人間の慣れというのは恐ろしい。たった一週間で、生活リズムががらっと変わっても、それはそれで対応していける。
二年半の間、毎朝六時前には起きて、朝からバットを振る。炎天下の中を汗だくになりながら、白球を追いかけて走り回る。そんな生活から塾と自宅を往復して、一日のほとんどの時間をクーラーの中で過ごす受験生の日々に早変わりだ。
夏休みも盆を越えて、ほぼすべての部活が引退を迎えた。塾の夏期講習も本格的に受験生モードを迎え、昼過ぎから夜までずっと勉強漬けの毎日だ。
意外にもそんな日々を俺は簡単に受け入れることができた。もともとの性格もあるのだろうが、忙しいくらいがちょうどいい。やることがある方が、余計なことを考えなくていい。とにかく受験生らしく勉強に没頭した。
受験勉強は思ったより辛くはなかった。それよりも辛かったのは塾の帰り道だ。意識はなるべくしないようにしている。でも、そうすればするほど、いろんなことを考えてしまう。あこのことを思い出さないよう、わざと遠回りをして、菅原神社の前を通らないように道を変えた。
あこがいなくなったことを最初のうちは信じられなかった。あこのことだから「機種変したー」とか、何事もなかったように連絡が来るような気もしていた。しかし、あこからの連絡は来ない。煙のように痕跡も残さず目の前から消えてしまった。
一度、家に行ってみたこともある。あこの家の呼び鈴を鳴らすのは、修学旅行のおみやげのクリップモーモーを渡しに行って以来、二度目だ。勇気を出して呼び鈴を押すが、何の反応もない。しばらく待って二度、三度と押しても全く出てくる気配がない。
家の様子をうかがっても誰かが住んでいる気配さえもなくなっていた。同じクラスのテニス部の子に聞いても反応は同じだった。あの日を境に連絡がつかなくなったということしかわからない。
何か事件に巻き込まれたのではと心配になって、部室に残った荷物整理を理由に学校に顔を出した時、学年主任もしている担任の湖海先生に聞いてみた。初めは「個人情報だから」と渋って何も教えてくれなかったが、粘り強く聞いていると急遽、引っ越しが決まって、もう転校したということだけは教えてくれた。
引っ越し先も聞いてみたが、少し特殊な事情があるとのことで、そこは頑として教えてくれない。
とりあえず事件ではないことはわかったが、それならそれで連絡ぐらいよこせよと思う。それなりに仲良くもしていたし、『恋愛ごっこ』の最中でもあった。あれだけあこは勝ち負けにこだわっていたのに勝負のつけようがないじゃんか。
次から次へとあこへの愚痴が浮かんでくる。でも、それを受け止めてくれる相手はいない。振り上げた拳をどこに降ろしていいのかわからなくて、最後には財布に入れてあったあこと撮ったプリクラを眺める。そこで初めて、そっか、俺、寂しいんだという自分の気持ちに気づく。
初めはあこにのせられて何となく始めた『恋愛ごっこ』だった。つきあうなんてイメージも湧かなかったし、こまめなラインも面倒だと思っていた。
でも、いつの間にかあこが側にいるのが当たり前になって、毎日のラインや塾帰りも楽しいものに変わっていた。
大切なものはなくしてから気づくとよく言うが、俺にとってはそれがあこだった。今までと同じ時間の流れが、抜け殻みたいに感じる。
十五歳の夏のありとあらゆるエネルギーを受験勉強に費やすことで、何とか喪失からの脱却を図ろうとしていた。そのかいもあってか夏休み最後の日曜日に受けた模試は、今まででは考えられないぐらいの好感触だ。
夏休みも終わろうとしていた。
昨日、受けた模試で塾の夏期講習も終わり、明日から新学期を迎える。『恋愛ごっこ』を続けていたら、今日が結果発表の日だった。中途半端に止まってしまった自分の気持ちにもどこかで決着をつけなければならない。
夏休みの最後の日、しばらく避けていた菅原神社に足を運んだ。
いつの間にか季節は一歩ずつ巡り、夕方には気の早い赤とんぼが飛んでいる。あんなに暑かった夏も、もう遠い昔のようで少し寂しい。残暑はまだまだ厳しいが、それはもうあの身を焦がすようなジリジリとした暑さとは別のものだった。
当たり前かもしれないが、ひさしぶりに来た菅原神社はいつもと変わらなかった。古臭い鳥居を抜けた先には、ちゃちな境内。クヌギ林に囲まれた小さな空間は、そこだけが時の流れから取り残されたようにも感じる。ずっと昔から神社の小さな境内は古ぼけたままだ。たぶん、この先もそうなんだろう。その境内に続く、ほんの数段しかない石段に腰かけた。
そこに座って来るはずのないあこを待つ。別に何かを期待していたわけではない。そこから鳥居越しに通りを眺める。時々、人が通るが、神社の中に入ってくる人は一人もいない。どれくらいそうしていただろうか? ぼんやりと通りを眺めながら、この夏のことを思い出していた。
山川のことがきっかけであことこの神社で話したこと、毎日ラインしたこと、二人で観覧車に乗ったこと、プリクラ撮ったこと、塾帰りにここで話したこと、あこを初めて抱きしめたこと。
そのすべてが今となっては愛おしい。西日の当たる通りがかすんで見える。いつの間にか涙がこぼれていることに気づいた。野球が終わった時とはまた違う涙だ。拭っても拭ってもとめどなく流れてくるというよりは、深い心の井戸からそっと汲み上げて、優しくまいたような涙。
この涙がどこから来るものかやっと自分でも気づいた。きちんと認めて決着をつけよう。
