田舎の夏の匂いが好きだ。
湿った土と草いきれが入り混じり、太陽に温められた風がふわりと運んでくる。その香りを胸いっぱいに吸い込むと、どこか懐かしい気持ちになる。遠い昔の夏休みの記憶が、ぼんやりと蘇るような感覚だった。
俺はいつもの通学路を歩きながら、目を細めて空を見上げた。
梅雨が明けて以来、雲一つない青空ばかりが続いている。真昼の陽射しは容赦なく照りつけ、アスファルトの上では陽炎が揺れていた。今年も暑くなりそうな予感がする。蝉の鳴き声が絶え間なく降り注ぎ、額にはじんわりと汗が滲んだ。
そんな夏の始まりに、転校生がやってきた。
教室のドアが軋むような音を立てて開き、担任が「転校生を紹介する」と言った。
ざわついていた教室が静まり返る。扉の向こうから現れたのは、無造作な黒髪の男だった。
細身で、長い手足。肌は雪のように白く、どこか儚げな印象を与える。彫刻のように整った顔立ちをしているのに、目元には鋭い光が宿り、周囲を寄せつけないような雰囲気を纏っていた。
彼の視線が教室を一巡する。
その黒い瞳が一瞬だけ俺と交わった気がして、思わず息を呑んだ。
「遠坂凛だ。よろしく」
短く、そっけなく、それだけを告げると、彼は教壇の前で静かに立った。
教室内がざわつく。転校生が来るというだけでも話題になるのに、あまりにも愛想がない態度が余計に目を引いた。
無愛想なやつだな――それが俺の第一印象だった。
けれど、目が妙に印象に残った。
どこか寂しげで、けれど強がっているような。
夜の湖面に映る月のように静かで、それでいて触れれば波紋が広がりそうな、そんな目をしていた。
***
昼休み、俺はなんとなく凛に声をかけた。
窓際の席でひとり、ぼんやりと外を眺めている彼の横顔が気になったのだ。
「なあ、お前どこから来たんだ?」
凛は少しだけ俺を見つめた。
その瞳の奥に、ほんの一瞬、迷いのようなものが揺れた気がした。
だがすぐに冷めたような表情に戻り、「関係ないだろ」と短く返す。
「まあ、そうだけどさ」
俺が肩をすくめると、凛は小さく息を吐いてから、ぽつりと言った。
「……東京」
「へえ、都会じゃん。田舎はどう? 退屈?」
窓の外では、花壇の中でアゲハチョウがひらりと舞っている。
凛はそれを追うように視線を外し、どこか興味なさそうに「別に」とつぶやいた。
会話が続かない。
どうやら話すのが苦手なタイプらしい。
「よかったら案内するけど」
軽い気持ちでそう言ってみたが、「いい」と即答された。
完全に警戒されているようだ。
けれど、それでも気になった。
ああやって壁を作るのは、きっと何か理由がある。
そんな気がして、俺はもう少し話してみたいと思った。
***
放課後、帰り道で凛の姿を見かけた。
川沿いの土手に座り、ぼんやりと空を見上げている。
風に揺れる草むらの中で、彼だけが時間から切り離されたように静かだった。
まるで、そこだけ世界が止まってしまったかのように。
「こんなところで何してんの?」
俺が声をかけると、凛は少し驚いたようにまばたきをした。
けれど、すぐに表情を消し、無機質な声で「別に」と返す。
「さっきから『別に』しか言ってないな」
「……うるさい」
ぶっきらぼうな返事。
けれど、俺が隣に腰を下ろしても、拒むそぶりはなかった。
目の前には川が流れ、浅瀬の石にぶつかる水音が心地よく響いている。
遠くでは子どもたちの笑い声が風に乗って届き、どこかの家の風鈴がちりんと鳴った。
「東京にいたときは、星なんか見えなかった」
ふいに、凛がぽつりとつぶやいた。
その横顔は、どこか遠くを見ているようだった。
「ここなら見えるよ。夜になればな」
「……本当か?」
「ああ。すごく綺麗だ」
俺たちはしばらく黙ったまま並んで座っていた。
風が吹き、草いきれと川の匂いが混ざる。
赤く染まった空が、ゆっくりと群青色へと溶けていく。
川面には夕焼けが映り、さざ波の中で揺らめいていた。
この夏が終わるころには、きっとこの転校生ともっと仲良くなれる――そんな気がしていた。
静寂の中、ひぐらしの鳴き声が響く。
やがて、凛がぽつりと言った。
「……なあ、夜になったら本当に星が見えるのか?」
その声は、どこか子どものように頼りなかった。
その声に対して、俺はただ静かにうなずいた。
「見えるさ。都会と違って、街の灯りも少ないしな」
「……ふうん」
凛は腕を組みながら、ゆっくりと視線を上げた。
まだ薄明るい空には、名残惜しそうに夕焼けが滲んでいる。
普段は素っ気ないくせに、こういう時は意外と素直に興味を示すんだな――そんなことを思った。
「ならさ、今度一緒に見に行くか?」
「……え?」
少々驚いた様子で、凛がこちらを見た。
その目は、どこか戸惑っているようで、少しだけ警戒しているようでもあった。
「夜、星がよく見える場所があるんだ。ちょっと歩くけど、そこなら本当に綺麗な星が見える」
凛は俺の顔をじっと見つめた。
静かに沈黙が降りる。
夕焼けが川面に映り、風が草を揺らす音が響く。
どこかで鳥が羽ばたく音がした。
目が合うと、なんとなく気まずくなって、俺は軽く咳払いをした。
「……俺と?」
「そうだよ。まあ、嫌ならいいけど」
凛は少しだけ目を伏せ、考えるように唇を引き結んだ。
「……別に、嫌じゃない」
小さな声でそう言うと、彼は視線をそらし、そっけなく頬をかいた。
もしかして、こいつ照れてるのか?
