病院の匂いはあんまり好きではない。どこの病院も同じという訳ではないだろうが、この病院の匂いは、小学校の時、大やけどを負って三日だけ入院した病院と同じ匂いがした。
ありがたいことに昔から体だけは丈夫だった俺はほとんど病院に行ったことがない。病院はおろか学校に通っている間は、検診以外で保健室に行った記憶もない。そんな俺が唯一、入院したのが小五の夏である。詳しくは述べないが、自宅で大やけどを負った俺は経過観察で三日だけ入院した。
たった三日の入院ですら暇を持て余し、点滴のチューブの不自由さにイライラした。そんな入院生活とあの活発なあこが結びつかない。二週間前には公園でキャッチボールをしたぐらいだから、詳しいことはわからないがもう病状はだいぶ良くなっているのだろう。
もしかしたらもう通院すらしていないかもしれない。ただ、一年前にそれもそれなりの長期間入院していたのなら、何かしらの手がかりをつかめるかもしれなない。
もちろん病院も個人情報には厳しいだろう。司法書士の手はもう使えない。西森建設の時は山川の旦那さんの力添えがあったからこそできたことだ。それですら宮本に簡単に見破られた。どこの輩かもわからないやつが突然、司法書士だ、相続だと言っても証拠や委任状を見せろとなるだろう。
そうなるとダメもとで正面突破しかないだろう。まずはナースステーション、そして、長いこと入院してそうな患者と地道に聞き込みをしていくしかない。
宮本からもらったメモを参考に、ネットでも予習をしてある。摂北大附属病院は内科、特に循環器内科と血液内科の名医がいることで有名で、一般の内科や整形外科などももちろん診察しているが、他の病院から紹介されて心臓や血液の精密検査を行うために訪れる患者も多い。
土曜日の一般の外来診察は十一時まで受け付けているので、その時間は避けたほうがいいだろうとあえて昼過ぎを狙った。入院患者の面会についてはこういった大病院の中では、かなり寛容で朝の九時から夜八時まで受けつけていた。
あこが入院していた北館の一階に総合窓口がある。南館は循環器系が中心となっていて、北館がそれ以外という割り振りだ。それぞれ七階まであるが、入院に使われるのは二階から五階までの間だ。それより上は手術室など特別な部屋になっている。
地下も二階まであり、北館と南館は地上では道路を一つ越えなければならないが、地下からだとそのままつながっている。
専門外の大きな病気だった場合、その病気に合わせた施設の整った大きな病院に転院することも多い。宮本は入院がわりと長くなりそうだという話をしていたし、さらにめまいで倒れたとのことだったので、あこの病気は何かしら血液内科に関わるものだったのではと考えている。
もちろん決めつけはいけないが、それなりに予測を立てて動かないと手がかりはつかめそうにない。
午前の外来が終わった後とはいえ、土曜日の摂北大附属病院は多くの人でにぎわっていた。総合受付の前に立っていた案内の女性に声をかけられたが、「お見舞いです」と言って頭を下げてその横を通り抜けた。
だいぶ自分の神経も図太くなってきたなと思ったが、もうためらっている時間はない。あこからフェイスブックのメッセンジャーで連絡が来たのが、約一ヶ月前。最初と二度目の日曜はあこと会った。三度目は同窓会。そして、明日が八月最後の日曜日になる。
あこと確認した『恋愛ごっこ』のルールでは明日が結果発表の最終日となる。ここが俺の中での一つの大きなラインとなっていた。
きれいに磨かれた床は一歩ごとにコツコツと音を立てる。変に気取ってスーツなど着てこなければよかったかもしれない。よくわからない私服を着るよりは、スーツの方が聞き込みをするときに警戒されないかと思ったが、病院内ではわりとラフな私服や入院患者用のパジャマ姿などが多く、スーツの方が浮いているようにも感じる。
受付から真っすぐ奥まで進むと三基のエレベーターがあった。少し迷ったが四階まではその横の階段を使うことにした。運動不足の解消の意味合いもないことはないが、それよりも各階の雰囲気を見ておこうと思ったからだ。
