「花梨、無理してるやろ」

 その日の夜。
 夜の浜辺で、青衣くんはそう私に言った。

 私が来た瞬間、迷うそぶりなく尋ねてくるところは青衣くんらしい。彼の表情がいつになく柔らかいことに少し安堵した。

「……ぜんぜん、無理なんかしてないよ」

 そう答えながら、三角座りをした膝の上に顎を乗せる。視界いっぱいに広がる夜の海は、いつ見ても美しく儚い。緩く揺れる波が、私の存在ごと流してくれてもいいのにと思う。そんな仄暗い気持ちは、青衣くんにはお見通しなのだろう。

 私の返答に、青衣くんはぐっと顔を近づけてくる。目の前に彼の端正なお顔が現れて、ドキッと胸が高鳴る。

 もう……、心臓に悪いよ。
 ときどき距離感がおかしくなる青衣くんに心を乱されていると、彼はさっきより声のトーンを下げて言う。

「俺に隠し事なんか百年早いで。花梨が自ら、リレーふたつなんか選ばんやろ」
「……うっ、選ぶかもしれないじゃん」
「いーや、そんなはずない。現に、台風の目の練習のとき、元気なかったやん」

 その言葉に、ちらりと彼を見た。青衣くんの瞳は少し心配の色が滲んでいて、その優しさに甘えそうになる。

 なんで、……気づいてくれるんだろう。

 あの場にいたクラスの女の子たちは、みんな気づいてくれなかったのに。どうして、あの場にいなかった青衣くんが、私のことをわかってくれるんだろう。

 柔らかい方言が、ゆっくりと心をじわじわと温めてくれる。青衣くんの声は、人を落ち着かせる魔法があると思う。

「……私、元気なかった?」

 いつもどおり笑顔でいたはずなのに。真意を悟られないよう、必死で取り繕ったのに。
 信じられない思いでそう聞くと、彼はなんでもなさそうに口を開いた。

「元気なかったどころか、顔色もわるかった。話しかけようか迷ったくらいやで」
「うそ、……みんなにもそう思われてたらどうしよう」

 あの数分の決め事で悩んでいるだなんて、他の子が知ったらどう思うかわからない。引き受けたくせにしんどくなってるなんて、可哀想な子だと思われるかもしれない。
 思考が嫌な方向へ進み、どんどん気分がわるくなる。ここには青衣くんしかいないのに、誰かに見られているような感覚になり、負のループに陥った。

 そんな私の様子を勘づいたのか、青衣くんはぽんっと私の頭に手を乗せた。
 その温もりに驚くけれど、徐々に安心が勝っていく。

「俺は花梨をよー見てるから気づいただけや。他の奴らが気づくほどやない」

 私のことをよく見てる、と恥ずかしげもなくさらりと言いのけた青衣くん。勝手にこちらが照れてしまうほど直球な物言いは、私にはないものだから、いつものことながら尊敬する。

 私も、彼のようにズバッと言えたら、状況が違ったかもしれない。ないものねだりだけれど、やっぱり青衣くんは私のヒーローなのだ。

「俺の前では素直でおること。これ原則って言うたはずやで」
「青衣くんは……優しいね」
「そー? 花梨のほうが何百倍も優しいけどな」
「そういうところだよ……」

 急かさずに、ただとなりにいて、話したいときに耳を傾けてくれる存在。いままで彼のような人はいなかったから、新鮮で、かつ幸せだ。
 うまく言葉で言い表せない部分でも、青衣くんならわかってくれるという自信が湧くほど、彼と心の距離が縮まっているような気がする。

 言葉を発しない時間も愛おしい。夜がこんなに続いてほしいと思ったのは、彼と出会ってからだ。

 青衣くんには、嘘なんてつけない。彼の雰囲気は、嘘を許さないと言われているように思えるから。
 でもやっぱり弱音なんて吐けなくて、吐くべきじゃなくて、自分を奮い立たせる言葉を操る。

「……体力ないけど、みんなに迷惑かけないように頑張るんだ。大丈夫、なんとかなるから」

 青衣くんの前だと自然に笑顔になる。おかげで今の表情は、不自然ではなかったと思う。
 それなのに、彼は真剣な顔で言うのだ。

「それは、花梨のほんまの気持ちなん?」
「うん、……そうだよ?」

 あまのじゃくな私に、青衣くんは諦めずにさらに言葉を紡いでいく。

「たまには、叫ぶくらい自分の気持ち放り出してもいいんやで。いくらでも聞くから」

 優しい言葉だ。気を抜くと涙が落ちそうになる。
 私は大丈夫。そう思っているけれど、私が感じている以上に、限界なのかもしれない。

 本音を言うのは怖い。
 お母さんにも、友達にも、ほかのみんなにも。心の内を明かさずに、常に“良い子”でいるよう心がけていたら、何も本音で話せない人間になってしまった。

