あの夏の「恋愛ごっこ」の続き

 エントランスホールの床は黒っぽい大理石でできており、高級感のあるシックな雰囲気を醸し出している。少し緊張しながら、言われた通りに受付に声をかける。約束の六時にはもう少し時間がある。
 今日は午前中に集中して仕事を片付け、一時間の時間休を使って、早めに職場を後にした。普段通り定時に出ても、ぎりぎり間に合わないことはなさそうだったが、大事を取って早めに来て、一度場所を確認しておいてから、近くで時間を潰した。
 全国的に有名ではないかもしれないが、「西森建設」と言えば県内ではそれなりに有名だった。マンションの建設・販売からいくつかの飲食店の経営まで、地域に密着して幅広く手掛けていて、社員も派遣のものなども合わせるとかなりの数がいるらしい。
 厳しい建設業界の内部では部署や人の入れ替わりも激しく、たった一年半前とは言え、すでに当時の担当者は別の部署に転属になっていた。その中で山川の旦那さんの計らいで、その「天崎さん」と一時期、共に働いていた人から話を聞く機会を作ってもらえたのは幸運だった。
 受付で「村田さんと約束があります」と伝えると、二階の二〇三と書かれた部屋に案内された。わりと少人数で会議をするために作られた部屋だろうか? 長机がロの字型に並べられている。
 どこに座るのが正解かわからないまま、出入り口から一番近いところに座った。
「少々こちらでお待ちください」と言う案内係の女性に会釈する。
 前面にホワイトボードと時計がある以外は、余計なものが置かれていない無機質な部屋だ。六時まであと五分、何もないのが逆に息がつまる。山川の旦那さんが俺のことを相続関係書類の作成のために天崎さんの連絡先を探している司法書士だとごまかしてくれているらしいが、うまくいくだろうか?
 最初に山川から連絡があったのは同窓会があった次の日の夜だ。
 山川が旦那さんに例の「天崎さん」のことを話すと、旦那もすぐに協力すると言ってくれたらしい。全く面識もないが、さすが山川の旦那さんだと思った。
 ちょうど「天崎さん」がかつて務めていた西森建設の税務について書類にハンコをもらいに行くついでがあったので、その時に少し調べてみるとのことだった。
 山川に動いてもらっている間に、俺は俺で「天崎明子」で検索をかけたり、調べて見てはいるのだが、いっこうにそれらしきものにはヒットしない。
 こちらの方では何の成果もなかったが、山川の方は順調に事が進んでいるみたいだ。さっそく次の日の夜に山川から電話があった。少し興奮気味の山川が言うには、やはり旦那の知り合った「天崎さん」の名前が「明子」だったとのことである。
 何も手がかりのなかったところから、ずいぶんと真実に近づいた。どうやらこの「天崎さん」をあこと断定して調査を進めてよさそうだ。
「そうだね、きっとこれがあこだよ。ただ、あこ自身は事務の契約社員として来てて、直接その西森建設に雇用されていたという訳ではないみたい。もう一年半前のことだし、その事務の中の経理関係の担当者も変わってしまって詳しいことまではわからないって」
「……そうか、直接連絡先を知っている人がいたら一番ありがたかったんだけど、そこまではうまくいかないか」
「それが一番簡単だったんだけどね。でも、あこがいたころに同じ部署にいた人が派遣の中にも残っていて、その人と会う約束をうちの旦那がつけてくれたよ」
「本当か‼」
 あこが勤めていた会社はわかったが、そこでまた手詰まりかと思っていただけに、直接話せる機会をつくってくれたのはありがたい。
「金曜日の夕方って時間ある?」
「えっ? 俺が話を聞きに行って大丈夫なの?」
てっきり山川の旦那さんが代わりに聞いてきてくれるものと思っていた。
「自分で聞いた方が、聞きたいことを確実に聞けるかなって。先方には知り合いの司法書士が、相続の書類をつくるために連絡先を調べてるって、旦那が伝えてる。離婚した父親の相続権の調査だって、それらしい話をしてるからうまく口裏合わせてね」
「そんなことまで……山川さん、何から何までありがとう。旦那さんにもよろしく言っといてね」
「うん、ちゃんとあこに会えたら私も会いたがっていたって伝えてね。先方の場所とか、約束の詳細はまたメールでまとめて送るね」