各階の階段を上がった先はホールになっていて、その先はナースステーションになっている。そこから二つに廊下が分かれているが、どちらにしてもナースステーションに声をかける必要はありそうだ。
四階まで上がってきたが、四階の構造も二階、三階と同じようだ。
階段を上がったところで、少し遠目からナースステーションの様子を見る。ちょうど同級生のお見舞いにでも来たのか高校生ぐらいの女の子二人が、ナースステーションの前にいる。受付のカウンターのところで、背中を丸めて何やら書いている。きっと面会票か何かだろう。
女の子が書いていた紙を窓口で渡すと、首から下げる名札のようなものを渡された。その名札を首から下げ、二人は廊下の奥の方へ歩いて行った。
やはりまずはナースステーションで聞いてみよう。さすがにもう入院はしていないだろうが、何食わぬ顔で入院していたはずだと伝えたら、記録を調べてもらえるかもしれない。腹をくくってナースステーションの前まで歩いていく。ちょうど他には人がいないので、丁寧な対応をしてもらえるだろう。
「すみませーん」
ナースステーションの奥に声をかけると、「はーい」という返事がして、俺より少し年上の看護師が出てきてくれた。
「どうされましたか?」
物腰の柔らかそうな人でよかった。もっときつそうな圧力のある看護師なら、それだけで気持ちが折れそうになっていたかもしれない。
「あの……お見舞いに来たんですけど、天崎明子さんいますか?」
「天崎明子さん?」
満面の笑みで迎えてくれた看護師さんの表情が一瞬曇り、怪訝な顔で聞き返す。
「えっ……はい、あの、一年くらい前の話で……もういないかも」
やばい、しどろもどろになってしまった。
「あの、四〇八号室にいたはずなんですけど、どうなっているか教えてもらえるとありがたいのですが……」
西森建設のときにうまくいったので、自分の力を過信してしまっていた。あのときは山川の旦那さんのシナリオがよくできていただけなのかもしれない。司法書士の役をしていたので、そこに入りきれていたが、元の成田渉はこんなもんだ。
怪しさ満載で、看護師さんは警戒を深めている。不穏な空気を察したのか、ぽっちゃりした別の看護師も窓口に集まってきた。
「申し訳ありませんが、患者の個人情報を簡単には教えられないことになっているんです。失礼ですがどういった関係の方で?」
きわめて丁寧な口調で最初の看護師が聞いてくるが、その丁寧さにかえって俺は余裕をなくす。程よく院内は空調が効いていたが、掌は汗ばんでいる。もう一人の看護師の刺すような視線が痛い。
「……えっと、友人です。中学時代の。入院していたと聞いて」
「お名前を教えていただいてよろしいですか?」
家族か何かに確認を取るつもりだろうか? もしそうなればラッキーだ。会社なんかでもこういったケースで、まず本人や家族に本当に教えていい人物か確認するという場合がある。
「成田渉と言います」
俺が名前を告げると二人の看護師は驚いた顔をして、顔を見合わせる。ぽっちゃりした方の看護師が小声で「先生呼んできます」と言って、奥の方へ下がった。
「こちらの用紙にお名前を書いてください。何かご自身を証明できるものはお持ちでしょうか?」
「……免許証で大丈夫ですか?」
「ええ、大丈夫です」
病院で身分証まで掲示させられたのは初めてだったので、少し戸惑ったが、怪しまれるのも避けたいので、黙って免許証を差し出した。こちらが用紙に名前と住所、電話番号を書いているうちに、内線電話がかかってきて受付の看護師が対応する。
電話に対してうなずきながら「はい、はい……ええ、そうです。わかりました」と相づちをうった。彼女が電話を置いたのを見計らって、たった今、名前などを書いた用紙を差し出す。
「ありがとうございます。天崎さんの主治医の先生がお会いしたいそうですが、お時間よろしいでしょうか?」
「えっ!?」
予想だにしていないことだったので驚いた。
「先生が今、回診中ですので、別室で少しだけお待ちいただくことになります」
あこの主治医から話を聞けるのなら願ってもない機会だが、話がとんとん拍子に進むことに警戒もする。普通、主治医自らが家族など以外に話をするなどあるだろうか?
