「お前、本当にあこか?」
明後日の方向に投げられたボールを拾って、あこの方に投げ返す。それなりに加減して投げたつもりだが、へっぴり腰のあこは肘が上がった変な捕り方で、ボールをキャッチする。芯では捕えたのか、パンッと乾いた音がする。
「痛っ!」とグローブから手を出して、あこが手を振っている。
「いくら何でもなまりすぎだろ? まるっきり運動音痴の捕り方じゃん」
「ひっどー。か弱いレディに向かって、その言い草はないでしょ」
あこが振りかぶって、俺に向かって思い切りボールを投げる。でも、やっぱりボールが抜けて、とんでもないとこに飛んでいきそうになるのをジャンプしてキャッチする。
「おおー!」とあこはグローブをつけたまま、手を叩いている。今度はもう少し気を使って山なりのボールで返す。少し手前に落ちそうになったボールをふらふらしながら前進してきたあこがすくい上げるようにキャッチした。
あこが誇らしげにグローブを上げて、アピールしている。
「いやいや、普通のボールだし!」
まだアピールをしてツッコミ待ちのあこに一応言っておく。
今日のあこは運動をするからか、ジーンズにTシャツのラフなかっこだ。髪も一つくくりにしている。この間の清楚なワンピースも悪くないけど、やっぱりこっちの方があこらしいと思った。
「昔はもうちょっとうまくなかったか?」
「もう運動なんてまるっきりやってないし。そもそも、渉とキャッチボールしたことあったっけ?」
「二人でとかはないけど、小学校の時、手打ち野球とかであこも混ざってなかったか?」
小学校のころはよく近所の公園で、プニプニの柔らかい百均で売っているようなボールで手打ち野球をしていた。たまに女子も混ざることがあって、そこにあこもいたはずだ。
小学生のころは女子も成長が早いし、近所のもっと下の学年の子も混ざってやっていたので、あこはうまい方だった。でも、それも小学校の記憶だし、実際のところはそうでもなかったのかもしれない。
それでもテニス部の副キャプテンだったぐらいだから、そこまで運動神経が悪いわけではないだろう。まあ、あこの副キャプテンの場合は、その世話焼きな性格で選ばれた可能性も無きにしも非ずだが。
「そうだったかもしれない。でも、こういったちゃんとしたボールでするのは初めてかも!意外と手、痛いんだね」
ちゃんとしたボールと言っても、さすがに硬球で怪我されては困るので、近所のスポーツ店で軟球を買っておいた。それでも野球をやっていなかった者にとっては痛いのかもしれない。
「しばらく続けてると皮が厚くなるのか、慣れるのか、痛くなくなるんだよ」
今度はきちんと胸のあたりに来たボールをしっかりと芯で捉えて、いい音を鳴らしてキャッチしながら答える。
「そんなものなんだ。渉ってポジションどこだったの? なんか代打のイメージしかない」
「まあ、打つ方がうりだったからな。ファーストか外野かな。少年野球を始めたときにはセンターだった。高校ではファーストが多かったけど」
あこにボールを投げ返す。ちょうどあこが取りやすいぐらいの山ボールを投げるのも慣れてきた。まだキャッチボールを始めて、そんなに経っていないのにもう汗だくだ。この炎天下のせいか芝生広場で遊んでいる人はいつもより少ない気がする。子どもたちは芝生より、公園の入り口近くにあった噴水広場で水遊びをしていた。
「外野とファーストか。じゃあ、こんなのはどうだ」
あこがボールを上に向かって投げる。外野フライを意識したのかもしれないが、たいして距離が出ていない。すばやく落下点を見つけて、駆け寄ると、落下点より半歩前に出て、立ち止まり、落ちてくるボールを背面キャッチする。
久々だけどうまくいった。高校生のころは某有名日本人大リーガーの影響でこの背面キャッチが流行っていた。休憩時間によく練習したものだ。あこも「おおー!」といいリアクションを見せてくれている。
キャッチしたボールをゆっくり返すと、そこからあこに火がついたのかゴロを投げたり、フライを投げたりと手投げで鬼コーチのようにふるまう。しかも、あこ自身も狙ったところと違うところに飛んでいくので、左右に振られてかなりきつい。
二十球ぐらいあこの鬼ノックを受けて、さすがにバテた。汗が滝のように噴き出す。まだボールを投げつけようとしてくるあこを手で制して、ゆっくりと歩いていく。
「ちょっとタイム! もう疲れた休憩しよう」
「私はまだまだいけるけど、しょうがないなー」
そう言っているあこも肩で息をしている。芝生広場の端まで二人で歩いていき、大きな樹の根元に広げたレジャーシートの上に腰掛けた。木陰に入ると暑さもだいぶましだ。
「あー、疲れた」
あこがレジャーシートに大の字に寝転がる。
「昔はよくこんな暑さで部活なんかしてたよね」
「まあな、昔は今よりは暑さもましだったかもしれないけど、やっぱ慣れもあるんじゃないか?」
「渉はよくあんなに動けるよね。私なんかほんとに何もしてないから、ちょっと動いただけで、もう駄目だわ」
あこは寝転がったまま、ハンドタオルで汗を拭いている。
「さっきはまだまだいけるって言ってなかったか?」
「渉にボール投げてる分にはね。逆だときついわ」
「じゃあ、今度はテニスであこと勝負だな。今なら勝てそうな気がする」
「テニスとかほんとに無理! この暑さじゃ倒れるわ」
「そうだな。よっ……と」
勢いをつけてレジャーシートから立ち上がる。
「どうしたの?」
「ああ、何か飲み物を買って来るよ。何かいるか?」
「ううん、私持ってるよ。はい」
あこがカバンからペットボトルの水を取り出して、俺に渡した。受け取ったものの、少し躊躇する。
「いいよ、飲んで」
あこは何も気にせず笑顔だ。気にしているのは俺だけか?
