「わっ、来たよ! ついにクラス対抗リレー!」
「花梨ほら、一緒に応援するよ!」
莉奈たちに催促されて、ふたりの横に並ぶ。救護テントで捻挫をした足首を簡易的に固定してもらったおかげで、歩いてもそこまで痛くない。
「花梨、もう足は大丈夫なの?」
美蕾が心配そうに表情をうかがってくれ、力強くうなずいた。
「うん、だいぶ和らいだよ」
「よかったよ……。りんりんが捻挫してたことに気づかなかったの、あたしたちほんとサイアクだよね……」
「ううん。そんなことないよ。我慢して出さないようにしてたのは私だもん」
「りんりん……っ、ごめんね。でも、青衣くんが代わりに走ってくれるようになったって聞いて、あたし含めクラスの皆んなびっくりしてたよね」
莉奈の言葉に、口元が緩む。
それは、つい数十分前のこと。あの後、青衣くんにおんぶされたまま、クラスのみんなのところへ向かったのだ。
『え、青衣?! なんでお前……って、え?! どうしたの芹名さん!』
近づいてくる私たちに気づいた手塚くんが、そう素っ頓狂な声をあげ、他のクラスメイトたちもびっくりしたように私と青衣くんを交互に見ていた。
数日間登校していなかった青衣くんと、その彼におぶわれている私。なにもかもちぐはぐで、みんなが混乱するのも無理はないと思う。
恥ずかしかったけれど、状況が状況なため、青衣くんの背中から降りられるはずがなく。視線を集める中、彼が口火を切ったのだ。
『学年競技、出れんくてごめん。ここ数日のリレーの練習も来れんかったのも、ほんまにごめん。母親の体調が良くなくて、なかなか学校に行けんかったんや』
私を背負ったまま、頭を下げた青衣くん。クラスのみんなと関わってこなかった彼は、もういなかった。
しばらくその場は、沈黙が続いた。きっと、誠心誠意謝った彼のそのまっすぐさに、皆んなどう接して良いのかわからなかったのだろう。
その静寂を切り裂いたのは、やっぱり手塚くんだった。彼は泣きそうになりながら唇を尖らせた。
『青衣なあ……っ! お前、連絡ぐらいしろよー!』
『それもごめん。そもそも俺、皆んなのライン知らんかった』
『……うわほんとだわ! 最初の方、クラスライン誘ったのに冷たく断られたのいまだに根に持ってんだぞ!』
『うん。あとでまた誘って』
『んなの当たり前だわ!』
手塚くんの持ち前の明るさでみんなが笑顔になり、やっと空気が和らいで、各々青衣くんに声をかけ始めたのだ。
クラスの男子と冗談を交わしたり小突きあっている青衣くんを見ると、彼も普通の男子高校生なのだなと当たり前のことを実感した。
そうしているうちに、ついに私に視線が向く。
『それで、芹名さんはどうしたの?』
手塚くんが首を傾げて尋ねてくれ、私は緊張しながらもなんとか声を振り絞った。
『実は……さっき捻挫、しちゃって。クラス対抗リレー、……出られなくなりました。私がやるって言ったのに、いっぱい練習したのに……ごめんなさい』
伝えながら、涙が滲みそうになる。一緒に放課後バトンパスの練習した坂木さんや三木くんたちが、どんな顔をしているかなんて確認できなかった。
だけど、私が悔やむより先に、坂木さんが温かい言葉をかけてくれたのだ。
『残念だけど、女子リレー頑張ってくれてたもんね。足、大丈夫? 救護テントまで一緒に行こう』
彼女の言葉で気づいたことがある。私はぜんぜん、周りが見えてなかったのだと。青衣くんの言うとおり、もっと自分を甘やかして良いのだと。
泣きそうになるのを堪えながら、なんとかうなずいた。ありがとう、と言えば、坂木さんは微笑んでくれた。
『青衣くんも芹名さんも、そんなに謝らなくていいよ! せっかくの体育祭なんだから、笑顔笑顔!』
『マジでそれな? 芹名さんなんかさっきすげえ速かったし、感動したもんな』
『青衣もきちんと事情話してくれたし、なんの問題もねえよ。あ、次のリレー期待してるからな?』
クラスメイトが口々に私たちに声をかけてくれて、またもや涙腺が緩みそうになるのに必死だった。
温かいクラスだと思った。青衣くんも、きっとこのクラスでよかったと感じていたに違いない。
『そのことやけど、俺が出れんくなった花梨の代わり走ってもいい?』
『え、まさか青衣、連続して2人分走ろうとしてんのか?! そんな無茶なことする?!』
『する。大丈夫、ぜったい1位取るから』
『なん……っ、マジか。うわ、言ったからな?』
『もち。手塚もコケんといてな』
『だからなんで俺コケる枠なんだよ!』
どっと笑いが起きて、空気が緩む。そのときやっと、クラスがひとつになったのだと感じた。
『ほんと……青衣くん、カッコいいね』
『どうしよう。ずっと冷たい印象あったから、こんなふうに話してるの見たら好きになっちゃいそう』
『後輩たちにもファン続出だろうな……』
周りから聞こえる声が、少しだけ心を沈ませた。だって、青衣くんがこれ以上人気になるのは嬉しい反面、ちょっとだけ嫌だから。
青衣くんのかっこいいところも優しいところも、……わたしだけが知っていたら良いのにな。
そんなのはわがままで、きっと傲慢だけれど、彼がもっと遠い存在になってしまうことを阻止したい気持ちはわかってほしい。
そして同時に、美蕾に対して申し訳ない気持ちが湧き出ていて。
青衣くんにおぶわれて皆んなのところにやって来た私を見て、彼女はきっと、疑問がたくさんあったに違いない。
それなのに、美蕾は何も聞いてこなかった。それが彼女の優しさなのだと私はわかっていたのに、その優しさに甘えて何も言えなかったのだ。
美蕾に嫌われるのが怖い。
彼女が先に好きだと言った人を、好きになってしまっただなんて言えない。
もしかしたら、美蕾や莉奈に軽蔑されるかもしれない。そうなれば、3人からひとりになってしまう。そんなことが怖い私はいつだって弱くて、保身が大事な最低な人間だ。
3人グループが少し辛いからといって、ひとりになりたいわけじゃなかった。
彼女たちに何度も救われてきたし、ひとりでは出来ないことをたくさんさせてもらった。
だけど、どうしても青衣くんだけは、彼だけは、誰にも手を伸ばしてほしくない人になってしまった。私だけが彼を知っていたい、そんなふうに思う存在になってしまったのだ。
「りんりん? 俯いてどうしちゃったの?」
莉奈の声にハッとして顔を上げると、彼女はきょとんと私を見つめていた。
慌てて口角を上げて、愛想笑いをする。だってこれ以上、心配させられない。
「ううん! なんでもないよ」
「ほんとに……? 本当はまだ足痛むんじゃない?」
「ぜんぜんだよ? グルグルに固定してもらってるし」
「そっかあ……」
莉奈がしょぼんと肩を落とす。その様子を見て、いまの私の返答は間違ったんだと思う。
……やっぱり壁を作っているのは、きっと、私だ。
私が本音を言わないことは、彼女たちは気付いている。だけどそれを責めないで、いつも私から話し出そうとするのを待ってくれている。
いままでは自分のことに精いっぱいで。莉奈たちはふたりの方が楽しいのだから私なんかいらないと、私の言葉など興味ないんだと、そんなひねくれた想いが大きく膨らんで、自分の本音を押し潰していた。
だから彼女たちの温かさに、気付けていなかった。
きっと、気を遣わせていたんだ。そして美蕾も、私から話し出すのを待っている。
青衣くんとどういう関係なのか、どうして2人で戻ってきたのか、聞きたくて仕方ないはずなのに。
「やっぱり……私、ぜんぜん、ダメだね」
ふと、泣きそうな声が漏れ出てしまう。こんな弱音を、友達に話すときが来るとは思わなかった。
家族にも言えず、友達にも言えず、ずっと抱えて溢れ出そうだった私の気持ちを掬ってくれたのは、紛れもなく青衣くんだ。彼が私を救ってくれたから、少しずつでも、莉奈や美蕾にも本音をぶつけられる気がしたのだ。
「りんりん……? 泣きそうだよ、何かあった? 大丈夫?」
「ううん、違うの……。いままでずっと、2人に気を遣わせてたなって、私ってダメだなって、急に後悔しちゃって」
私がなんとかそう言葉を紡ぐと、莉奈と美蕾はふたりで顔を見合わせた。
莉奈はきっと、状況が把握できていないのだろう。
その天真爛漫な純粋さが、私たち3人には必要だった。
話をして、美蕾に嫌われたくない。
それなのに、話したくて仕方がない。
本当はずっと、私の話を聞いてほしかった。だけどなぜか声が出なくて、2人の話を笑って聞くことしかしていなかった。
「ねえ、花梨はダメなんかじゃないよ」
美蕾の言葉に、視線を上げる。美蕾と目が合うと、彼女は心なしか、怒ったような悲しんでいるような表情を私に向けていた。
「花梨は優しいから、私に気遣ってるんでしょ? 私が先に、青衣くんを好きって言ったから」
「……美蕾」
「言ってよ、花梨の本音。気なんて遣わなくていいよ。だって友達じゃん。私が先に好きになったのにとか、言わないよ。……確かにちょっとはそう思うけど、花梨だって、本気なんでしょ? その気持ちを否定するわけないよ」
「……っ、」
「私も莉奈も、待ってるよ。花梨の本音を聞きたくて、ずっと待ってる。好きなだけ、吐き出しなよ。ぜんぶ受け入れるからさ」
いつもの美蕾は、こんなふうに言葉を真っ正面からぶつけたりしない。きっといままで、私にずっと、言いたかったのだろう。
莉奈も隣でこくこくと頷いていて、彼女たちがどれほど私に気を揉んでいたのかが伝わってくる。
「……ふたりに嫌われるのが、怖かったの」
私がいなくても楽しそうなふたりが、いつか私から離れてしまうんじゃないかと思って、辛かった。
震える声で話し出すと、美蕾も莉奈も、大丈夫だよというふうに頷いてくれる。
まだ、リレーは始まらない。選手入場のアナウンスがグラウンドに響いていて、だけどいまはそれどころじゃなかった。
「ふたりは、1年のときのクラスから……仲良いよね。だから、私ずっと、……よそ者なんじゃないか、とか、邪魔してるんじゃないかな、とか。そういうことばかり、考えてて」
3人ということが辛かったのではない。ふたりの間にしかない絆を見てしまうのが苦しかった。
「……勝手に引け目を感じてたの。私の両親、勉強に対してすごく厳しくて、放課後は毎日塾ばかりで。……それは、高校受験を失敗してしまったからなんだけれど。ふたりが見たドラマの話とか聴いた音楽の話とか……入れないのも、寂しかったんだ」
ずっとどこか鬱々とした気持ちを抱えて、ふたりと接していた。いま思えば、こんなふうに自分の本音を言ったとしても、ふたりが私を嫌いになることなんてあるはずないのに。
「あたし……りんりんのこと、誤解してたかも」
莉奈がポツリとそうこぼした。莉奈に視線を向けると、彼女は困ったように眉を下げて口を開いた。
「りんりん、毎日すごく勉強頑張ってるから、塾行って頑張ってるの知ってたから、遊びに誘っても迷惑かもしれないって思ってた。……いや、違うかも。りんりんがあたしたちに誘われて断る苦しさを味わってたら嫌だなって、思ってたんだ」
……誘われて断る、苦しさ。
莉奈に言われて、ハッとする。彼女たちに遊ぼうと誘われたとき、嬉しいはずなのにいつも悲しかった。放課後には塾が待っていて、本当はふたりと遊びたいのに、遊べない悲しさが勝っていた。その感情が、無意識のうちに表情に出ていたのかもしれないと。
莉奈がそんなことを考えていただなんて知らなかった。きっと、わかろうとしていなかったのだ。
