カーテンを閉め切った教室の真ん中で、その男は泣いていた。
私はそれを目撃した時、驚いて身動きが取れなくなってしまった。それもそのはず、情けない声を上げて泣いているその男は、完全無欠、眉目秀麗、圧倒的人気者と謳われる北条瑛翔だったからだ。
名前負けしそうなほど美しい名にも関わらず、それに劣らぬルックスと才能を持ち合わせている人物。常に人の憧れの上に君臨し続ける存在であり、弱音を吐いたところなど見たことがない。何でも無難にこなし、とにかく期待値の上をいく男。
──それが、なんだ。
泣いている。ううう、と声を上げて、喧嘩した小学生のような仕草で泣いていた。
「……北条くん?」
おそるおそる問いかけると、ゆっくりと視線を上げた彼と目が合う。その瞳は泣き濡れたことでより光を発している。
はっ、とどちらのものか分からない息が洩れた音がした。
「俺、おれ……上手く、できてたかな?」
まるでばらばらに崩れ落ちてしまいそうな硝子のように、弱々しい声が耳朶をうつ。
「できてたと……思うよ」
上手くできてた、というのが、今日台本読み合わせがあった劇のことであるならば、彼にかける言葉はそれ以外に見当たらない気がする。
よかった、と安堵の表情を浮かべた北条くんは、ふいにふらっと体の力を抜いた。ずるずると壁に縋って、そのまましゃがみ込むような体勢になった北条くんに、私は慌てて駆け寄る。
「だい、じょうぶ?」
「昔から、プレッシャーに弱くて。上手くいって安心すると泣いちゃうんだよ、おれ」
膝を抱え込むようにして、目元を膝にぎゅっと押し当てながら、北条くんがそう呟く。
九月六日、木曜日。
クラスメイトの意外すぎるギャップを知った日のこと。
*____
きみを知った日のこと。
_____*
人間は平等ではない、と、私は思う。たとえばそう、学校。学校でのカースト、キャラクター、イメージ。世の中にはたくさんの人間がいて、それぞれに、してもいいこととしてはいけないことが決められている。
たとえば文化祭のクラスステージ。ダンスを披露する時、センターで踊ってもいい人と、踊ってはいけない人がいる。前者は普段のクラスで目立つ人物──私は一軍パリピ陽キャと呼んでいる──であり、ここに普段教室の隅で呼吸をしているような、そんな人間が立ち入るのは御法度。もちろん私は後者で、言うまでもなく目立ってはいけない部類に位置している人間だ。
「文化祭のクラスステージは劇をしたいと思います!」
九月三日のホームルーム。
声高に宣言したのは、一軍パリピ陽キャもとい中心人物の瑞木若菜だ。クラスを引っ張っていくリーダーシップがあって、とてもよく目立つ。現に学級委員という重職を担っていて、はっきりとした物言いが印象的。
「男子と女子でそれぞれ王子役と姫役を決めます。立候補、あるいは推薦で誰かいませんか」
呼びかけに対して、早速名前があがったのが北条瑛翔だった。男女ともに納得の推薦らしく、「北条には勝てん」「衣装気合い入れよ!」という言葉が聞こえてくる。
「ってことで推薦なんだけど、北条くん、やってくれる?」
若菜の呼びかけに、小さく微笑んだ北条くんは「せっかく推薦してもらえたから、精一杯頑張るよ」と言った。
拍手が起こる。ルックス、校内の知名度、真面目さも申し分ない。
「北条が王子役だったらクラス賞狙えるんじゃね?」
クラスメイトの一言に、「がちで狙いにいく?」「まじがんばる?」と声が上がる。クラス賞とは、文化祭ステージ終了後いちばん素敵だと思ったクラスステージに生徒がスマホで投票し、いちばん得票数が多かったクラスに贈られる賞のことだ。
「クラス賞狙いにいくんだったら、姫役は紗雪がいいと思う!」
若菜が紗雪の方を向くと、クラスの視線も窓際の一点に集まる。その視線を受けて、驚いたように目を丸くしているのは、クラス屈指の美少女、菫紗雪だ。彼女はいつも若菜と一緒にいて、一軍パリピ陽キャの輪の中にいるけれど、お淑やかな女の子で、いい意味で浮いている。
周囲が騒いでいても、その中で微笑んでいるような女の子。
だから、まさしく【姫】という言葉がぴったりで、これにもクラスメイトは納得しているようだった。
「引き受けてくれる?」