立ち上がったものの、もう一度レジャーシートに座って、あこからもらったペットボトルの水を飲む。冷たい水が喉元を通ると、全身の細胞が冷やされるように感じる。水ってこんなにうまかったか?
「サンキュ」と言ってあこにペットボトルを返すと、あこもふたを開けてごくごくっと水を飲んだ。ビールでも飲んでいるかのように、飲み終わった後、プハーっと目を細める。
「間接キッスー」
あこがこっちをみて嬉しそうにつぶやく。ニヤニヤしながらこっちの反応をうかがっている。俺はあこの言葉を無視してそっぽ向いて、同じようにレジャーシートに寝転がる。
あこの飲みかけのペットボトルを飲むときに少し躊躇したのを見つけて、あざとくからかってきたに違いない。
「渉はかわいいなー。ペットボトルの回し飲みぐらいで意識しちゃって」
ツンツンと背中をつっつかれる感触があるがほっておく。
「普通、意識するだろ?」
「えー、しないよ。渉が気にしすぎだよ」
「あこはもうちょっと気にした方がいいぞ」
背中を向けたままあこに忠告する。こうやって思わせぶりな態度を取られると男としては勘違いしてしまうこともあるだろう。
あこの背中ツンツン攻撃が一層激しくなる。
「やっぱり渉が気にしすぎ! さてはあこちゃんにときめいてるな」
「……」
あこが調子に乗り始めたので少し放置しておく。
「あー、無視だ。素直じゃないな」
「……」
「渉くーん、こっち向いてー」
「……」
「こっち向いてくれたらチューしてあげよっかな」
「……!?」
「あー、今、ぴくッとなった」
あこが寝転がりながら、無理やり背中を引っ張って転がし、自分の方を向かせる。ころんと転がった俺の顔のすぐ先にはあこの顔があった。鼻と鼻がくっつきそうな距離だ。
あこはこちらをじっと見つめている。鼓動が速くなる。周りの喧騒もどこか遠くに感じた。何も言わないあこがそっと目を閉じた。
俺もそっと目を閉じてゆっくりとあこに近づく。
……いいのか?
