────本当は、塾の授業が18時からある。初めて、ずる休みをした。そして初めて、お母さんの敷いたレールから飛び出した。
 

「あれ、まだ17時半やけど」

 私が砂浜を踏みしめる音で振り返った彼は、ふっと表情を和らげた。彼はケースから取り出したギターを抱えていて、砂に触れないように注意しながら、弦を調整していたらしい。

「……早く来ちゃった」

 青衣くんの隣に腰を下ろすと、いつもと会う時間が違うからか彼の横顔がさらに美しく見える。

「一緒やな。俺も、実は15時からここおる」
「ええ、それは早すぎるよ?」
「花梨が約束の時間より早く来るのを見越しての行動やん。褒めてくれへんの?」
「うっ……、ありがとね。でもさすがに3時間前には来ないよ」
「案外ドライやな。俺は朝から、早く花梨と話したかったのになあ」
「…………それは私も、です」
「わかった、花梨って照れたら敬語になるんやな」

 そんなこと、わからなくていいのに。指摘されたことでまた照れてしまって、わざと話題を変える。

「この時間でも、ほとんどここに来る人いないんだね」

 薄暗い視界の中で周りを見渡すと、私たち以外に幾人かしか確認できない。いつもより長く彼といられる上にふたりきりの気分を味わえて贅沢だ。

「ほんまにな。ここってほぼ明かりなくて暗いし、海も近くて危ないんかも。それに、そこそこ狭いやん。海は綺麗やけど、あんま人が寄り付くような場所じゃない気がする」
「それ、かなり貶してるんじゃ……」
「ちがうちがう、穴場やなって言いたかってん。こういう場所じゃないとうまく息できひん人も、この世界にはいっぱいおるんちゃうかなって」
「うん、……そうだね」

 私たちも、海風が頬を撫でる薄暗い浜辺でしか話せないことがある。適度な距離感を保ちながら、お互いの繊細な領域を意識しながら、ただ隣にいて話をする。そんな時間が必要な人は、きっとたくさんいるはずなのだ。

「花梨ってさ、ずっと思ってたけど空気清浄機みたいよな」
「ええ、どういうこと?」
「なんやろなあ……。例えるの難しいねんけど、花梨が近くにおるだけで、まわりの空気が澄む感じ。息が吸いやすくなるし、その場に自分がいてもいいって言われてる気分になる」
「それって簡単に言えば、青衣くんにとって、私は必要……ってこと?」
「正解。俺は花梨がおらんと、だいぶキツい」

 彼が私を必要としてくれていることが何よりも嬉しい。誰かにとって意味のある人になれることは、うまく生きることができている証明になる気がする。その相手が青衣くんであること、それが私の心をじんわりと温める。

「私も青衣くんがいない世界を、もう想像できないな……」

 もし青衣くんと出会っていなかったら。あの夜、浜辺で話していなかったら。私はきっと、今も現状を少しも変えられずに日々を鬱々と過ごしていたにちがいない。

 そんなおそろしい世界を、いっぺんに彼が変えてくれた。私が自分で染められなかったモノクロの世界に、青衣くんが彩りを与えてくれている。

「でも花梨は、俺がおらんでももう大丈夫やろ?」

 それなのに、彼は全然わかってない。
 私にとってきみがどれほど大切な存在か、居なくてはならない存在か、まったく伝わっていない。

「……どうして、そんなこと言うの?」

 少し突き放すような言い方が気にかかった。
 どうにか繋ぎ止めないと、彼は突然、どこかに消えてしまいそうだった。

「青衣くんがいるから、私はまた明日も頑張ろうって思えるの。それに、青衣くんがいてこそ、今まで知らないふりをしてきた自分の気持ちに、向き合うことができるんだよ」
「花梨は俺を、買い被りすぎやな」
「そんなことないよ。たくさん青衣くんと話してる私が言ってるんだもん、ほんとだよ。青衣くんも、……自分を認めてあげてほしいな」

 私の言葉に、彼は力無く笑った。
 昨日からずっと、彼の芯が見えない。どうしてこんなにも、どこかへ行ってしまいそうな気がするのだろう。

「そうなんかなあ。自分を認めてやることなんて、俺にはまだ出来ん所業やけど……でもありがと、花梨」

 私だって、自分のことを認めてあげることなどまだ出来ない。ダメなところにばかり目がいって、欠点を包み込めるほどの器量はいつになっても得られない気がしている。

 でも、青衣くんには自分を愛してあげてほしい。
 だって、こんなにも素敵な人なんだから。

 彼は唇を噛み締めて何かを考えるように空を仰いだあと、ふっとため息をついた。

「海も空もさ、あんな広いのにゆっくり動いてるやん。ぱっと見じゃわからんけど、いつのまにか変わっていってる」
「うん、……そうだね」
「やのに俺は……何やってるんやろな。ずっと変わらんで、動けんでいる。なんでこんなに……臆病なんやろ」

 少し掠れた声だった。聴き逃してしまいそうなほど小さく、青衣くんらしくない声。

 いつものように、彼は右手を海にかざした。そのままぎゅっと拳を握りしめたかと思うと、ゆっくりと手を広げる。

 彼の目は、自分の手の行方を追っていた。薄暗くてもわかるほど瞳が揺れていて、胸が痛くなってしまう。

 ……きみは、何を抱えているの?
 その右手の仕草には、何の意味があるの?