「りんりんが“一緒に遊ぼう”って言ってくれるのを、待ってたんだ。でも、それじゃあ伝わらないよね。それにあたしいつも、“りんりんはあたしたちとは違うね”って言っちゃってたよね? ごめんね、……全然わかってなかった。なんにも違くないよね、同じだよね」
「……莉奈」
莉奈が眉を下げて微笑んだ。彼女も我慢していたのかもしれない。私ばかりが苦しいわけじゃ、なかった。当たり前のことを、いまさら気付かされる。
「こんなこと、あたしが言うべきじゃないかもだけど……あたしたち、りんりんから壁を感じてたんだ。本当は嫌々あたしらと一緒にいるんじゃないかな、とか、無理やり話合わせてくれてるんじゃないかなって」
「……そんなこと、ないよ」
そんなこと、あるはずない。だってクラス替えの後、私が友達を作れずひとりでいたときに、とびきりの笑顔で話しかけてきてくれたのは、紛れもない莉奈と美蕾だったから。
「私は……ふたりの邪魔をしてるんじゃないかって、怖かった。でもそれ以上に、莉奈と美蕾に嫌われたくなかった」
「……邪魔だなんて、思うわけないじゃん。花梨と仲良くなりたくて、わたしたち勇気出して話しかけたんだもん。それに話しかけたとき、花梨すっごく嬉しそうに笑ってくれたから、莉奈とふたりで本当に喜んでたんだよ?」
「……美蕾」
「それにさ、花梨は優しすぎるの! もっと真正面からぶつかってきてくれていいのに、花梨の気持ちが大切なのに、押し殺しちゃダメだよ」
そんなふうに言ってくれる友達が、こんなに近くにいた。私の気持ちが大切だと言い切ってくれる、美蕾の少し怒った表情を見て、胸が熱くなり涙が溢れそうになる。
「……それに、誰もやりたがらないことを、花梨はやってくれるじゃん。私、いつもどこかで花梨がやってくれるって思ってて、何もできなかった。……もう最低だ、私。リレーだって、そう。リレーの練習で花梨が青衣くんと仲良くなってるのも薄々感じてたんだよ。だから、私はそういうところで、自分からチャンスを逃してたんだと思う。ぜんぶ人任せにしてたツケが、回ってきた」
「……それはあたしも! 嫌なことでもりんりんなら笑顔でやってくれるって、勝手に押し付けてた。そんなの友達って言えないよね。本当にごめんね、りんりん……」
私は断れない自分が嫌だった。けれどその反面、私がいることで誰かの役に立っていると思えば、自分の存在意義を確認できるような気がしていたのだ。
『長所は必ずしも、その人の価値やない』
そう言ってくれた青衣くんの優しい声が、頭の中で再生される。その声に励まされて、私はいま友達と、初めて本音でぶつかろうとしている。
美蕾が私をじっと見つめている。以前までの私なら、きっと怖気付いて真っ直ぐ視線を交わせなかっただろう。
「……青衣くんと仲良くなったのは、たまたま塾の帰りに浜辺で会ったことがきっかけなの。結構前なのに、ずっと美蕾に言えなかった。狡いこと、しちゃった。さっき美蕾が言ってたように……青衣くんのこと、私も好き。黙ってて、ごめんなさい」
ああ、泣きそうだ。本音を言おうとすると、勝手に涙が出そうになる。そんな弱い自分が嫌いで、誰にも見せたくなかった。
私の目尻にうっすら涙が浮かんでいるのに気付いたのか、莉奈が私の背中をさすってくれる。“大丈夫だよ”と支えてくれているみたいで、また涙腺が緩みそうになった。
美蕾と視線を交わす。逃げない。ここで逃げたら、振り絞った勇気がぱちんと消えてしまう。自分のためにも、少しだけでも強くなりたい。
こんなに真正面から目を見たのは初めてかもしれない。そんなことを考えていると、突然美蕾は、はーっと大きくため息をついた。
その途端、自分がまずいことを言ってしまったのではないかと冷や汗が滴れる。やっぱり自分の気持ちなんて言わないほうが良いんだ……と後悔し始めたけれど、美蕾は私の予想に反して、屈託なく笑った。
「……あー! やっとすっきりした!」
彼女にしては珍しく気の抜けた声音に、私も莉奈も、目をぱちくりとさせる。莉奈の手は相変わらず私の背中に触れていて、じんわりとした温かさを感じた。
「うん、そっか。花梨と青衣くんが前から妙に親密そうだったから勝手に思い悩んでモヤモヤしてたけど、事情を聞いてすっきりした。花梨の気持ちも、やっと知れたし。あーあ、早く聞けばよかったな」
「……美蕾」
「溜め込んでちゃ、ダメだね。ずっと私、こんなふうに花梨が心の奥に閉まってた言葉を聞きたかった。花梨は自分のこと狡いって言うけど、そんなの私だってそうじゃん。花梨の気持ち、見て見ぬふりしてたし。だから、さ。そういうお互いの良くない部分も受け入れられるようになりたいから、これからもちゃんと花梨の声聞かせてよ」
美蕾は照れ臭そうに微笑んだ。莉奈も「そうだそうだ!」と首が折れそうなほど頷いていて、思わず吹き出してしまう。
……臆病なのはもうやめにしよう、そう思えた。ふたりなら、わかってくれる。私のことを、ちゃんと見て、聞いてくれるから。
じんわりとした温もりが全身を駆け巡る。言いたかったことを声に出せることが、こんなに心を明るくさせるだなんて思ってもいなかった。
「……私、美蕾と莉奈と3人でいてよかった」
ほんのり苦しかった“3人”が、だれが欠けてもいけない“3人”になれた。
すべては捉え方次第だ。少し自分の考えを変えるだけで、見える世界が変わってくる。
「あたしもだよ、りんりん! いま最高に、この3人で良かったって思ってるよ」
「私も。莉奈と花梨と、仲良くなれてよかった。……あ、こんなこと言うの恥ずかしいから、今日限定だからね」
「あれ、急にいつもの美蕾に戻っちゃった……。えっ、てかりんりん泣かないで?! やだよ、りんりんが泣いたらあたしも涙出てくるよ〜〜っ」
「もう、莉奈まで……。ほら、泣かないで。ハンカチ貸すから、はい順番に拭いて」
「う〜〜っ美蕾お母さんみたい……。って、あれ、美蕾もなんか涙が……」
「気のせい! ほら、花梨もダラダラ泣いてないで拭いて!」
ゴシゴシと美蕾にハンカチで目元を拭われる。少し強引な仕草に優しさが滲んでいて、莉奈と目を見合わせて“ツンデレだね”とアイコンタクトで微笑みあった。
「────お待たせしました! クラス対抗リレー第1走目は……」
突如アナウンスが鳴り響き、現実に引き戻される。そうだ、いまは体育祭。
急いで3人で肩をくっ付け合いながら並ぶ。探すまでもなく吸い込まれるように青衣くんが視界に現れて、彼のことが好きなのだと改めて実感した。
「青衣くん、カッコいいなあ……」
「花梨ったら、心の声漏れてるよ。あっ、待っていま青衣くんこっち見たよね?! 心臓飛び出そう!」
「おーいおふたりさん? すっかり仲良く青衣くん愛語っちゃってさあ……あたしも入れてよ〜」
「うーん、莉奈まで好きになっちゃったらややこしいからダーメ」
「ええ、寂しいってば!」
そんなふうに言い合っていると、第1走者めの人たちがスタートした。私たちのクラスのひとりめは三木くん。彼は颯爽と2位で走り抜けた。
手に汗を握る思いで大きな声で応援する。みんなと一緒に練習してきたから、たくさん話し合ったから、気持ちはフィールド内を駆ける彼らと同じだ。みんななら、大丈夫。そう願いながら、ギュッと拳を握りしめる。
順調に三木くん、荒井くん、坂木さんとパスが繰り返されていく。走者が変わっていくにつれてグラウンド内の熱気が増していき、緊張感も膨れ上がる。
「すごい、みんなすごい……。ね、花梨……」
「……うん。本当に、すごいよ」
莉奈も美蕾も、感動している。周りを見渡せば、クラスのみんなも声を張り上げて声援を送っている。
私は走れなかったけれど、このやりきれない想いは青衣くんが背負ってくれているのだ。そう考えただけで、すごくすごく頼もしかった。
「あ、手塚だ! おーい手塚、コケるなよ! 頑張れ!」
いつも手塚くんと一緒にいる男の子の冗談めいた声援でさえ、幸せの円を描いてクラスのみんなをひとつにさせる。
途中手塚くんが本当に躓いてしまい、コケそうになったときも、みんなで声をかけた。きっと私たちのクラスが一番、歓声が大きい。それくらい、リレーを走る彼らの本気度が伝わっていた。
次は、青衣くんだ。私のせいで、他の人より不利なほど走ることになってしまっている。それなのに、そんなことをいっさい感じさせない。手塚くんを待っているその横顔は、遠くから見ても頼もしくて、誰よりもカッコいい。
「青衣〜!!! 頑張れ〜!!」
「青衣くんファイト〜!」
みんなの視線が、青衣くんに集まる。バトンパスが成功し、4位に落ちていた順位から目を見張る勢いで追い上げていく。青衣くんは、フィールド内を2周半走る。その間に私たちの前も通った。そのときの彼の真剣な表情はあまりにもカッコよくて、鼓動がうるさい。きっとこれからも、この瞬間の彼のことを忘れられないと思う。
青衣くんは順調に2位にまでのぼりつめたけれど、他の走者がパスをして加速するタイミングで、少しだけスピードが下がった。それでも速いけれど、苦しそうに1位の人の背中を追う彼を見ていたら、居ても立っても居られなくなる。
青衣くん、お願いだから私の声が届いてほしい。
「青衣くん、頑張れ……!!」
もう一度私たちの前を通るタイミングで、ありったけの声を振り絞った。聞こえたのかもしれないし、聞こえていないのかもしれない。だけれど、ちょっとだけ彼の口角が上がったのを、私は見逃さなかった。
ああ、どうしよう。
こんなの、好きになるなというほうが無理だ。1位だろうとなかろうと、私の代わりに役目を背負ってくれた彼のために、私はまた何かを返したい。
人一倍疲れてしんどいはずなのに、また加速した。彼はそのまま1位を走っていた選手と並んだ瞬間、ふたり同時にゴールテープを切った。
わあっと歓声が上がる。どちらが勝ったかわからない。放送が入り、審議が始まる。青衣くんはゴール後、転がるように地面に倒れ込んでいて、きっと擦り傷だって出来ている。心配で仕方ないのに、私は走ってもいないのに、激しい鼓動のせいでうまく息ができない。
また涙が落ちた。審議は続く。青衣くんは倒れ込んだまま動かない。美蕾も莉奈も含め、クラスのみんなは固唾を飲んで見守っている。
……青衣くん、ありがとう。代わりに走ってくれて、ありがとう。それだけで私、充分だ。
彼は仰向けで、何を見ているのだろう。眩しいほどの青い晴天を、眺めているのだろうか。
「審議が終了しました! 映えある1位のクラスは────」
その途端、一段と大きな歓声がグラウンドに響き渡った。
「青衣くん」
三日月が夜空に浮かぶ夜。浜辺の砂に仰向けで寝転がっている彼の視界を塞ぐように、そっと彼を見下ろした。
「おー……花梨」
瞑っていた目を開き、私を捉えた彼は、キュッと目を細めた。心なしか、元気がない。原因は、わかってる。わかっているから、少し辛い。
「……お疲れ様。それに、ありがとう」
青衣くんが一向に起きようとしないから、私も同じように浜辺に身を倒した。さらりとした砂の感触は馴染みがなくて新鮮だ。
「なんかいま鬼のように恥ずいわ。1位獲れへんかったし。花梨に豪語して任せろとか言ったくせに、超ダサいやん俺」
「……そんなことないよ。嬉しかったもん」
「花梨はそう言ってくれるってわかってたけどさ。いやもうクラス全員に申し訳ねえーー……」
青衣くんは、わかってない。私たちは1位を本気で望んでいたわけじゃなくて、彼が必死に走っている姿を見て、ただただ応援したくなっていたことを。