「……わたしでいいのか不安だけど、みんなが言ってくれるなら、頑張ります…!」
ふわん、と花が咲いたような笑みを浮かべた紗雪に、拍手が起こる。
「じゃああとは、劇の台本や衣装、小道具係を決めて──」
私はそっと、北条くんを盗み見る。すっと背筋を伸ばし、まっすぐに黒板を見ている。
王子役がふさわしい人物だ、と思った。
三日後、文芸部がやる気のあまり一夜で仕上げたという台本を配って、読み合わせをすることになった。
北条くんと紗雪が椅子に座り、私含め他のクラスメイトは作業をしつつ、それを聞いているというかたちだ。
「……姫よ、僕はきみに弱いところを見せるなんて、そんなことできなくて。それでつい、強がってしまった」
「いいえ、あなたはとても強いです。いつだって強くて、かっこいい」
二日間の練習とは思えない完成度に、思わず感嘆しているクラスメイト。台本を見ているとはいえ、噛むことなくスラスラと台詞を言う北条くんも紗雪もさすがだ。
私は小道具担当として段ボールの解体作業をしながら、その声を聞いていた。
勉強も、サッカー部の活動も全力で取り組んでいるはずなのに、どこに台本練習の時間があるというのだろう。もしかすると、そこまでの練習はしていないのかもしれない。だって、北条くんはもともとのスペックが違うから。
*
そんなふうに思って過ごした一日の放課後、いま、私の目の前で泣いているのは紛れもなく北条くんだ。
普段の自信に満ち溢れて余裕のある北条くんとは真逆な彼の姿に、唖然としてしまう。
「……あの台本、どれくらい練習したの?」
「めちゃくちゃやった。学校と部活以外の時間は常に見ていた」
「だったら、そんなに心配しなくても……」
「だめだ!!」
急に大きな声を出した北条くんは、すまない、と謝って視線を落とした。
「北条瑛翔は、失敗できない。常に完璧じゃないとだめなんだ、昔から」
「……じゃあ、王子役本当はやりたくなかったの?」
「こんな重圧、ずっと背負っていられるわけがない……」
まさか、と思う。だって引き受けた時は、あんなに余裕そうに微笑んでいたのに。
「ずっとひとりで孤独に練習しなきゃいけない。上手くいかなかったら涙が出てくる。だから、人の前では練習できない」
「どうして?」
「だって引くだろ?」
「それは……わかんないけど」
そう言われると、たしかに北条くんと涙は等式が成り立たないとは思う。
ようやくおさまってきた涙を、ぐいっと強めに拭いた北条くんは、しばらくじっとこちらを見つめた。
「清水」
ちゃんと名前を知られていたんだ、と思う。私なんて休んでもきっと気付かれないくらい、影の薄い存在だというのに。
「もしよかったら、一緒に練習してくれないか?」
「え?」
「一人は孤独だ。でもみんなの前だと泣くからできない。でも清水にはこの姿も見られたわけだし」
たしかに、北条くんの秘密を知ってしまった私が、彼の練習に付き合うのには納得だ。ただ、こんなキラキラ男子高校生の北条くんと、私みたいな地味女子が関わるなんてこと、周りが許してくれるだろうか。
『──ちゃんって、目立ちたがりだよね。自分のことかわいいと思ってるの?』
遠いけれども、強く刻まれた記憶。私は目立ってはいけない。私が彼に近づけば、嫌な思いをする人が大勢いるかもしれない。
「……でも、私」
北条くんを見つめる。彼の潤んでいる瞳を見て、思う。彼はたった一人で、この重圧に耐え続けているのだ。いつも余裕あるように振る舞うために、こんなに心を痛めている。
そんな彼を、私は放っておくのだろうか。偶然目撃してしまったとはいえ、私は彼の秘密を知る唯一の人間だ。だからこそ彼は私に依頼してきたのだと思うし、これを断るのは人間的にどうなのだろう。
「……わかった」
頷くと、顔を明るくした北条くんは、
「教室だと誰かがくるかもしれないから、旧館の渡り廊下で練習しよう」
と意気込んだ。
「明日から台本の暗記練習が始まるから、付き合ってくれると嬉しい」
いつも教室で振りまいているようなまぶしい笑顔に少々圧倒されながら「わかった」と頷く。
文化祭まで1ヶ月を切っている。それまでに台詞を覚え、身振り手振りを覚え、感情をつけたり抑揚をつけたりしなければいけない。
