「青衣くん」
三日月が夜空に浮かぶ夜。浜辺の砂に仰向けで寝転がっている彼の視界を塞ぐように、そっと彼を見下ろした。
「おー……花梨」
瞑っていた目を開き、私を捉えた彼は、キュッと目を細めた。心なしか、元気がない。原因は、わかってる。わかっているから、少し辛い。
「……お疲れ様。それに、ありがとう」
青衣くんが一向に起きようとしないから、私も同じように浜辺に身を倒した。さらりとした砂の感触は馴染みがなくて新鮮だ。
「なんかいま鬼のように恥ずいわ。1位獲れへんかったし。花梨に豪語して任せろとか言ったくせに、超ダサいやん俺」
「……そんなことないよ。嬉しかったもん」
「花梨はそう言ってくれるってわかってたけどさ。いやもうクラス全員に申し訳ねえーー……」
青衣くんは、わかってない。私たちは1位を本気で望んでいたわけじゃなくて、彼が必死に走っている姿を見て、ただただ応援したくなっていたことを。
「でもあんなに必死に頑張ったの、いつぶりやろ。リレー終わった後クラスの奴らにもみくちゃにされたとき、全力で走って良かったって思えたし」
「……うん。本当に本当に、カッコよかったよ。私の中では……飛び抜けて青衣くんが1位だった」
力強く言葉に出す。寝転がったまま青衣くんのほうを見れば、彼もこちらを見ていて、驚きで心臓が飛び出そうになった。
「ふは。なら良かった」
私のときめきなんて知る由もなく、彼は気の抜けたように笑う。その無邪気な笑い方が好きで、ずっとそうしていてほしいと思った。
彼はまた私から視線を外し、視界いっぱいに広がる夜空を見上げる。
「俺さ、小さい頃から集団行動が苦手やねん。まあはっきり言うなら、協調性がない。やから転校前も、ちょっと友達と関係拗れたあと、修復しようともせずに孤立してた」
彼はいつも私を見つめているようで、どこか違うところを見ている。彼の過去は、触れたら消えてしまいそうなほど儚い。
「前の学校でさ、こんな俺やけど、それなりに友達おったんや。けど音楽のことでちょっと名が知れた頃友達と外歩いてたとき、俺の曲聴いてくれてる人に話しかけられた」
「……うん」
「普通に嬉しかった。でもそのあと友達が『うわー青衣調子乗ってる! 俺らもギター始めたら有名になれんじゃね?』って言って、俺の担いでたギターを掴んだんや」
嫌な予感がする。だって、彼がここに転校してきたときに、手塚くんがギターに触れたのと状況が重なって見えたから。
「ケースに入ってたけど、友達が引っ張った反動で、ギターがどっかの壁に当たって鈍い音がした。あいつらにとったら、ただの友達のギターかもしらん。普通に親が揃ってて苦労知らずの奴らには、俺がなんで音楽に縋ってるかわかるわけないってあのときは本気で思った。ギターは俺にとってほんまに大切で、母親が金ないのに無理して買ってくれたやつで、それがなかったら夜も眠れんくらいの存在で、ぞんざいに扱われたと思った瞬間、頭に血が上ってた。その頃ちょうど母親の癌が見つかった頃で、精神的に余裕がなかったのもあったと思う。『触んなよ! お前らに俺の何がわかるんや!』って、マジでキレてしまったんや。いま思ったら、被害者妄想もいい加減にしろって話よな」
自重気味に笑う青衣くんは、当時のことを思い返すように遠く広い夜空を眺めている。その瞳には私がまったく映ってなくて、そばにいるはずなのに、すごく遠い存在のように思えて悲しい。
青衣くんの苦しさは、きっと青衣くんにしかわからない。だからこそ、かける言葉が難しいと感じてしまう。