「でもあんなに必死に頑張ったの、いつぶりやろ。リレー終わった後クラスの奴らにもみくちゃにされたとき、全力で走って良かったって思えたし」
「……うん。本当に本当に、カッコよかったよ。私の中では……飛び抜けて青衣くんが1位だった」
力強く言葉に出す。寝転がったまま青衣くんのほうを見れば、彼もこちらを見ていて、驚きで心臓が飛び出そうになった。
「ふは。なら良かった」
私のときめきなんて知る由もなく、彼は気の抜けたように笑う。その無邪気な笑い方が好きで、ずっとそうしていてほしいと思った。
彼はまた私から視線を外し、視界いっぱいに広がる夜空を見上げる。
「俺さ、小さい頃から集団行動が苦手やねん。まあはっきり言うなら、協調性がない。やから転校前も、ちょっと友達と関係拗れたあと、修復しようともせずに孤立してた」
彼はいつも私を見つめているようで、どこか違うところを見ている。彼の過去は、触れたら消えてしまいそうなほど儚い。
「前の学校でさ、こんな俺やけど、それなりに友達おったんや。けど音楽のことでちょっと名が知れた頃友達と外歩いてたとき、俺の曲聴いてくれてる人に話しかけられた」
「……うん」
「普通に嬉しかった。でもそのあと友達が『うわー青衣調子乗ってる! 俺らもギター始めたら有名になれんじゃね?』って言って、俺の担いでたギターを掴んだんや」
嫌な予感がする。だって、彼がここに転校してきたときに、手塚くんがギターに触れたのと状況が重なって見えたから。
「ケースに入ってたけど、友達が引っ張った反動で、ギターがどっかの壁に当たって鈍い音がした。あいつらにとったら、ただの友達のギターかもしらん。普通に親が揃ってて苦労知らずの奴らには、俺がなんで音楽に縋ってるかわかるわけないってあのときは本気で思った。ギターは俺にとってほんまに大切で、母親が金ないのに無理して買ってくれたやつで、それがなかったら夜も眠れんくらいの存在で、ぞんざいに扱われたと思った瞬間、頭に血が上ってた。その頃ちょうど母親の癌が見つかった頃で、精神的に余裕がなかったのもあったと思う。『触んなよ! お前らに俺の何がわかるんや!』って、マジでキレてしまったんや。いま思ったら、被害者妄想もいい加減にしろって話よな」
自重気味に笑う青衣くんは、当時のことを思い返すように遠く広い夜空を眺めている。その瞳には私がまったく映ってなくて、そばにいるはずなのに、すごく遠い存在のように思えて悲しい。
青衣くんの苦しさは、きっと青衣くんにしかわからない。だからこそ、かける言葉が難しいと感じてしまう。
「転校してからも、やっぱ最初は上手くいかんかった。けど、花梨と手塚のおかげやな。クラスの奴らとあんなふうに笑える日が来るなんて思ってもみんかったわ。手塚なんか俺何回も冷たくしてたのに、そのたびに根気強く話しかけてきてくれてさ。表面的なところだけ見やん優しさに、たぶんやけど、めっちゃ救われた」
「……手塚くんも、きっと同じ気持ちだよ」
「そーかな。でもまあ、こっちに越してきてよかったと思ったこと2つのうちのひとつは、手塚がうざいくらい追いかけ回してきてくれたことやな」
手塚くんのことそんなふうに言っているのは、照れ隠しだとわかってる。だって青衣くん、口角が上がりっぱなしだ。
「もうひとつは、何なの?」
単純に疑問に思って問いかける。
彼はちらりと私のほうを見て、勢いよく起き上がった。そのまま浜辺に手をついて、私のことを視界に入れないまま海を眺める。
「もうひとつここに来て良かったことは、花梨に出会えたことやな」
「……え」
びっくりして、起き上がる。彼の表情を見ようとするけど、ふいっと顔を逸らされた。
「花梨とこんなふうに話すことにならんかったら、俺はきっと、何も変われんかった。いまもまだ全然あかんし、自分のこと責めてばかりやけど、花梨のおかげでちょっとだけ強くなれた気がするわ」
「そんなの、……ぜったい私の台詞だよ。だって私、美蕾と莉奈と、今日初めてちゃんと向き合えた。言いたかったこと、言えたの。いままでの私なら、そんなの無理だった。こんなふうに勇気を持てたのは、青衣くんに出会えたからだよ」
青衣くんには感謝しかない。私が変わるきっかけをくれたのは、他でもないきみだから。
ふと視線を感じて隣を見ると、やっと彼が私を視界の真ん中に入れてくれていた。それだけで胸が熱くなって仕方ない。
「眠れん夜も、ギター弾かんくても、花梨との話を思い返すとなんか安心して寝れるねん。そんなこといままでなかったのに、花梨の存在が日に日に俺の中で大きくなりすぎてたまに怖くなる」
今夜は青衣くんのそばにギターがない。体育祭の後だから当たり前なのだけれど、少し寂しい。
吸い込まれそうなほど暗い海を、彼の隣で眺める。この光景も、何度めだろう。数えきれないくらい一緒にいるように思えて、よく考えてみれば、両手で数えられるくらいなのかもしれない。
ずっとこんなふうにいられたら、どんなに幸せだろう。
「あ、てか明日代休やん?」
突然話題が飛んで、面食らいながらもうなずく。青衣くんは少しためらう様子を見せつつ口を開いた。
「いつもより、ちょっとだけ早めにここ来れん?」
「……え」
「無理やったら全然いいんやけど。せっかく休みなんやし、花梨と長く話してたい」
「え、……え、うん。え、もち、ろん」
「なにそんな動揺してんや」
青衣くんは可笑しそうにそう揶揄うけれど、彼からそんな提案をされるだなんて信じられない。こんな嬉しい誘いに、動揺するなというほうが無理だ。
「あの……じゃあ、18時くらいに、来ます、ね」
「いやなんで敬語なん」
「だって、青衣くんが、嬉しいこと……言うから」
「はいはい。ほんま花梨は俺のこと好きやなあ」
「……っ、ちがうもん」
「ふは。そーか?」
彼の言う“好き”と、私が彼に想う“好き”は全然ちがう。それをわかっているのか、否か。今日の青衣くんはちょっとだけ意地悪だ。
「じゃあ、俺も18時に待ってます」
「……あ、敬語真似してからかってるでしょ」
「ちょっとな。でも関西人は標準語で話そ思ったら、敬語になるねんなーこれが」
「もう……言い訳しなくていいよ」
「これはほんまやねん」
ふたりで目を見合わせて、笑う。それだけなのに、どうしてこんなに楽しいのだろう。
青衣くんがそっと自分の右手を海にかざす。
彼特有のその仕草に意味があるのかは、まだ聞けない。
────本当は、塾の授業が18時からある。初めて、ずる休みをした。そして初めて、お母さんの敷いたレールから飛び出した。
「あれ、まだ17時半やけど」
私が砂浜を踏みしめる音で振り返った彼は、ふっと表情を和らげた。彼はケースから取り出したギターを抱えていて、砂に触れないように注意しながら、弦を調整していたらしい。
「……早く来ちゃった」
青衣くんの隣に腰を下ろすと、いつもと会う時間が違うからか彼の横顔がさらに美しく見える。
「一緒やな。俺も、実は15時からここおる」
「ええ、それは早すぎるよ?」
「花梨が約束の時間より早く来るのを見越しての行動やん。褒めてくれへんの?」
「うっ……、ありがとね。でもさすがに3時間前には来ないよ」
「案外ドライやな。俺は朝から、早く花梨と話したかったのになあ」
「…………それは私も、です」
「わかった、花梨って照れたら敬語になるんやな」
そんなこと、わからなくていいのに。指摘されたことでまた照れてしまって、わざと話題を変える。
「この時間でも、ほとんどここに来る人いないんだね」
薄暗い視界の中で周りを見渡すと、私たち以外に幾人かしか確認できない。いつもより長く彼といられる上にふたりきりの気分を味わえて贅沢だ。
「ほんまにな。ここってほぼ明かりなくて暗いし、海も近くて危ないんかも。それに、そこそこ狭いやん。海は綺麗やけど、あんま人が寄り付くような場所じゃない気がする」
「それ、かなり貶してるんじゃ……」
「ちがうちがう、穴場やなって言いたかってん。こういう場所じゃないとうまく息できひん人も、この世界にはいっぱいおるんちゃうかなって」
「うん、……そうだね」
私たちも、海風が頬を撫でる薄暗い浜辺でしか話せないことがある。適度な距離感を保ちながら、お互いの繊細な領域を意識しながら、ただ隣にいて話をする。そんな時間が必要な人は、きっとたくさんいるはずなのだ。
「花梨ってさ、ずっと思ってたけど空気清浄機みたいよな」
「ええ、どういうこと?」
「なんやろなあ……。例えるの難しいねんけど、花梨が近くにおるだけで、まわりの空気が澄む感じ。息が吸いやすくなるし、その場に自分がいてもいいって言われてる気分になる」
「それって簡単に言えば、青衣くんにとって、私は必要……ってこと?」
「正解。俺は花梨がおらんと、だいぶキツい」
彼が私を必要としてくれていることが何よりも嬉しい。誰かにとって意味のある人になれることは、うまく生きることができている証明になる気がする。その相手が青衣くんであること、それが私の心をじんわりと温める。
「私も青衣くんがいない世界を、もう想像できないな……」
もし青衣くんと出会っていなかったら。あの夜、浜辺で話していなかったら。私はきっと、今も現状を少しも変えられずに日々を鬱々と過ごしていたにちがいない。
そんなおそろしい世界を、いっぺんに彼が変えてくれた。私が自分で染められなかったモノクロの世界に、青衣くんが彩りを与えてくれている。
「でも花梨は、俺がおらんでももう大丈夫やろ?」
それなのに、彼は全然わかってない。
私にとってきみがどれほど大切な存在か、居なくてはならない存在か、まったく伝わっていない。
「……どうして、そんなこと言うの?」
少し突き放すような言い方が気にかかった。
どうにか繋ぎ止めないと、彼は突然、どこかに消えてしまいそうだった。
「青衣くんがいるから、私はまた明日も頑張ろうって思えるの。それに、青衣くんがいてこそ、今まで知らないふりをしてきた自分の気持ちに、向き合うことができるんだよ」
「花梨は俺を、買い被りすぎやな」
「そんなことないよ。たくさん青衣くんと話してる私が言ってるんだもん、ほんとだよ。青衣くんも、……自分を認めてあげてほしいな」
私の言葉に、彼は力無く笑った。
昨日からずっと、彼の芯が見えない。どうしてこんなにも、どこかへ行ってしまいそうな気がするのだろう。
「そうなんかなあ。自分を認めてやることなんて、俺にはまだ出来ん所業やけど……でもありがと、花梨」
私だって、自分のことを認めてあげることなどまだ出来ない。ダメなところにばかり目がいって、欠点を包み込めるほどの器量はいつになっても得られない気がしている。
でも、青衣くんには自分を愛してあげてほしい。
だって、こんなにも素敵な人なんだから。
彼は唇を噛み締めて何かを考えるように空を仰いだあと、ふっとため息をついた。
「海も空もさ、あんな広いのにゆっくり動いてるやん。ぱっと見じゃわからんけど、いつのまにか変わっていってる」
「うん、……そうだね」
「やのに俺は……何やってるんやろな。ずっと変わらんで、動けんでいる。なんでこんなに……臆病なんやろ」
少し掠れた声だった。聴き逃してしまいそうなほど小さく、青衣くんらしくない声。
いつものように、彼は右手を海にかざした。そのままぎゅっと拳を握りしめたかと思うと、ゆっくりと手を広げる。
彼の目は、自分の手の行方を追っていた。薄暗くてもわかるほど瞳が揺れていて、胸が痛くなってしまう。
……きみは、何を抱えているの?
その右手の仕草には、何の意味があるの?