彼が成長していくさまを見守る……なんて。
たった1ヶ月だけの不思議な関係が、始まろうとしていた。
*
翌日、学校に着くと北条くんはすでに学校に来て、クラスメイトと談笑していた。性別関係なく、彼の周りにはたくさんの人が集まっている。私はそれを横目に見ながら、昨日の出来事は全部私が作り出したまぼろしだったかもしれないと思いだす。けれど、たとえまぼろしだったとしても、現実の可能性が0.1パーセントでもあるなら、行かないわけにはいかない。
そんな思いで向かった渡り廊下。
「ほんとにいた……」
渡り廊下の柵にもたれるようにして、たたずむ人を見つけた。まっすぐな黒髪が風になびいている。まるでドラマの中に出てくる人みたいだ、とぼんやり見つめていたら、ふいにこちらを向いた北条くんが「お!」と手をあげた。まぼろしじゃなかった、と思いつつ駆け寄る。
「来てくれてありがとう」
「……約束したから」
「嬉しいよ」
彼が人気な理由はこうやって些細なお礼や素直な気持ちを伝えることができるからなんだろうな、と思いながら、彼が差し出したものを受け取る。それは台本だった。
「これ」
「もう一冊頼んで用意してもらったんだ」
「わざわざ……ありがとう」
「いや、練習自体俺が言い出したことだから」
相好を崩した彼は、さっそく自分の台本を開いた。
「じゃあ、今日は10ページまで練習しようと思う。清水は姫役読んでくれる?」
「わかった」
どきりと鳴る心臓を、深呼吸でしずめて台本に目を落とす。
『僕は隣国の王子です。突然で困らせてしまうかもしれませんが、あなたに一目ぼれをしました。こんな気持ちになったのは初めてです』
『実は私も、あなたを見たときから、惹かれていました』
お互いに一目ぼれをした王子と姫が恋を育む中で、ライバル出現や裏切り、王子の葛藤や姫の秘密が明かされ、ファンタジックな設定の中に現代にも通ずるあるあるや共感できる部分が詰まった劇になっている。
スラスラと暗記した部分を読んでいく北条くん。台本を開いてはいるけれど見ていないので、ほとんどないようなものだ。
私はもちろん台本を見ながら、台詞を読んでいく。紗雪の可愛らしい声が脳内で響いて、自分との違いに切なくなるけれど、仕方がない。比べるのもおこがましいくらいだ。
『もし、あなたが望むのなら、僕はキミを……違う、僕があなたを……違う』
9ページ前半あたりで、言葉が詰まり出した北条くんは、眉間をつまみながら壁にもたれた。
「僕があなたにめいっぱいの愛をあげよう、だよ」
「そうだった。毎回ここで詰まるんだ」
唇を噛み締めた北条くん。まさか、と思って少しだけ目を逸らす。すん、と鼻を啜る音が聞こえて、やっぱり泣いているんだ、と思う。
クラスメイトは知らないだろう。完璧にこなした読み合わせの裏で、彼がこんなにも泣いていること。こんなに些細なことで泣いてしまうなら、日常生活のなかでもうっかり泣いてしまいそうなのに、みんながいる前では決して弱さを見せないところもまた、彼の魅力なのだろう。
「情けないところを見せてすまない」
「全然いいよ。少し休憩してからまたはじめよう」
「ありがとう清水」
その日は一時間ほど練習をしたあと、北条くんは部活に行った。台本読みをしたというのに部活も頑張るのかと、半ば信じられない気持ちでそれを見送る。
まさに主人公という形容がぴったりだ。ただし、泣き虫の。
*
「清水さん次これ、赤と紫で塗ってほしい」
「はい、わかりました」
「ありがとね」
手渡された段ボールに、絵の具で色を塗っていく。教室の真ん中では北条くんと紗雪が練習をしていた。
『もしあなたが望むのなら、僕があなたにめいっぱいの愛をあげよう』
『嬉しい。でもわたし、あなたからの愛は受けとれない。だって本当のわたしは可愛らしくもない、今のわたしは繕ったものだから』
放課後の練習では何度も詰まっていた台詞を、ここでは間違いなく言えている。どれほど練習したのだろう、とぼんやりながめていると、こちらを向いた北条くんと視線が絡まった。慌てて逸らす。
「清水さん、大丈夫?」
「あ、うん。はい、大丈夫」