波打つ鼓動が自分のものか、あこのものかわからなくなる。ゆっくり、ゆっくりと近づいていくと、突然におでこに衝撃。
「痛てっ!!」
目を開けるとデコピンを終えたあこの指が目の前にある。笑いながらあこが体を起こす。
「もう、渉ってば本気にして! エロいな」
「痛ってー。俺だって冗談だよ。あこを試しただけだよ」
左手で額をさする。不意打ちだけにかなり痛かった。今、絶対赤くなってるな。
「嘘ばっかり! ばっちり目まで閉じちゃって、本気でチューする気満々だったじゃん」
「そんなことねーよ」
額だけじゃなくて、耳たぶも赤くなっているのが自分でもわかった。
「はいはい」
あこは意味ありげな微笑を浮かべている。
「結果発表より前に告ってくれてもいいんだよ?」
「何だよそれ。だいたい、今さらあこに告ったところで、もうすぐ結婚するのに意味ねーだろ? ……あ、別に好きだとかそういうことじゃないぞ」
その言葉にあこは少し考えこむ。
「意味ないことはないよ。好きだって想いを伝えることには意味があると思う。もちろん、タイミングのいい悪いや早い遅いはあると思うよ。でも、たとえば明日に世界が滅ぶとわかっていても、その想いを伝えることには意味があると思う。ただ……」
「ただ?」
「……その勇気があるかは別だけど」
あこの言葉や表情の意図を百パーセント理解したわけではないけど、何となくは言いたいことはわかる。つーか、まさに今の俺の心境そのもののような気がしてきた。
人生の中でいくつもの出会いや別れを繰り返すけど、一つも無駄なことはなくて、それぞれがあったから今につながっている。きっと今の俺のあこに対する複雑な想いにもきっと意味があると信じたい。もちろん、そんな勇気があるかは別だけど。
「……まあ、何となくはわかるよ」
俺の同意に対して、あこは満面の笑みで答える。これはまた悪そうな顔だ。
「渉が勇気を出して、ドラマみたいにちょっと待ったコールしてくれるのを期待してるよ!」
「それはないから大丈夫! ドラマだとそこで最終回だけど、現実ではその後、修羅場が待ってるから」
「渉は平和主義者だもんね」
「ああ、金持ちケンカせず」
「公園でキャッチボールして、水を回し飲みする金持ちなんていないけどね」
確かにそうだ。今どき、高校生でももっとましなデートしているだろう。でも、これが俺とあこにはちょうどいい。あくまでこれは中学校の時の『恋愛ごっこ』の続き。あの頃の二人にはちょうどいい。
レジャーシートに寝転がったまま思いきり伸びをする。すごく気持ちがいい。葉っぱの間から差し込む光とどこまでも広がる青色の空も気持ちがいい。
あこも俺に倣って、もう一度、レジャーシートに転がって空を眺める。いつの間にか暑さも少しマシになっていた。木々の間を風が抜けて、葉っぱを揺らす。
しばらく二人でただ空を眺めていた。特に言葉はない。それでも、不思議と嫌な気持ちはしなかった。
隣のあこを見てみる。あこはまだ上を向いて、空を眺めている。その横顔がきれいだ。途中で、俺の視線に気づいたのか一度こちらを見たが、ニッと笑ってもう一度、青空に視線を戻す。俺も慌てて、視線を空に戻した。
「こうやって寝転がって、空を見るなんていつぶりだろ?」
あこの言葉に俺は視線をあこの方に向けるが、あこは空を見上げたまま、視線は動かさない。
「いつも自分の頭の上にきれいな空はあるのにね」
「そうだな。いつもそばにあるものなのに、そのことを忘れて日々の生活を送ってしまう。忙しいだなんだって、振り回されてばっかだよな」
空が青い……当たり前のことなんだけど、そんなことすら忘れて毎日を生きている。特に就職してからのこの数年は、毎日が学生時代の何倍ものスピードで流れていって、立ち止まって物事を考える余裕すらなくしていた。
あこのことだってそうだ。あの日あこからのフェイスブックのメッセージが来て、絶対に忘れないと思っていた夏の思い出を思い出した。
「できることなら……」
「ん?」
「思い出全部、引き摺って生きていきたいな」
「どういうこと?」
「何か昔のことを忘れちゃったり、大事なことをなくしかけて初めて思い出したり、生きていく中で、自分が持っていける荷物はこれだけって決まっていたとしても、私は全部持っていきたい。もう抱えきれなくて、周りから捨てろって言われても、それでも引き摺ってでも全部持っていきたい」
真顔で言うあこの真意はわからない。ただ何となく今回『恋愛ごっこ』の続きを始めたことと無関係ではないような気がした。
「だから渉のことも持っていくんだ。渉が忘れちゃっててもちゃんと」
……忘れちゃってても?