風が吹き、彼の黒髪をそっと揺らす。
その隙間から覗く耳の先が、ほんの少し赤くなっていた。
「じゃあ、決まりな」
「……いつ?」
「そうだな。明日の夜とかどうだ?」
「……わかった」
どこか不器用な返事だったが、それを聞いた瞬間、俺はこの夏が少しだけ特別なものになるような気がしていた。
***
次の日の夜、俺は神社の前で凛を待っていた。
昼間の暑さが嘘みたいに、夜の空気はひんやりとしている。
静寂の中、時折、木々の間から風が抜け、草の葉を微かに揺らした。
虫の音があちこちから響き、闇の奥でホタルが淡く瞬いている。
やがて、ゆっくりと足音が近づいてきた。
闇の中から姿を現したのは、白いTシャツに黒いジャージ姿の凛。
いつもよりラフな格好で、昼間の棘々しさは少し和らいで見えた。
「よく来たな」
「……別に」
そっけなくそう言いながらも、どこか落ち着かない様子だった。
手をポケットに突っ込み、視線を泳がせている。
「じゃあ、行くか」
俺たちは並んで歩き出した。
神社の裏手から続く細い山道へと足を踏み入れていく。
暗闇に包まれた森の中、足元では枯葉がかさりとかすかな音を立てた。
頭上を覆う木々の間から、月の光がわずかに漏れ、細い光の筋を描いている。
遠くでフクロウの鳴く声が聞こえた。
しばらく歩くと、視界が開けた。
丘の上だ。
見上げると、そこには――
「……すげえ」
凛が小さく息をのんだ。
夜空には、無数の星が瞬いていた。
まるで黒いキャンバスに宝石を散りばめたみたいに、光がどこまでも広がっている。
「だろ?」
都会じゃ絶対に見られない景色。
凛は言葉を失ったまま、ただじっと空を見上げていた。
その横顔は、いつもの無愛想なものとは違って、どこか幼さすら感じさせた。
月明かりに照らされた肌が白く、少しだけ驚いた様子で見開かれた瞳が、星の光を映している。
俺はそんな凛の横顔を眺めながら、ふと、こんな夜がずっと続けばいいと思った。
風が吹き抜け、草のざわめく音が耳に心地よく届く。
俺たちは丘の上に腰を下ろし、しばらく無言で星空を見上げていた。
「……こんなにたくさん、星が見えるんだな」
凛がぽつりとつぶやく。
「すごいだろ? ここ、俺の秘密の場所なんだ」
「秘密?」
「まあ、誰かに教えたのはお前が初めてってこと」
俺がそう言うと、凛は少し驚いた様子でこちらを見た。
けれど、すぐにまた視線を空へ戻す。
夜風が吹くたびに、凛の黒髪がふわりと揺れる。
その様が妙に艶やかで、どこか儚げに見えた。
こんな風に、凛と並んで星を眺めることになるなんて、昨日までは思いもしなかった。
でも、今は――
この時間が、もう少しだけ続けばいいと思っていた。
「……なんで俺なんだよ」
ふいに凛がつぶやいた。
低く落ち着いた声だったけれど、どこか戸惑いが混じっているように聞こえた。
「ん?」
「お前、俺のこと妙に気にしてるだろ」
夜風が吹き、草がざわめく音の中で、その言葉だけがはっきりと耳に届いた。
唐突な問いに、俺は少し戸惑った。
「まあ、気になってるっちゃ気になってるな」
「なんで?」
凛は夜空を見上げたまま、俺の方を見ようとはしなかった。
無数の星が瞳に映り込んで、揺れているように見えた。
「お前、ずっと一人でいるじゃん。なんとなく、放っておけなかったっていうか……」
凛は黙ったまま、ただ静かに星を見つめ続けている。
俺は少し考えてから、言葉を続けた。
「それに、お前の目がさ……どこか寂しそうだったから」
その瞬間、凛の肩がわずかにぴくりと動いた。
「……別に、寂しくなんかねえよ」
「嘘つけ」
「……」
夜風が再び吹き抜け、凛の黒髪をふわりと揺らした。
月の光がその頬を淡く照らし、表情をより静かに、より儚く見せていた。
「……俺、東京にいたころ、親の期待に応えられなくて、家に居場所がなかった」
かすれた声だった。
淡々とした口調の奥に、滲むものがあった。
「……」
「成績が良ければ褒められる。悪ければ責められる。それだけの関係だった」
凛の言葉は、まるで宙に消えてしまいそうに儚かった。
星の光が降る静かな丘で、その声だけが微かに震えていた。
「……そっか」
俺はそれしか言えなかった。
「だから、こっちに引っ越してきても、どうせ誰とも関わることはないって思ってたんだよ」