首を傾げた小道具パートリーダーに返事をして、作業に戻る。
北条くんはクラスの真ん中にいて、私はこうやって端っこで作業するだけの人間。住む世界が違う。
それなのに、放課後の時間だけは、私たちの世界が交わるのだ。
日を重ねるごとに、少しずつ、放課後の時間を楽しみにしている自分がいる。まだ数日しか経っていないというのに、こんなふうに思っていてはだめだ。
今は六限。この後の放課後で、私はまた彼と顔を合わせることになる。そのことを、ここにいる私と北条くんしか知らない。なんだか不思議だ。
そうして迎えた放課後、先に渡り廊下に着いたのは私だった。めずらしく、彼の方が遅いらしい。しばらく待っていたけれど全然来る気配がないので、仕方なくパラパラと台本をめくる。
紗雪はとても可愛い声をしているから、どの台詞もふわふわした声になってしまう。だけど、この姫はなんとなく、もっと力強いような気がしてしまって、私だったら、と思いながら姫の台詞を呟いてみる。
『いいえ、あなたはとても強いです。いつだって強くて、かっこいい』
けれど呟いているうちにだんだんと声が大きくなり、気づけば身振り手振りもしながら姫になりきって演技していた。
やっぱりすきだ。こうやって演劇をするのも、大きな声で話すのも、動くのも、私は好きなのだ。
「めっちゃすごいじゃん、清水。もっかいやって」
「うわっ!?」
つい驚きで腑抜けた声が出てしまった。いつのまにか着いていたらしい北条くんが、ドアの付近で立ってこちらを見ている。
「あ……これは違くて、その」
「めちゃくちゃ上手いじゃん。清水、いつもは静かな感じだから、そんなに大きい声出るんだって思って、びっくりした」
さいあくだ。調子にのらなきゃよかったと後悔してももう遅い。
「もしかして、こういうのすきなの?」
「え……?」
「いや、演劇とか。すごい楽しそうに見えたから」
「……ううん」
「本当は姫役してみたかったんじゃない?」
「……ち、違うよ。それより北条くん、今日はどうして遅かったの?」
話題を変えたくてなんとか絞り出した質問に、北条くんは「ああ」と頷いて口を開いた。
「瑞木と菫と打ち合わせをしていたから遅れたんだ」
「一軍パリピ陽キャの?」
「いちぐんぱり……?」
しまった、と慌てて口をふさいだけれど、時すでに遅し。今日はなんだか失敗してばかりだ。
「ごめんなさい。今のはすごく悪意あるように聞こえるよね。違うの」
「……」
北条くんの声が聞こえなくなって、怒っているのだろうかとおそるおそる彼を見ると、北条くんは下を向いて肩を震わせていた。よく見れば、クツクツと音を立てて笑っている。
「え……?」
「清水ってミステリアスなイメージだったけど、案外トゲがあるっていうか、だけど全然人を傷つけないトゲっていうか、そのどこで知ったのっていう独特な語彙とか、結構、刺さった」
地味であることをミステリアスとプラス変換できるのも彼の魅力。一軍パリピ陽キャが意外にも刺さったらしく、何度も「一軍パリピ陽キャ」と呟いては笑っていた。
「清水って実は結構おもしろい?」
「そうかな」
「うん。なんかクラスでの雰囲気と全然違っていいね。ギャップかも」
ギャップ……といえば北条くんだってそうだ。完璧人間が実は泣き虫だなんて、めったにないギャップだ。
「もしかして俺のこと、泣き虫とか思ってる?」
今まさに思っていたことを当てられて、あは、と顔がひきつる。これにはさすがに怒ってくるかと思ったけれど、大笑いしていた。
北条くんにつられて、私も自然と笑えてしまう。すると「清水、笑えるんだ」と北条くんが言うから「全然笑えますけど、人間なんで」と返した。
その日は練習することなく、ただただ雑談をして盛り上がった。空がゆっくりと青から紫に変わっていくのをぼんやりと眺めていると、「あ、写真撮ろ」と北条くんが言うから、私はくるりと振り返って北条くんを見た。
「ピースしたらいいの?」
「……」
はてなマークを浮かべて私を見つめる北条くんを見つめ返すと、やがて何かに気づいた北条くんがお腹を抱えて笑い出した。
「あははははっ、やばい、涙出そう」
「? なにが?」
「ふははっ、違うよ。俺は、空を撮るつもりだったのに、急にポーズとか言うから笑えちゃって」