 変わりたい、だからこそ。
 変わってもいいと言ってくれる彼には、その第一歩を始める勇気を出したいと思った。

「不安、なんだ。……すごく」

 小さく話し出す私に、青衣くんは耳を傾けてくれる。何か返答するわけでもなく、ただそばにいてくれる安堵に、言葉が淀みなく溢れ出る。

「小学生のときから、先生にはいつも『芹名さんは真面目だね』って褒められて。必ず班長とか、そういうリーダーみたいなのは……任されてたの」

 その頃は、重荷に感じたことはなかった。だけど、期待されていることはわかっていたから、失敗しないように大人に気を遣っていたのは事実だった。

「中1の頃だったかな。友達から、委員会の集まりに出るのを代わってほしいって頼まれたことがあって。本当に用事があったみたいだったから、1日だけならいいかな……と思って引き受けたの」
「……そしたら、押し付けられた?」

 先回りして尋ねてくる花宵くんに、なんでもお見通しなんだなと思いつつ、こくりとうなずいた。

「その日から、事あるごとに頼んできて。いつのまにか……すっかりその委員は私、みたいになってたの。私がしっかり断らなかったのが悪いんだけどね」
「花梨、自分を責める癖やめや。俺が同じクラスやったら、そいつにボロクソに言うてやったのに」

 悔しそうに言う青衣くんが可笑しくて、ふっと笑ってしまう。ほんとに、彼が当時同じクラスにいてくれたら違うかっただろうなと思いを馳せる。

「リーダーを任されて引き受けたり、役目を代わったりしたら、必ず『ありがとう!』ってすごく感謝されるの。……それが自分の価値なんだ、って無意識に思ったら、いつのまにか断れなくなってて」

 私がやらないとダメなんだ。やらないと、私じゃない。うまくいかなかったら、落胆されてしまう。そうしたら、私なんか用無しになるかもしれない。

 そうぐるぐる考えるようになると、いつも気分がわるくなった。胃がキリキリ痛むし、足が重くなった。
 そんな自分が、いまも昔も、弱くて嫌いだったのだ。

「頼られるのは……嫌じゃないの。でも断ったら、私の価値がなくなる気がする。……勝手な考えなんだけどね」

 自分でも、自意識過剰なことはわかってる。それでも、やっぱりこの考えにずっと囚われて、変われないでいる。
 そんな私の言葉に、青衣くんは困ったように眉を下げて、視線を絡めた。

「それが、花梨の良いところなんちゃうん」

 優しく、説くように彼は言う。

「俺やったら、はじめ頼まれた時点で断る。自分に得のないことやりたくないやん?」

 冗談めかして肩をすくめる青衣くん。きっと彼は本当に困っている人には手を差し伸べるけれど、そこのさじ加減はきちんとしているのだろう。

「でも花梨はちゃうやろ。押し付けられて最悪って思わずに、素直に引き受けて、しかも中途半端やなくてちゃんとやり遂げる。そんなん誰もが出来る話じゃない。ちなみに俺は出来ひん」

 青衣くんの語り口が面白くて小さく笑うと、彼は柔和な表情を見せてくれる。

「でも、これは言うとくと。花梨が頼みを断ったからって、花梨の価値が失われることは絶対ない。長所は必ずしも、その人の価値やない」
「……うん」
「大丈夫。花梨の言葉を聞いてくれる人はちゃんとおる」

 まだ私の頭に乗せたままだった左手で、彼はゆっくりと撫でてくれた。
 青衣くんに頭を撫でられると、すごくすごく安心する。そのくせ心臓が掴まれたかのように、ドキドキと鼓動がうるさくなる。

 私の言葉をこんなに聞いてくれるのは、青衣くんしかいないと思う。そんな彼が、こうやって受け止めてくれるから、すごくすごく心が満たされる。

「私も……、自分の思ってること、吐き出してもいいのかな」

 臆病な私は、自分の本音を言ったときに拒絶されたり空気が悪くなったりするのが怖いだけ。

 青衣くんは、こんなにも私に変わってもいいと伝えてくれる。背中を押してくれる彼のためにも、少しずつでも声を出せたらいいなと思った。

「いいに決まってるやん。誰かを傷つける言葉は言うべきじゃないけど、そうじゃないならいくらでも言えばいい」
「でも、受け入れられなかったら……って、そう思うと怖いの」
「みんなに受け入れてもらわんでもいいねん。少なくても、わかってくれる人がいたらそれで充分やと思わん?」
「……うん、思う。たったひとりだとしても……、充分だよ」
「せやろ。ちなみに俺は花梨の言葉はぜんぶ受け止めるから、ひとりは確実におるで」
「そっか……、私、ひとりじゃないんだ」