聴きたくても、聴かない。彼が話したいと思うその瞬間まで……私は待ち続けたい。
「もう出来ることなら、何もかも全部捨ててどっかに消えてしまいたいって思うときがすげぇある。別に、場所なんかどこでもいいんや。逃げることができるなら、なんでもいい。そんなとき、花梨はない?」
「……あるよ。最近までは、毎日のように思ってた」
「あーやっぱ仲間やなあ」
隣の彼は、私の返答に呆れたように笑う。
「健全に生きてる人はさ、こんなこと考えへんのかな。ていうか、みんな生きるの上手すぎん?」
「うん、わかるよ。学校にいても、外を歩いてても、みんな器用に生きてるように見える。卒なくこなせないのは私だけなんじゃないかとすら思うもん」
「それなんよな。でもたぶんさ、人それぞれ生きづらい部分抱えてるけど、いちいち立ち止まってられへんからとりあえず毎日過ごしてるんやろな」
「うん、まさに“とりあえず”で生きてるなあ……私」
お母さんと話し合うことを、ずっと避けている。向き合うこと、反対されることが怖くて逃げてばかりだ。
塾をサボってしまった罪の意識が、突然襲ってくる。お母さんにバレたら、どれほど叱られるだろう。
とりあえず1日1日を生きるのに精一杯で、後のことは未来に任せてしまっている。そういう生き方が定着していて、時々ふと自分を見失いそうになる。
「でも今までこんなささくれた気持ち、誰かに話すときなんか来やんと思ってたな。花梨だけでもわかってくれたから、もう充分や」
みんな、うまく生きているように見えて、案外そうじゃないのかもしれない。
私だって、青衣くんが転校してきた当初は彼のことを、言いたいことをはっきり言えて、さらに自分を持っている人だと当てはめて羨ましかった。交わることのない人物だと思って、線引きしていた。だけど話せば、こんなにもお互いを受け入れられる。
人生、どんなことがあるかわからない。明日平和である保証だってなくて、でもそれとなく私たちは生きている。
「ねえ、……青衣くん」
「ん?」
……どこにも行かないよね?
「ううん。……やっぱり、なんでもない」
「おー? 気になるやん」
「ごめんね。なに言おうとしたのか、忘れちゃった」
「マジか。気になって夜しか寝られへんわ」
「ふふ、充分だよそれは」
きみにとって、今夜も穏やかに寝られる夜であればいいと思う。そうでなくても、孤独を感じずに夜を明けてほしい。
「あ、そうや」
彼は突如ポケットに左手を入れて、何かを取り出した。「手ぇ出して」と言われたので、訳がわからないまま両手を出す。
何か小さく冷たいものが私の手に落とされて、それを見つめる。
「……え、ピック?」
それは、ギターのピックだった。深海のように鮮度の高い紺碧色が、マーブル模様に畝っている。人差し指と親指でつまんで、海にかざしてみた。すると、本物の海よりもずっとずっと煌びやかに見えた。
「それ、花梨にやるわ」
ひとりごとのように青衣くんは言う。照れくさいのか、こちらを見てくれない。
「えっ、こんなに綺麗なもの……いいの?」
「うん。俺ピック集めんの好きやねんけどさ、それはなんか花梨の方が似合う。俺には鮮やかすぎて、なかなか使えんかったから」
「……そっか。なんだかこの色、海の色に似てるね」
「そうやろ。それもあって、花梨に持っててほしいなって思った」
「嬉しい。……ありがとう」
青衣くんからもらったものは、なんでも嬉しい。
私たちはお互いの連絡先も知らないし、ふたりを繋ぎ止める証みたいなものだってない。だからこの小さなピックが、こうしてわたしたちが夜ふたりで話していることの証明になる気がしたのだ。
「大切に、するね」
じっとピックを見つめて言う。青衣くんがわたしに似合うかもと言ってくれたこれを、宝物にしようと思った。
「……別に、そんな良いもんちゃうけどな」
「ううん。青衣くんがくれたんだもん。それだけで大切なものになるの」
「……そーかあ?」
気の抜けた返事をした彼は、少しだけ耳が赤いように見える。照れ屋なところも愛おしくて仕方がない。
「ちなみにさ。そのピック見て、花梨がひとりじゃないって実感できたらいいなって、俺もおるって思えたらいいなって意味も込めて渡してるんやで」
「そう、なの?」
「そ。人生どうにも出来ひんこともあるやん? でも、花梨が何かに一歩踏み出してみようって思うんなら、ちょっとでも手助けしたいって思ってる」
「……うん。私も同じだよ」
「そっか、それは嬉しいわ」
青衣くんは左手を伸ばして私の頭をぐしゃぐしゃと撫でた。強引なその仕草に胸が苦しくなって、抱えていた不安がこぼれ出る。
「……ねえ、青衣くん」
「んー?」
「どこにも、行かないでね」
彼は震えた私の声を聞いて、視線を寄越した。その瞳は寂しげに揺れていて、これ以上なにも言えないと思ってしまった。
「どうやろなあ……」
曖昧に笑って、彼はため息を吐いた。
『人生どうにも出来ひんときあるやん?』
先ほど青衣くんが何気なく放った言葉を思い出す。私たち子どもには、まだ自分の力でどうにも出来ないときがあるのだ。それをきっと、彼は強く実感している。
「夜って、綺麗やな」
青衣くんがそっと落としたその言葉を、私は拾えなかった。
そして青衣くんは、この夜を最後に忽然と消えてしまった。
「……ん! りんりんってば!」
「…………っわ、莉奈。ごめん、何だっけ?」
「もう、りんりん、青衣くんがいなくなっちゃってから、ずっと上の空だよねえ……。大丈夫?」
「うん……大丈夫だよ、ごめんね」
莉奈が心配そうに顔を覗き込んでくる。安心させようとニコッと微笑むけれど、うまく笑えた自信はない。
莉奈の隣に立っている美蕾ももちろん元気がなく、もっと言えばクラスの雰囲気も少し暗い。
「……ねえ花梨、本当に青衣くんから何も聞いてないんだよね?」
「うん……。わたしはまったく知らないよ」
「そっか……。手塚も知らないみたいだし、突然すぎて皆んなびっくりしてるよ」
青衣くんと会った最後の夜。どうしてか彼が消えてしまいそうな不安に駆られたのは、ただの杞憂ではなかった。
次の日から学校にも浜辺にも来なくなり、体育祭前のようにお母さんの体調が悪いのかと心配していた矢先、担任の先生から青衣くんが転校してしまったとの報告があった。
体育祭で仲が深まっていたからこそ、報告があったときクラスの皆んなはざわついていたけれど、誰かが呟いた言葉が、やけに教室内に響き渡ったのを思い出した。
『青衣って……俺らには想像もつかない何かと、戦ってんだろうなあ』
青衣くんは、ずっと見えない苦しさと戦っているのだ。それを少しだけ共有してくれた浜辺での夜を、わたしは繋ぎ止められなかった。
いま彼がどこでどうしているのか、わからない。誰も連絡先を知らないから、本当に連絡手段がないのだ。
もし、青衣くんが夜ひとりで泣いていたら。辛くて何もかも捨ててどこかへ行きたくなっていたら。
そう考えれば考えるほど、彼の隣にいたい衝動に駆られて仕方がなくなる。
わたしは無力だけれど、青衣くんにとっての少しの安らぎになれていたら良いと思っていた。だけどそばにいられないのなら、そんな小さなことさえも出来なくなってしまう。
「よしっ、じゃあ今日の放課後、りんりんと美蕾を元気付けようの会を開こう! 3人で可愛いカフェでも行こうよ!」
溌剌とした莉奈の声に、美蕾も乗っかる。ふたりの明るい声のおかげで、青衣くんがいなくなって落ち込んだわたしの心も、深く沈まずにいられるのだ。
「ありだね。花梨は行けそう?」
「……うん! もちろん行こう」
「やったあ、決まり! お店調べとくね〜」
3人で嬉しくて、ほおが綻んだ。それと同時に、お母さんへの罪悪感が胸の内を占めていく。
……今日も、塾をサボるんだ。
実は青衣くんと最後に話した夜を含め5日間、無断で塾を欠席していた。いままでは風邪を引いても無理やり通っていたから、塾だけでなく学校や習い事をサボったことなど一度もない人生だった。
だけど青衣くんに出会って、お母さんのレールに乗るのがもう嫌になり、反発することを覚えたのだ。そろそろバレて怒られるであろうことはわかっているけれど、だからといって自分の心を殺してまでして塾に行くのも辛かった。
それならいっそ、ふたりと遊んでいたいと思う。明るい友達といるだけで癒されるから。
多くの大人はこんなわたしを、甘えていると笑うのかもしれない。親の言うとおりにするのが正解だと諭してくるのかもしれない。
だけどいまのわたしは、自分で選んだ道を生きたいと強く願っている。それが甘えた夢でも、間違えた人生でも、自分の意思に素直になることが大事なのだと青衣くんに教えてもらった。
友達と遊ぶことも大切だ。ふたりの笑顔を見ていると幸せな気持ちになれるから、心が健康になっている気がする。
「じゃ、今日も授業頑張ろうね!」
「うん。莉奈は寝ないようにね?」
「あっ、りんりんひどーい! あたしだって寝たくて寝てるわけじゃないんだよ? 睡魔があたしにばかり会いに来るから……」
「はいはい、言い訳はなしね」
「ええ、美蕾もひどいっ……」
3人で笑いながら席に着けば、お母さんへの罪悪感も薄れる気がした。
その日の夜。
いつも塾が終わって帰る時間帯になり、遊び疲れたわたしたちは各々の帰宅路へ向かった。莉奈と美蕾とは帰る方向が違うため、ひとりで夜道を歩く。
その道中にいつもの浜辺があり、その明かりの下に色素の薄い髪が光っていないか眺めるのが癖になっていた。もちろん青衣くんの姿は見つけられず、肩を落としながら家へと歩いた。
……ああ、足が重い。
両親に後ろめたいことをすると、家に帰るのがすごく怖くなる。鍵を開けるとき、玄関のドアを開くとき、バクバクと心臓が鳴って足がすくむ。
いまの現状がずっと続くわけがない。いつか両親と向き合わなければならない日が来るとわかっているけれど、怖くて知らないふりを続けている。
ドアの鍵穴に鍵をさす。ドクドクとうるさい鼓動を落ち着かせながら、そっとドアを開けた。
その途端、血の気が引く。
ドアが開いた瞬間に、お母さんが険しい顔でリビングから飛び出して来たからだ。
「花梨。あなた……いまから何を言われるか、わかってるわよね?」
淡々と尋ねてくる声音は低い。塾に行かずに遊んでいたことなど、きっとバレているとわかった。
「今日塾から電話が来たわ。花梨が5日前から無断で欠席してるって。それは本当なのよね?」
「……はい」
沸々と母の怒りが蓄積されているのが伝わる。そしてそのマグマ溜まりが爆発する寸前であることも。
部屋の奥から、父親が静かに新聞をめくる音がした。仲裁にも入らず、他人事のようにただ時が過ぎるのを待つその様子に、もはや呆れが勝っていた。
「あなた、受験生の自覚はあるの?! 最近帰りが遅かったのも気にかかっていたけれど、挙げ句の果てには無断欠席なんて! 花梨らしくないじゃない!」
「……っ」
らしくない、かもしれない。だけれど、そんなこと言われても、わたしはわたしなのだ。塾をサボったのは、他でもないわたしの意思だ。
お母さんのなかでのわたしの像は、虚像だと早くわかってほしい。お母さんが信じているほど良い子じゃないし、早く親のしがらみから解放されたいと願っている子どもだ。
「花梨をそんなふうに育てた覚えはないわよ……。どうせ友達かなにかの影響でしょう? 悪いことを教えてくる友人なんて縁を切りなさいよ」
「……っちがう、友達は関係ない」
「そんなわけないでしょ。花梨が反抗的になったのは最近じゃない。クラス替えしてからよね」
「だから……っ、違うって!」
思わず、大きな声が出た。いままで家でこんなふうに感情を露わにしたことがなく、自分でも驚いてしまった。母も信じられないというふうに、目を見開いている。
なにより、わたしの言葉など一切聞かずに決めつけて話を進める母親に耐えきれなくなった。それに、莉奈や美蕾、さらに青衣くんが間接的に悪く言われるのはとても嫌だったのだ。
