……やってしまった。
心の中で冷や汗をかきながら、だけど歓喜に沸いているクラスメイトに囲まれて、なんとか笑顔を作る。
「女子リレー1位おめでとうー!」
「芹名さんめっちゃ速かったね! やっぱりリレー出てもらって正解だったよ!」
「みんなマジで速かった! これ、うちのクラス優勝出来るんじゃね?!」
「手塚はいちいち大げさなんだって」
「え、俺もみんなと盛り上がらせて?」
女子リレーは、大きなミスもなく全員が走り切り、1位に輝いた。いつもの私なら、こんな自分がみんなに貢献できて、とっても喜んでいただろう。
だけど、ジンジンと痛む足首に全神経が注がれていて、本音はそれどころじゃない。無事走り切ったものの、最後の最後で右足首を痛めてしまったのだ。
何もかも上手くいくはずがない。普段運動していない私が全力で走れば、簡単に怪我をすることくらいわかっていたことだった。
私はいつもこうやってどこかで躓く。他のみんなみたいに器用にこなせないことを自覚しているはずなのに、自分の技量以上のものを引き受けてしまう。
「りんりんお疲れさま! めーっちゃカッコよかったよ」
「花梨、ほんとに速かったね。私、感動しちゃった」
莉奈と美蕾も駆けつけてくれて、ぎゅっと抱きしめられる。その温もりを感じて嬉しくなるものの、怪我をしたことを気づかれていないことにほっと安堵した。
あともう少しでまた、クラス対抗リレーを走らないといけない。冷やしたら、ちょっとでも痛みが和らぐだろうか。でも、怪我をしたと皆んなに気づかれたら、きっと無理に走るなと言われてしまう。そうなったら、うちのチームが棄権になる可能性だってあるのだ。
……それだけはだめだ。
私はやり遂げるって決めたのだ。
足が痛いくらい、どうってことない。そんなの吹っ飛ぶくらい、頑張ったんだから。
でも、やっぱり痛みは増してきて、どうにも笑顔でいるのがしんどくなってくる。
「私、ちょっと休憩してくるね。ふたりはここにいて」
なんとか口角を上げて莉奈と美蕾に言う。ふたりは心配そうな表情を浮かべたけれど、なにかを察してくれたのか、こくりとうなずいた。
「そう? りんりん無理しちゃだめだよ〜」
「同じく。あと、次のリレーも楽しみにしてるからね」
「……うん! ありがとう、ふたりとも」
クラス対抗リレーまで、まだ1時間ほどある。ひとまず座って安静にしようと思い、グラウンドから出た。
大きな歓声や音楽が遠ざかる。静寂を纏う中庭へと向かいながら、私だけがこの世界に適応できていないように感じて少しだけ苦しい。
ひょこ、ひょこ、と右足に負担をかけないように不自然な歩き方をしつつ、どうにか中庭へとたどり着いた。
ベンチに腰掛け、そこでやっと心が開放される。
いまは誰も私のことを見ていないのだと思うと、どっと疲れが襲ってくる。笑顔でいなくて良いのだと思うと、涙がこぼれ落ちそうになる。
どうして私はこんなにも弱いのだろう。
みんなは上手くこなせることを、私は空回ってばかりだ。自分に自信がなくて、少し悪いことがあったらずっと考えてしまい、息がしにくくなる。
さっきまでは、自分は無敵にでもなった気でいた。もう私は大丈夫になって、自然と笑えて、小さなことで落ち込むこともないのだと。
自分を認めてあげようと思った矢先に失敗してしまう自分の弱さを、どうにもまだ抱きしめてあげられない。愛おしいと思えるほど、自分に優しくできない。
ひとりになると気が緩み、涙がぽろっと落ちてしまう。慌てて拭うも、次から次へと流れ出て止まりそうにない。
何もかも、やめてしまいたいときがある。全部放って、どこかへ逃げ出してしまいたいときがある。
だけど、私はそんなことを思っていいほど頑張れていない。もっと大変な思いをしている人たちが五万といる中で、私の悩みなどちっぽけに違いない。
青衣くんと初めて話したあの日までの自分と、全然変われていない。変われたと思っていたのは自惚れでしかなかったのかもしれない。
――――でも。
でも、ここで何もかも諦めたら、もう私は変われないのだ。せっかく一歩踏み出そうとした自分の背中は、自分で押してあげなきゃいけない。
