あの夏の「恋愛ごっこ」の続き

「いい部屋だろ? 最期の二ヶ月ほど、あこちゃんはここで過ごしたんだ」
 中里に案内された五二〇と書かれた部屋に入る。さっき見た四人部屋が基本の四階と違い、五階は個室が基本となっている。中里がカーテンを開けるとたっぷりと部屋に陽の光が差し込む。
「もう私物はほとんど引き払ってしまったけど、新たな患者さんは入ってないから、ぜひ君にも見てもらいたかったんだ」
「ここは?」
 主のいなくなったベッドだけでなく、花や絵が飾ってあったり、ミニキッチンまでついているこの部屋は他の部屋と比べて異質だ。
「北館のこの階は緩和ケア病棟になっている。いわゆるホスピス病棟だよ。聞いたことはあるかい?」
「ええ、詳しくはわからないですけど」
 あこの病状については先ほどの面談室である程度聞いた。
 極度のめまいで初めは別の病院を受診したあこだったが、血液の数値が異常で、すぐに血液内科の充実している摂北大附属病院に運び込まれた。
 精密検査の結果、難病の「再生不良性貧血」それもかなりステージが進行したものだということがわかった。再生不良性貧血とは造血幹細胞が傷害されて、血液中の白血球や赤血球、血小板などの数が著しく減少する病気である。
 ステージが低ければ免疫療法のみで様子を見ることも多いが、あこのステージだと骨髄移植が必要だった。だが、その骨髄移植も簡単ではない。白血球の型であるHLAが一致する必要があるが、これは血縁者で四人に一人程度、非血縁ドナーになるとかなりの低確率になる。
 不幸にもあこは一致するドナーがなかなか見つからず、免疫療法と蛋白同化ステロイド、支持療法などを組み合わせて治療を行っていた。
 一時的な外泊が認められることもあったが、病気の発覚以来、多くの時間をこの病院で過ごした。苦しい治療にも負けず、あこらしく常に前向きに取り組んでいたという。
「緩和ケアというのは、生命を脅かす疾患による問題に直面する患者の心と体の総合的なケアをすることを言うんだ。本来は疾患の早期より考えるべきものであるが、一般的には痛みや苦しみからできる限り解放してあげて、無理に死を引き延ばさず、今ある生を大切にしようという試みを指すことが多い」
「……でも、それはつまり根本的な治療が難しくなったということですか?」
 俺の質問に中里は難しい顔になる。
「逆に聞くがあのあこちゃんが、少し難しくなったぐらいで、簡単に治療をあきらめると思うかい?」
 少し考えて首を横に振った。どこまでも快活な記憶の中のあこは、簡単には治療をあきらめない、抵抗するだけ抵抗するだろう。単に難しくなったといったレベルの話でないということだろう。
「治療を始めて一年が過ぎたころ不幸なことに、あこちゃんは様々な合併症を引き起こした。特に急性の骨髄性白血病への移行が見られ、私は苦しいながらも、あこちゃんに余命宣告をせざるを得なくなったんだ」
 その時のことを語る中里の横顔には無念の色が浮かび上がっていた。医師として患者に真っすぐに向き合う姿が見受けられる。
 たくさんの光が差し込む窓辺から、中里は外を眺めている。同じようにあこもここから外の世界を眺めたのだろうか?