「転校してからも、やっぱ最初は上手くいかんかった。けど、花梨と手塚のおかげやな。クラスの奴らとあんなふうに笑える日が来るなんて思ってもみんかったわ。手塚なんか俺何回も冷たくしてたのに、そのたびに根気強く話しかけてきてくれてさ。表面的なところだけ見やん優しさに、たぶんやけど、めっちゃ救われた」
「……手塚くんも、きっと同じ気持ちだよ」
「そーかな。でもまあ、こっちに越してきてよかったと思ったこと2つのうちのひとつは、手塚がうざいくらい追いかけ回してきてくれたことやな」
手塚くんのことそんなふうに言っているのは、照れ隠しだとわかってる。だって青衣くん、口角が上がりっぱなしだ。
「もうひとつは、何なの?」
単純に疑問に思って問いかける。
彼はちらりと私のほうを見て、勢いよく起き上がった。そのまま浜辺に手をついて、私のことを視界に入れないまま海を眺める。
「もうひとつここに来て良かったことは、花梨に出会えたことやな」
「……え」
びっくりして、起き上がる。彼の表情を見ようとするけど、ふいっと顔を逸らされた。
「花梨とこんなふうに話すことにならんかったら、俺はきっと、何も変われんかった。いまもまだ全然あかんし、自分のこと責めてばかりやけど、花梨のおかげでちょっとだけ強くなれた気がするわ」
「そんなの、……ぜったい私の台詞だよ。だって私、美蕾と莉奈と、今日初めてちゃんと向き合えた。言いたかったこと、言えたの。いままでの私なら、そんなの無理だった。こんなふうに勇気を持てたのは、青衣くんに出会えたからだよ」
青衣くんには感謝しかない。私が変わるきっかけをくれたのは、他でもないきみだから。
ふと視線を感じて隣を見ると、やっと彼が私を視界の真ん中に入れてくれていた。それだけで胸が熱くなって仕方ない。
「眠れん夜も、ギター弾かんくても、花梨との話を思い返すとなんか安心して寝れるねん。そんなこといままでなかったのに、花梨の存在が日に日に俺の中で大きくなりすぎてたまに怖くなる」
今夜は青衣くんのそばにギターがない。体育祭の後だから当たり前なのだけれど、少し寂しい。
吸い込まれそうなほど暗い海を、彼の隣で眺める。この光景も、何度めだろう。数えきれないくらい一緒にいるように思えて、よく考えてみれば、両手で数えられるくらいなのかもしれない。
ずっとこんなふうにいられたら、どんなに幸せだろう。
「あ、てか明日代休やん?」
突然話題が飛んで、面食らいながらもうなずく。青衣くんは少しためらう様子を見せつつ口を開いた。
「いつもより、ちょっとだけ早めにここ来れん?」
「……え」
「無理やったら全然いいんやけど。せっかく休みなんやし、花梨と長く話してたい」
「え、……え、うん。え、もち、ろん」
「なにそんな動揺してんや」
青衣くんは可笑しそうにそう揶揄うけれど、彼からそんな提案をされるだなんて信じられない。こんな嬉しい誘いに、動揺するなというほうが無理だ。
「あの……じゃあ、18時くらいに、来ます、ね」
「いやなんで敬語なん」
「だって、青衣くんが、嬉しいこと……言うから」
「はいはい。ほんま花梨は俺のこと好きやなあ」
「……っ、ちがうもん」
「ふは。そーか?」
彼の言う“好き”と、私が彼に想う“好き”は全然ちがう。それをわかっているのか、否か。今日の青衣くんはちょっとだけ意地悪だ。
「じゃあ、俺も18時に待ってます」
「……あ、敬語真似してからかってるでしょ」
「ちょっとな。でも関西人は標準語で話そ思ったら、敬語になるねんなーこれが」
「もう……言い訳しなくていいよ」
「これはほんまやねん」
ふたりで目を見合わせて、笑う。それだけなのに、どうしてこんなに楽しいのだろう。
青衣くんがそっと自分の右手を海にかざす。
彼特有のその仕草に意味があるのかは、まだ聞けない。