流れる涙を、ジャージの袖でゴシゴシと拭いた。
大丈夫、前を向ける。まだ走れる。
俯いていた顔をあげれば、晴天が私を包み込んだ。優しい光が周りを照らし、前を向いている私のことを見守ってくれている気がする。
こんな気持ちになったのは、初めてかもしれない。
いままでずっと、自分はだめなんだと、ちっぽけな人間なのだと疑わなかった。ひとりで悩んで抱えて、どこにも吐き出す場所がなくて鬱々としながら生きていた。
涙を拭いて前を向けた。まだ頑張ろうと思った。それだけで、私はきっと偉い。青衣くんに、褒めてほしい。
大きく深呼吸をした。
よし、行こう。そう思ってベンチから立ち上がろうとした、そのときだった。
「……花梨?」
低めの、少し掠れた声が耳を貫いた。びっくりして、勢いよく振り返る。
そこには、走って来たのか、肩を上下させている青衣くんが立っていた。私たちと同じように体操服を来て、そこにいた。色素の薄い髪は少し乱れているけれど、太陽の光が反射して眩しく煌めいている。
あまりに驚いてフリーズしていると、青衣くんは眉を下げて私に近寄ってくる。
「どうしたん、……こんなとこで何してるん?」
「……っ、」
「え……ほんまにどうしたん、目腫れてるし、ぜったい泣いてたやん」
さっきまで泣いていたことなど、記憶から吹っ飛んでいた。それよりも、青衣くんが来てくれたことが嬉しくて、言葉がうまく出てこない。
「青衣、くん……」
「うん?」
「……遅い、よ」
来ないかと思った。リレーのみんなも、心配していた。空虚感で、心にぽっかり穴が開いていた。
ここ数日、夜も会えていなかったから、とても久しぶりに感じる。柔らかい関西弁が耳に馴染んで、泣きそうなくらい安心感をおぼえた。
青衣くんは俯いた私の頭に、ぽんっと大きな手を置いた。ためらうように撫でられ、胸がきゅっと苦しくなる。
「ごめんな、マジでめっちゃ遅れた。こんなつもりはなかってんで、ほんまに」
「……うん」
「でも、花梨がぜったい寂しがってるやろなーって思ったから、全力で走ってきた。たぶんさっきの俺、ギネス狙える」
「……これ以上、遠い人にならないで」
「なんやそれ。ちょっと、ドキッとしてもーたやん」
ふはっと笑った青衣くんは、ほんの少しだけ覇気がなかった。違和感を感じて、顔を上げてきちんと彼の表情を伺う。
途端に、“遅い”だなんて言ってしまった自分の言葉を後悔した。
……青衣くん、休んでいた間に、何かあったんだ。
おそらくよく眠れていないのだろう、目の下に薄い隈があり、笑い方がぎこちない。どうしてかわからないけれど、彼が心の中で泣いている気がして、どうにも胸がざわざわする。
「青衣くん、」
「んー?」
「青衣くん、……いま、無理して笑ってるよ」
思わず、そう口にしてしまう。だって、見過ごせなかった。こんなにも彼の心が、辛いと訴えているのに。
「マジ? ……そう見える?」
「見えるよ。私が聞いていいのかわからないけど、何か、あったんだよね……?」
最近ずっと姿を現さなかったのも、体育祭に遅れてしまったのも、元気がないように見えるのも。
彼をじっと見つめて尋ねれば、彼はわずかに瞳を揺らしたあと、観念したように息を吐いた。
「あーあ。……花梨には敵わんなあ、ほんまに」
「……それは、こっちの台詞だけど」
「いや、今日は大丈夫な俺でいけると思ってんけどな。花梨の顔見たら、なんか気ぃ緩んでもーたんかも」
目を細めた青衣くんは、やっぱり語気が弱くて、元気がない。いつもの彼じゃなくて、心配で苦しくなる。
「ちょっと、重い話になっても、いい?」
初めて、彼が私に何かを話そうと目を見てくれた。ただそれだけが嬉しくて、力強くうなずいた。
「もちろんだよ。ぜんぶ聞かせて」
「頼りになるなあ」
青衣くんはそう呟くと、空を見上げた。私も立ち上がって同じように天を仰ぐと、そこにはどこまでも続く青い空が広がっていた。
「実は、さ。俺の母親、入院してるねんな」
「……え」
青衣くんの、お母さんが?