「どうして……お母さんは、いつもわたしの話を……聞いてくれないの?」
震える声で、なんとか言葉を紡いだ。どうにかわかってほしいという思いで。少しでもわたしの話を聞いてほしいという気持ちを込めて。
「聞いてるじゃない。だけど花梨が言うことを聞かずに勉強してくれないから、仕方なく、あなたを思って叱ってるのよ」
「わたしを、思って……?」
「ええ。勉強しなかったら良い大学に行けないし、良い仕事にも就けない。これは大人になってからしかわからないのよ。いまは子どもだから不満に思うかもしれないけど、あなたにとって最善のことを教えているだけ」
「……わたしはっ、そんなの……望んでないよ」
「何言ってるの? 大人になって困るのはあなたなのよ? わかってる?」
機械のように淡々とした言葉を使う母に辟易する。
何を話しても無駄だ。
きっと母はわかってくれない。だからわたしが諦めて従順に戻れば、変わらない日常が戻ってくる。
そう思うのに、青衣くんの姿がまぶたの裏に浮かぶ。諦めるべきじゃないと、彼が背中を押してくれている。
「っもう、……お母さんの顔色なんて、知らない」
小さな声だったけれど、母には届いているはずだ。その証拠に、母の眉間のシワが寄った。ここでひるんだら負けだ。大丈夫、わたしはひとりじゃない。
「……お母さんがわたしの話を聞いてくれるまで、いっさい喋らない。塾にも行かない。もう……嫌だよ」
「花梨? 何言ってるの……?」
青ざめていくお母さんを見て、部屋の奥にいるお父さんにも聞こえるように声を振り絞って言った。
「……わたし、受験しないからっ!」
そう叫んですぐ、引き止められないように、硬直しているお母さんの横をすり抜けて階段を駆け上がった。「花梨! 待ちなさい!」と怒鳴られても、無視して部屋の中に飛び込む。
そのままバクバクと飛び出そうなほど暴れる鼓動を聞きながら、床に座り込んだ。
……言ってしまった。もう、後には戻れない。お母さんと関係を修復するのも、無理かもしれない。良い子であることを、やめてしまったから。
そう思うけれど、不思議と後悔はなく、すっきりしていた。初めて親に反抗し、アドレナリンが出ているから、突発的にそう感じているだけかもしれない。
部屋までは追いかけてこないことに安堵しつつ、なんとか立ち上がった。
……そうだ。青衣くんにもらった、ギターのピック。大切に机の上に飾っているそれを思い出す。
ひとりじゃないと実感するために、握りしめたくなった。青衣くんが近くにいると思えるピックは、わたしの精神安定剤だ。
そう思ってふと机の上を眺める。だけど、肝心のピックが見つからない。落としてしまったのかと不思議に思って床を探すも、どこにもない。
机の上だけでなく、周辺も整頓されているように思えた。そこで、ハッとあることに気付く。お母さんが、今日この部屋を掃除したのだということを。
それが何を意味しているのかなんてわかっていた。必死に部屋の中のありとあらゆるものをひっくり返して探しても、ピックは案の定どこにもない。
……お母さんが、どこかにやったんだ。
そう結論付けた瞬間、黒々とした怒りが胸の奥に湧き出てくるのがわかった。本当の意味で、もうお母さんの言いなりは無理だと実感する。
許せなくて悔しくて、涙がぶわっと溢れ出てくる。それに構わず、音を立てて階段を駆け降りた。
すごい形相で泣いているわたしを見て、先ほどまで階下で呆然としていた母がぎょっとする。わたしにとってあのピックがどれほど大切なのかわかっていないその様子に、またもや怒りが噴出した。
「……っお母さん、ピックは?! どこにやったの?!」
「え、ピック……?」
「マーブル模様のギターのピックだよ……! わたしの机の上に飾ってあったでしょ?!」
何秒か思案したあと、やっと思い出したかのように母はうなずいた。
「ああ、あれね。捨てたわよ」
……捨て、た?
母の慈悲のなさに、心がパッキリと割れた音が聞こえた気がした。
「音楽は勉強の邪魔だっていつも言ってるのに、あんなもの持ってるんだもの。それに小さな物だし、捨てても問題ないでしょ。大学生になってからまた買いなさいよ」
……なにを、言っているのだろう。
怒りを通り越して、もう何も言葉が出てこなかった。ピックを捨てられたという事実があまりにもショックで、ただ涙がこぼれ落ちるだけだったけれど、なんとか怒りを露わにする。
「……あれは、あのピックは、大事な人からもらったものなの! お母さんが思っている以上に、わたしにとってすごくすごく大切な物なの! どうして勝手に捨てたりするの……?! ありえないよ!」
「……花梨、どうしたの? 今日は……やけに反抗するわね」
いつもと違うわたしの様子に、さすがに当惑したのか、お母さんが怯んだ。本音をぶつけようとすると、どうしても涙が止まらなくなる。美蕾や莉奈と話したときも、こんなふうに勝手に涙が溢れていたのを思い出す。
「お母さんは……っ、わたしのことなんて、本当はどうでも良いくせに! 自分の娘の受験が成功するかしないかだけが、重要なんでしょ……?! いつもいつも勉強の話ばかりで、期待に応えようと頑張っても頑張っても成績が上がらなくて、わたしが無理して塾に行っていたことも知らないよね……?! わたしの本音なんて、聞いてくれたこと一度もないじゃん!」
「……花梨、」
「ピックをくれた人や友だちは、わたしの話にちゃんと耳を傾けてくれたよ……? それなのに、お母さんはどうして、勝手に何もかも決めつけるの……?」
青衣くんは、最初からずっとわたしの話を聴いてくれた。柔らかい関西弁が恋しくて仕方ない。会いたいのに会えないのは、すごく辛い。
お母さんが頼りなく眉を下げている姿を見るのは、苦しかった。きっといま、母を傷付けている。だけどもう止まらなくて、胸の痛みから早く解放されたいと願っている。
「……っ、もう、わたし限界だよ!」
こんなに真正面からぶつかっても、わかってくれない。それならこんなところに、こんな家に、もういたくない。
急いで玄関に向かい、ローファーに履き替えて、握っていたスマホを制服のポケットに突っ込んだ。そのまま衝動的に家を飛び出した瞬間、中から慌てたように母が叫んでいたけれど、聞こえないふりをした。
泣きながら夜の浜辺へ走った。青衣くんがいないことはわかっているけれど、いつも彼がわたしを受け入れてくれたあの場所に行けば、少しは救われると思ったのだ。
浜辺に着き、柔らかな砂を踏み締めた途端、自分のいまの状況を冷静に省みた。
……家出、しちゃった。
どこにも行くあてはないくせに、大胆なことをしてしまったと猛省する。制服のままだし、補導されたら敵わない。
……青衣くん、助けてよ。
小さく呟いても、もちろん返答してくれる人はいない。孤独と闘いながらスマホを眺めていたとき、突然、莉奈から電話がかかってきた。
びっくりして、目を見開く。どうやら3人のグループ通話として掛けてきたらしく、すぐに美蕾が応答したと表示される。
すがるように、反射的に応答ボタンを押した。するとすぐに明るい莉奈の声が夜の浜辺に響き渡った。
『あっ、りんりん出た〜! さっき解散したばかりだけどね、今日は楽しかったよありがとうってことをどうしても伝えたくて、電話しちゃった!』
『ほんとに楽しかったよね。花梨がいるとさ、場が和むじゃん。癒し効果、みたいな』
莉奈と美蕾が話しているのを聞いて、青衣くんがいなくなってからわたしが元気がないことを、本当に気遣ってくれたのだろうとわかった。それだけのために、電話を掛けてくれたということも。
ふたりの声が耳に入ってきて、安心して涙がまた溢れてしまう。そのまま砂浜の上にへたり込んで、我慢できずに嗚咽が漏れた。
『……っえ、りんりん? もしかして泣いてるの?!』
『花梨? どうしたの? いま家にいるの?』
心配そうに声を掛けてくれるそのふたりの優しさにも、胸が苦しくなる。こんなふうに想ってくれる友人がいることが、本当に嬉しかった。
「……えへへ、ふたりとも、聞いて。わたし、家出……しちゃったんだ」
鼻声で、なんとか口にする。海がなだらかに揺れる音を聴いていると、少し気持ちが落ち着いた。
わたしの言葉に、何かを察したのだろう。ふたりはしばらく沈黙した。その間、余計なことを言ってしまったと後悔したけれど、美蕾が掛けてくれた言葉によって、そんな思いが瞬時に吹き飛んだ。
『すごいじゃん、花梨』
家出をしたこと。母と初めてぶつかったこと。わかってもらえるまで、粘ろうと思ったこと。
それらのすべてを肯定してくれるような美蕾の優しさに、わたしはこれで間違ってなかったのだと、やっと地に足がついた感覚になれた。
『あっ、あたし良いこと思いついちゃった! うち、今夜ママたち帰ってこないのね。だからりんりん、泊まっていきなよ!』
『え、いいな。わたしもお泊まりしたいんだけど』
『えっ、じゃあ3人でお泊まりパーティー開いちゃう? ちなみに家族みんないないから、全然遠慮なんてしなくていいし、朝まで騒ぎたい放題だよ?』
『なにそれ最高。ね、花梨、どうしよっか?』
鬱々としていた世界が、開けていく。このふたりと向き合って、本当に良かった。
「じゃあ、お邪魔しても……いいかな? 」
いままで友達に甘えるだなんて絶対無理だと決めつけていたけれど、存外悪くない。なによりも大好きなふたりと夜を過ごすことができるのが、とてもとても嬉しい。
『わーい! よし、じゃあ住所送っとくから来ちゃって! りんりんはパジャマとかぜーんぶ貸すから、そのまま来てね〜!』
「……うん! 本当にありがとうね、ふたりとも」
噛み締めて感謝の意を述べたけれど。電話を切る前に、ふたりは同時に笑いながら「どういたしまして」と応えてくれた。
そして「こちらこそ頼ってくれてありがとう」と言ってくれたふたりを、これからも大切にしたいと心から感じたのだった。
「花梨……ひとりで帰れそう?」
莉奈の家の玄関で、美蕾が不安そうに尋ねてくれる。朝までオールしてたくさん喋ったからか、ふたりの顔には少しの疲労が乗っている。
莉奈の家に泊めてもらい、3人で笑いながら夜を明かしたあと、お母さんともう一度向き合おうと考えていることをふたりに伝えた。
いつまでも逃げてばかりじゃ、何も始まらないから。限界になったときに、頼ることができる友達がいることを実感したから。
ふたりのおかげで、自ら家へ帰ろうと思えたのだ。スマホの電源を落としているけれど、きっと母から鬼のように連絡が来ているに違いない。怒られるのは明白だけど、それでも強く自分を保って向き合いたいと思ったのだ。
心配そうにしてくれるふたりの友人に、うなずいたあと微笑んだ。
「……莉奈、泊めてくれて本当にありがとう。美蕾も、昨晩いっぱい話を聴いてくれてありがとう。本当に本当に、ふたりのおかげだよ」
「困ったときはお互い様だから。花梨が私たちを頼ってくれたのも、すごく嬉しかったしさ」
「ほんとにほんとに! りんりん、あたしまーじで応援してるからね……! もう無理だって思ったら、またうちに来ちゃいな? いつでもウェルカムだからさ!」
「……うん。莉奈の優しさにすごく救われてるよ」
にこっと自然に笑えば、彼女は同じように顔を綻ばせた。そして、わたしの手をぎゅっと両手で握りしめて、こう言った。
「りんりんならきっと大丈夫。もし家族にわかってもらえなかったとしても、あたしたちはりんりんのこと、ちゃんとわかってるからね」
彼女の言葉と声の温かさに、鼻がツンとする。泣きそうになるのをグッと堪え、その代わりに大きくうなずいた。
「……莉奈、美蕾。わたし、ふたりのこと大好きだなあ」
照れくさいけれど、思ったままに呟く。親友たちは顔を見合わせて微笑んだあと、わたしの背中をポンっと押してくれた。
「いってらっしゃい、りんりん!」
「待ってるからね、花梨」
わたしは大丈夫。きっと、大丈夫。