 電話でもあったとおり、次の日の昼頃に山川からのメールが届いた。さっそく西森建設の本社をネットで検索した。少しでも情報をあこに関わる情報を頭に入れて今日の日に臨んだ。
 時計の針が六時ちょうどを指すころ、コンコンとドアがノックされ、スーツに身を包んだ四十代後半ぐらいの男性と、自分と同じぐらいの年頃の若い小柄な女性が入ってきた。
「お待たせして申し訳ございません。経理の係の方をしております村田と申します。どうぞおかけになってください」
 慌てて立ち上がった俺に、村田と名のった男性はすぐに着席を促すが、先に今日の礼とあいさつをする。
「こちらこそ、お忙しい中お時間をつくっていただきありがとうございます。成田渉と申します」
「乾さんから聞いております。どうぞ本当におかけになってください。こちらは宮本と申します。以前、天崎さんと同僚として働いておりました」
「宮本です。はじめまして」
 村田から紹介された宮本も頭を下げる。合わせてこちらも会釈して席に着く。それを確認して「失礼します」と言って二人も席に着いた。
 さすがに外向けの応対の仕事も多いのか、村田はにこやかな表情を浮かべながら余裕を持った応対をしてくれる。サイドの部分はかりあげて、前髪は緩やかに流した髪型や、しっかりとアイロンの聞いた紺のスーツは清潔感があって好感が持てる。
 それに対して宮本の方はこういった場面にあまり慣れていないのか、少し緊張した様子だ。一つくくりにした黒髪に小柄な宮本は幼く見え、会社の制服もどこか着せられている感が出ていた。
「それにしても、司法書士の先生も大変ですね。書類作成のためにこういった探偵みたいな仕事までしなくちゃいけないなんて」
「ええ、年々、家族構成もややこしくなっていますので、相続の書類一つ作るのにも、いろいろな下準備がいるんです。今回のようにご離婚して時間が経ってから本人の知らないところで相続権が発生すると、連絡をつけるのも一苦労です」
 村田の世間話に、何度もシュミレーションしてきた作り話で返す。内心ドキドキしていたが、不自然なところなくうまく返せたみたいだ。
「なるほど、乾さんもおっしゃってましたが、昨今は個人情報についてもうるさいので、余計に大変ですね」
「ええ、本人に確認しようと思っても、まずその本人に連絡つけようがないことも多いんです。こういった形で本人の足跡を追いかけるということもよくあります。もちろん、ご迷惑をおかけすることはありませんし、協力していただける範囲で大丈夫です」
「そのあたりのことも乾さんから念を押されていますよ。あくまで従業員に対する世間話の一環として行うと。大丈夫です、いつも乾さんにはお世話におりますので、できる限りの協力はさせていただくつもりです」
「ありがとうございます」
 山川の旦那さんが根回しをしてくれているおかげで、思った以上にスムーズに話が進む。根回しした内容も詳細までメールで送ってもらっているので、聞かれそうなことも事前に準備できている。
「さっそく本題に移らせていただいてもよろしいでしょうか?」
「ええ、よろしくお願いします」
「まずその天崎明子さんの勤務状況について簡単に私から話させていただきます。ただ、私がこちらの部署に移ってきたのは、この四月からですので直接面識はありません。詳しい当時の様子は後ほど、宮本の方からお伝えさせていただきます」
 そんな簡単に勤務状況を伝えていいのかと思ったが、よっぽど山川の旦那が信頼されているのか、内々の話として処理されているからだろう。村田は胸から取り出した眼鏡をかけて、書類に目を落としながら続ける。
「……ええっと、その天崎さんですが、一年前の二月の初めから契約社員として事務の補助をしていただいていました」
「どうして、そんな中途半端な時期に?」
「そうですね……ええっと、ああ、産休に入る職員の代替としてですね。産休や育休を取る事務職の代替として、契約社員を期間限定で雇用することがあるんです。一応、この天崎さんは産休期間後の育児休暇も見越して、二月から次の年の三月までの契約になっていました」
「契約上はこの三月までとなっていたということですか?」
「ええ、ただ三月の中旬に一身上の都合で退職となっています」
「……たった一ヶ月ほどで?」
 確かにそれだとあこが仕事をやめたという一年半前に時期はだいたい合うが、あのあこが一ヶ月で仕事を辞めるなんて何があったのだろう?