その言葉を聞いた瞬間、俺は無意識に口を開いていた。
「でも、俺とはこうして関わってるじゃん」
凛が驚きながらこちらを見た。
星の光を映した瞳が、ゆっくりと揺れる。
「……そう、なのか? 俺たち、関わってるのか?」
「俺はそう思ってるけど」
凛は何か言いかけたが、また視線を空へ戻した。
しばらく沈黙が続いたあと、ふっと、小さく息を吐く音が聞こえた。
「お前、変なやつだな」
「よく言われる」
その時だった。
凛の口元が、ほんの少しだけ緩んだ。
――笑った。
月の光の下、凛が初めて見せた笑顔だった。
それは、ほんの一瞬だったかもしれない。
けれど、俺はその笑顔を見た瞬間、胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じた。
風が吹き、夏の夜の匂いが漂う。
この夏、俺はきっと――
忘れられない時間を過ごすことになる。
そんな予感が、確かにあった。
***
あの日を境に、俺たちは自然と一緒にいることが増えた。
休み時間、気づけば凛は俺の隣に座っていた。
別に何を話すわけでもなく、ただ教室の窓から外を眺めていることもあった。
それでも、不思議と居心地がよかった。
放課後も、特に約束をしていないのに一緒に帰るのが当たり前になっていた。
並んで歩く帰り道。
夕焼けに染まるアスファルト、電線にとまるカラスの影、遠くで響く子供たちの笑い声。
そんな何気ない景色が、凛といるだけで少しだけ特別に思えた。
凛は相変わらずぶっきらぼうだったけれど、俺にだけ見せる表情が少しずつ増えてきた。
たとえば、俺が適当な冗談を言ったときに、ほんの一瞬だけ口元が緩む。
俺がしつこく話しかけても、「うるさい」と言いながらも、結局は離れない。
そんな小さな変化が、俺には嬉しかった。
***
夏休みに入って数日後の夜。
俺たちはまた、あの丘へ星を見に行った。
街の灯りが遠ざかるにつれ、足元の砂利道が白く月光を反射する。
虫の音と、草を踏む音だけが夜の静けさに溶け込んでいた。
丘に着くと、凛は黙って草の上に寝転んだ。
俺もその隣に腰を下ろし、夜空を見上げる。
満天の星。
まるで手を伸ばせば届きそうなほど、澄んだ光が広がっていた。
「……なあ」
隣から、ぽつりと声が落ちる。
「ん?」
「こっちに来て、まだそんなに経ってないけどさ……」
横を見ると、凛の横顔が月明かりに照らされていた。
静かに瞬く星の光を映した瞳が、どこか遠くを見ているようだった。
「お前がいたから、少しはマシになったかも」
風がそっと草を撫でる音が聞こえる。
心臓が、小さく跳ねた。
「そっか」
何か返したかったけれど、それ以上の言葉が出てこなかった。
ただ、隣にいる凛の温もりを感じながら、この時間がずっと続けばいいと思った。
星の光が降り注ぐ夜の下で、俺たちはただ静かに並んでいた。
***
もう、何度目の帰り道だろうか。
並んで歩く俺たちの影が、街灯の下で長く伸びている。
夜の風が少しだけ涼しくなり、どこからか秋の気配を運んでくる。
夏の終わりが近い。
「……夏が終わるな」
ふと、凛がつぶやいた。
「そうだな」
空を見上げると、夜空はどこまでも澄んでいた。
ほんの少し前まで蝉の声で満ちていた夜が、今では別の虫の音に変わっている。
この夏が終わったら、俺たちの関係はどうなるのだろうか。
ずっとこのままでいられるのか、それとも――。
考えれば考えるほど、不安が胸を締めつける。
そんなときだった。
突然、凛が足を止めた。
「どうした?」
振り返ると、凛は真剣な顔で俺を見つめていた。
月明かりが、その横顔を優しく照らしている。
「……お前は、俺のことどう思ってる?」
心臓が、大きく跳ねた。
「どうって……」
言葉が喉に詰まる。
でも、俺はもう気づいていた。
こいつのことを『友達』以上に思っていることに。
だけど、それを口にするのが怖かった。
この気持ちを言葉にした瞬間、何かが変わってしまう気がして。
今のままでいられなくなる気がして。
「……」
俺が何も言えずにいると、凛はふっと目を伏せた。
「……ごめん、変なこと聞いたな」
そう言って、また歩き出す。
でも、その背中がどこか寂しそうに見えて――
気づけば、俺は手を伸ばしていた。