「なーんてね。何か語りだして恥ずいわ、私」
急に恥ずかしくなったのか、起き上がって頬の辺りを両手でさする。俺もグッと伸びをしながら起き上がる。
「あこならできるよ。好きなもの何でも引き摺っていける」
力強く答えた後、俺も恥ずかしくなってきたので付け足す。
「ま……怪力だしな!」
最後の俺の言葉に「もう!」と言って、肩を強く叩いてきた。俺らにはやっぱりこんなやり取りの方がお似合いだ。
しつこくあこが俺を叩いているところに着メロが流れ出した。流行りの男性ダンスユニットのこの曲はあこの着メロだ。カバンからスマホを取り出すと画面を見て、一瞬ギョッと固まるが、すぐにちょっと電話出てくると言って、靴を履いてレジャーシートから出ていった。
かなり遠くまであこは離れていったので、何やら深刻そうな顔をしているが内容までは聞こえてこない。旦那からか、あるいは身内の不幸か何かか? 考えてもわからないのであこが戻ってくるのをレジャーシートで待つ。
さっきまでの炎天下の中は公園もあまり人がいなかったが、夕方になって少しずつ涼しくなってきたので、犬を連れた散歩の人が多く見える。昔はもっと雑種も多かった気がするが、最近の公園は小型犬が中心になっているらしい。
中には犬を抱っこしたまま散歩している人もいて、意味があるのだかないのだか。人間の方の散歩ということでは意味もあるか。犬の散歩と同じく、ランニングをしている人も多くいる。これもひと昔前に比べると大きく変わったなと思う。昔のジャージは何となくダサいものが多かった気がするが、今はカラフルなランニングウェアに身を包んだオシャレな人が多い。健康志向やランニングブームのおかげで女性のランナーも増えた気がする。
自分の脇腹の辺りを握ってみる。まだ贅肉がついているというほどではないが、昔に比べるとたるんできている。少しキャッチボールをしただけで、息切れした自分を思い出し、ランニングぐらいはやってみようかなと思う。
もともと走るのは嫌いではない。野球部は冬場のオフシーズンになると延々と堤防沿いを走らされたりしたものだが、何も考えずずっと走り続けるのは自分には割と合っていた。
そんなことを考えているうちに電話を終えたあこが、ゆっくりとこちらに戻ってきた。
「大丈夫か?」
戻ってきたあこの表情が青ざめている。
「うん……大丈夫じゃないかも。ごめんね」
「えっ⁉」
「ちょっと急用ができて今から帰らなきゃ」
あこの唇がわずかに震えている。
「せっかく会えたのにごめんね」
「それは全然気にしなくていいよ。それよりどうしたんだ?」
「うん……ちょっとね」
レジャーシート上に広げていた荷物をあこはいそいそと片付けてカバンに詰めだす。それ以上は深く聞けない雰囲気を醸し出していた。俺も急いで片づけを手伝う。
「駅まで送るよ」
「ううん、通りに出てタクシー拾うよ。だから、ここで……」
ひどく弱弱しい笑顔が逆に辛い。でも、なんて声をかけたらいいかわからない。
「そっか……じゃあ、気をつけてな」
「うん。今日は楽しかった……本当にごめんね」
「ほら、急いでんだろ? 早くいけよ。謝らなくても大丈夫だから。また来週あえるじゃん?」
その言葉にうなずきも返事もないまま、あこは俺から目を逸らした。
「じゃあ、行くね」
背を向けたあこが聞こえるか聞こえないくらいの声で、「やっぱり渉とチューしとけばよかった」と言って歩き出す。
その言葉の本意はわからなかったが、少しずつ小さくなっていくあこの背中をひどく遠いものに感じた。
また来週あえるじゃん? もう一度、心の中で繰り返してみる。また来週が二度と来ないような不安を必死になって押し殺した。
長く伸びた影が、また夏の日が一日終わっていくことを感じさせた。この夏もいつかあの夏に変わり、引き摺っていく思い出の一つになるのだろうか?
『今日はありがとう。俺もすごく楽しかった。あの後、大丈夫だったか? また落ち着いたら連絡くれよな』
帰りの電車の中で、あこにメールを打っておいた。まだ返事はない。家に帰ってからも時々、スマホを気にしてみるがメールを読んだ形跡もない。
なんとなくやる気が起こらず、夕食は帰り道のスーパーで弁当を買った。普段はできる限り夕食は自炊にこだわるが、今日はそんな気持ちも起こらない。野菜が多めの弁当を買ったのがせめてもの抵抗だ。
シャワーだけじゃなく、夏場に珍しく風呂を沸かしてゆっくりと入ったが、それでもやっぱりすっきりはしない。あこに何があったのだろう? あの電話は何だったんだろう? 考えてもわかるはずのない問いかけが、ぐるぐると頭の中を巡る。
同時にもう一つあこの言葉で気になる言葉があった。以前から感じていた違和感。自分の中でもう一つの仮説が、できそうでできないもどかしい感じ。
結局、十時を過ぎてもあこから返信がきている様子がないので、おやすみメールだけ送って今日はもう休もうと思った。明日は月曜日、また一週間仕事だ。
フェイスブックのメッセンジャーを開いて異変に気づく。リストの中に「芦田明子」の名前がない。慌ててもう一度リストを探したり、個別のやりとりの欄を開いたりもするが、フェイスブックユーザーと書かれたアイコンだけで、あこの写真もなくなっている。
そんなはずはない!! 何度も何度もフェイスブックを探したり、「芦田明子」で検索をかけるが、どこにもいない。
あの夏のことを思い出していた。
芦田明子は再び、俺の前から姿を消した。
明後日の方向に投げられたボールを拾って、あこの方に投げ返す。それなりに加減して投げたつもりだが、へっぴり腰のあこは肘が上がった変な捕り方で、ボールをキャッチする。芯では捕えたのか、パンッと乾いた音がする。