「何かあったんでしょうか?」
 俺の問いかけに、村田は横の宮本の方に目をやる。
「……病気をされたんです」
 村田から視線で促された宮本が話し出した。
「天崎さんが働きだして一ヶ月ぐらい経ったときに、職場でひどいめまいを起こして倒れたことがありました。病院で精密検査を受けたら何か重い病気だったみたいで、結局、そのまま退職になったんです」
 宮本の言葉に「えっ!?」っと一瞬耳を疑う。
 あこが病気をしたという話は初耳だった。前にあこに会ったときの話しぶりからすると、てっきり結婚が決まっての寿退社だと思い込んでいた。
「どのような病気かは聞いていましたか?」
「いえ、詳しくは」
 宮本は首を振る。
「……ただ、退職後しばらくは入院をしていたはずです。一度だけお見舞いに行ったことがあるので」
「入院? どれくらいの期間だとかは聞いていましたか?」
「それも詳しくは……すぐには退院できないし、たぶん病院を行ったり来たりしなくちゃいけないとは言っていました」
 宮本の話を聞く限りでは、わりと病状は深刻なようだが、今は完治しているのだろうか? あこからはそんな話を聞いたことがない。この間は公園で運動までしているので、今はもう何ともないのか?
「それ以降は連絡をとったりはしていなかったでしょうか?」
「はい、天崎さんにあったのはそれが最後です。それ以降は疎遠になっていました。実は今回の話を聞いて、久々に連絡を取ってみようとしたのですが、番号とかも変わっていて、つながりませんでした」
 残念そうに宮本が肩を落とす。横から村田も書類を見ながら補足をする。
「通常、退職をする場合、紙ベースの履歴書については本人に返却します。住所や電話番号などのデータなども正社員の場合は、退職金のことなどもありますので残しておきますが、契約社員の場合は通常一年でデータの消去を行います。天崎さんの場合もすでに個人情報に当たる部分は破棄されていました」
 書類から目を話し、村田がこちらを見る。
「残念ながら私ども方に残っている情報は以上となります。何か気になることなどがありましたらお聞きください」
「そうですね……」
 村田の言葉に少し考えこんで、頭の中を整理する。
 あこが病気で仕事を辞めたというのは今回初めて知った情報だ。どれくらいの期間、入院していたのかはわからないが、すぐに退院できないほどの病状だったということだ。行ったり来たりという表現があったということは、かなりの期間、経過を観察する、あるいは再発の可能性があるということかもしれない。
 もしかしてあこに感じていた違和感の一つはそこかもしれない。
「宮本さんにお聞きしたいのですが、天崎さんにお付き合いされていた人がいたかなどはご存知ですか? たとえば結婚の話が出ていたとか?」
「あの……それって何か関係あるんですか?」
 予想外の質問に宮本は不思議そうな顔をしている。
 ここで不審がらせては駄目だ。あくまで当たり前のことのように振るわなくては……。笑顔をつくり宮本に返す。
「はい、実はこういった件では、毎回させていただく質問です。以前も恋人からたどって連絡をつけることができたこともあるので。他にも今までには非嫡出子がいて、相続がさらにややこしくなるなんてケースもありました」
 内心とは裏腹に、できるだけ穏やかなに説明した。
「そうなんですね」
 宮本も納得してくれたようだ。
「たぶんそれはなかったと思います。もちろん、私の知っている範囲の中ですが。以前、他の同僚とそういう話をしたことがありましたが、恋人はいないと言っていました」
 宮本の説明にやはりそうだと思った。