そして、凛の腕を掴んでいた。
「……俺は」
言葉が震える。
静かな夜、遠くで虫の音が響く。
月明かりの下で、俺の声だけがはっきりと響いた。
凛は振り向いて、俺の言葉に驚いた様子で目を見開いていた。
月明かりが、揺れる睫毛の影を頬に落とす。
その瞳には、ほんの少しだけ期待の光が揺れている気がした。
「……俺は」
喉が渇く。
けれど、ここで言わなかったら、きっと後悔する。
「……お前のこと、特別だと思ってる」
静寂が降りた。
夜の風が、二人の間をそっと吹き抜ける。
草の匂い、遠くで鳴く虫の声、街の明かりが届かない静かな丘の上――。
凛は何も言わなかった。
やばい。急ぎすぎたか?
不安になって、掴んでいた手を離そうとした、その瞬間。
「……俺も、同じ」
微かに震える声が、夜風に溶けた。
「え……?」
「俺も、お前のこと……特別だと思ってる」
心臓が大きく跳ねた。
凛は俯いたまま、ぎゅっと拳を握りしめる。
肩が小さく震えていた。
「……最初は、ただ馴れ馴れしいやつだと思ってた」
「ひでえな」
「でも、お前は俺のこと、ちゃんと見てくれてた」
凛はゆっくりと顔を上げる。
「お前といると……寂しくなくなる」
月明かりが、その横顔を優しく照らしていた。
黒髪が風に揺れ、影が星のように揺らめく。
「だから……俺も、好きだ」
静かな夜に、凛の唇から零れた言葉が、まっすぐに俺の心に届いた。
温かくて、眩しくて、胸が痛くなるほど――嬉しかった。
でも、それ以上に――
「……俺、今めちゃくちゃドキドキしてるんだけど」
気づけば、正直すぎる言葉が口をついて出ていた。
凛は一瞬、呆けた顔をした後――
「ば、バカかお前……!」
顔を真っ赤にして、俺の腕を軽く叩いた。
「いてっ! いや、でもさ、お前もめっちゃ顔赤いぞ?」
「うるさい!」
少し怒った様子でそっぽを向く凛。
だけど、その耳の先まで真っ赤になっているのを見て、俺はつい笑ってしまった。
「……なんで笑ってんだよ」
「いや、だってさ、なんか夢みたいだなって」
こんな星の綺麗な夜に、互いの気持ちを確かめ合うなんて――まるでドラマみたいだ。
「……俺たち、これからどうする?」
凛がぼそっと呟く。
その問いに、俺は迷いなく答えた。
「一緒にいようよ、ずっと」
凛はしばらく俺を見つめていたけれど、やがて、ふっと柔らかく微笑んだ。
「……ああ」
夜空には、瞬く星々が散りばめられている。
夏の匂いが、まだ微かに残っていた。
この夜を、きっと一生忘れない。
もうすぐ、夏が終わる。
***
俺と凛の関係は、あの夜から変わった。
変わった――というか、互いに「好き」とはっきり伝え合ったわけで。
でも、劇的に何かが変わったわけじゃない。
相変わらず俺がちょっかいをかければ、凛は「うるさい」と呆れたように言う。
それでも、俺の隣にいることをやめようとはしない。
だけど――
俺がふとじっと見つめると、凛はわずかに目を逸らすようになった。
そして、俺が手を伸ばせば――今はもう、それを振り払わなくなった。
***
夏休みが終わる前日。
俺たちはもう一度、あの丘へ向かった。
夜の空気は、あの日よりも少しだけ冷たく感じる。
虫の音が、かすかに風に乗って流れる。
地平線の向こうには、街の灯りが小さく瞬いていた。
見上げると、変わらず無数の星が瞬いている。
まるで、俺たちを見守るように。
「……来年も、一緒に見られるかな」
ふと、そんな言葉がこぼれた。
隣に立つ凛は、静かに夜空を見上げたまま答える。
「……見られるさ」
短い言葉だった。
でも、その声には確かな想いがこもっていた。
「そっか」
俺は微笑んで、そっと凛の手を握る。
指先に伝わる、少しひんやりとした感触。
でも、じきにそれは、温もりへと変わっていく。
もう離さない。
この手を、ずっと。
凛は最初こそ少し戸惑ったように俺を見たけれど、やがて静かに微笑んだ。
「……バカ」
小さくそう呟きながら、握り返してくれる。
夜風が、優しく吹き抜ける。
草の匂い、遠くで揺れる木々のざわめき、
すべてが、俺たちを包み込んでいた。
見上げれば、星々が降るように瞬いている。
そして――
俺たちは、そっと唇を重ねた。
この夏、忘れられない想い出ができた。
きっと、これからもずっと――俺たちは一緒だ。