ふたりにめいいっぱい手を振りながら、平静を保ちつつ、なんとか莉奈の家を出た。
どれだけ怒鳴られても、逃げないと決めた。両親と向き合うのは怖いけれど、絶対に途中で怖気づかないと、ふたりと約束した。
────ガチャ、とドアを開ける。
すると、昨日のデジャヴのように、お母さんが飛び出してきた。その目は真っ赤で、泣き腫らしたように目尻に滲む涙が光っている。幾分か老けたように思える母の姿を見て、ギュッと胸が苦しくなった。
……お母さん、きっと寝ないでわたしのこと待ってたんだ。
そう確信したら、何も言えなくなってしまう。お母さんにはわたしに対する愛が全くないとは思っていないからこそ、とても辛かった。
母は何かを言おうとして、口を開く。『どこに行ってたの?!』『どうして返信しないの?!』と怒られることを予測して、ギュッと目をつぶった……けれど。
「…………、おかえり」
「っ、え」
まったく予想だにしていなかった言葉が耳に入ってきて、呆けた声が出てしまう。聞き間違いに違いない、だってお母さんがそんなことを言うはずがないのに。
それなのに。
「おかえりなさい。……花梨」
「……っ、」
「ごめんね、ごめんね花梨。無事に帰ってきてくれて、本当に良かった……」
安堵したように涙を流す母を見たら、わたしの涙腺も決壊してしまう。
お母さんはちゃんと、わたしのことを見てくれている。頭ごなしに怒らず、朝に帰れば心配して泣いてくれる。それがわかっただけで、充分だった。
良かった良かったと、泣きながら繰り返すお母さん。わたしが昨日放った言葉で、傷付いたかもしれない。だけど反対に、わたしも母の言動に傷付いた。ずっとずっと苦しくて、耐えてきた期間があったから、こうやっていま向き合えている。
「……お母さん。わたしも、勝手に出て行って、ごめんなさい」
本心だった。ふるふると首を横に振る母は、いつもより小さく見えた。
ふたりで泣き崩れていると、奥から静かにお父さんが現れた。いまの時間、いつもなら仕事に行っている時間のはずなのに。もしかしたら、わたしが帰って来ないから待っていたのかもしれない。
ゆっくりと顔を上げると、父は目の前にしゃがんで、困ったように眉を下げた。
「……花梨、帰ってきてくれてありがとう」
久しぶりに、父と目が合った。最後にこうやって真正面から話したのは、いつだっただろうか。いつから父はこんなに、疲れた顔をしていたのだろう。
本当は、帰りたくなんかなかった。誰も理解してくれないこの家になんか、帰りたくもなかった。だけどいま初めて、帰ってきて良かったと、心から思えた。
「……昨日、花梨が出て行ってから、母さんとふたりで話し合ったよ。勝手に大人の、親の理想を押し付けて、すまなかった」
お父さんはわたしに向かって頭を下げた。昨夜、暗い家で話し合っている両親の姿を想像するだけで胸が痛くなる。
どうせ何を言っても、親はわかってくれない生き物だと決めつけていた。大人は身勝手で、子どもを正規のレールに敷きたがるものだと思っていた。両親がこんなふうに、わたしと向き合ってくれるだなんて考えてもみなかった。
……ねえ、青衣くん。案外、ぶつかってみるのも悪くないね。
「……花梨は反抗期がなかったし、小さい頃から本音をずっと聞いてなかったなって、昨日お父さんと話していて気付いたの。でもきっと、お母さんがこんなだから、……花梨は、良い子でいなきゃって言いたいことも言えなかったのよね。親失格だわ……本当にごめんね」
「……お母さん、」
「これからは聞かせて。花梨が言いたかったこと、……ぜんぶ教えてね。口喧嘩になっても、折れずにたくさん話してほしい」
「……っ、うん」
「良い子じゃなくていいから。無理して勉強しなくてもいいから。だから……っ、もう、家出なんてしないで」
お母さんはぐしゃぐしゃに泣いていて、どれほど心配かけたのか痛感する。
わたしも負けないくらい涙が溢れてきているけれど、これは悲しい涙じゃない。
「……言っても、いい、? わたしの本音」
お母さんもお父さんも、こくりとうなずいてくれた。
……ずっとずっと、心の中に隠していたことがたくさんある。言いたくても言えなくて、何度も喉元でつっかえた言葉がある。
衝動的じゃなくて、落ち着いてきちんと話す。ちゃんと会話をする。両親がうなずいてくれるから、安心して言葉にすることができた。
塾をサボってしまったことや、昨日ふたりに大嫌いだと言ってしまったことは、きちんと謝った。塾に関してはお金をかけてもらっているぶん、それを無駄にしてしまったのは事実だから。
「……たくさん我慢させちゃって、ごめんね」
「……もう謝らなくていいよ、お母さん」
「ダメよ。子どもに限界まで無理させたんだもの……何回でも謝るわよ」
“ごめんなさいよりも、ありがとうが聞きたい”。どこかで目にした文字列だったけれど、いまはすごく共感できた。
「これから、たくさん聞いてほしいな……。学校のこととか、友だちのこととか」
「……そうね。3人でご飯食べながら話せたら良いね」
「そうだな。父さんも、なるべく早く帰ってくるようにするよ」
その日の夜は、3人で食卓を囲んだ。莉奈や美蕾との楽しい日々や、わたしが変わるきっかけをくれた青衣くんに出会ったことを両親に話した。ぎこちないわたしの喋りだったけれど、ふたりは嬉しそうに聞いてくれたし、『青衣くんって子に感謝しなきゃね』と笑っていた。
……ねえ、青衣くん。わたし、頑張ったよ。変われたよ。
『えらいなあ、花梨』って、また出会えたら、そう言ってほしいな。
「あーっもう卒業かあ……。早かったなあ、3年間」
首元までボタンを締めたワイシャツ、いつもより気合を入れて巻いた髪、手に持った卒業証書。
早くも2月最後の日になり、今日卒業式が開かれた。
青衣くんが転校してしまい、両親と良好な関係になれた頃から、半年ほど経っている。あれからというもの、青衣くんとは相変わらず会えないままだったけれど、お母さんとお父さんとは何かにつけてよく話し合うようになった。
大嫌いだった夜も、息苦しかった環境も、すべての過去を愛せるようになった気がする。何かを境に劇的に変わることなど難しいけれど、それでもゆっくりとわたしは前を向けているはずだ。
「りんりんはさ、春から大学生だよね? 確か将来の夢は編集者だったっけ?」
「うん。あんなにお母さんたちに反発したし喧嘩しちゃったんだけど、なんだかんだ受験はしようかなって思えたの。いまは、あの頃嫌々でも勉強して良かったと心から感じてるし」
「そっかあ……。家出事件、懐かしいね。あの夜3人でオールしたの、めっちゃ楽しかったけどなあ」
あの日があったから、いま私は清々しい想いで卒業できているのだろうと実感する。ふたりが受け入れてくれたから、そばにいてくれたから、こうして将来の夢が見つかったのだ。
私が編集者になりたいと思った理由は、小さい頃から小説や雑誌が大好きだからだ。読書はお母さんが唯一許してくれた娯楽であり、ときに辛いことがあっても、本の世界に浸れば少しの間忘れられることが多かった。
母に『受験はしない』と啖呵を切ったけれど、よく考えた末に、今後も受験勉強に専念することにした。それは自分がやりたいことを形にしたくて頑張ったのだ。両親は何度も、無理しなくて良いと諭してくれたけれど、それでもわたしは勉強を続けた。
そして無事に、目標にしていた大学に合格でき、私はこの春大学生になる。両親も自分のことのように喜んでくれて、頑張って良かったと思えたのだ。
服飾の専門学校に進む莉奈と、地元の大学に進学する美蕾。3人バラバラの道になるわけだけれど、この絆は長く続くと信じている。
「まあ、さ。『やりなさい』って言われたら絶対やりたくなくなるじゃん? だから親にちゃんと意志を伝えてさ、花梨が自らやろうって思えたのなら、結果的に良かったよね」
「うんうん。受験期のりんりん、どこか楽しそうだったもん」
「ふふ。楽しくは……なかったけど、自分からやりたいと思って始めたことはいままでなかったから、新鮮だったのかも」
そんなことを話しながら、ふたりと写真を撮った。広い中庭で、手塚くんの声が響いている。彼が楽しそうにじゃれている姿を見て、青衣くんがいないことを痛感してしまう。
……青衣くんと、卒業したかったな。
担任の先生によると、彼は大阪にある通信の高校へ転校したらしい。事情はさすがに聞かなかったけれど、彼が大阪へ帰ったことには少なからず驚いた。
転校後何ヶ月かすると、美蕾がSNSで青衣くんの情報をキャッチしてきた。どうやらここに来る前にやっていたように、大阪の路上で弾き語りを再開したらしい。私も気になって検索すれば、すぐにヒットした。その土地でも、青衣くんが戻ってきたことはかなり話題になっていたのだ。
そのとき画面に映る彼が少し痩せたように思えて、今すぐにでも会いたくなった。だけれど、いまは受験に集中することが最善だと考えて諦めたのだ。
青衣くんにもらったピックがないと、とても不安だ。彼がそばにいると思えなくて辛い。だけど画面上の彼が歌う声を聴けば、それだけで生きていける気がするのだから不思議だ。
「あっ、りんりんいま青衣くんのこと考えてるでしょ〜!」
「ね? 私たちはお見通しだよ」
「……うっ、図星、です」
「「やっぱり!」」
さすがは親友たち。私の考えていることなど、当たり前のようにわかってくれる。
「今日、いまから彼に会いに行くんでしょ?」
美蕾の言葉に、こくりとうなずく。以前までは恋のライバルだった彼女はいま、全力で私の恋を応援してくれている。
『やっぱり私はさ、青衣くんを遠くで見ているだけで充分で、彼の歌を聴けたらそれでいいって考えで腑に落ちたんだ。だけど、花梨は違うでしょ? 今すぐにでも会いに行きたいんだよね』
1ヶ月ほど前にそう言ってくれた美蕾は、清々しい表情をしていた。最初は私に気を遣っているのかと不安だったけれど、『これが私の本音』と自信満々に言われてしまえば何も返せなかった。
「……うん。青衣くんに、会いに行くよ。いまから電車乗り継いで、大阪まで」
「会えなかったらどうするの……って、聞くのも野暮かあ」
「うー……ん。不思議と会える気がするんだけど、会えなかったときはそのときかな」
会いに行く、と言っても、連絡を取って待ち合わせているわけではない。連絡先は知らないから、美蕾が教えてくれたSNSの情報を頼りに探しに行くのだ。見知らぬ土地で彷徨うのは怖いけれど、なんとかなるとポジティブ思考で今日まで乗り切った。
彼はいつも同じ場所、同じ時間に路上でギターを弾いているらしい。周りには大勢の人がいて、近付くのも難しいのだと何かのコメントで読んだ。
行き当たりばったりの計画だけれど、ふたりは応援してくれて、本当にどうにかなる気がしている。美蕾はわたしの様子を見て、ふっと目を細めた。
「なんか、花梨変わったね。かっこよくなった気がする」
「そうかな……」
「そうだよ。花梨ならきっと青衣くんに会えるね」
「……うん。……会いたいな」
1日たりとも彼のことを忘れた日はなかった。彼がくれたピックはなくても、脳内ではずっと、彼特有の柔らかい声が再生されていたから。
「がんばれ、りんりん!」
「応援してる。また後日、話聞かせてね?」
学校から駅まで送ってくれたふたりは、バイバイと手を振ってくれた。莉奈と美蕾に励まされながら、長い旅に出る。
電車に揺られている間、絶えず【am】の曲を聴いていた。イヤホン越しに伝わる彼の優しい声に、また恋に落ちた。
私が目の前に現れたとき、彼は何を言うだろう。きっと驚くだろうけれど、『しつこいなあ』なんて笑うかもしれない。でも彼が元気でいてくれたら、それ以上の幸せはない。
「……どうか、会えますように」
ローカル線から新幹線へ乗り継ぎ、小さな声で願っていると、わたしの隣に誰かが座った。視線を寄越すと、スーツを着た20代くらいの女性が私が持つスマホを、じっと見つめていた。
……ど、どうしたのだろう?