「ええ、時間は遅くなっても大丈夫です。あの……自分から来て何なんですが、俺が先生から話を聞いても大丈夫なんですか?」
受付の看護師さんは俺の疑問も理解してもらえているようで、質問に丁寧に答えてくれた。
「天崎さん本人からの希望なんです。もし成田渉さんが尋ねていたら、病状についてきちんと説明をしてほしいと。もちろん、一般的に家族以外の他人に個人情報を伝えることはありません。今回のケースは主治医の方と天崎さんが何度も相談して決めた特例中の特例だと言えます」
「そうなんですか……あの、あこ……天崎さんは今もこちらの病院にいるんですか?」
「……いえ、今はこの病院にいません」
看護師さんは少し言いにくいことを言うような表情をする。
「詳細は主治医よりお話することとなっております」
それ以上の質問を閉ざすような雰囲気を察して、その後は黙って看護師さんの案内に従った。エレベーターで階を二つ上がり、面談室と書かれた部屋に入れられた。
「こちらで少々お待ちください」と言って、案内してくれた看護師さんは帰っていった。
テーブルと四人分のイス、デスクトップのパソコンだけが置かれた小さな部屋は、普段、患者に病状を患者やその家族に伝える際に使われる部屋らしい。昨日からこういった部屋によく通される。
それにしてもあこの主治医が直接話したいこととは、いったい何だろう?
あの看護師さんも言っていたが、こんなことは特例中の特例だということは、俺にだってわかる。先生と何度も相談して決めたということは、あこはあらかじめ俺がこの病院まで訪ねてくることを予想していたということだ。
だったらこんなまわりくどいことをせずとも、他に方法があったはずだ。何にせよ今は、先生に話を聞いてみるしかない。あこが再び消えたときから……いや、もう少し前からかもしれないが、ずっとつきまとう嫌な予感を振り払って、できる限りいい方向に物事を考えようと努めた。
結局、その部屋に入ってから十五分以上経って、ドアがノックされる。中に入ってきたのは、少し白髪の入ったやさしそうなおじさんの先生だった。歳の方は四十代後半から五十代前半ぐらいだろか? 縁の太い黒メガネが印象的だ。名札には「中里」と書いてある。
「遅くなって申し訳ないね。午後の回診で思っていた以上に時間がかかってしまった」
入ってくるなり、そう言いながらぐるっとまわって俺の正面にたった中里が、手を差し出した。
「初めまして。天崎さんの主治医を務めていた中里と言います。この病院で血液内科の准教授をしています」
「初めまして、成田です」
差し出された手を握り、着席するよう促されたので、席に着く。
「あこちゃんから君のことは聞いているよ。本当に来てくれてよかった」
「あの、お話というのは……」
焦って本題に入ろうとする俺を制するように、しみじみと独り言のように中村は語りかける。
「……賭けはあこちゃんの勝ちだな」
「賭け?」
「本当はもう少し早く、こちらから連絡をつけようと思っていたんだ。でも、あこちゃんは、いつか君がここに来るからその時まで待ってほしいと。もし君がここまでたどり着いたら、私から伝えてほしいと頼まれていた」
それがいったい何を意味するのかはわからない。ただ、ゆっくりと話す中里の言葉一つ一つが、ずっしりと重みを持ってのしかかる。
「君の存在そのものがあこちゃんにとって大切だったんだろうな。苦しい時期もあったと思う、でも最期はあこちゃんらしく微笑んでいたよ」
中里が目を細める。それは歴史の資料集に出てきた仏像のようにも見えた。優しい透き通るような表情の中里と裏腹に、俺はひどく動揺した。
「最期って?」
「こういう仕事をしていても、やっぱり慣れないものだね」
中里の目が微かに潤んでいるように見えた。
抑え込んでいた不安があふれだす。
……頼む! 言わないでくれ‼
「あこちゃんは……天崎明子さんは、もう亡くなったんだ」