「痛っ!」とグローブから手を出して、あこが手を振っている。
「いくら何でもなまりすぎだろ? まるっきり運動音痴の捕り方じゃん」
「ひっどー。か弱いレディに向かって、その言い草はないでしょ」
あこが振りかぶって、俺に向かって思い切りボールを投げる。でも、やっぱりボールが抜けて、とんでもないとこに飛んでいきそうになるのをジャンプしてキャッチする。
「おおー!」とあこはグローブをつけたまま、手を叩いている。今度はもう少し気を使って山なりのボールで返す。少し手前に落ちそうになったボールをふらふらしながら前進してきたあこがすくい上げるようにキャッチした。
あこが誇らしげにグローブを上げて、アピールしている。
「いやいや、普通のボールだし!」
まだアピールをしてツッコミ待ちのあこに一応言っておく。
今日のあこは運動をするからか、ジーンズにTシャツのラフなかっこだ。髪も一つくくりにしている。この間の清楚なワンピースも悪くないけど、やっぱりこっちの方があこらしいと思った。
「昔はもうちょっとうまくなかったか?」
「もう運動なんてまるっきりやってないし。そもそも、渉とキャッチボールしたことあったっけ?」
「二人でとかはないけど、小学校の時、手打ち野球とかであこも混ざってなかったか?」
小学校のころはよく近所の公園で、プニプニの柔らかい百均で売っているようなボールで手打ち野球をしていた。たまに女子も混ざることがあって、そこにあこもいたはずだ。
小学生のころは女子も成長が早いし、近所のもっと下の学年の子も混ざってやっていたので、あこはうまい方だった。でも、それも小学校の記憶だし、実際のところはそうでもなかったのかもしれない。
それでもテニス部の副キャプテンだったぐらいだから、そこまで運動神経が悪いわけではないだろう。まあ、あこの副キャプテンの場合は、その世話焼きな性格で選ばれた可能性も無きにしも非ずだが。
「そうだったかもしれない。でも、こういったちゃんとしたボールでするのは初めてかも!意外と手、痛いんだね」
ちゃんとしたボールと言っても、さすがに硬球で怪我されては困るので、近所のスポーツ店で軟球を買っておいた。それでも野球をやっていなかった者にとっては痛いのかもしれない。
「しばらく続けてると皮が厚くなるのか、慣れるのか、痛くなくなるんだよ」
今度はきちんと胸のあたりに来たボールをしっかりと芯で捉えて、いい音を鳴らしてキャッチしながら答える。
「そんなものなんだ。渉ってポジションどこだったの? なんか代打のイメージしかない」
「まあ、打つ方がうりだったからな。ファーストか外野かな。少年野球を始めたときにはセンターだった。高校ではファーストが多かったけど」
あこにボールを投げ返す。ちょうどあこが取りやすいぐらいの山ボールを投げるのも慣れてきた。まだキャッチボールを始めて、そんなに経っていないのにもう汗だくだ。この炎天下のせいか芝生広場で遊んでいる人はいつもより少ない気がする。子どもたちは芝生より、公園の入り口近くにあった噴水広場で水遊びをしていた。
「外野とファーストか。じゃあ、こんなのはどうだ」
あこがボールを上に向かって投げる。外野フライを意識したのかもしれないが、たいして距離が出ていない。すばやく落下点を見つけて、駆け寄ると、落下点より半歩前に出て、立ち止まり、落ちてくるボールを背面キャッチする。
久々だけどうまくいった。高校生のころは某有名日本人大リーガーの影響でこの背面キャッチが流行っていた。休憩時間によく練習したものだ。あこも「おおー!」といいリアクションを見せてくれている。
キャッチしたボールをゆっくり返すと、そこからあこに火がついたのかゴロを投げたり、フライを投げたりと手投げで鬼コーチのようにふるまう。しかも、あこ自身も狙ったところと違うところに飛んでいくので、左右に振られてかなりきつい。
二十球ぐらいあこの鬼ノックを受けて、さすがにバテた。汗が滝のように噴き出す。まだボールを投げつけようとしてくるあこを手で制して、ゆっくりと歩いていく。
「ちょっとタイム! もう疲れた休憩しよう」
「私はまだまだいけるけど、しょうがないなー」
そう言っているあこも肩で息をしている。芝生広場の端まで二人で歩いていき、大きな樹の根元に広げたレジャーシートの上に腰掛けた。木陰に入ると暑さもだいぶましだ。
「あー、疲れた」
あこがレジャーシートに大の字に寝転がる。
「昔はよくこんな暑さで部活なんかしてたよね」
「まあな、昔は今よりは暑さもましだったかもしれないけど、やっぱ慣れもあるんじゃないか?」
「渉はよくあんなに動けるよね。私なんかほんとに何もしてないから、ちょっと動いただけで、もう駄目だわ」
あこは寝転がったまま、ハンドタオルで汗を拭いている。
「さっきはまだまだいけるって言ってなかったか?」
「渉にボール投げてる分にはね。逆だときついわ」
「じゃあ、今度はテニスであこと勝負だな。今なら勝てそうな気がする」
「テニスとかほんとに無理! この暑さじゃ倒れるわ」
「そうだな。よっ……と」
勢いをつけてレジャーシートから立ち上がる。
「どうしたの?」
「ああ、何か飲み物を買って来るよ。何かいるか?」
「ううん、私持ってるよ。はい」
あこがカバンからペットボトルの水を取り出して、俺に渡した。受け取ったものの、少し躊躇する。
「いいよ、飲んで」
あこは何も気にせず笑顔だ。気にしているのは俺だけか?