まごついていると、隣の席の女性は私のそんな様子を気にせず、長い黒髪をかきあげて嬉しそうに目を見開いて話しかけてきた。
「あなた、【am】好きなの……?!」
「……えっ、大好き、です」
どうしてわかったのだろう。イヤホンを両耳とも取り、しどろもどろになりながら答えると、彼女の表情は、ぱあっと華が咲いたように明るくなった。
「私も私も! 座るときたまたま【am】のプレイリストが目に飛び込んできて、あなたのスマホの画面じろじろ見ちゃった。つい嬉しくて……! ごめんなさいね」
「あっ……そうだったんですね。私、【am】の『日常シンドローム』という曲がいちばん好きでなんです」
「あ〜わかる〜っ! 私もその曲が最高に好きだなあ。毎朝【am】の曲聴きながら、仕事に行くの。今日も頑張ろうって気持ちになれるからね」
「私もです……! 何か嫌なことがあっても、すぐに忘れられるというか」
「そうそう! まさか新幹線の隣の席の人と、こんなふうに【am】のお話ができるなんて思ってもみなかった。今日が一気に、良い日になったわ」
嬉しそうに微笑んでくれる女性に、じんわりと胸が熱くなる。歳の差なんて感じられないほど気さくに話してくれる彼女は、きっととても優しい人だ。
「そういえば今着てるのって、制服よね? もしかして、今日卒業式だったの?」
「はい、卒業……しちゃいました」
まだあまり、実感がないけれど。青衣くんは、もう卒業したのだろうか。
「ふふ、そっかあ。じゃあ、いまからその足で誰かに会いに行くの? 言いたくなかったら全然良いんだけど……もしかして、遠距離中の彼氏とか?」
「あっ、彼氏とかじゃないんですけど……ずっと、会いたかった人がいて、……その人を探しに行く、みたいな感じなんです」
「う〜ん、なるほどねえ。かなり青春の匂いがするなあ」
その相手が【am】の正体である青衣くんだなんて、思ってもみないだろうなあ……。
隣の女性は腕を組みながらうなずいている。少し気になって、反対に彼女は何しに行くのか尋ねてみた。
「私はね、いまから出張。結構重大なプレゼンがあってさ、お偉いさんたちの前で失敗したらどうしようって、実はさっきまでガチガチに緊張してたの」
「そうだったんですね……」
「だけど、隣の席があなたで良かった。緊張がほぐれたから、プレゼンもうまく出来そう」
「私も、会いたかった人に会える気がしてます」
「ふふ。一期一会って、良いものね」
青衣くんが、【am】が繋げてくれた人。もう会うことがないからこそ、一度きりの出会いを大切にしたい。
笑顔が素敵な大人の女性。私も数年後には、こんなふうに憧れられるような人になりたいと思った。
彼女と話していると、あっという間に大阪に着いてしまった。同じ駅で一緒に降りながら、大事なお仕事がうまく行くようにと最後に声をかけると、ニコッと微笑んでくれた。
そのまま人の波に流されないように気を付けながら、さらに電車を乗り継ぐ。やっと青衣くんがいるらしい駅に着き、足早に目的地へ向かった。
美蕾に調べてもらった【am】が現れる歩道橋の下を、マップアプリで調べる。もう既にあたりは暗く、人工的な明かりに街が照らされていて、慣れずに戸惑った。
人が多く、何度もぶつかってしまい、申し訳なさとともに帰りたくなる。だけどここまで来て、青衣くんがいる街へ来て、会わずに帰るのは悔しい。
たくさんの人に潰されながら駅を出た。
その瞬間、ギターの柔らかな音が耳に届く。
「……青衣、くんだ」
すぐに、青衣くんがいるとわかった。直感だけれど、間違えるわけがない。音が纏っている雰囲気だけでも、確信できる。
そうこうしているうちに、彼の歌声が遠くから聴こえてきた。久しぶりに彼を近くに感じて、ぶわっと涙が溢れてしまう。
急いで人の間を縫って彼を探す。あたりを見渡すと、車が通る音が下から聞こえた。どうやらいま立っているのが歩道橋のようだった。駅から出るときに階段を上ってしまったからだと気付く。
歩道橋から下を見下ろした。すると、涙で滲んだ視界でもわかるほど、明らかな人だかりが出来ている場所があった。その中心に色素の薄い髪が垣間見えた瞬間、ドクッと心臓が飛び出そうになる。
……青衣くんが、いる。
彼のいるところへ向かうために歩道橋の階段を駆け降りる。……本当に会えた、どうしよう、緊張する、……何を言えばいい? 私、どんなふうに話してたっけ?
全く考えがまとまらないまま、なんとか人だかりの外に立った。
サラリーマンや学生、日々に忙殺されながら雑踏を歩く人々が、青衣くんの歌声を聴くためだけに足を止める。ただ救われたくて、寄り添ってほしくて、彼の前にはまた大きな人だかりができていく。
「【am】おるやん。大阪戻ってきたって、マジやったんや」
そう呟く声が聞こえた。私の横に立った大学生くらいの男女ふたりが話している。
「【am】さ、ここおらんかった間、なんかあったんかな。陳腐な言い方かもしらんけど、前より儚くなった気がする」
「あーわかるわそれ。【am】ってすげえ謎なんよな。あんなにイケメンやし歌もうまいのに、どこか生きづらそうでさ。俺らとなんも変わらん人間なんやって、いつも聴きにくるたび思う」
「そうよな。私も何回も救われてる。戻ってきてくれてほんまに嬉しいし」
青衣くんは、こんなにも多くの人に必要とされている。彼の歌声が聴きたくて、足を止める人がたくさんいる。
それを実感して、また涙が出てきてしまう。だけど周りには彼の声を熱中して聴いている人たちばかりで、わたしが注目を浴びることはなかった。
ついにラストの曲が終わった。大勢の人に拍手を受けていて、私も負けじと手を叩いた。
ぱらぱらと人が散っていく。中には【am】に声を掛けている人もいて、自分のことのように胸が満たされる。
涙がぽろぽろと落ちるのを気にせずに、ただ人が去って行くのを待った。ひとり、またひとりと雑踏に溶け込んでいって、ついに私が最後に残る。
いつまでも帰らない客がいて不思議に思ったのか、ギターをケースに直している青衣くんがチラッとこちらを見た。途端に、目が大きく見開かれる。小さく口を開けて、驚いている。
久しぶりに、目が合った。やっと、手の届く距離に近付けた。ゆっくりと青衣くんのもとへ歩けば、やっぱり少し痩せた彼がそこにいた。
「……花梨」
聞き流してしまいそうなほど、小さく放たれた彼の声。掠れていて、それでいて大好きな声。
「……なんで、おるんや」
私たちの周りにはたくさんの人が行き交っているはずなのに、ふたりだけの世界に放り込まれたように静かに思えた。
「会いに、来ちゃった」
少しでも可愛い姿で会いたくて莉奈にメイクしてもらったのに、台無しなほど泣いてしまっている。だけど、揺れる瞳で私を見つめる彼を目にしたら、そんなことどうでもいい気がした。
「青衣くんが……いなくなって、寂しくて、でもこの世界のどこかに青衣くんがいるって思ったら、頑張れたの。だけど、もう限界になって、……ここまで来ちゃったよ」
青衣くんがいなくても、大丈夫なわけがない。卒業式のあと、すぐに駆け付けてきてしまうほど会いたかったのだから。
「今日、……卒業式じゃないんか」
「そうだったよ。だから終わってすぐ、電車に飛び乗ったの」
「……何してんの。ほんっま……あほやなあ、花梨」
そんなことを言いながら、青衣くんは顔を歪めて泣いた。私は知ってる、これが彼の照れ隠しなのだと。涙を落としながら、強引に滴を拭う仕草が懐かしい。
「なんも言わんでいなくなったのに、なんで花梨は、会いに来てくれるんや。……こんな臆病な俺やのに、なんで」
「青衣くんのことだから、事情があって転校したのはわかってるもん。それに、いつか絶対に会えると思ってたから」
「……そんな優しいこと言うなや。さっき目合った瞬間、『突然いなくなって青衣くんのバカやろう!』くらい言われる覚悟できてたのに」
「ふふ、転校しちゃったときはそう思ったけどね」
「思ったんかい」
いつもの調子が出てきてふたりで笑い合えば、夜の浜辺を思い出す。海の音と、彼の声。環境は違えど、大切だった時間がまた戻ってくる。
「ちょっとこっち来て。大通りから死角やから、あんま見られんで話せる」
青衣くんに連れられ、少し窪んだスペースに座る。路上だったから、青衣くんは自分が着ていた上着を私の下に敷いてくれた。いいよ、と断っても、いいから、と諭され、ありがたくその上に座った。
隣を見ると、そこには青衣くんがいる。色素の薄い髪は半年前より伸びていて、襟足が立っていた。少しの変化でも気付けてしまうのは、暗い夜の中でも、彼のことをよく見ていたからだ。
「……花梨は、薄々察してるかもやけど」
彼は静かに、白い息を吐いた。彼が転校してしまったときは暑かったはずなのに、時が過ぎてとても寒い季節になっている。
何かを話し出そうとしてくれている彼に、こくりと首を縦に振った。そんなわたしの様子を見て、彼はふっと表情を和らげたあと、ひとりごとのように小さく言った。
「俺が転校した理由は、母親が亡くなったからやった」
青衣くんは遠くを見つめるように話し出す。その横顔は思わず触れたくなるほど綺麗だ。覚悟していた内容だったけれど、胸が痛くて苦しい。
青衣くんは悲しみから抜け出せないまま、きっといま話してくれている。
「いつかこうなるってわかってたはずやのに……マジでひとりになった実感が湧いたとき、なんかすげえ恐ろしくてさ。あーもう俺無理や、生きてかれへんって、母親がおらんくなって本気で思った。
やけど、知らんうちに母親が大阪におる友達に俺の世話頼んでたらしくて、その人頼りにこっちに戻ってきた。さすがに学校通うメンタルになれんくて、いまは通信行ってる。そんでいま助けてくれてるその人に恩返しするために、なんとか生きてる」
「うん……」
「俺、生きてる資格なんかないねん。それやのに、ふとしたときに花梨に会いたくなってた。花梨がおったらこんな寂しくないのにって、半年間ずっと考えてた」
「そんなの……私もだよ。ずっと青衣くんの声が聴きたかった。それに、青衣くんが生きる資格ないだなんて、そんなことあるはずないよ……?」
「……違うんや。花梨に言えんかったけど、俺はマジで駄目な奴やねん」
「どうして、」
「────母親を死なせたのは、俺や」
青衣くんの衝撃的な言葉に、息を呑んだ。隣を見れば、彼は無表情で右手を見つめていた。
いつも海に向かって右手を翳していた青衣くん。その仕草にどんな意味があるのだろうと不思議だった。今の言葉で、きっと良くない意味が含まれているのだと察してしまう。
「ここからの話は、聞きたくなかったら聞かんほうがいい。花梨はもしかしたら、俺のこと嫌いになるかもやで」
「なるわけないよ。どんな青衣くんでも、絶対受け止める」
「……あーやっぱ、花梨ってええなあ」
そんなふうに眉を下げて微笑む青衣くんのことを嫌いになるはずない。私の想いを彼は、ずっとずっとわかっていない。
「俺は、……父親をこの手で殴ったことあるんや」
青衣くんは右手を開いて、夜空に向かって伸ばした。
「あのときの感覚が蘇ると、怖くて仕方なくなる。あんなクソみたいな父親を殴った俺なんか、生きる価値ない」