頭の中が真っ白になって、ぐわんと視界が揺らぐ。
────『母親は、家におらん』
彼がそう言っていたのを思い出した。だから寂しくないように歌うのだと。彼は確か、泣きそうな表情でそう言っていた。
「父親と離婚してから、……いや、離婚する前から、精神状態が不安定になって、でも心と身体に鞭打って仕事してた。あんな酷い父親のことを忘れられんくて、見てられへんくらい壊れていった。ぼろぼろになるまでやって、それで、癌が見つかったんや」
話しながら、彼はどこか遠くを見ている。シャボン玉みたいに触れたらパチンと消えてしまいそうな儚さを纏っていて、彼はいつかどこかに行ってしまうのではないかと怖くなった。
「もうだめになって、入院しなあかんくなって、母親の生まれ育ったこの町に引っ越した。大阪より空気は澄んでるし落ち着いてるし、何より憎い父親がおらん。この町でなら、母親がちょっとでもマシなるんちゃうかなって思ってた」
自分の父親のことを“憎い”と言い切った青衣くんの表情は見えない。もう心が折れてしまっているのだと、私は早く気付けなかった。
「やけど、病院に行くと、そう人生甘くないって痛いほどわからされる。日に日に表情が穏やかになるのにつれて、目に見えてわかるくらい痩せていくねん。……病状が悪化してることなんて、聞かんくてもわかった」
「……、うん」
天を仰いで私を見ない青衣くんの肩は震えていた。胸がキリキリと痛くて、だけどちゃんと聞いていることを伝えたくて、彼に少しだけ近付いた。
「そしたら案の定、3日前の朝に病院から電話が来た。容体が急変して緊急手術するから、急いで来いって」
彼は数日前にそんなことがあったのに、どうしてさっき私に笑いかけてくれたのだろう。どうして私の心配を先にしてくれたのだろう。
どこまでも優しくて繊細で温かい人。だからこそ、心の奥底ではきっと隠れて泣いている。
「もうたぶん、……長くないねん。クソみたいな父親も、無理して笑ってる母親もおらんくなったら、……俺ひとりなるやんって思って夜も眠れんかった」
泣かない。私は泣いたらいけない。青衣くんはいつも、私と夜の浜辺で語りながら、孤独と戦っていたのだ。
「それで、母親が目覚ますまで、ずっと病院おった。やから学校にも行けんで、花梨にも会えんかった。やっと昨日の夜意識が戻って、なんやかんやしてたら今日になってた」
「……うん、」
うなずけば、やっと彼と目が合った。柔和でぎこちない笑みを私に向けて、再度口を開く。
「でもさっき、花梨がここおるん見えて、びっくりするくらい安心したんや。頑張って走って来たのに“遅い”とか言うし、そういうとこ含めて、ちょっと泣きそうやった」
やっといつものように笑ってくれた青衣くんに、一歩近付いた。そして彼の髪に手を伸ばして、衝動的にそっと撫でる。色素の薄い髪は柔らかくて、どこまでも繊細だった。
私の行動に、彼は目を見開いている。自分でも、大胆なことをしている自覚はあったけれど、それでも彼に温もりを与えたい気持ちが強かった。
「もー……ほんま、泣かすなや」
強がった言葉が落ちる。彼を抱きしめたいけれど、それは勇気が出なかった。
すると、青衣くんは表情をゆがめて、そっと私の肩に顔をうずめた。
途端に不謹慎にもドキドキしてしまう鼓動をなんとか抑えながら、彼に迷いながらも言葉を掛ける。
「……ね、青衣くん」
「なんや」
「私、さっきまで、まただめになりかけてたの。だけど、青衣くんが来てくれて、とっても嬉しかった。ずっと、……青衣くんのこと待ってたよ」
青衣くんのお母さんのことは触れなかった。私が軽々しく触れていい話題ではないと思ったし、彼に掛ける言葉が見つからなかったのだ。
どうにかして、目の前の彼を孤独から少しでも救い出したい。ただ、それだけだった。
「あー……やば、マジで泣くって」
「……私しかいないから、泣いていいよ」
「花梨って、ほんま、そういうとこある」