「そういうこと? 私の勘違い? はずかし」
顔に熱が集まるのを感じる。手を当ててみると、たしかに熱い。
「うん、なんかね、今日の清水すごくいいよ。教室にいるときより、ずっといい」
「……そう、かな」
「よく話すしよく笑うし、あとたまに変だし。語彙も独特だし。なんか、新たな清水っていうか、新鮮」
北条くんが「じゃー記念に撮っとく?」とよくわからない【記念】ということで手を伸ばした。空を背景に、私と北条くんが写っている。
もうすべて暴かれたようなものだからどうにでもなれ、と思う。全力で腕を伸ばしてピースをした。
*
一緒に練習をするようになってから二週間が経ち、文化祭まで二週間を切るという、真ん中の日。
いつもどおり練習をしている北条くん。私もすっかり台本を暗記してしまって、今ではふたりとも台本なしで練習している。
「しーみーずー」
「なんですかー」
「清水って好きな飲み物なに」
「オレンジジュース」
北条くんは「りょーかい」と呟いて姿を消した。しばらくして、二本のペットボトルを持って帰ってくる。
「これ、グレープとオレンジ」
「グレープがいい」
「え、うそ。清水のためのオレンジなのに」
「ふふ、うそ。オレンジもらう。明日は私ね」
「いいよ別に」
「いーや。コンポタ買ってあげるね」
「もう売れてんの?」
知らなーい、とふざけた返事をして柵にもたれる。今日は曇りで、気分が下がり気味だ。
「文化祭までもうあと二週間後だよ。どうする?」
「はやすぎ。緊張して泣きそう」
「吐きそうとかは言うけど、泣きそうってあまり聞かないよね」
日に日に重くなっていくプレッシャー。私と一緒にいる時は、そのプレッシャーから少しでも解放されてほしいと思う。
「清水は、やっぱり劇とかやりたかったんじゃない?」
「またその質問?」
「だって、本当に楽しそうだから。別に誰かに言うわけじゃないし」
「……まぁ、興味はあったよ」
ペットボトルの蓋を指でなぞりながら、言葉を落とす。
「でも、そういうのってね、決まってるの。誰がどんなポジションにいて、何ができるのか。どんなにやりたくても、できないことがあるの。可愛くて、人気があって、天使みたいな紗雪さんが演じるべきなの。それ以外にきっと需要なんてないの」
生まれ持った顔、雰囲気。こればかりは仕方がない。どんなに妬んだところで顔を取り替えるとか、性格を入れ替えるなんてことはできないし、そもそもあんなに可愛くて性格もいい天使に対して嫉妬自体しない。
「それは誰が決めるんだ?」
「え?」
「需要あるなしとか、それは結局清水の考えであって、全員の意見じゃない。俺はこうやって話す時の清水、すごくいいと思う。だから、俺にとっては清水が姫役を演じることにも需要がある。もちろん菫もあるけど、それと同等に清水がいる。だから、自分で勝手に作り上げた立場を言い訳にして逃げるのは良くない。他人の気持ちを勝手に決めつけるのも、だめだ。清水は自分が思っているよりもずっと素敵な人間だと俺は思ってる」
ずるい、と思う。彼が好かれる理由がよくわかった。
自分の意見を持っていて、はっきり述べたうえで私を元気付けてくれる。
北条瑛翔という人間を、知れば知るほど惹かれてゆく。あと二週間で、この関係は終わってしまう。それが無性に悲しくて、このまま時が止まってしまえばいいのに、とファンタジックなことをつい思ってしまった。
*
残り二週間、台本なしで動作をしながら、みっちり練習をした。そうして迎えた文化祭当日。クラスは当日準備で大忙しで、私も小道具を運んだり衣装の手伝いに回ったりと働いていた。
すると、焦ったようすで教室に飛び込んできた若菜が、「紗雪が!」と叫ぶ。
「紗雪、昨日から体調が悪くて。今日無理して学校に来てくれたみたいなんだけど、結構な熱があって舞台にあがれないと思うの。すごく謝ってたけど、どうしよう」
クラス中が騒然とする。姫役がいないとなると、劇は成り立たなくなってしまう。「どうするよ」「終わったー」と口々にクラスメイトが呟く中、北条くんだけが冷静で、何を思ったのか、つかつかとこちらに歩み寄ってくる。
「……清水」