 いっぱいいっぱいに、心が満たされて仕方がない。
 青衣くんの声は綺麗で優しい。彼のおかげで、私は彼に出会う前よりも、ぐっと背筋が伸びた気がする。

 ひとりじゃない、孤独じゃないということは、人を強くする。頼れる人がただひとりいるだけで、私は生きていいんだと思えるのだ。

 いつのまにか私の中で、青衣くんはいなくてはならない存在になっていた。夜、浜辺で過ごす時間がなによりも大切な時間で、欠かせない日課なのだ。

「ひとりって、怖いよな」

 突然、青衣くんの声が儚くて消えそうになる。横顔を見つめると、彼は海よりずっとずっと遠くを眺めていた。

「俺も、花梨に救われてる。家なんか帰ったら、孤独で死にそうになるから」
「……お母さんは、家にいないの?」

 あまり首を突っ込むべきじゃないと思ってはいたけれど、彼の寂しそうな横顔を見たら、そんな考えは吹っ飛んだ。彼は私に聞いてほしいんだ、そう感じたから、控えめにそう尋ねた。

 青衣くんはちらりと私に視線を寄越したあと、また前を向いて目を細めた。

「母親は、家におらん」

 なんでいないのかなんて、聞けなかった。お母さんのことは、この前気づいたけれど、彼にとってナイーブなところだとわかっていたから。

「……うん、そっか」

 小さくうなずくと、青衣くんは一定のトーンで話を続ける。

「やから、俺はギター弾いて歌うねん。そうしたら寂しくないやろ?」

 真夜中、家の中でひとりでギター片手に歌っている青衣くんを思い浮かべた。いまにも消えそうで、美しく儚い、夜の海のようだと思った。

 青衣くんは、きっと私より複雑な環境に置かれている。本当はずっと、悩んで悩んで生きている。学校にあまり来ないのも、そこのところが関係しているのだと感じた。
 微笑む青衣くんが、無理しているように見えた。心が痛い、寂しいと全身で叫んでいるように見えた。そこで、はっと気づく。

 ……ああ、私って、いつもこんなふうに笑ってたんだ。
 いまの青衣くんは、触れたらシャボン玉のようにあっけなく消えてしまいそうだった。

 よく彼に『無理して笑うな』と言われるからこそ、その言葉をやっといま理解した。

「青衣くん、……無理しないで」

 思わずそう漏らすと、彼はびっくりしたように私を見た。

「ねえ青衣くん、私にいつも言うでしょ? 『俺の前では素直になれ』って」

 彼は、困ったように微笑んでこくりとうなずいた。それを確認して、再度口を開く。

「青衣くんも、私の前では素直でいてほしいな……。寂しいなら、……寂しいって言っていいよ。私、受け止めるから」

 いつも青衣くんには助けてもらってるから。優しさに包んでもらっているから。
 彼が苦しいときは、私が優しさを与えたい。それくらい、私にだってきっと出来る。

 なんとか振り絞った私の言葉に、しばらく黙っていた青衣くんは、ゆっくりと笑顔を崩して私を見た。

「花梨って……やっぱり、ええなあ」
「……え?」

 きょとんとする私に、彼は首を横に振る。

「なんもない。……じゃあ、ちょっと肩貸して」

 そう言ったと思ったら、そっと青衣くんは私の肩に頭を乗せてきた。ふわりと彼の柔らかい髪が首筋に当たり、少しくすぐったい。
 この期に及んでドキドキとうるさい鼓動が聞こえませんように、と願いつつ、彼を受け入れた。

「俺、……音楽から離れたいのに無理やねん。どうしても、勝手に曲が浮かんでくるから、やめられへんくて。俺が音楽続けてるせいで、たぶん……母親を苦しめてる」
「……うん」

 肩にのしかかる青衣くんの重さが、彼がここにいる証明のように思える。
 彼は、いつも自分のことを断片的にしか教えてくれない。それを無理に聞こうとしないけれど、いつか話してくれたら嬉しいと思う。

 いまはただ、私が出来ることは相槌を打つだけだ。

「花梨がとなりにいてくれる夜は、誰もおらん家に帰っても、不思議と寂しくないねん」
「うん……私もだよ」

 両親が仕事で帰りが遅い日は、しんと静まり返った冷たい家でひとりで夕食を食べるのがすごく寂しい。だけど、お母さんが帰っていたらそれはそれで、小言を言われるから嫌だ。ひとりが寂しいくせに、そんなことを思うなんて矛盾してる。はっきりしない自分は、いつだって嫌いだ。

「俺も、ずっと立ち止まってばかりや」

 青衣くんは、いったい何を抱えてるのだろう。
 ひとりで抱えきれないほどの重さに、きっと途方に暮れるはずだ。
 私をいつも励ましてくれる彼の弱さを垣間見た気がして、彼に寄り添うようにそっと近づいた。

 私の温もりが、ちょっとでも届いたらいいと思いながら。

 青衣くんは右手を海に翳す。そのあと、力無く腕を下ろした。その仕草が何を意味しているのかは、わからない。

 ふたりで見上げた夜空は曇っていて、その日はまったく星が見えなかった。