 ……もうすぐ遠いところに行く
 あこの言葉が脳裏によみがえる。
「緩和ケアというのは体の痛みを和らげることももちろん大事だが、何よりも心のケアがいちばん大切だ。患者の希望することはできる限り叶えてやれるよう、当病院でも取り組んでいる。あこちゃんとも何度も話し合ったんだ。いかに残りの生を大切にして一日一日を生きるか」
「それじゃあ、そこからはもう治療を止めたということですか?」
「いや、血球の数が少なくなっているので、対処療法的に輸血や薬を飲んだりはもちろんしていた。ただ、抗がん剤治療やあくまで延命のためだけの措置はしなかった。死と向き合い、それまでにどのように過ごすか、残りの時間をどのように使うか、ケアの主眼はそこに置かれた。もっとも、それは本来誰しもが常に考えるべき問題だけどね」
「どういうことです?」
 中里の真意を計りかねて聞き返す。中里は優しく諭すように言葉を続けた。
「人は誰しも、自分が死ぬということを忘れて生きている。もちろん、自分だっていつかは死ぬことはわかっているし、永遠に生きられないことも理解している。でも、そのいつかが、明日だとか、もしかしたら今日かもしれないということは忘れているんだ」
 中里の言わんとすることは、わからなくもない。自分の死がいつに来るかなんて誰にもわからないことだろう。
「でも、いつも死を意識して生きるのは辛くないですか?」
 俺の問いかけに中里はにっこりと微笑んだ。
「そうだね。死を意識することは怖い事だ。でも、必要以上に恐れる必要もない。永遠でないからこそ自分の生を見つめ直すことも大切だ。私は専門ではないがデス・エデュケーションといって、そういう学問があるくらいだ……」
 そこまで話して中里は何かを思い出すように視線を天井に泳がす。
「話がそれてしまったね。年寄りは話が長くていかん」
 そんなことないという意志表示で軽く手を振った。
「あこちゃんと一緒に、死が迎えに来るまでにやりたいこと、できることをいろいろ考えたんだ。もちろん、あこちゃんも初めは戸惑っていたし、いろいろな苦しみもあったと思う。でも持ち前の明るさで、本当に一日一日を愛おしむように大切に過ごしていたよ。あこちゃんは、緩和ケア病棟の他の患者さんや我々スタッフにとっても大切な存在だったんだ」
「……そうですか。あいつらしいです」
 転んでもただでは起きない、中学時代のあこを思い出した。あこの明るさはまぶしく輝く光というよりは、熱だ。隣にいるとじんわりとぬくもりが伝わってくる。
「そんな、あこちゃんがある日、やり残していたことを見つけたと言ってきたんだ。それが『恋愛ごっこ』だった」
「あこからその話も?」
「ああ、ばっちり聞いているよ」
 まさか中里の口から『恋愛ごっこ』が飛び出すとは思わなかったので、恥ずかしさにうつむいてしまう。中里はその様子を見て、今日一番の豪快な笑いを見せて、俺の肩をポンポンと叩く。
「いいじゃないか、青春だよ! 青春! 何も恥ずかしがることはない」
「そうやって、からかわれるのが恥ずかしいです」
 中里はまだ半笑いのままだ。いくら中学時代のこととは言え、初対面のおじさんに指摘されると恥ずかしい。中里は「まあまあ」と俺をたしなめる。
「とにかくあこちゃんにとっては、中学校の時に不本意な形で終わってしまった『恋愛ごっこ』を今度はきちんと終わらせるということが、生きている間にやるべきこととなった。どうやら他の目的もあったみたいだがね」
「他の目的?」
「……それはまた別の機会にしよう」
「とにかく『恋愛ごっこ』が始まって、今の君のことを知ったり、昔の君のことを思いだす日々はあこちゃんの残り少ない人生にとって、とても大切なことだった。病魔はもうずいぶんとあこちゃんを蝕んでいて苦しかったはずだが、最期の一ヶ月のあこちゃんはキラキラしていたよ。君のおかげだ、本当にありがとう」
 あこの想いを汲んで、中里が代わりに頭を下げる。急に頭を下げられてこちらも困る。むしろありがとうを伝えたいのはこちらの方だ。何とか頭を上げてもらうと、中里は少し悪そうな顔をして付け足した。