うそだ。そんなはずない。そんなことがあっていいはずない。
彼がもし「代役をやれ」と言えば、私は断れずにやるしかないのだろう。きっと彼もそれがわかっているからこそ、自分からは口にしなかった。ただ、私の目をじっと見て、「清水」と苗字を呼ぶだけ。
クラスメイトが困っている。このままだと、私たちのクラスは何もできないまま終わってしまう。
でも、私が、私なんかが、前に出てもいいのだろうか。可愛くもない私が、姫役なんてしてもいいのだろうか。
『名前は可愛いのに顔は微妙だよね』
『ぶさいくってわけじゃないけど、可愛くもないよね』
『可愛いと思ってるの?』
イメージの枠を超えても、許されるのだろうか。
「俺は、清水のこと、すごい人間だって思ってるよ。放課後の清水、すごくいいと思う、から。これは、俺からの推薦」
耳打ちするように言ってくる北条くん。劇ごとなくなれば、北条くんの努力も水の泡だ。
あんなに一生懸命練習したんだから。北条くんが報われる場もつくらないと、流した涙が無駄になる。
「あの!」
予想以上に出た大きな声に、教室中の視線が集まる。みんな、何事だと言うように目を見開いていた。
「私、っ……私なんかでよければ、劇の代役、できるかもしれません……! 菫紗雪さんには全然及ばないけど、でも、私舞台にあがれます」
ばくばくと心臓が鳴っている。控えめで、静かで、地味で、自信なさげで、目立たなくて、声が小さい。
そんな私は、この瞬間だけ、終わりだ。
「俺の練習に付き合ってもらってたから、清水の実力は俺が保証する。みんな、清水の準備を進めてほしい」
北条くんの一言で「まじかよ!」「代役清水さんとかどういうこと!?」と声が上がるけれど、今まで聞いたような貶す言葉ではなくて、安堵する。
駆け寄ってきた若菜が、「本当にやってくれるの?すぐに準備はじめよ!」と涙目で言ってくれて、余計に嬉しさが募る。けれど、私は先にやるべきことがある。
北条くんが「ついていこうか」と言ってくれたけれど、一人の問題だと思ったので断った。
早足で保健室に向かう。紗雪はベッドで横になっていた。
「清水さん……?」
ぱちりと目を開けた紗雪が私を見て目を丸くする。その顔は赤く、熱を帯びてだるそうだった。
「紗雪さんに伝えたいことがあって。熱でつらいと思うので、手短に」
「なぁに……?」
つらいはずなのに、ふにゃ、と笑みを浮かべてくれる紗雪は、本当に天使のように思えた。
「紗雪さんの代役で、私が姫役をしたらいいんじゃないかっていう話が出たんだけど、私は紗雪さんの意見も聞きたいと思ってるの。私が紗雪さんの代わりをしてもいい……?」
今まであんなに練習したのに、本番の美味しい部分だけを掻っ攫っていかれるなんて、普通は嫌だろうから。紗雪の許可なしでは、絶対に演じたくなかったし、罪悪感で集中できそうにもなかった。
紗雪はこくりと頷いて、「もちろんだよ」と弱々しい声で言った。
「クラスのみんなのためにも、清水さん、お願い。わたしがこんなになっちゃってごめんね。でもわたしね、実は、清水さんと北条くんがふたりで練習してるの、知ってたよ。だから清水さんならきっと大丈夫だって、わたし信じてる」
まさか、知られていたなんて。驚きが伝わったのか、紗雪は「あの渡り廊下、園芸部の花壇が真下にあるから結構見えるんだよ」と悪戯っぽく笑って、目を閉じた。
「ありがとう。頑張ってくる」
決意を込めて、紗雪に告げた。よし、と気合を入れる。
あとは、まっすぐ舞台で演じるだけだ。
教室に戻った後は、あれよあれよと準備が進み、私は豪華なドレスを身につけ、小道具を手にした。
会場に移動して、さまざまなクラスの発表を見る。ダンス、合唱、合奏、アイドルなりきりメドレーなどバリエーション豊富だ。プログラム順に進んでいき、ついに私たちの番になる。ステージに立ち、眺めた景色は、思っていた以上の人で埋め尽くされていた。反対側の舞台袖で、王子服に身を包んだ北条くんが立っている。
すっと息を吸う。会場の張り詰めた空気が肺に触れる。
『ああ、わたしはどうすれば運命の人と出会えるのでしょう』