ありがたいことに昔から体だけは丈夫だった俺はほとんど病院に行ったことがない。病院はおろか学校に通っている間は、検診以外で保健室に行った記憶もない。そんな俺が唯一、入院したのが小五の夏である。詳しくは述べないが、自宅で大やけどを負った俺は経過観察で三日だけ入院した。
たった三日の入院ですら暇を持て余し、点滴のチューブの不自由さにイライラした。そんな入院生活とあの活発なあこが結びつかない。二週間前には公園でキャッチボールをしたぐらいだから、詳しいことはわからないがもう病状はだいぶ良くなっているのだろう。
もしかしたらもう通院すらしていないかもしれない。ただ、一年前にそれもそれなりの長期間入院していたのなら、何かしらの手がかりをつかめるかもしれなない。
もちろん病院も個人情報には厳しいだろう。司法書士の手はもう使えない。西森建設の時は山川の旦那さんの力添えがあったからこそできたことだ。それですら宮本に簡単に見破られた。どこの輩かもわからないやつが突然、司法書士だ、相続だと言っても証拠や委任状を見せろとなるだろう。
そうなるとダメもとで正面突破しかないだろう。まずはナースステーション、そして、長いこと入院してそうな患者と地道に聞き込みをしていくしかない。
宮本からもらったメモを参考に、ネットでも予習をしてある。摂北大附属病院は内科、特に循環器内科と血液内科の名医がいることで有名で、一般の内科や整形外科などももちろん診察しているが、他の病院から紹介されて心臓や血液の精密検査を行うために訪れる患者も多い。
土曜日の一般の外来診察は十一時まで受け付けているので、その時間は避けたほうがいいだろうとあえて昼過ぎを狙った。入院患者の面会についてはこういった大病院の中では、かなり寛容で朝の九時から夜八時まで受けつけていた。
あこが入院していた北館の一階に総合窓口がある。南館は循環器系が中心となっていて、北館がそれ以外という割り振りだ。それぞれ七階まであるが、入院に使われるのは二階から五階までの間だ。それより上は手術室など特別な部屋になっている。
地下も二階まであり、北館と南館は地上では道路を一つ越えなければならないが、地下からだとそのままつながっている。
専門外の大きな病気だった場合、その病気に合わせた施設の整った大きな病院に転院することも多い。宮本は入院がわりと長くなりそうだという話をしていたし、さらにめまいで倒れたとのことだったので、あこの病気は何かしら血液内科に関わるものだったのではと考えている。
もちろん決めつけはいけないが、それなりに予測を立てて動かないと手がかりはつかめそうにない。
午前の外来が終わった後とはいえ、土曜日の摂北大附属病院は多くの人でにぎわっていた。総合受付の前に立っていた案内の女性に声をかけられたが、「お見舞いです」と言って頭を下げてその横を通り抜けた。
だいぶ自分の神経も図太くなってきたなと思ったが、もうためらっている時間はない。あこからフェイスブックのメッセンジャーで連絡が来たのが、約一ヶ月前。最初と二度目の日曜はあこと会った。三度目は同窓会。そして、明日が八月最後の日曜日になる。
あこと確認した『恋愛ごっこ』のルールでは明日が結果発表の最終日となる。ここが俺の中での一つの大きなラインとなっていた。
きれいに磨かれた床は一歩ごとにコツコツと音を立てる。変に気取ってスーツなど着てこなければよかったかもしれない。よくわからない私服を着るよりは、スーツの方が聞き込みをするときに警戒されないかと思ったが、病院内ではわりとラフな私服や入院患者用のパジャマ姿などが多く、スーツの方が浮いているようにも感じる。
受付から真っすぐ奥まで進むと三基のエレベーターがあった。少し迷ったが四階まではその横の階段を使うことにした。運動不足の解消の意味合いもないことはないが、それよりも各階の雰囲気を見ておこうと思ったからだ。
各階の階段を上がった先はホールになっていて、その先はナースステーションになっている。そこから二つに廊下が分かれているが、どちらにしてもナースステーションに声をかける必要はありそうだ。
