変わらない日常が戻ってくる。

 そう思うのに、青衣くんの姿がまぶたの裏に浮かぶ。諦めるべきじゃないと、彼が背中を押してくれている。

「っもう、……お母さんの顔色なんて、知らない」

 小さな声だったけれど、母には届いているはずだ。その証拠に、母の眉間のシワが寄った。ここでひるんだら負けだ。大丈夫、わたしはひとりじゃない。

「……お母さんがわたしの話を聞いてくれるまで、いっさい喋らない。塾にも行かない。もう……嫌だよ」
「花梨? 何言ってるの……?」

 青ざめていくお母さんを見て、部屋の奥にいるお父さんにも聞こえるように声を振り絞って言った。

「……わたし、受験しないからっ!」

 そう叫んですぐ、引き止められないように、硬直しているお母さんの横をすり抜けて階段を駆け上がった。「花梨! 待ちなさい!」と怒鳴られても、無視して部屋の中に飛び込む。
 そのままバクバクと飛び出そうなほど暴れる鼓動を聞きながら、床に座り込んだ。

 ……言ってしまった。もう、後には戻れない。お母さんと関係を修復するのも、無理かもしれない。良い子であることを、やめてしまったから。

 そう思うけれど、不思議と後悔はなく、すっきりしていた。初めて親に反抗し、アドレナリンが出ているから、突発的にそう感じているだけかもしれない。

 部屋までは追いかけてこないことに安堵しつつ、なんとか立ち上がった。

 ……そうだ。青衣くんにもらった、ギターのピック。大切に机の上に飾っているそれを思い出す。
 ひとりじゃないと実感するために、握りしめたくなった。青衣くんが近くにいると思えるピックは、わたしの精神安定剤だ。

 そう思ってふと机の上を眺める。だけど、肝心のピックが見つからない。落としてしまったのかと不思議に思って床を探すも、どこにもない。

 机の上だけでなく、周辺も整頓されているように思えた。そこで、ハッとあることに気付く。お母さんが、今日この部屋を掃除したのだということを。

 それが何を意味しているのかなんてわかっていた。必死に部屋の中のありとあらゆるものをひっくり返して探しても、ピックは案の定どこにもない。

 ……お母さんが、どこかにやったんだ。

 そう結論付けた瞬間、黒々とした怒りが胸の奥に湧き出てくるのがわかった。本当の意味で、もうお母さんの言いなりは無理だと実感する。

 許せなくて悔しくて、涙がぶわっと溢れ出てくる。それに構わず、音を立てて階段を駆け降りた。

 すごい形相で泣いているわたしを見て、先ほどまで階下で呆然としていた母がぎょっとする。わたしにとってあのピックがどれほど大切なのかわかっていないその様子に、またもや怒りが噴出した。

「……っお母さん、ピックは?! どこにやったの?!」
「え、ピック……?」
「マーブル模様のギターのピックだよ……! わたしの机の上に飾ってあったでしょ?!」

 何秒か思案したあと、やっと思い出したかのように母はうなずいた。

「ああ、あれね。捨てたわよ」

 ……捨て、た?
 母の慈悲のなさに、心がパッキリと割れた音が聞こえた気がした。

「音楽は勉強の邪魔だっていつも言ってるのに、あんなもの持ってるんだもの。それに小さな物だし、捨てても問題ないでしょ。大学生になってからまた買いなさいよ」

 ……なにを、言っているのだろう。

 怒りを通り越して、もう何も言葉が出てこなかった。ピックを捨てられたという事実があまりにもショックで、ただ涙がこぼれ落ちるだけだったけれど、なんとか怒りを露わにする。

「……あれは、あのピックは、大事な人からもらったものなの! お母さんが思っている以上に、わたしにとってすごくすごく大切な物なの! どうして勝手に捨てたりするの……?! ありえないよ!」
「……花梨、どうしたの? 今日は……やけに反抗するわね」

 いつもと違うわたしの様子に、さすがに当惑したのか、お母さんが怯んだ。本音をぶつけようとすると、どうしても涙が止まらなくなる。美蕾や莉奈と話したときも、こんなふうに勝手に涙が溢れていたのを思い出す。

「お母さんは……っ、わたしのことなんて、本当はどうでも良いくせに! 自分の娘の受験が成功するかしないかだけが、重要なんでしょ……?! いつもいつも勉強の話ばかりで、期待に応えようと頑張っても頑張っても成績が上がらなくて、わたしが無理して塾に行っていたことも知らないよね……?! わたしの本音なんて、聞いてくれたこと一度もないじゃん!」