湿った土と草いきれが入り混じり、太陽に温められた風がふわりと運んでくる。その香りを胸いっぱいに吸い込むと、どこか懐かしい気持ちになる。遠い昔の夏休みの記憶が、ぼんやりと蘇るような感覚だった。
俺はいつもの通学路を歩きながら、目を細めて空を見上げた。
梅雨が明けて以来、雲一つない青空ばかりが続いている。真昼の陽射しは容赦なく照りつけ、アスファルトの上では陽炎が揺れていた。今年も暑くなりそうな予感がする。蝉の鳴き声が絶え間なく降り注ぎ、額にはじんわりと汗が滲んだ。
そんな夏の始まりに、転校生がやってきた。
教室のドアが軋むような音を立てて開き、担任が「転校生を紹介する」と言った。
ざわついていた教室が静まり返る。扉の向こうから現れたのは、無造作な黒髪の男だった。
細身で、長い手足。肌は雪のように白く、どこか儚げな印象を与える。彫刻のように整った顔立ちをしているのに、目元には鋭い光が宿り、周囲を寄せつけないような雰囲気を纏っていた。
彼の視線が教室を一巡する。
その黒い瞳が一瞬だけ俺と交わった気がして、思わず息を呑んだ。
「遠坂凛だ。よろしく」
短く、そっけなく、それだけを告げると、彼は教壇の前で静かに立った。
教室内がざわつく。転校生が来るというだけでも話題になるのに、あまりにも愛想がない態度が余計に目を引いた。
無愛想なやつだな――それが俺の第一印象だった。
けれど、目が妙に印象に残った。
どこか寂しげで、けれど強がっているような。
夜の湖面に映る月のように静かで、それでいて触れれば波紋が広がりそうな、そんな目をしていた。
***
昼休み、俺はなんとなく凛に声をかけた。
窓際の席でひとり、ぼんやりと外を眺めている彼の横顔が気になったのだ。
「なあ、お前どこから来たんだ?」
凛は少しだけ俺を見つめた。
その瞳の奥に、ほんの一瞬、迷いのようなものが揺れた気がした。
だがすぐに冷めたような表情に戻り、「関係ないだろ」と短く返す。
「まあ、そうだけどさ」
俺が肩をすくめると、凛は小さく息を吐いてから、ぽつりと言った。
「……東京」
「へえ、都会じゃん。田舎はどう? 退屈?」
窓の外では、花壇の中でアゲハチョウがひらりと舞っている。
凛はそれを追うように視線を外し、どこか興味なさそうに「別に」とつぶやいた。
会話が続かない。
どうやら話すのが苦手なタイプらしい。
「よかったら案内するけど」
軽い気持ちでそう言ってみたが、「いい」と即答された。
完全に警戒されているようだ。
けれど、それでも気になった。
ああやって壁を作るのは、きっと何か理由がある。
そんな気がして、俺はもう少し話してみたいと思った。
***
放課後、帰り道で凛の姿を見かけた。
川沿いの土手に座り、ぼんやりと空を見上げている。
風に揺れる草むらの中で、彼だけが時間から切り離されたように静かだった。
まるで、そこだけ世界が止まってしまったかのように。
「こんなところで何してんの?」
俺が声をかけると、凛は少し驚いたようにまばたきをした。
けれど、すぐに表情を消し、無機質な声で「別に」と返す。
「さっきから『別に』しか言ってないな」
「……うるさい」
ぶっきらぼうな返事。
けれど、俺が隣に腰を下ろしても、拒むそぶりはなかった。
目の前には川が流れ、浅瀬の石にぶつかる水音が心地よく響いている。
遠くでは子どもたちの笑い声が風に乗って届き、どこかの家の風鈴がちりんと鳴った。
「東京にいたときは、星なんか見えなかった」
ふいに、凛がぽつりとつぶやいた。
その横顔は、どこか遠くを見ているようだった。
「ここなら見えるよ。夜になればな」
「……本当か?」
「ああ。すごく綺麗だ」
俺たちはしばらく黙ったまま並んで座っていた。
風が吹き、草いきれと川の匂いが混ざる。
赤く染まった空が、ゆっくりと群青色へと溶けていく。
川面には夕焼けが映り、さざ波の中で揺らめいていた。
この夏が終わるころには、きっとこの転校生ともっと仲良くなれる――そんな気がしていた。
静寂の中、ひぐらしの鳴き声が響く。
やがて、凛がぽつりと言った。
「……なあ、夜になったら本当に星が見えるのか?」
その声は、どこか子どものように頼りなかった。
その声に対して、俺はただ静かにうなずいた。