 宮本の話が正しいのなら少なくとも昨年二月の時点では、あこに恋人はいなかった。それからしばらくの間、あこには入院をしたりと体調面の不安があった。そこから出会いがあって、結婚を約束し、外国へついて行くことになった。
 もちろんスピード婚もよくある話で可能性がないわけではない。でも、少し日程がタイトではないか? あこは結婚相手の話を一度もしてくれなかった。
 もし、あこの結婚が真実ではないのだとしたら……あこの言う遠いところが別のものだったとしたら。様々なことが頭の中でかみ合う。
 同窓会のことを敬遠した。深く人と関わろうとしなかった。連絡方法を断とうとした。いろんなことの辻褄があっていくことが恐怖だった。俺は今、恐ろしい想像をしている。
 それでももう一つどうしても解けていない大きな謎がある。
 そこが解けたとしたら、あるいは……。
「あの、どうかなさいましたか?」
 宮本の声で我に返る。
「すみません、少し考え事をしていました。どうやら、結局、その病院以外には手がかりがなさそうですね。もしよろしければ、今度はその病院を訪ねたいと思いますので、教えていただいてよろしいでしょうか?」
「大丈夫です。摂北大の附属病院なんですけど、手帳に詳しいメモが残っていたと思いますので、後でお渡ししてよろしいですか?」
「助かります。村田さん、宮本さん、本日はご協力ありがとうございました。それと今日の話ですが……」
 言い切る前に村田が割り込んでくる。
「心得ております。あくまで今日、私どもがしたのは世間話だけです」
 改めて村田と宮本に頭を下げて、礼を述べて退室する。宮本からメモを受け取るため、受付のところでしばらく待つ。ずっと緊張続きだったので、やっと解放されたと思ったらどっと疲れが出てきた。
 直接的な連絡先を入手することはできなかった。だが、収穫がなかったわけではない。少しずつ真実に近づいている気はする。その真実が自分の望むものとは違ったとしても……。
「お待たせしました」
 五分も経たない間に宮本がやってきた。手に持ったメモ用紙を両手で差し出す。
「摂北大附属病院の住所と電話番号が載っています。もう変わっていると思いますが、当時入院していた病室の番号も書いてあります」
 電話番号の下に書いてある北館四〇八というのが病室の番号だろう。
「ありがとうございます。最後に一つだけよろしいですか?」
「ええ。まだ何か?」
「たった一ヶ月ですが、職場での天崎さんの様子はどのようなものでしたか?」
「あの……それも何か天崎さんを探すのにつながるんですか?」
 宮本の質問に俺は手を振って苦笑する。
「いえ、これはただの興味です」
 俺の答えに納得したのか、宮本はこくんとうなずいた後、少し考えこむ。
「明子の名前の通り明るい子でした。前向きでケラケラとよく笑う。私はすごく好きでした」
 職場でもあこはあこだということがわかって安心した。
 もう一度、宮本に礼を言って、その場を後にする。次の目的地は摂北大附属病院だ。エントランスホールを出ようとするとき、もう一度、宮本に呼び止められた。
「成田さん、本当は司法書士の先生じゃないですよね?」
 宮本の言葉に足が止まる。振り返らずに聞き返す。
「どうしてそう思うんですか?」
 落ち着いた口調と裏腹に心臓は急激に波打っている。
「……女の勘です」
 驚いて振り返り、宮本の方を見る。
 そういえばあこにも昔、「女の勘」なんてセリフを吐かれたことがあった。
「すみません、気にしないでください。天崎さんに会えるといいですね」
 頭を下げる宮本に、こちらも一礼してその場を去った。
 すべてが終わったらこの女性にも謝りに来ようと思った。