そうして時は過ぎ、気づけば体育祭3日前になっていた。

 青衣くんは学校は相変わらずだけれど、浜辺にも3日に1回のペースでしか来なくなった。
 いままで毎日来ていたから不思議で、あまり来ない理由を聞きたかったけれど、会ったときはいつも通りの青衣くんだったからそれはやめた。

 わたしもわたしで、お父さんとお母さんの帰宅が遅い日しか長く話せなくなり、かなり孤独感を募らせていた。

「あーれ、芹名さん。どうした?」

 その言葉にハッとする。
 そうだ、いまは体育の時間だった。

 思わずぼーっとしていたせいで、わたしにバトンをパスしようとしていたであろう手塚くんが、不思議そうに顔を覗き込んできた。

「あ、ごめんなさい……っ、ぼーっとしてた」
「いや、全然大丈夫だけど。芹名さんが上の空だなんてめずらしいなあ」

 手塚くんはそう首を傾げている。
 わたしも自分で驚いていた。こんなに周りが見えなくなるくらい考え事をしてしまうのは、いままであまりなかったから。

「もしかして、原因は青衣?」
「……っ、え」
「あれ、ちがう? 今日、青衣来てないから気にしてんのかと思ったんだけど」

 あっけからんと言う手塚くんに、目を見開く。
 ……そうか、わたし青衣くんがいなくて寂しかったんだ。
 自分でも気づいていなかったけれど、彼がいないと本調子が出ないのは事実だった。

 青衣くんは最近、儚げな雰囲気が濃くなっている気がする。本当にいつか消えてしまいそうな気がして怖い。
 そんなことあるわけないってわかってるけれど、青衣くんがいない世界は、いまのわたしの中には考えられないイレギュラーだ。

 それほど彼が大きな存在になっていることに妙に納得しつつ、手塚くんを遠慮がちに見上げる。 

「……そんなのじゃ、ないよ」

 でも、手塚くんを相手に素直に頷くことは出来なくて、苦笑いを浮かべる。

「えー? ほんとかよー」

 疑わしげにからかってくる手塚くんに微笑みながらもバトンを受け取る。
 だけどわたしのバトンをパスする相手はいないので、練習も中途半端に終わってしまった。

「あーあ。本番3日前だっていうのに、なんで青衣は来ないんだよ!」

 リレーのメンバーでグラウンドの隅に集まって小休憩を挟んでいると、そう手塚くんが天を仰いだ。

 ……ほんとに青衣くん、いまなにしているんだろう。
 曲作ってるのかなあ……と呑気に考えてみるけれど、なんだか的外れな気がする。
 手塚くんの不貞腐れた様子に、わたしが何かを言う前に荒井くんが苦笑した。

「まさか青衣に限ってバトンミスとかないだろうけど、このままだと上手くいくか心配だなあ」
「それな?! 俺寂しいんだけど、青衣〜!」

 ひとりで青衣くんに向けて愛のメッセージを叫ぶ手塚くん。
 その様子に坂木さんも、控えめに笑っている。

 相変わらずだなあ……と眺めていると、いままでずっと黙っていた三木くんが困ったように呟いた。

「でもさ、青衣……当日ちゃんと来るのか?」

 その言葉に、その場にいた全員が何も言えなくなってしまった。
 正直、みんな言葉に出さずとも懸念していたのだろう。不安そうな表情を、隠しきれていない。

 最近学校に顔を出す頻度が減ったから、そう考えるのは仕方のないことだと思う。
 でも、途端に気まずくなる空間に耐えられなくなったのか、それから青衣くんが学校に来ないことへの言及が始まった。

「……もしリレーの練習放ったらかしで曲作りしてたら、俺……ちょっと嫌かも」

 三木くんは陸上部だから、走ることへの情熱は誰よりも多いし、努力を惜しまない。
 だからこそそう思うのだと考えると納得する。確かに、青衣くんは団体行動が苦手で、かなり自由度が高いから。

 三木くんの言葉に、荒井くんも遠慮がちに同調する。

「せっかく1位目指して頑張ってるのに、サボりだったら結構ショックだよな」

 なるべく青衣くんへの批判にならないよう、努めているのだろう。三木くんも荒井くんも、言葉をオブラートに包んでいる。
 静かに聞いていた坂木さんも、少し悲しそうに眉を下げた。

「わたしたちと……、熱量が違うのかな」

 ズンと沈んだ雰囲気が充満し、何か言わなきゃと焦ってしまう。
 このままじゃ、彼が誤解されてしまう。

 ……違うと言わなきゃ。青衣くんはそんな人じゃないって言わないと。
 わかってるのに、なぜか言葉が出てこない。

 自分の思っていることを言おうとすると、喉が詰まって声が出せない。

「もし青衣が来なかったら……俺ら、どうすんの?」

 手塚くんがそう問うと、リレーメンバーはしんと静まり返った。
 メンバーが欠けてしまえば、どうしようもない。もしかしたら、棄権になるかもしれない。

 でも、わたしの知っている青衣くんは、棄権になるくらいなら元からリレーに出ないと言っていたはずだ。
 だから、当日もちゃんと来る。
 そう思いながらも事の成り行きを見守る。