「見えるさ。都会と違って、街の灯りも少ないしな」
「……ふうん」
凛は腕を組みながら、ゆっくりと視線を上げた。
まだ薄明るい空には、名残惜しそうに夕焼けが滲んでいる。
普段は素っ気ないくせに、こういう時は意外と素直に興味を示すんだな――そんなことを思った。
「ならさ、今度一緒に見に行くか?」
「……え?」
少々驚いた様子で、凛がこちらを見た。
その目は、どこか戸惑っているようで、少しだけ警戒しているようでもあった。
「夜、星がよく見える場所があるんだ。ちょっと歩くけど、そこなら本当に綺麗な星が見える」
凛は俺の顔をじっと見つめた。
静かに沈黙が降りる。
夕焼けが川面に映り、風が草を揺らす音が響く。
どこかで鳥が羽ばたく音がした。
目が合うと、なんとなく気まずくなって、俺は軽く咳払いをした。
「……俺と?」
「そうだよ。まあ、嫌ならいいけど」
凛は少しだけ目を伏せ、考えるように唇を引き結んだ。
「……別に、嫌じゃない」
小さな声でそう言うと、彼は視線をそらし、そっけなく頬をかいた。
もしかして、こいつ照れてるのか?
風が吹き、彼の黒髪をそっと揺らす。
その隙間から覗く耳の先が、ほんの少し赤くなっていた。
「じゃあ、決まりな」
「……いつ?」
「そうだな。明日の夜とかどうだ?」
「……わかった」
どこか不器用な返事だったが、それを聞いた瞬間、俺はこの夏が少しだけ特別なものになるような気がしていた。
***
次の日の夜、俺は神社の前で凛を待っていた。
昼間の暑さが嘘みたいに、夜の空気はひんやりとしている。
静寂の中、時折、木々の間から風が抜け、草の葉を微かに揺らした。
虫の音があちこちから響き、闇の奥でホタルが淡く瞬いている。
やがて、ゆっくりと足音が近づいてきた。
闇の中から姿を現したのは、白いTシャツに黒いジャージ姿の凛。
いつもよりラフな格好で、昼間の棘々しさは少し和らいで見えた。
「よく来たな」
「……別に」
そっけなくそう言いながらも、どこか落ち着かない様子だった。
手をポケットに突っ込み、視線を泳がせている。
「じゃあ、行くか」
俺たちは並んで歩き出した。
神社の裏手から続く細い山道へと足を踏み入れていく。
暗闇に包まれた森の中、足元では枯葉がかさりとかすかな音を立てた。
頭上を覆う木々の間から、月の光がわずかに漏れ、細い光の筋を描いている。
遠くでフクロウの鳴く声が聞こえた。
しばらく歩くと、視界が開けた。
丘の上だ。
見上げると、そこには――
「……すげえ」
凛が小さく息をのんだ。
夜空には、無数の星が瞬いていた。
まるで黒いキャンバスに宝石を散りばめたみたいに、光がどこまでも広がっている。
「だろ?」
都会じゃ絶対に見られない景色。
凛は言葉を失ったまま、ただじっと空を見上げていた。
その横顔は、いつもの無愛想なものとは違って、どこか幼さすら感じさせた。
月明かりに照らされた肌が白く、少しだけ驚いた様子で見開かれた瞳が、星の光を映している。
俺はそんな凛の横顔を眺めながら、ふと、こんな夜がずっと続けばいいと思った。
風が吹き抜け、草のざわめく音が耳に心地よく届く。
俺たちは丘の上に腰を下ろし、しばらく無言で星空を見上げていた。
「……こんなにたくさん、星が見えるんだな」
凛がぽつりとつぶやく。
「すごいだろ? ここ、俺の秘密の場所なんだ」
「秘密?」
「まあ、誰かに教えたのはお前が初めてってこと」
俺がそう言うと、凛は少し驚いた様子でこちらを見た。
けれど、すぐにまた視線を空へ戻す。
夜風が吹くたびに、凛の黒髪がふわりと揺れる。
その様が妙に艶やかで、どこか儚げに見えた。
こんな風に、凛と並んで星を眺めることになるなんて、昨日までは思いもしなかった。
でも、今は――
この時間が、もう少しだけ続けばいいと思っていた。
「……なんで俺なんだよ」
ふいに凛がつぶやいた。
低く落ち着いた声だったけれど、どこか戸惑いが混じっているように聞こえた。
「ん?」
「お前、俺のこと妙に気にしてるだろ」
夜風が吹き、草がざわめく音の中で、その言葉だけがはっきりと耳に届いた。
唐突な問いに、俺は少し戸惑った。
「まあ、気になってるっちゃ気になってるな」
「なんで?」
凛は夜空を見上げたまま、俺の方を見ようとはしなかった。
無数の星が瞳に映り込んで、揺れているように見えた。