ざわっと会場の空気が揺れた、気がした。自分が思っていたよりも大きな声が出たことに安堵する。いつもはぼそぼそと下を向いて話していたけれど、今はまっすぐに前を向いて、お腹から声を出している。
北条くんが登場して、キャーと黄色い歓声があがる。本当にすごい人気だなと思いつつ、練習した通りに台詞を言って、動く。
北条くんは、練習量のおかげか、今のところノーミスだ。大丈夫、私たちはきっと上手くできている。
途中でライバル役が登場したり、魔女が現れたり、動く木が現れたり。メルヘンチックな展開や、コミカルな場面で客席から歓声が起こった。
けれど、しっかりと葛藤やすれ違いなどのシーンでは、会場全体が息を呑んで展開を見守っている。
物語は終盤に入り、困難を乗り越えた二人が愛を確かめ合うシーン。読み合わせの時、私がいちばん好きだった台詞だ。
『……姫よ、僕はきみに弱いところを見せるなんて、そんなことできなくて。それで……』
つい、強がってしまった。そこまでが、北条くんの台詞だ。それなのに、そこで彼の言葉は止まった。会場に静寂が訪れる。
北条くんを見ると、顔面蒼白、今にも泣きそうな顔をしていた。
飛んだのだ、と理解する。
舞台袖で瑞木さんが焦っている顔が見える。
きっと彼はこのあとひとりで泣くのだろう。そして今は、失敗するまいとものすごく焦っているはずだ。
だったら、私ができることは決まっている。
──いいえ、あなたはとても強いです。いつだって強くて、かっこいい。
これが、私の本来の台詞だ。だけど、今目の前にいる彼は、強く見せているだけで、弱い。けれどその弱さが魅力だと、私は思うのだ。
「たしかにあなたは弱い。だけど、私はあなたのその弱さが好き。完璧じゃなくてもいい。泣いてもいい。たまには失敗したっていい。私はあなたが強いから好きなんじゃない。弱い部分も、それを隠そうとする強い部分も、どちらも持っているあなたが好き」
これは台詞じゃない。紛れもなく北条瑛翔という人間に向けた本心なのだと、気づく。
北条くんの目から、つう、と涙がこぼれ落ちる。あれだけ完全無欠と言われた彼が、絶対に弱みを見せなかった彼が、涙を流した。演技の一部だと思っている人もいるだろう。けれど、私にはわかる。
これは、失敗したことに対する涙だ。そして彼はそれを、みんながいる場で流した。流せるように、なったのだ。
私が好き勝手話したせいで、ここからどうやって劇のシナリオに戻そうかと、急に冷静になる。
けれど、一歩私に近づいた北条くんが、ゆっくりと口を開いた。
「……あなたを知っていくうちに、周りが知らないあなたを知っていくうちに、俺もあなたを好きになった。俺の背中を押して、強くあろうと思わせてくれたのはあなただよ、姫」
真剣な眼差しが私を見ている。私はふっと微笑んで、彼に近寄った。
彼が私の手をぎゅっと握る。私もその手を握り返す。
これで、シナリオ通りだ。
『僕はあなたが好きです、姫。僕と結婚してください』
『もちろんです、王子様。わたしもあなたが好きです』
暗転し、幕が下りる。会場は拍手に包まれた。
ほっと胸を撫で下ろす。まだ握られたままの手は、あたたかいような冷たいような、それでも心地よかった。
**
それからあとの記憶はあまり覚えていない。ただ、クラスのみんなに囲まれるという、めったにない経験をして、一生分の褒め言葉をもらったような気がする。あたたかい人に囲まれているのだなぁと、驚いた。
放課後、北条くんに「いつもの場所で」と呼び出された私は、半ばふわふわした気持ちと足取りで渡り廊下へと向かった。
「──姫。アドリブで救ってくれてありがとう」
「災難でしたね王子様。でもなんとかなってよかったね」
ふはは、と笑い合う。この劇が、彼の失敗の記憶にならなくてよかった、と心底思った。失敗の記憶はなかなか消えてくれない。その時一回だけではなく、何度も何度も思い出すたびに私たちを傷つける。そしてやがてトラウマになってしまう場合もある。
「クラス賞、やったね」
「まだ夢かと疑ってる」
こつん、とコーラの缶で乾杯をする。今日は炭酸の気分だと伝えたら、買ってきてくれた。優しい人だと思う。
ちなみに昨日は景気付けで私が『いちごみるく』を買ってあげた。「どんなチョイス?」と北条くんはここでもツボっていた。
