その日の夜は、青衣くんが浜辺にいなかった。

 こんなことはいままでなかったから驚いたし残念だったけれど、彼にも彼の事情があるに決まっているから、肩を落としつつ家に帰った。

 玄関のドアを開ける。すると、そこには厳しい顔をしたお母さんが、腕を組んで待っていた。

 途端にサッと背筋が凍る。怒られることは確実で、反射的に身構えてしまう。

「この前塾で受けた模試の結果、お母さんのメールにも届いたわよ」

 その言葉に思わずビクッとする。
 数週間前に受けた模試の結果は、わたしには少し前に返却されていた。だけれど正直伸び悩んでいて、前回よりも偏差値が下がっていたのを見て落胆したのだ。

 また、お母さんに怒られる……。
 そう思ったら憂鬱で隠し通していたけれど、とうとうバレたらしい。

 きっと塾長がお母さんに送ったのだろう。こうなることならば早く見せておけばよかったと思った。

 青衣くんと浜辺で話せなかった今日に限って、小言を聞かなければいけないなんて。

 憂鬱すぎる。これは1時間コースだ……とぼーっと考えていると、お母さんは静かな家で声を荒げた。

「花梨。成績、下がってたわよね? どうして?」

 怒りがピークに達しているお母さんに、肩を縮こまらせる。
 ……頑張っても、努力しても、成績が伸びないことだってあるのに。

 どうしてなんて聞かれても、わたしだって聞きたい。本当に頑張ってるのに、どうして怒られないといけないの……?

 お母さんは、わかってない。
 わたしのこと、……何にも見ていない。

「ごめん……なさい」

 口からついて出た謝罪を述べ、また口を閉ざす。そんなわたしの様子に苛立ったお母さんは、矢継ぎ早に言葉を投げかけてくる。

「どうして自分が成績下がったのかもわからないの? そんなので大学受かるなんて思ってるの?! 最近の花梨は、ぼーっとしてること多いわよ!」

 お母さんは、わたしに話す隙を与えてくれない。何かを話そうと口を開けば、一拍早かったお母さんがぺらぺらと話してしまう。
 ……わたしは、受験をしたいわけじゃないんだよ。こんな勉強ばかりの日々、もう沢山だ。

 そんな心の声など、誰にも聴いてもらえない。

「塾の帰りも最近遅いじゃない! 誰かと喋っていて遅いんでしょ?! さっさと帰ってきて勉強しなさいよ!」
「……っ、」

 どうしてわたしは、何も言えないんだろう。
 こうだ、と決めつけてくるお母さんの言いなりだ。
 学校でも勉強、塾でも勉強、疲れて帰ってきてからも勉強……?

 考えるだけで吐き気がする。ありえない。
 本当にお母さんはわたしのこと娘だと思ってるの……?
 ぎゅっと肩にかけたスクバの紐を握りしめる。
 ずっと立っているとめまいがしてきて、しんどくなってきた。

 もう、……解放されたい。
 無言でそう思っていたら、お母さんは大きなため息をついてリビングへ去って行く。

「次帰るの遅かったら、門限決めるからね」
「……っ、え」

 青衣くんと、夜話せなくなる。そんなの、絶対嫌だ。
 そう思ったら、飲み込んでいた言葉がつっかえて出た。
 その途端、お母さんが振り返って冷たい視線を向けてくる。その瞳に萎縮するけれど、どうしても怯めなかった。

「なに? 文句あるの? やっぱり帰るの遅い理由は、誰かと喋ってるからじゃないの」
「ちがうの、……っ勉強はもっと頑張るから、だから……」

 ……青衣くんと話す時間だけは奪わないで。
 そう叫びたいのに、叫べない。
 ぐっと言葉を押し殺したわたしに、お母さんは「甘ったれてるわね」と突き放す。

 冷えた心は、解凍されない。痛い、苦しいともがきながら、ゆっくりとわたしは深い溝に落ちてゆく。

「学生の本業は勉強なのよ」

 そう言い残して、お母さんは今度こそリビングへ入っていった。
 やっぱり言い返せなかった自分がどこまでも弱くて嫌いになる。

 消えてしまいたい衝動に駆られながら、ままならない動作でローファーを脱いだ。
 自分の家に入っているのに、寒くて狭い小屋に入っている気分に陥る。

 ……辛いよ、青衣くん。
 会いたいと切実に願いながら、その日は長い長い夜を過ごした。