立ち上がったものの、もう一度レジャーシートに座って、あこからもらったペットボトルの水を飲む。冷たい水が喉元を通ると、全身の細胞が冷やされるように感じる。水ってこんなにうまかったか?
「サンキュ」と言ってあこにペットボトルを返すと、あこもふたを開けてごくごくっと水を飲んだ。ビールでも飲んでいるかのように、飲み終わった後、プハーっと目を細める。
「間接キッスー」
あこがこっちをみて嬉しそうにつぶやく。ニヤニヤしながらこっちの反応をうかがっている。俺はあこの言葉を無視してそっぽ向いて、同じようにレジャーシートに寝転がる。
あこの飲みかけのペットボトルを飲むときに少し躊躇したのを見つけて、あざとくからかってきたに違いない。
「渉はかわいいなー。ペットボトルの回し飲みぐらいで意識しちゃって」
ツンツンと背中をつっつかれる感触があるがほっておく。
「普通、意識するだろ?」
「えー、しないよ。渉が気にしすぎだよ」
「あこはもうちょっと気にした方がいいぞ」
背中を向けたままあこに忠告する。こうやって思わせぶりな態度を取られると男としては勘違いしてしまうこともあるだろう。
あこの背中ツンツン攻撃が一層激しくなる。
「やっぱり渉が気にしすぎ! さてはあこちゃんにときめいてるな」
「……」
あこが調子に乗り始めたので少し放置しておく。
「あー、無視だ。素直じゃないな」
「……」
「渉くーん、こっち向いてー」
「……」
「こっち向いてくれたらチューしてあげよっかな」
「……!?」
「あー、今、ぴくッとなった」
あこが寝転がりながら、無理やり背中を引っ張って転がし、自分の方を向かせる。ころんと転がった俺の顔のすぐ先にはあこの顔があった。鼻と鼻がくっつきそうな距離だ。
あこはこちらをじっと見つめている。鼓動が速くなる。周りの喧騒もどこか遠くに感じた。何も言わないあこがそっと目を閉じた。
俺もそっと目を閉じてゆっくりとあこに近づく。
……いいのか?