涙声になっているのを知らないふりをした。少し肩が濡れていたけど、気付いていないふりをした。
弱さを見せてくれた彼を、そっと抱きしめた。私は変わらずここにいるよって、大丈夫だよって、届いてほしい。
「……花梨は? もう大丈夫なん?」
ここにきて、顔を上げて私のことを心配してくれる花宵くん。目尻が濡れている彼の、その優しさには何度も驚かされる。
「うん大丈夫。ほんとだよ」
「ほんまに? 無理してへん?」
「ほんとにほんと! 青衣くんに会ったら、ぜんぜん平気になっちゃった」
にこっと笑えば、わずかに彼は固まってしまう。
「……ほんっっま、……あほ、花梨のあほ」
「えっ、なんで?」
「なんもない、そういうとこや」
「……う、それはただの悪口じゃん」
憎まれ口を叩けるほど、元気になったらしい。空元気かもしれないけれど、それでもさっきよりは無理していないように見える。
「ありがと、花梨」
なにが、と彼は言わなかった。言わなくても充分伝わったし、こくりとうなずいた。
「さ、花梨のあほさのせいで元気出まくったことやし、さっきのギネスレベルの俺の走りを世に披露するかあ」
「ツッコミどころ満載だけど、……私も頑張らなきゃ」
クラスメイトとリレーのメンバーに謝らなあかんわ、土下座しよかな、と呟く青衣くん。彼は今日はヘッドホンもギターケースも身に付けてない。
そうひとりで呟いている青衣くんが歩き出してしまい、私もついて行こうと慌てて彼を追う。
だけど、突然忘れかけていた右足首の痛みが鈍く響いた。あまりにも痛くて、しゃがみ込んで足首を押さえる。
「花梨?」
足音が聞こえないことを不思議に思ったのか、私を振り返った青衣くん。私がしゃがみ込んでいるのを見て、顔色を変えて駆け寄って来た。
「花梨どうした、どっか痛いん?」
優しい声音が、いまは辛い。素直にうなずいてしまいそうになるのをなんとか堪えて、急いで笑顔を作る。
だってここで肯定してしまったら……、リレーを走れなくなってしまう。
「う……ちがくて、痛くなくて」
「足首か? 歩くのも痛い?」
ぜんぜん聞いてくれない。私が強がっていることなどお見通しで、それでもって心配そうに顔を覗き込んでくる。
彼のまっすぐな瞳を見つめ返していると、痛みが少し和らぐ気がする。私は至極単純だということは、彼に出会ってから知った。
「……ちょっと、だけ、痛いかも」
観念した。けれど、まだリレーを走る気でいるから、ほんの少しの嘘をつく。
「捻挫かもしらん。女子リレーのときやんな?」
「……、うん」
「終わってから、痛いの我慢してたんか」
「……うん」
「俺がその場におったら、ぜったい気付いたのに」
悔しそうに落とされた言葉を、私は拾えない。だってそんなことを言われたら、思わず好きになってしまいそうだったから。
「でもね、青衣くん。聞いて」
「ん?」
「女子リレーね、……1位だったの。ちゃんと、私走れたよ。……足痛めたのは、想定外だったんだけどね」
だけど、いちばん点数が高いクラス対抗リレーに出れなきゃ意味がない。そこで走れなきゃ、いままでの努力がぜんぶ水の泡だ。そんなことは自覚していて、だからこそ、自分は頑張ったのだと思いたかった。
「そっか。よー頑張ったな」
私はずっと、その言葉を聞きたかったのかもしれない。彼の声で紡がれるその優しい言葉がとても心地良くて、こくりとうなずいた。
「でもな、頑張りすぎや。足痛めるくらい全力で走ったんはカッコいいけど、花梨が怪我するんは嫌や」
デコピンをされ、おでこを押さえる。真意が掴めなくて目を瞬かせていると、彼は拗ねたようにため息をついた。
「青衣くん……もしかして怒ってる?」
「いや、怒ってへん」
「でも、そう見えるよ」
「ちがう。怒ってるんやなくて、心配なんや」
胸がキュッと苦しくなる。彼が私の右足首を、壊れ物を扱うように触れた。
「心配するから無理せんで」