「青衣、俺らがこんなに頑張ってるの知ってんのかな……」
「知ってたとしても、……来ないと意味ねえよなあ」
「これで棄権とかになったら、この時間が無駄になるじゃん」

 各々そう不満を言い、良くない雰囲気に向かっていた。
 ……だめだ、このままじゃ。
 声が出ない自分の喉が恨めしい。青衣くんが、誤解されたままでいいわけないのに、こんなときでさえ自分の心を放つのが怖い。

「……俺、青衣のこと信じて良いのかな」

 だけど、手塚くんのその言葉を聞いたとき、気づけば震えながらも言葉を発していた。

「……青衣くんは、きっと来るよ」

 そのわたしの声に、皆んながハッと顔を上げた。
 ……言ってしまった。きっと空気の読めない発言だった。皆んなの反応がすごく怖い。何言ってるんだって思われるかもしれない。

 でもそんなことなど至極どうでも良い気がした。
 青衣くんは、わたしに勇気をくれたから。この勇気は、彼のおかげだから。

「青衣くんは……、必死に練習しているわたしたちを知ってるよ。絶対に裏切ったりなんかしない。皆んなも……本当はそう思ってるはずだよね」

 止まらない。こんなに自分の感情を誰かにぶつけたのは、いつぶりだろう。

「だから、……だから、青衣くんが休んでいるときは、わたしたちが青衣くんの分も頑張らなきゃいけないと思う」

 ひと息にそう言うと、心の奥に溜まっていたわだかまりが消えていくような気分に陥った。
 彼が見ている世界に近づけた気がして、少しだけ嬉しかった。

 ……言えた、ちゃんと言えたよ。青衣くん。
 おそるおそるリレーメンバーの皆んなの表情を確認すると、全員呆気に取られた顔をしていた。

 ……あ、やっぱりわたし間違えた……?

 途端に怖くなったけれど、すぐにパッと表情を崩した手塚くんのおかげでその怖さは解消されていった。

「やべー……芹名さん、かっけえな!」
「……っ、え」

 かっこいい……? どこが?
 びっくりしてフリーズするわたしの背中を、坂木さんは微笑みながらぽんっと叩いた。

「……うん、芹名さんの言うとおりだよね。わたしたち、同じメンバーなのに彼のこと信じられてなかった」
「俺も青衣のこと、疑っちゃった。でも、俺らが知ってる青衣はそんな奴じゃないよな!」

 坂木さんと手塚くんがすっきりしたような表情でそう言ってくれる。

 ……間違って、なかった。
 ふたりの笑顔にそう安堵していると、荒井くんと三木くんも、眉を下げて口を開いた。

「確かに俺らの頼れるアンカーだもんな。絶対当日も1位取ってくるはずだったわ」
「青衣なら、余裕で1位取りそうだよな。……芹名さん、改めて気づかせてくれてありがとう」
「そんな……、わたしは何もしてないよ」

 三木くんがそう頭を下げ、感謝を伝えてくれる。
 わたしのひと言でこんなに事が変わるなんて知らなかった。

 何より、ずっとモヤモヤして我慢していた自分が少しでも変われた気がして嬉しかった。
 いままで我慢して黙っていた自分を、いまのわたしが追い越したのかもしれない。

「じゃ、練習しよっか!」

 坂木さんが笑顔でそうパチっと手を叩く。
 その声に反応して、皆んな頷いて立ち上がった。

 肩にのしかかっていた重いものが、するりと落ちていった気がした。ほんの少しの勇気が、わたしの肩の荷を軽くした。

「青衣に褒められるくらい華麗なバトンパス目指そうぜ!」
「手塚、それは結構難易度高いぞ」
「青衣くんクールだもんね……。でも、頑張ろう!」
「そうだ!1位は俺らだ!」

 高まっていく熱気の中、手塚くんが走り出す。
 いま、ここにいない人のことを肯定的に話す。それほど優しい会話はなくて、ふわりと胸が温まった。

「りんりんー! がんばれー!!」
「花梨ファイト!」

 練習していると、グラウンドの中央から莉奈と美蕾の声が聞こえた。
 ぴょんぴょんと飛んで大きな声を出しているふたりは、相変わらず仲良さげにくっついている。

 その姿を見て、いつもなら少しの疎外感に苛まれる。でも今日は、素直に応援してくれていることが嬉しくて、ふたりの近さは気にならなかった。

 ほかにも居場所を作るということは、大事なのかもしれない。
 ひとつの見方に囚われて、悪い部分ばかりに視線が向いてしまうから。

 わたしには、青衣くんの左隣と、リレーメンバーとの絆が出来た。そのおかげか心の余裕が生まれて、いままでよりちょっぴり優しい自分になれた気がした。

「ありがとう! ふたりとも」

 めずらしく大きな声で返したわたしに、美蕾たちが少し驚いたように目を見開く。けれどすぐに、嬉しそうに頷いてくれた。

 青衣くんの纏う空気が恋しい。
 彼のおかげで、世界が美しくなった。優しくなれた。

 それを青衣くんに伝えたかったのに、その日の夜も彼は浜辺に姿を現さなかった。