波打つ鼓動が自分のものか、あこのものかわからなくなる。ゆっくり、ゆっくりと近づいていくと、突然におでこに衝撃。
「痛てっ!!」
目を開けるとデコピンを終えたあこの指が目の前にある。笑いながらあこが体を起こす。
「もう、渉ってば本気にして! エロいな」
「痛ってー。俺だって冗談だよ。あこを試しただけだよ」
左手で額をさする。不意打ちだけにかなり痛かった。今、絶対赤くなってるな。
「嘘ばっかり! ばっちり目まで閉じちゃって、本気でチューする気満々だったじゃん」
「そんなことねーよ」
額だけじゃなくて、耳たぶも赤くなっているのが自分でもわかった。
「はいはい」
あこは意味ありげな微笑を浮かべている。
「結果発表より前に告ってくれてもいいんだよ?」
「何だよそれ。だいたい、今さらあこに告ったところで、もうすぐ結婚するのに意味ねーだろ? ……あ、別に好きだとかそういうことじゃないぞ」
その言葉にあこは少し考えこむ。
「意味ないことはないよ。好きだって想いを伝えることには意味があると思う。もちろん、タイミングのいい悪いや早い遅いはあると思うよ。でも、たとえば明日に世界が滅ぶとわかっていても、その想いを伝えることには意味があると思う。ただ……」
「ただ?」
「……その勇気があるかは別だけど」
あこの言葉や表情の意図を百パーセント理解したわけではないけど、何となくは言いたいことはわかる。つーか、まさに今の俺の心境そのもののような気がしてきた。
人生の中でいくつもの出会いや別れを繰り返すけど、一つも無駄なことはなくて、それぞれがあったから今につながっている。きっと今の俺のあこに対する複雑な想いにもきっと意味があると信じたい。もちろん、そんな勇気があるかは別だけど。
「……まあ、何となくはわかるよ」
俺の同意に対して、あこは満面の笑みで答える。これはまた悪そうな顔だ。
「渉が勇気を出して、ドラマみたいにちょっと待ったコールしてくれるのを期待してるよ!」
「それはないから大丈夫! ドラマだとそこで最終回だけど、現実ではその後、修羅場が待ってるから」
「渉は平和主義者だもんね」
「ああ、金持ちケンカせず」
「公園でキャッチボールして、水を回し飲みする金持ちなんていないけどね」
確かにそうだ。今どき、高校生でももっとましなデートしているだろう。でも、これが俺とあこにはちょうどいい。あくまでこれは中学校の時の『恋愛ごっこ』の続き。あの頃の二人にはちょうどいい。
レジャーシートに寝転がったまま思いきり伸びをする。すごく気持ちがいい。葉っぱの間から差し込む光とどこまでも広がる青色の空も気持ちがいい。
あこも俺に倣って、もう一度、レジャーシートに転がって空を眺める。いつの間にか暑さも少しマシになっていた。木々の間を風が抜けて、葉っぱを揺らす。
しばらく二人でただ空を眺めていた。特に言葉はない。それでも、不思議と嫌な気持ちはしなかった。
隣のあこを見てみる。あこはまだ上を向いて、空を眺めている。その横顔がきれいだ。途中で、俺の視線に気づいたのか一度こちらを見たが、ニッと笑ってもう一度、青空に視線を戻す。俺も慌てて、視線を空に戻した。
「こうやって寝転がって、空を見るなんていつぶりだろ?」
あこの言葉に俺は視線をあこの方に向けるが、あこは空を見上げたまま、視線は動かさない。
「いつも自分の頭の上にきれいな空はあるのにね」
「そうだな。いつもそばにあるものなのに、そのことを忘れて日々の生活を送ってしまう。忙しいだなんだって、振り回されてばっかだよな」
空が青い……当たり前のことなんだけど、そんなことすら忘れて毎日を生きている。特に就職してからのこの数年は、毎日が学生時代の何倍ものスピードで流れていって、立ち止まって物事を考える余裕すらなくしていた。
あこのことだってそうだ。あの日あこからのフェイスブックのメッセージが来て、絶対に忘れないと思っていた夏の思い出を思い出した。
「できることなら……」
「ん?」
「思い出全部、引き摺って生きていきたいな」
「どういうこと?」
「何か昔のことを忘れちゃったり、大事なことをなくしかけて初めて思い出したり、生きていく中で、自分が持っていける荷物はこれだけって決まっていたとしても、私は全部持っていきたい。もう抱えきれなくて、周りから捨てろって言われても、それでも引き摺ってでも全部持っていきたい」
真顔で言うあこの真意はわからない。ただ何となく今回『恋愛ごっこ』の続きを始めたことと無関係ではないような気がした。
「だから渉のことも持っていくんだ。渉が忘れちゃっててもちゃんと」
……忘れちゃってても?