「お前、ずっと一人でいるじゃん。なんとなく、放っておけなかったっていうか……」
凛は黙ったまま、ただ静かに星を見つめ続けている。
俺は少し考えてから、言葉を続けた。
「それに、お前の目がさ……どこか寂しそうだったから」
その瞬間、凛の肩がわずかにぴくりと動いた。
「……別に、寂しくなんかねえよ」
「嘘つけ」
「……」
夜風が再び吹き抜け、凛の黒髪をふわりと揺らした。
月の光がその頬を淡く照らし、表情をより静かに、より儚く見せていた。
「……俺、東京にいたころ、親の期待に応えられなくて、家に居場所がなかった」
かすれた声だった。
淡々とした口調の奥に、滲むものがあった。
「……」
「成績が良ければ褒められる。悪ければ責められる。それだけの関係だった」
凛の言葉は、まるで宙に消えてしまいそうに儚かった。
星の光が降る静かな丘で、その声だけが微かに震えていた。
「……そっか」
俺はそれしか言えなかった。
「だから、こっちに引っ越してきても、どうせ誰とも関わることはないって思ってたんだよ」
その言葉を聞いた瞬間、俺は無意識に口を開いていた。
「でも、俺とはこうして関わってるじゃん」
凛が驚きながらこちらを見た。
星の光を映した瞳が、ゆっくりと揺れる。
「……そう、なのか? 俺たち、関わってるのか?」
「俺はそう思ってるけど」
凛は何か言いかけたが、また視線を空へ戻した。
しばらく沈黙が続いたあと、ふっと、小さく息を吐く音が聞こえた。
「お前、変なやつだな」
「よく言われる」
その時だった。
凛の口元が、ほんの少しだけ緩んだ。
――笑った。
月の光の下、凛が初めて見せた笑顔だった。
それは、ほんの一瞬だったかもしれない。
けれど、俺はその笑顔を見た瞬間、胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じた。
風が吹き、夏の夜の匂いが漂う。
この夏、俺はきっと――
忘れられない時間を過ごすことになる。
そんな予感が、確かにあった。
***
あの日を境に、俺たちは自然と一緒にいることが増えた。
休み時間、気づけば凛は俺の隣に座っていた。
別に何を話すわけでもなく、ただ教室の窓から外を眺めていることもあった。
それでも、不思議と居心地がよかった。
放課後も、特に約束をしていないのに一緒に帰るのが当たり前になっていた。
並んで歩く帰り道。
夕焼けに染まるアスファルト、電線にとまるカラスの影、遠くで響く子供たちの笑い声。
そんな何気ない景色が、凛といるだけで少しだけ特別に思えた。
凛は相変わらずぶっきらぼうだったけれど、俺にだけ見せる表情が少しずつ増えてきた。
たとえば、俺が適当な冗談を言ったときに、ほんの一瞬だけ口元が緩む。
俺がしつこく話しかけても、「うるさい」と言いながらも、結局は離れない。
そんな小さな変化が、俺には嬉しかった。
***
夏休みに入って数日後の夜。
俺たちはまた、あの丘へ星を見に行った。
街の灯りが遠ざかるにつれ、足元の砂利道が白く月光を反射する。
虫の音と、草を踏む音だけが夜の静けさに溶け込んでいた。
丘に着くと、凛は黙って草の上に寝転んだ。
俺もその隣に腰を下ろし、夜空を見上げる。
満天の星。
まるで手を伸ばせば届きそうなほど、澄んだ光が広がっていた。
「……なあ」
隣から、ぽつりと声が落ちる。
「ん?」
「こっちに来て、まだそんなに経ってないけどさ……」
横を見ると、凛の横顔が月明かりに照らされていた。
静かに瞬く星の光を映した瞳が、どこか遠くを見ているようだった。
「お前がいたから、少しはマシになったかも」
風がそっと草を撫でる音が聞こえる。
心臓が、小さく跳ねた。
「そっか」
何か返したかったけれど、それ以上の言葉が出てこなかった。
ただ、隣にいる凛の温もりを感じながら、この時間がずっと続けばいいと思った。
星の光が降り注ぐ夜の下で、俺たちはただ静かに並んでいた。
***
もう、何度目の帰り道だろうか。
並んで歩く俺たちの影が、街灯の下で長く伸びている。
夜の風が少しだけ涼しくなり、どこからか秋の気配を運んでくる。
夏の終わりが近い。
「……夏が終わるな」
ふと、凛がつぶやいた。
「そうだな」
空を見上げると、夜空はどこまでも澄んでいた。