 聴きたくても、聴かない。彼が話したいと思うその瞬間まで……私は待ち続けたい。

「もう出来ることなら、何もかも全部捨ててどっかに消えてしまいたいって思うときがすげぇある。別に、場所なんかどこでもいいんや。逃げることができるなら、なんでもいい。そんなとき、花梨はない?」

「……あるよ。最近までは、毎日のように思ってた」
「あーやっぱ仲間やなあ」

 隣の彼は、私の返答に呆れたように笑う。

「健全に生きてる人はさ、こんなこと考えへんのかな。ていうか、みんな生きるの上手すぎん?」
「うん、わかるよ。学校にいても、外を歩いてても、みんな器用に生きてるように見える。卒なくこなせないのは私だけなんじゃないかとすら思うもん」

「それなんよな。でもたぶんさ、人それぞれ生きづらい部分抱えてるけど、いちいち立ち止まってられへんからとりあえず毎日過ごしてるんやろな」
「うん、まさに“とりあえず”で生きてるなあ……私」

 お母さんと話し合うことを、ずっと避けている。向き合うこと、反対されることが怖くて逃げてばかりだ。
 塾をサボってしまった罪の意識が、突然襲ってくる。お母さんにバレたら、どれほど叱られるだろう。

 とりあえず1日1日を生きるのに精一杯で、後のことは未来に任せてしまっている。そういう生き方が定着していて、時々ふと自分を見失いそうになる。

「でも今までこんなささくれた気持ち、誰かに話すときなんか来やんと思ってたな。花梨だけでもわかってくれたから、もう充分や」

 みんな、うまく生きているように見えて、案外そうじゃないのかもしれない。

 私だって、青衣くんが転校してきた当初は彼のことを、言いたいことをはっきり言えて、さらに自分を持っている人だと当てはめて羨ましかった。交わることのない人物だと思って、線引きしていた。だけど話せば、こんなにもお互いを受け入れられる。

 人生、どんなことがあるかわからない。明日平和である保証だってなくて、でもそれとなく私たちは生きている。

「ねえ、……青衣くん」
「ん?」

 ……どこにも行かないよね?

「ううん。……やっぱり、なんでもない」
「おー? 気になるやん」
「ごめんね。なに言おうとしたのか、忘れちゃった」
「マジか。気になって夜しか寝られへんわ」
「ふふ、充分だよそれは」

 きみにとって、今夜も穏やかに寝られる夜であればいいと思う。そうでなくても、孤独を感じずに夜を明けてほしい。

「あ、そうや」

 彼は突如ポケットに左手を入れて、何かを取り出した。「手ぇ出して」と言われたので、訳がわからないまま両手を出す。
 何か小さく冷たいものが私の手に落とされて、それを見つめる。

「……え、ピック?」

 それは、ギターのピックだった。深海のように鮮度の高い紺碧色が、マーブル模様に畝っている。人差し指と親指でつまんで、海にかざしてみた。すると、本物の海よりもずっとずっと煌びやかに見えた。

「それ、花梨にやるわ」

 ひとりごとのように青衣くんは言う。照れくさいのか、こちらを見てくれない。

「えっ、こんなに綺麗なもの……いいの?」
「うん。俺ピック集めんの好きやねんけどさ、それはなんか花梨の方が似合う。俺には鮮やかすぎて、なかなか使えんかったから」

「……そっか。なんだかこの色、海の色に似てるね」
「そうやろ。それもあって、花梨に持っててほしいなって思った」
「嬉しい。……ありがとう」

 青衣くんからもらったものは、なんでも嬉しい。
 私たちはお互いの連絡先も知らないし、ふたりを繋ぎ止める証みたいなものだってない。だからこの小さなピックが、こうしてわたしたちが夜ふたりで話していることの証明になる気がしたのだ。

「大切に、するね」

 じっとピックを見つめて言う。青衣くんがわたしに似合うかもと言ってくれたこれを、宝物にしようと思った。

「……別に、そんな良いもんちゃうけどな」
「ううん。青衣くんがくれたんだもん。それだけで大切なものになるの」
「……そーかあ?」

 気の抜けた返事をした彼は、少しだけ耳が赤いように見える。照れ屋なところも愛おしくて仕方がない。

「ちなみにさ。そのピック見て、花梨がひとりじゃないって実感できたらいいなって、俺もおるって思えたらいいなって意味も込めて渡してるんやで」
「そう、なの?」

「そ。人生どうにも出来ひんこともあるやん? でも、花梨が何かに一歩踏み出してみようって思うんなら、ちょっとでも手助けしたいって思ってる」
「……うん。私も同じだよ」
「そっか、それは嬉しいわ」

 青衣くんは左手を伸ばして私の頭をぐしゃぐしゃと撫でた。強引なその仕草に胸が苦しくなって、抱えていた不安がこぼれ出る。

「……ねえ、青衣くん」
「んー?」
「どこにも、行かないでね」

 彼は震えた私の声を聞いて、視線を寄越した。その瞳は寂しげに揺れていて、これ以上なにも言えないと思ってしまった。

「どうやろなあ……」

 曖昧に笑って、彼はため息を吐いた。

『人生どうにも出来ひんときあるやん?』

 先ほど青衣くんが何気なく放った言葉を思い出す。私たち子どもには、まだ自分の力でどうにも出来ないときがあるのだ。それをきっと、彼は強く実感している。

「夜って、綺麗やな」

 青衣くんがそっと落としたその言葉を、私は拾えなかった。
 


 そして青衣くんは、この夜を最後に忽然と消えてしまった。