そんなこと言わないでほしい。無自覚にドキドキさせるのは、良くないと思う。
黙ってうなずく。珍しく素直な私を一瞥して、彼は微かに笑った。
「歩けんのやろ。おぶったる」
ほら、と彼は背中を見せて催促する。ずるいくらいの優しさに、今日は甘えたい気分だった。
「重い、よ」
「毎日ギターケース担いでるから大丈夫や」
「根拠になってないよ……でも、ありがとう」
彼の背中に乗ると、ぐんっと視界が高くなる。
おんぶをしてもらっていることが少し恥ずかしくて、そっと彼の背中に頬を寄せた。伝わってくる温もりに縋りたい衝動に駆られる。
「花梨さ、クラス対抗リレー無理して走ろうとしてるやろ」
ギクッと肩を強ばらせる。バレていると思っていたけれど、はっきり言われてしまうと後ろめたくなってしまう。
「う……だめ、ですか」
「だめですね。いまでさえ痛そうやのに、悪化させるわけにはいかへんな」
「でも……」
でも、私がやるって言ったのに。最後の最後で放り出すなんて、ぜったいにだめだ。痛みはどんどん増してきて走れるわけないのに、まだ抗ってしまう。
「花梨はほんま、もっと自分を甘やかして良いんやで」
呆れたように言いながらも、青衣くんの声音は柔らかい。彼の背中は心地よくて、目を閉じたら眠ってしまいそうだった。
……自分を、甘やかして良い。
そんなこと、はじめて言われた。勉強面は特に厳しい親からは、絶対に出ない言葉。
……どうして青衣くんは、いつも私が欲しい言葉をくれるのだろう。私はもらっている分を、彼に返せているのだろうか。
ぐるぐる考えている私に、彼はくすっと笑った。きっと“あほやなぁ”とか、そういうことを思ってるに違いない。
だから、その後彼から出てきた言葉が、最初は本当に信じられなかったのだ。
「俺が代わりに花梨のぶんも走ったる」
そう、さらりと言った青衣くん。何も特別な言葉を放った様子は見せないから、思わず聞き流しそうになる。
「え、どう……、え?」
「動揺しすぎ。言ったまんまや」
青衣くんが、私の分も走る? アンカーは他の走者より長い距離を走らないといけないのに、私の分まで連続で走るなんて無謀に近い。
「なんで、そんなこと……」
私のためにしてくれるの?
そう尋ねる前に、彼は迷うことなく口を開いた。
「いまのままやと花梨のことやから、俺が止めたとしても、チームが棄権になって死ぬほど落ち込むか無理やり走るやろ」
「うっ……、図星、です」
「ほらな。もう花梨のことはお見通しやわ」
「でも、ひとりで2人分も走るなんてしんどすぎるよ」
「お、花梨には俺がそんなか弱く見えるん?」
「ちがうよ……っほんとに、……だって」
青衣くんに、そんな無理させられない。その気持ちが伝わってほしいと思ったけれど、それを彼はやんわりと押し戻してくれる。
「素直に代わってってゆーたら、1位取ってきてやるわ」
そんなの、ずるい。胸が苦しくて、どうしようもなく泣きたくなる。
これ以上、攻防戦を繰り広げるのは無理だと悟った。それよりも彼の優しさを受け取ろうと、心から思えたのだ。
「……青衣くん、お願い。勝ってきて」
掠れそうなくらい小さな声で呟いた。大きな頼りがいのある背中が、彼がクスッと微笑んだことで少し揺れた。
「任せろ。惚れても知らんで」
そんなの無理だ。冗談なんかじゃ済まされないくらい、胸が苦しい。
「……ありがとう、青衣くん」
私のことを考えて想って、提案してくれたこと。
私は十分頑張ったのだと、褒めてくれたこと。
「えーよ。俺もクラスに迷惑かけたしな」
「……いっぱい応援するね」
「おう。俺のギネスレベルの爆速、目に焼き付けといてな」
「うん。もしギネスに登録されたら、教えてね」
「ふは、しゃーなしやで」
彼の言葉に笑みが溢れる。
私は彼の見えない優しさにどれほど救われてきただろう。
青衣くんの背中に頬を寄せながら、そんなことを考えていた。