「……花梨、」
「ピックをくれた人や友だちは、わたしの話にちゃんと耳を傾けてくれたよ……? それなのに、お母さんはどうして、勝手に何もかも決めつけるの……?」

 青衣くんは、最初からずっとわたしの話を聴いてくれた。柔らかい関西弁が恋しくて仕方ない。会いたいのに会えないのは、すごく辛い。

 お母さんが頼りなく眉を下げている姿を見るのは、苦しかった。きっといま、母を傷付けている。だけどもう止まらなくて、胸の痛みから早く解放されたいと願っている。

「……っ、もう、わたし限界だよ!」

 こんなに真正面からぶつかっても、わかってくれない。それならこんなところに、こんな家に、もういたくない。

 急いで玄関に向かい、ローファーに履き替えて、握っていたスマホを制服のポケットに突っ込んだ。そのまま衝動的に家を飛び出した瞬間、中から慌てたように母が叫んでいたけれど、聞こえないふりをした。

 泣きながら夜の浜辺へ走った。青衣くんがいないことはわかっているけれど、いつも彼がわたしを受け入れてくれたあの場所に行けば、少しは救われると思ったのだ。

 浜辺に着き、柔らかな砂を踏み締めた途端、自分のいまの状況を冷静に省みた。

 ……家出、しちゃった。

 どこにも行くあてはないくせに、大胆なことをしてしまったと猛省する。制服のままだし、補導されたら敵わない。

 ……青衣くん、助けてよ。

 小さく呟いても、もちろん返答してくれる人はいない。孤独と闘いながらスマホを眺めていたとき、突然、莉奈から電話がかかってきた。

 びっくりして、目を見開く。どうやら3人のグループ通話として掛けてきたらしく、すぐに美蕾が応答したと表示される。

 すがるように、反射的に応答ボタンを押した。するとすぐに明るい莉奈の声が夜の浜辺に響き渡った。

『あっ、りんりん出た〜! さっき解散したばかりだけどね、今日は楽しかったよありがとうってことをどうしても伝えたくて、電話しちゃった!』
『ほんとに楽しかったよね。花梨がいるとさ、場が和むじゃん。癒し効果、みたいな』

 莉奈と美蕾が話しているのを聞いて、青衣くんがいなくなってからわたしが元気がないことを、本当に気遣ってくれたのだろうとわかった。それだけのために、電話を掛けてくれたということも。

 ふたりの声が耳に入ってきて、安心して涙がまた溢れてしまう。そのまま砂浜の上にへたり込んで、我慢できずに嗚咽が漏れた。

『……っえ、りんりん? もしかして泣いてるの?!』
『花梨? どうしたの? いま家にいるの?』

 心配そうに声を掛けてくれるそのふたりの優しさにも、胸が苦しくなる。こんなふうに想ってくれる友人がいることが、本当に嬉しかった。

「……えへへ、ふたりとも、聞いて。わたし、家出……しちゃったんだ」

 鼻声で、なんとか口にする。海がなだらかに揺れる音を聴いていると、少し気持ちが落ち着いた。

 わたしの言葉に、何かを察したのだろう。ふたりはしばらく沈黙した。その間、余計なことを言ってしまったと後悔したけれど、美蕾が掛けてくれた言葉によって、そんな思いが瞬時に吹き飛んだ。

『すごいじゃん、花梨』

 家出をしたこと。母と初めてぶつかったこと。わかってもらえるまで、粘ろうと思ったこと。

 それらのすべてを肯定してくれるような美蕾の優しさに、わたしはこれで間違ってなかったのだと、やっと地に足がついた感覚になれた。

『あっ、あたし良いこと思いついちゃった! うち、今夜ママたち帰ってこないのね。だからりんりん、泊まっていきなよ!』
『え、いいな。わたしもお泊まりしたいんだけど』

『えっ、じゃあ3人でお泊まりパーティー開いちゃう? ちなみに家族みんないないから、全然遠慮なんてしなくていいし、朝まで騒ぎたい放題だよ?』
『なにそれ最高。ね、花梨、どうしよっか?』

 鬱々としていた世界が、開けていく。このふたりと向き合って、本当に良かった。

「じゃあ、お邪魔しても……いいかな? 」

 いままで友達に甘えるだなんて絶対無理だと決めつけていたけれど、存外悪くない。なによりも大好きなふたりと夜を過ごすことができるのが、とてもとても嬉しい。

『わーい! よし、じゃあ住所送っとくから来ちゃって! りんりんはパジャマとかぜーんぶ貸すから、そのまま来てね〜!』
「……うん! 本当にありがとうね、ふたりとも」

 噛み締めて感謝の意を述べたけれど。電話を切る前に、ふたりは同時に笑いながら「どういたしまして」と応えてくれた。

 そして「こちらこそ頼ってくれてありがとう」と言ってくれたふたりを、これからも大切にしたいと心から感じたのだった。