「あ、そうそう、あこちゃんの昔話は私もよく聞かせてもらったけど、担当の看護師たちもよく順番に話し相手になっていたんだ。うちは若い子も多いからね。ガールズトークに華を咲かせていたよ。すっかり君は血液内科と緩和ケア病棟ではちょっとした有名人だ」
 中里の言葉に、再び恥ずかしくなってうつむいた。中学校の時にはあこは口が堅い方だと思っていたが、まさかこんなことになっているとは……。下手にあの頃、誰にも言えなかっただけに、今ごろになって誰かに聞いてもらいたくてしかたなくなったのかもしれない。
 そう言えば、四階のナースステーションで名前を言っただけで驚かれたのは、このことも関係あるのかもしれない。
「まあ、からかうのはこれぐらいにしておいて……」
 中里が真面目な顔に戻る。
「君が今日、ここに来てくれて本当に良かった。もう少し遅かったらまた中途半端になっていたかもしれない。あこちゃんは残りの人生を費やして『恋愛ごっこ』を終わらせようとした。十年前の夏に二人で始めた『恋愛ごっこ』をきちんと終わらせるのは、君の役目なんじゃないかな?」
「……『恋愛ごっこ』を終わらせる」
 中里の言葉を繰り返し、つぶやいた。
「実はあこちゃんの私物で一つだけ預かっているものがあってね……あこちゃんは宝物だと言って、ずっとその机の上に飾っていたよ」
 中村はベッドサイドに設置された机の前までやって来ると、引き出しを開けた。引き出しの中から紙袋を取り出すと、そっと俺の前に差し出した。
 俺がその紙袋を受け取ると、中里は黙ったままこくんとうなずいた。静かにその包みを開き、中に入っていたものを取り出す。
 実感も湧かず、今まで堰き止められていた感情があふれだす。頬を伝った涙がポトリと紙袋を濡らす。人前なので止めようとしても、一度溢れだした涙は止まらない。
 ……ずっと大切にしていてくれたんだ。
 目の前に現れたクリップモーモーを胸の前で抱きしめた。
「君から渡してくれないか?」
 中里もわずかに目を潤ませながら、微笑んでいた。


 十年前もこうやって、来るはずのないあこを待っていた。あの時は、自分の中で区切りをつけるために境内に続く石段に座っていた。同じようで少し違う。今日は十年前から続く『恋愛ごっこ』を終わらせに来たんだ。
 約束だった八月最後の日曜。昼過ぎからずっとこうしているが、不思議と長くは感じなかった。クヌギ林から漏れる光も、蝉の鳴き声も愛おしく感じる。鳥居を抜けて吹いてくる風が、夏が終わっていくのを感じさせた。
 あの日、あこが目の前から消えてから、ずっと追いかけてきた。ネットで検索したり、同窓会で話を聞いた。山川の旦那さんまで巻き込んで、あこの勤めていた会社にも訪れた。そして、昨日、あこが最期を迎えた、命を全うした場所にたどりついた。
今にして思えば、きっと意味があったんだと思う。あこは俺が自分自身でたどり着くまで待ってほしいと中里に言った。自分自身で考え、自分自身で動いたからこそ得るものがあった。
 すべてが終わったらあこに関わってくれた人たちにも、ちゃんとあこのことを伝えようと思った。お腹の前で抱えていた紙袋をギュっと抱きしめる。
 ……大丈夫
 少しずつ角度を変える木漏れ日に不安を覚えないよう自分に言い聞かす。少し涼しくなってきたが、夕暮れまではもう少し時間がある。微かにだが、また風が出てきた。蝉の声が段々と遠くなる。
 そう言えば昨日はほとんど眠れなかった。疲れもあってか気づくとウトウトとしていて、近づいた足音にも気づかない。
「……そんなところで寝てたら、風邪ひくよ」
 聞き覚えのある声にゆっくりと視線を上げる。
 再会した時の同じく白いワンピースに、今日はストローハットを身に着けている。
 その表情は少し悲しそうだった。
「……最後まで来るか迷ってた」
 なかなか視線が交わらない。俺はゆっくりと立ち上がった。
「でも、来てくれてよかったよ」
 しっかりと真正面から彼女を見つめる。
「あこ……いや、天崎真琴だから、まこの方だな……」