私の姿をあらためて見た北条くんは、ふわりと微笑を浮かべた。
「今日の清水、いいね。服とか髪とか」
「全部やってもらえたからね、私はただ座ってただけで申し訳ない」
「一軍パリピ陽キャに?」
「ふふ、そう。一軍パリピ陽キャに」
にやっと悪戯っぽく笑って聞いてきた北条くんに、うなずく。
しばらく黙って空を見上げていたら、北条くんが「あの、さ」と呟いた。
「ん?」
「アドリブの台詞、あれ誰に向けて言ってたの?」
「……王子だよ」
「俺はね、あのアドリブの台詞、清水に向けて言ったんだよ」
何事も素直には敵わない。そっと北条くんのほうを向くと、彼もまた、同じように頬を染めて私を見ていた。
知っている。あの台詞だけ、一人称が変わっていたこと、気づいていた。
「俺に対しての言葉だったら嬉しいなって思って、それに返したつもりだったんだけど」
「……そうだよ。あれは、北条くんに向けて言ったの」
全身が熱で包まれているよう。
私なんかが。そう思うのはもうやめた。
「私ね、昔、可愛くないのに目立ちたいんだねって言われたことがあってね。それが結構ショックで。だから学校でもなるべく目立たないようにしてたの」
「……うん」
北条くんは眉間に皺を寄せて、真剣に話を聞いてくれている。
「だけど、北条くんが、素の私をみて『なんかいいね』って言ってくれたから、ああ、別に私はこれでいいんだって思えたの。今日だって、北条くんが誘ってくれたから、勇気が出せたんだよ」
「よかった。俺の言葉が、清水に届いてて。できれば今日の舞台上の言葉も、届いててほしいけど」
「ちゃんと言葉にしてくれないとわからないです」
「清水の舞台から飛び降りるつもりで告白しろって?」
「おもしろいと思ってる?」
「いや全然」
揃って噴き出す。笑いすぎて泣きそうになっていた北条くんは、すっと背筋を伸ばして私に向き直った。相変わらず切り替えがはやい。
「俺は、清水のことが好きだよ。ここで色んな清水をみるうちに、好きになった。もっといろんな清水を知りたいって思った」
「私も、北条くんのことが好き。弱さとか、私も知りたい。引くとかないよ。人間らしいなって思うから」
ふっと笑顔を浮かべた北条くんに微笑み返す。北条くんは突然思い出したように「そうだ」と言葉を続けた。
「名前で呼んでよ」
「名前?」
「瑛翔、って呼んでほしい」
急に真剣なまなざしを向けた北条くん。どき、と心臓の音がする。
「……私だけ名前で呼ぶなんて、嫌だ」
「お、ちゃんと気持ち伝えてくれるようになった」
「本当の私は、これだから。お話しするのも踊るのも、JKらしいことも、本当は全部やりたいし、嫌なことは嫌だし、雪の日は外で雪合戦したいし、球技大会だって本当はクラス代表でバスケに出たい」
「おお、言いきったね」
ふは、と笑った北条くんは、口の端を少しだけ持ち上げて、「でも」と続ける。
「俺は何度も名前、呼んでるつもりだけど? 今日だって、何回も呼んだし」
「……それはノーカンだと思う」
「自分の名前呼ばれてる感じした?」
「してない」
ぶんぶんと首を横に振ると、「……俺は役名っていうより、名前呼んでるつもりだったけどね」と彼は微笑んだ。
「──ひめ」
舞台の上とは違う、優しい響き。漢字ではなくひらがなが浮かぶような、役名ではないものだ。
「えいとくん。いい響きだね」
「やばい、泣けてきた」
「それはなんで……!?」
「俺の弱み、ひめかもしれない」
「いいですよ弱ってくれても。何度も泣き顔見てるし」
「頼もしいな」
渡り廊下を吹き抜ける風が、髪を揺らして過ぎてゆく。頭上には紫色と青色が溶け合う空が広がっている。
私たちが自分を隠す理由なんて、ここには何もない。
視線を感じて振り向けば、目を細めた瑛翔くんが口を開いた。
「俺、思ってる以上にひめのこと好きなのかも」
「……へぇ」
「あ、照れてる?」
私はこれから何度も何度も、思い出すのだろう。
きみの本音を知った日のこと。
きみの強さを知った日のこと。
きみの優しさを知った日のこと。
きみの気持ちを知った日のこと。
そして、きみへの好きを知った日のこと。
きみを知った日のこと。了