……『恋愛ごっこ』は俺の負けだ。
十五歳の夏の恋は終わった。
二年半の間、毎朝六時前には起きて、朝からバットを振る。炎天下の中を汗だくになりながら、白球を追いかけて走り回る。そんな生活から塾と自宅を往復して、一日のほとんどの時間をクーラーの中で過ごす受験生の日々に早変わりだ。
夏休みも盆を越えて、ほぼすべての部活が引退を迎えた。塾の夏期講習も本格的に受験生モードを迎え、昼過ぎから夜までずっと勉強漬けの毎日だ。
意外にもそんな日々を俺は簡単に受け入れることができた。もともとの性格もあるのだろうが、忙しいくらいがちょうどいい。やることがある方が、余計なことを考えなくていい。とにかく受験生らしく勉強に没頭した。
受験勉強は思ったより辛くはなかった。それよりも辛かったのは塾の帰り道だ。意識はなるべくしないようにしている。でも、そうすればするほど、いろんなことを考えてしまう。あこのことを思い出さないよう、わざと遠回りをして、菅原神社の前を通らないように道を変えた。
あこがいなくなったことを最初のうちは信じられなかった。あこのことだから「機種変したー」とか、何事もなかったように連絡が来るような気もしていた。しかし、あこからの連絡は来ない。煙のように痕跡も残さず目の前から消えてしまった。
一度、家に行ってみたこともある。あこの家の呼び鈴を鳴らすのは、修学旅行のおみやげのクリップモーモーを渡しに行って以来、二度目だ。勇気を出して呼び鈴を押すが、何の反応もない。しばらく待って二度、三度と押しても全く出てくる気配がない。
家の様子をうかがっても誰かが住んでいる気配さえもなくなっていた。同じクラスのテニス部の子に聞いても反応は同じだった。あの日を境に連絡がつかなくなったということしかわからない。
何か事件に巻き込まれたのではと心配になって、部室に残った荷物整理を理由に学校に顔を出した時、学年主任もしている担任の湖海先生に聞いてみた。初めは「個人情報だから」と渋って何も教えてくれなかったが、粘り強く聞いていると急遽、引っ越しが決まって、もう転校したということだけは教えてくれた。
引っ越し先も聞いてみたが、少し特殊な事情があるとのことで、そこは頑として教えてくれない。
とりあえず事件ではないことはわかったが、それならそれで連絡ぐらいよこせよと思う。それなりに仲良くもしていたし、『恋愛ごっこ』の最中でもあった。あれだけあこは勝ち負けにこだわっていたのに勝負のつけようがないじゃんか。
次から次へとあこへの愚痴が浮かんでくる。でも、それを受け止めてくれる相手はいない。振り上げた拳をどこに降ろしていいのかわからなくて、最後には財布に入れてあったあこと撮ったプリクラを眺める。そこで初めて、そっか、俺、寂しいんだという自分の気持ちに気づく。
初めはあこにのせられて何となく始めた『恋愛ごっこ』だった。つきあうなんてイメージも湧かなかったし、こまめなラインも面倒だと思っていた。
でも、いつの間にかあこが側にいるのが当たり前になって、毎日のラインや塾帰りも楽しいものに変わっていた。
大切なものはなくしてから気づくとよく言うが、俺にとってはそれがあこだった。今までと同じ時間の流れが、抜け殻みたいに感じる。
十五歳の夏のありとあらゆるエネルギーを受験勉強に費やすことで、何とか喪失からの脱却を図ろうとしていた。そのかいもあってか夏休み最後の日曜日に受けた模試は、今まででは考えられないぐらいの好感触だ。
夏休みも終わろうとしていた。
昨日、受けた模試で塾の夏期講習も終わり、明日から新学期を迎える。『恋愛ごっこ』を続けていたら、今日が結果発表の日だった。中途半端に止まってしまった自分の気持ちにもどこかで決着をつけなければならない。
夏休みの最後の日、しばらく避けていた菅原神社に足を運んだ。
いつの間にか季節は一歩ずつ巡り、夕方には気の早い赤とんぼが飛んでいる。あんなに暑かった夏も、もう遠い昔のようで少し寂しい。残暑はまだまだ厳しいが、それはもうあの身を焦がすようなジリジリとした暑さとは別のものだった。
当たり前かもしれないが、ひさしぶりに来た菅原神社はいつもと変わらなかった。古臭い鳥居を抜けた先には、ちゃちな境内。クヌギ林に囲まれた小さな空間は、そこだけが時の流れから取り残されたようにも感じる。ずっと昔から神社の小さな境内は古ぼけたままだ。たぶん、この先もそうなんだろう。その境内に続く、ほんの数段しかない石段に腰かけた。
そこに座って来るはずのないあこを待つ。別に何かを期待していたわけではない。そこから鳥居越しに通りを眺める。時々、人が通るが、神社の中に入ってくる人は一人もいない。どれくらいそうしていただろうか? ぼんやりと通りを眺めながら、この夏のことを思い出していた。
山川のことがきっかけであことこの神社で話したこと、毎日ラインしたこと、二人で観覧車に乗ったこと、プリクラ撮ったこと、塾帰りにここで話したこと、あこを初めて抱きしめたこと。
そのすべてが今となっては愛おしい。西日の当たる通りがかすんで見える。いつの間にか涙がこぼれていることに気づいた。野球が終わった時とはまた違う涙だ。拭っても拭ってもとめどなく流れてくるというよりは、深い心の井戸からそっと汲み上げて、優しくまいたような涙。
この涙がどこから来るものかやっと自分でも気づいた。きちんと認めて決着をつけよう。
……『恋愛ごっこ』は俺の負けだ。
十五歳の夏の恋は終わった。