四階まで上がってきたが、四階の構造も二階、三階と同じようだ。
階段を上がったところで、少し遠目からナースステーションの様子を見る。ちょうど同級生のお見舞いにでも来たのか高校生ぐらいの女の子二人が、ナースステーションの前にいる。受付のカウンターのところで、背中を丸めて何やら書いている。きっと面会票か何かだろう。
女の子が書いていた紙を窓口で渡すと、首から下げる名札のようなものを渡された。その名札を首から下げ、二人は廊下の奥の方へ歩いて行った。
やはりまずはナースステーションで聞いてみよう。さすがにもう入院はしていないだろうが、何食わぬ顔で入院していたはずだと伝えたら、記録を調べてもらえるかもしれない。腹をくくってナースステーションの前まで歩いていく。ちょうど他には人がいないので、丁寧な対応をしてもらえるだろう。
「すみませーん」
ナースステーションの奥に声をかけると、「はーい」という返事がして、俺より少し年上の看護師が出てきてくれた。
「どうされましたか?」
物腰の柔らかそうな人でよかった。もっときつそうな圧力のある看護師なら、それだけで気持ちが折れそうになっていたかもしれない。
「あの……お見舞いに来たんですけど、天崎明子さんいますか?」
「天崎明子さん?」
満面の笑みで迎えてくれた看護師さんの表情が一瞬曇り、怪訝な顔で聞き返す。
「えっ……はい、あの、一年くらい前の話で……もういないかも」
やばい、しどろもどろになってしまった。
「あの、四〇八号室にいたはずなんですけど、どうなっているか教えてもらえるとありがたいのですが……」
西森建設のときにうまくいったので、自分の力を過信してしまっていた。あのときは山川の旦那さんのシナリオがよくできていただけなのかもしれない。司法書士の役をしていたので、そこに入りきれていたが、元の成田渉はこんなもんだ。
怪しさ満載で、看護師さんは警戒を深めている。不穏な空気を察したのか、ぽっちゃりした別の看護師も窓口に集まってきた。
「申し訳ありませんが、患者の個人情報を簡単には教えられないことになっているんです。失礼ですがどういった関係の方で?」
きわめて丁寧な口調で最初の看護師が聞いてくるが、その丁寧さにかえって俺は余裕をなくす。程よく院内は空調が効いていたが、掌は汗ばんでいる。もう一人の看護師の刺すような視線が痛い。
「……えっと、友人です。中学時代の。入院していたと聞いて」
「お名前を教えていただいてよろしいですか?」
家族か何かに確認を取るつもりだろうか? もしそうなればラッキーだ。会社なんかでもこういったケースで、まず本人や家族に本当に教えていい人物か確認するという場合がある。
「成田渉と言います」
俺が名前を告げると二人の看護師は驚いた顔をして、顔を見合わせる。ぽっちゃりした方の看護師が小声で「先生呼んできます」と言って、奥の方へ下がった。
「こちらの用紙にお名前を書いてください。何かご自身を証明できるものはお持ちでしょうか?」
「……免許証で大丈夫ですか?」
「ええ、大丈夫です」
病院で身分証まで掲示させられたのは初めてだったので、少し戸惑ったが、怪しまれるのも避けたいので、黙って免許証を差し出した。こちらが用紙に名前と住所、電話番号を書いているうちに、内線電話がかかってきて受付の看護師が対応する。
電話に対してうなずきながら「はい、はい……ええ、そうです。わかりました」と相づちをうった。彼女が電話を置いたのを見計らって、たった今、名前などを書いた用紙を差し出す。
「ありがとうございます。天崎さんの主治医の先生がお会いしたいそうですが、お時間よろしいでしょうか?」
「えっ!?」
予想だにしていないことだったので驚いた。
「先生が今、回診中ですので、別室で少しだけお待ちいただくことになります」
あこの主治医から話を聞けるのなら願ってもない機会だが、話がとんとん拍子に進むことに警戒もする。普通、主治医自らが家族など以外に話をするなどあるだろうか?