違うよ、そんなことないよ、と言いたい。だけど言えなかった。青衣くんの横顔が辛そうに歪んでいたから。
「俺の親父は、そこそこ有名な作曲家兼アイドルのプロデューサーとかやっててさ、俺が小さいときから浮気ばっかしてた。あんな親父を間近で見てたから、恋愛なんてするもんじゃないと物心ついた頃から呆れてた。家族との時間なんか一切なかったけど、親父の才能に惚れた母親はそれを咎められへんかったらしい。でもさすがにキツくなって離婚しようと思ったみたいで、俺をひとりで養えるように仕事するようになった。やけど慣れへんことしたから、母親は過労で倒れたんや。
母親が入院したとき、クソ親父は病院で俺にこう言った。『お前さえおらんかったら、瑞季さえおらんかったら、さっさと離婚して柚季との関係全て白紙にできたのにな』って。
あいつは、自分の人生において得か損かでしか動いてない。妻が倒れたことで、浮気やら何やらが世に出て、自分の名が汚れるのを恐れてた。それでいて、俺という子どもがおるせいで面倒な妻と離れられへんわとか思ってる奴やった」
「……そんな、」
「なんで、大人ってああなるんやろな。名誉よりも、大事なものあるやろ。母親があんなに一生懸命働いてくれたのに……マジでふざけんなやって思った瞬間、殴ってた。親父の頬を、思いっきり。曲がりなりにも血の繋がった親に手ぇ出してしまったあの感覚は……夢にも出てくるくらい恐ろしかった」
当時のことを思い出したのか、青衣くんの右手は震えていた。怖くて怖くて仕方がないというふうに、彼の瞳は揺れていた。
無言で青衣くんの右手をギュッと両手で包み込めば、戸惑いながらも、彼は一筋の涙を流した。
「でも……それが失敗やった。俺はあのとき、どれだけムカついても、我慢しなあかんかってん。俺があいつを殴ったせいで、あいつの方が有利な立場になって、いざ離婚ってときに金ぶん取ってやれんかった。母親を救いたかったのに、反対に母親を苦しめてしまった。俺に不自由させへんようにって働き詰めになって……それで、癌が見つかったんや。こんなんぜんぶ、俺のせいでしかない」
「青衣くん……」
「母親は俺を一切責めんかったから、余計辛かったな。その優しさが、苦しかった。最後の方はずっと『ひとりにしてごめんね』ばっかり言ってたわ。
ぜんぶ俺のせいやけど、わかってるけど。……ほんまに、なんで、俺はひとりなんや」
気丈に振る舞っている青衣くんはここにはいなかった。誰も見ていない路地裏で、彼を抱きしめる。彼の孤独が少しでも薄れるように。
「なあ、花梨」
「どうしたの、青衣くん」
「なんか、前より頼もしくなったなあ。俺がおらん間、何があったん」
「いろいろあったよ。本当に青衣くんのおかげで、自分のやりたいことを見つけられた」
1年前の私とは比べものにならないくらい、成長したんだよ。
「そうか……。それなら俺の生きてる意味、あったかもしらんな」
「あるよ、すごくある。青衣くんがいないと、私が困るよ」
「……うん」
青衣くんは私を抱きしめ返してくれる。弱い力だったけれど、私はその分、また力強くギュッと抱きしめる。
鼻をずずっと啜る彼は、少しだけ幼く思えた。
「……お願い、花梨。花梨はどこにも行かんで。そばにおって」
それはずっと、青衣くんが言いたかったことなのかもしれない。誰かが離れていくことやそれを引き止めることはすごく怖いことで、ひとりになってしまってから、孤独に耐え続けていたに違いなかった。
「いるよ、隣に。私にも……青衣くんが必要だから」
青衣くんが辛いとき、いちばんに頼ってほしい。私を暗闇の中から手を差し伸べてくれたのは青衣くんだったから。
私も、隠していたことを伝えることにする。伝えたことで、青衣くんが嬉しくなれば良いな。
「ねえ、青衣くん。私、大阪にある大学受けたよ」
「……、え」
戸惑ったように、彼が小さく声を漏らした。驚くだろうと思っていたけど、やっぱりその通りだ。
「結局ね、受験したんだ。無理やりじゃなく、自分の意思で。お母さんのレールじゃなくて、自分で選んだんだ。どうせなら独り立ちできるために遠くの大学受けようって決めて、ぱっと思いついた場所が大阪だったの。青衣くんが生まれ育った場所なら、何か辛いことがこの先あっても頑張れる気がしたから」
私から身体を離して、彼は困惑したように見つめてくる。彼の指が私の頬を撫でて、涙を拭き取ってくれるその優しさが本当に大好きだ。
「……いいんか、それで。俺また怖くなって、花梨のそばから消えてしまうかもやのに」
「そのときは、私、全力で探すよ。何度でも、青衣くんが『もう逃げんの疲れたわ』って言うまで、追いかけ続けるから」
「……なんなん、大阪弁、うまいやん」
「ふふ。だって青衣くんのイントネーション、耳から離れないんだもん」
イントネーションだけじゃない。
きみの声も仕草も優しさも笑い方も。ぜんぶぜんぶ、私の心から離れてくれなくて困ってる。
青衣くんの右手を、もう一度両手で包み込んだ。彼がこの手を嫌いでも、私は愛したい。
「大丈夫だよ、私が見つける。青衣くんがどこに行っても、今日みたいに私が見つけに行く。青衣くんがもう無理だって思っても、私が隣にいるから」
だから、手が届かないほど遠くに行かないでほしい。
「ひとりじゃ耐えきれないことを、誰かに話したいときあるよね。私は青衣くんの“誰か”になりたい。あわよくば、青衣くんに私の“誰か”になってほしいな」
青衣くんの瞳が揺れた。彼の瞳にはいつも、深海のような底のない暗闇が隠れている。だけど今、少し潤んだそれは、浅瀬のように透き通った光が映っていた。
「俺はたぶん……花梨に出会えたのが、人生最大の転機や」
こくりとうなずけば、彼はふっと微笑んだ。
「母親はさ、音楽の道を進む俺を見るたびに親父のこと思い出してたと思う。申し訳なかったけど、どうしても好きなことはやめられんかった」
「うん……」
「でも、さ。母親は病院で俺の曲を聴いてた。『瑞季の曲は、いちばんの薬になるよ』とか言ってて……あのときはそんなことないやろって突っぱねてしまったけど、ほんまはすごい嬉しかった」
「私にとっても、いや……青衣くんの曲が好きな人たち皆んなにとってもそうなんだよ」
「……そうか。……うん、そっか」
青衣くんは膝を折って、顔を伏せた。お母さんのことを思い出しているのかもしれない。孤独を耐えている彼の背中に、ためらいながらもそっと触れた。
すると、ゆっくりと彼が顔を上げた。先ほどよりも凛々しく、頼もしい表情で。
「決めた。俺さ、この道で頑張ってみる。母親がどこかで俺の曲を聴いて、笑顔になってくれたらいい。それで、父親を追い越すくらい成功してやるんや」
「すごい。……かっこいいよ、青衣くん。」
「そうやって手放しで褒めてくれる花梨にも逃げられんように頑張るから、やから……そばにいてくれん?」
そんなの、当たり前だ。断る選択肢なんてあるわけない。不安そうな表情を早く覆したくて、大きくうなずいた。
「好きや、花梨」
透き通るような綺麗な声で、甘く囁かないでほしい。私は彼に何度恋に落ちれば気が済むのだろう。
「私も、青衣くんが大好き」
いつからか、自信を持って気持ちを伝えることができるようになった。それは隣の彼のおかげだ。
青衣くんは私にとって、特別な人。
青衣くんにグイッと腕を引かれて、そのまま抱きしめられた。包み込むように、優しくギュッとしてくれる。
「ありがとう」
彼は、何をかは言わなかった。それでも充分に伝わるからうなずくだけにした。
「……本当はずっと、言いたかった。誰かに“寂しい”“助けて”って言いたかった」
青衣くんは右手を、私の頭にそっと乗せた。
「その誰かになってくれて、ありがとう」
彼の言葉は、私の胸を打つ。そんなもったいない言葉を私がもらってもいいのだろうか。
青衣くんには、弱くても上手く生きられなくても良いと知ってほしい。私が隣にいるから、と。私が弱ったときは、青衣くんが隣にいてほしいと。
「私も青衣くんに、すごくすごく助けられたよ。友だちにも家族にも本音をぶつけられたし、自分の意思で決めることができるようになったの。青衣くんが突然いなくなっても、こうやって会いに来てしまう行動力まで持っちゃったよ。青衣くんは、わたしの自分が好きな自分になれる手助けをしてくれた」
「そんな大それた話ちゃうけどなあ」
「ううん、とっても大きなことだよ」
食い気味に言えば、青衣くんは私を至近距離で見つめたあと吹き出した。
「つまりそれは、花梨にも俺がおらんとあかんってことやな」
「そう、……なります」
「あ、また敬語出た。照れてるやん」
楽しそうに笑う青衣くんの横顔が眩しい。好きだという言葉じゃ足りないほど、大切で仕方ない。
身体を離すと、彼が私に右手を差し出してくれた。その手を取って、立ち上がる。
離れている間に少し背が伸びたのか、彼と身長差が開いているように思えてドキッとしてしまう。
「そういえばさ、大阪帰ってきてからまたあんま眠れんくなった。ぜったい花梨が近くにおらんかったからや」
拗ねたように呟く彼は少し幼く見えて可愛い。本人にそう伝えたらさらに拗ねそうなので、そっと胸の奥にしまいこんだ。
「じゃあ、これからはよく眠れるね」
だって、青衣くんのそばにいるから。
「……おう。なんか花梨ってさ、たまに不意打ちでドカーンって、でけえ爆弾発言落としてくよな」
「えっ、爆弾?」
「急にドキッとすること言うてくるなーって話」
「……、ばか」
照れ隠しに、弱い力で背中を小突いた。だけどその手を取られ、彼は自分の手と合わせる。
手を繋ぐだけで、心臓がうるさい。青衣くんの顔が見れないでいると、彼はそっと夜空を見上げた気配がした。
「花梨さ、いつ帰るん? ここ来たこと、親には言ってるんか」
「……実は、莉奈と美蕾にアリバイ工作してもらって、今日は帰らない予定、です」
「おー……?」
変な声を漏らした青衣くんは、少し考えた末に、可笑しくなったのかふっと頬を緩めた。
「親に反抗する花梨、なんか新鮮やわ」
「……うっ、おかげさまで」
「じゃあうち来て、良かったら母親に手合わせたって。あの捻くれ息子が可愛い彼女できたーってぜったい喜ぶから」
「……え、いま可愛いって、」
しかも、……彼女って。
みるみるうちに顔が熱くなる私に負けないくらい赤くなってる青衣くんが、照れくさそうにそっぽを向いた。
「ずーっと思ってましたけど? なんや、文句ある?」
「あ、ありま、せん……」
「そーかそーか」
お互い動揺しているのが丸わかりで、ふたりで目を見合わせた。数秒沈黙してから、どちらからともなく、ぷっと吹き出した。
そのまましきりに笑い合ったあと、青衣くんは冗談めかしたように言う。
「夜な夜なギター弾くから、花梨聴いてくれる?」
「もちろんだよ。そんな幸せな時間ないもん」
「いい彼女や」
「青衣くんも、いい彼氏だよ」
「……バカップルやん」
ふたりで手を繋いで見上げた夜空は、浜辺でいつも見ていた海よりも綺麗だった。
周りに何もなくても、彼が隣にいてくれたらそれだけで幸せだ。彼にとって私がそんな存在であれば、もっと嬉しい。
青衣くんに出会えてよかったと心から実感する。そうして、繋いだ手を離さないようにギュッと握りしめた。
Fin.