「なーんてね。何か語りだして恥ずいわ、私」
急に恥ずかしくなったのか、起き上がって頬の辺りを両手でさする。俺もグッと伸びをしながら起き上がる。
「あこならできるよ。好きなもの何でも引き摺っていける」
力強く答えた後、俺も恥ずかしくなってきたので付け足す。
「ま……怪力だしな!」
最後の俺の言葉に「もう!」と言って、肩を強く叩いてきた。俺らにはやっぱりこんなやり取りの方がお似合いだ。
しつこくあこが俺を叩いているところに着メロが流れ出した。流行りの男性ダンスユニットのこの曲はあこの着メロだ。カバンからスマホを取り出すと画面を見て、一瞬ギョッと固まるが、すぐにちょっと電話出てくると言って、靴を履いてレジャーシートから出ていった。
かなり遠くまであこは離れていったので、何やら深刻そうな顔をしているが内容までは聞こえてこない。旦那からか、あるいは身内の不幸か何かか? 考えてもわからないのであこが戻ってくるのをレジャーシートで待つ。
さっきまでの炎天下の中は公園もあまり人がいなかったが、夕方になって少しずつ涼しくなってきたので、犬を連れた散歩の人が多く見える。昔はもっと雑種も多かった気がするが、最近の公園は小型犬が中心になっているらしい。
中には犬を抱っこしたまま散歩している人もいて、意味があるのだかないのだか。人間の方の散歩ということでは意味もあるか。犬の散歩と同じく、ランニングをしている人も多くいる。これもひと昔前に比べると大きく変わったなと思う。昔のジャージは何となくダサいものが多かった気がするが、今はカラフルなランニングウェアに身を包んだオシャレな人が多い。健康志向やランニングブームのおかげで女性のランナーも増えた気がする。
自分の脇腹の辺りを握ってみる。まだ贅肉がついているというほどではないが、昔に比べるとたるんできている。少しキャッチボールをしただけで、息切れした自分を思い出し、ランニングぐらいはやってみようかなと思う。
もともと走るのは嫌いではない。野球部は冬場のオフシーズンになると延々と堤防沿いを走らされたりしたものだが、何も考えずずっと走り続けるのは自分には割と合っていた。
そんなことを考えているうちに電話を終えたあこが、ゆっくりとこちらに戻ってきた。
「大丈夫か?」
戻ってきたあこの表情が青ざめている。
「うん……大丈夫じゃないかも。ごめんね」
「えっ⁉」
「ちょっと急用ができて今から帰らなきゃ」
あこの唇がわずかに震えている。
「せっかく会えたのにごめんね」
「それは全然気にしなくていいよ。それよりどうしたんだ?」
「うん……ちょっとね」
レジャーシート上に広げていた荷物をあこはいそいそと片付けてカバンに詰めだす。それ以上は深く聞けない雰囲気を醸し出していた。俺も急いで片づけを手伝う。
「駅まで送るよ」
「ううん、通りに出てタクシー拾うよ。だから、ここで……」
ひどく弱弱しい笑顔が逆に辛い。でも、なんて声をかけたらいいかわからない。
「そっか……じゃあ、気をつけてな」
「うん。今日は楽しかった……本当にごめんね」
「ほら、急いでんだろ? 早くいけよ。謝らなくても大丈夫だから。また来週あえるじゃん?」
その言葉にうなずきも返事もないまま、あこは俺から目を逸らした。
「じゃあ、行くね」
背を向けたあこが聞こえるか聞こえないくらいの声で、「やっぱり渉とチューしとけばよかった」と言って歩き出す。
その言葉の本意はわからなかったが、少しずつ小さくなっていくあこの背中をひどく遠いものに感じた。
また来週あえるじゃん? もう一度、心の中で繰り返してみる。また来週が二度と来ないような不安を必死になって押し殺した。
長く伸びた影が、また夏の日が一日終わっていくことを感じさせた。この夏もいつかあの夏に変わり、引き摺っていく思い出の一つになるのだろうか?
『今日はありがとう。俺もすごく楽しかった。あの後、大丈夫だったか? また落ち着いたら連絡くれよな』
帰りの電車の中で、あこにメールを打っておいた。まだ返事はない。家に帰ってからも時々、スマホを気にしてみるがメールを読んだ形跡もない。
なんとなくやる気が起こらず、夕食は帰り道のスーパーで弁当を買った。普段はできる限り夕食は自炊にこだわるが、今日はそんな気持ちも起こらない。野菜が多めの弁当を買ったのがせめてもの抵抗だ。
シャワーだけじゃなく、夏場に珍しく風呂を沸かしてゆっくりと入ったが、それでもやっぱりすっきりはしない。あこに何があったのだろう? あの電話は何だったんだろう? 考えてもわかるはずのない問いかけが、ぐるぐると頭の中を巡る。
同時にもう一つあこの言葉で気になる言葉があった。以前から感じていた違和感。自分の中でもう一つの仮説が、できそうでできないもどかしい感じ。
結局、十時を過ぎてもあこから返信がきている様子がないので、おやすみメールだけ送って今日はもう休もうと思った。明日は月曜日、また一週間仕事だ。
フェイスブックのメッセンジャーを開いて異変に気づく。リストの中に「芦田明子」の名前がない。慌ててもう一度リストを探したり、個別のやりとりの欄を開いたりもするが、フェイスブックユーザーと書かれたアイコンだけで、あこの写真もなくなっている。
そんなはずはない!! 何度も何度もフェイスブックを探したり、「芦田明子」で検索をかけるが、どこにもいない。
あの夏のことを思い出していた。
芦田明子は再び、俺の前から姿を消した。