「ええ、時間は遅くなっても大丈夫です。あの……自分から来て何なんですが、俺が先生から話を聞いても大丈夫なんですか?」
受付の看護師さんは俺の疑問も理解してもらえているようで、質問に丁寧に答えてくれた。
「天崎さん本人からの希望なんです。もし成田渉さんが尋ねていたら、病状についてきちんと説明をしてほしいと。もちろん、一般的に家族以外の他人に個人情報を伝えることはありません。今回のケースは主治医の方と天崎さんが何度も相談して決めた特例中の特例だと言えます」
「そうなんですか……あの、あこ……天崎さんは今もこちらの病院にいるんですか?」
「……いえ、今はこの病院にいません」
看護師さんは少し言いにくいことを言うような表情をする。
「詳細は主治医よりお話することとなっております」
それ以上の質問を閉ざすような雰囲気を察して、その後は黙って看護師さんの案内に従った。エレベーターで階を二つ上がり、面談室と書かれた部屋に入れられた。
「こちらで少々お待ちください」と言って、案内してくれた看護師さんは帰っていった。
テーブルと四人分のイス、デスクトップのパソコンだけが置かれた小さな部屋は、普段、患者に病状を患者やその家族に伝える際に使われる部屋らしい。昨日からこういった部屋によく通される。
それにしてもあこの主治医が直接話したいこととは、いったい何だろう?
あの看護師さんも言っていたが、こんなことは特例中の特例だということは、俺にだってわかる。先生と何度も相談して決めたということは、あこはあらかじめ俺がこの病院まで訪ねてくることを予想していたということだ。
だったらこんなまわりくどいことをせずとも、他に方法があったはずだ。何にせよ今は、先生に話を聞いてみるしかない。あこが再び消えたときから……いや、もう少し前からかもしれないが、ずっとつきまとう嫌な予感を振り払って、できる限りいい方向に物事を考えようと努めた。
結局、その部屋に入ってから十五分以上経って、ドアがノックされる。中に入ってきたのは、少し白髪の入ったやさしそうなおじさんの先生だった。歳の方は四十代後半から五十代前半ぐらいだろか? 縁の太い黒メガネが印象的だ。名札には「中里」と書いてある。
「遅くなって申し訳ないね。午後の回診で思っていた以上に時間がかかってしまった」
入ってくるなり、そう言いながらぐるっとまわって俺の正面にたった中里が、手を差し出した。
「初めまして。天崎さんの主治医を務めていた中里と言います。この病院で血液内科の准教授をしています」
「初めまして、成田です」
差し出された手を握り、着席するよう促されたので、席に着く。
「あこちゃんから君のことは聞いているよ。本当に来てくれてよかった」
「あの、お話というのは……」
焦って本題に入ろうとする俺を制するように、しみじみと独り言のように中村は語りかける。
「……賭けはあこちゃんの勝ちだな」
「賭け?」
「本当はもう少し早く、こちらから連絡をつけようと思っていたんだ。でも、あこちゃんは、いつか君がここに来るからその時まで待ってほしいと。もし君がここまでたどり着いたら、私から伝えてほしいと頼まれていた」
それがいったい何を意味するのかはわからない。ただ、ゆっくりと話す中里の言葉一つ一つが、ずっしりと重みを持ってのしかかる。
「君の存在そのものがあこちゃんにとって大切だったんだろうな。苦しい時期もあったと思う、でも最期はあこちゃんらしく微笑んでいたよ」
中里が目を細める。それは歴史の資料集に出てきた仏像のようにも見えた。優しい透き通るような表情の中里と裏腹に、俺はひどく動揺した。
「最期って?」
「こういう仕事をしていても、やっぱり慣れないものだね」
中里の目が微かに潤んでいるように見えた。
抑え込んでいた不安があふれだす。
……頼む! 言わないでくれ‼
「あこちゃんは……天崎明子さんは、もう亡くなったんだ」