ほんの少し前まで蝉の声で満ちていた夜が、今では別の虫の音に変わっている。
この夏が終わったら、俺たちの関係はどうなるのだろうか。
ずっとこのままでいられるのか、それとも――。
考えれば考えるほど、不安が胸を締めつける。
そんなときだった。
突然、凛が足を止めた。
「どうした?」
振り返ると、凛は真剣な顔で俺を見つめていた。
月明かりが、その横顔を優しく照らしている。
「……お前は、俺のことどう思ってる?」
心臓が、大きく跳ねた。
「どうって……」
言葉が喉に詰まる。
でも、俺はもう気づいていた。
こいつのことを『友達』以上に思っていることに。
だけど、それを口にするのが怖かった。
この気持ちを言葉にした瞬間、何かが変わってしまう気がして。
今のままでいられなくなる気がして。
「……」
俺が何も言えずにいると、凛はふっと目を伏せた。
「……ごめん、変なこと聞いたな」
そう言って、また歩き出す。
でも、その背中がどこか寂しそうに見えて――
気づけば、俺は手を伸ばしていた。
そして、凛の腕を掴んでいた。
「……俺は」
言葉が震える。
静かな夜、遠くで虫の音が響く。
月明かりの下で、俺の声だけがはっきりと響いた。
凛は振り向いて、俺の言葉に驚いた様子で目を見開いていた。
月明かりが、揺れる睫毛の影を頬に落とす。
その瞳には、ほんの少しだけ期待の光が揺れている気がした。
「……俺は」
喉が渇く。
けれど、ここで言わなかったら、きっと後悔する。
「……お前のこと、特別だと思ってる」
静寂が降りた。
夜の風が、二人の間をそっと吹き抜ける。
草の匂い、遠くで鳴く虫の声、街の明かりが届かない静かな丘の上――。
凛は何も言わなかった。
やばい。急ぎすぎたか?
不安になって、掴んでいた手を離そうとした、その瞬間。
「……俺も、同じ」
微かに震える声が、夜風に溶けた。
「え……?」
「俺も、お前のこと……特別だと思ってる」
心臓が大きく跳ねた。
凛は俯いたまま、ぎゅっと拳を握りしめる。
肩が小さく震えていた。
「……最初は、ただ馴れ馴れしいやつだと思ってた」
「ひでえな」
「でも、お前は俺のこと、ちゃんと見てくれてた」
凛はゆっくりと顔を上げる。
「お前といると……寂しくなくなる」
月明かりが、その横顔を優しく照らしていた。
黒髪が風に揺れ、影が星のように揺らめく。
「だから……俺も、好きだ」
静かな夜に、凛の唇から零れた言葉が、まっすぐに俺の心に届いた。
温かくて、眩しくて、胸が痛くなるほど――嬉しかった。
でも、それ以上に――
「……俺、今めちゃくちゃドキドキしてるんだけど」
気づけば、正直すぎる言葉が口をついて出ていた。
凛は一瞬、呆けた顔をした後――
「ば、バカかお前……!」
顔を真っ赤にして、俺の腕を軽く叩いた。
「いてっ! いや、でもさ、お前もめっちゃ顔赤いぞ?」
「うるさい!」
少し怒った様子でそっぽを向く凛。
だけど、その耳の先まで真っ赤になっているのを見て、俺はつい笑ってしまった。
「……なんで笑ってんだよ」
「いや、だってさ、なんか夢みたいだなって」
こんな星の綺麗な夜に、互いの気持ちを確かめ合うなんて――まるでドラマみたいだ。
「……俺たち、これからどうする?」
凛がぼそっと呟く。
その問いに、俺は迷いなく答えた。
「一緒にいようよ、ずっと」
凛はしばらく俺を見つめていたけれど、やがて、ふっと柔らかく微笑んだ。
「……ああ」
夜空には、瞬く星々が散りばめられている。
夏の匂いが、まだ微かに残っていた。
この夜を、きっと一生忘れない。
もうすぐ、夏が終わる。
***
俺と凛の関係は、あの夜から変わった。
変わった――というか、互いに「好き」とはっきり伝え合ったわけで。
でも、劇的に何かが変わったわけじゃない。
相変わらず俺がちょっかいをかければ、凛は「うるさい」と呆れたように言う。
それでも、俺の隣にいることをやめようとはしない。
だけど――
俺がふとじっと見つめると、凛はわずかに目を逸らすようになった。
そして、俺が手を伸ばせば――今はもう、それを振り払わなくなった。
***
夏休みが終わる前日。
俺たちはもう一度、あの丘へ向かった。
夜の空気は、あの日よりも少しだけ冷たく感じる。
虫の音が、かすかに風に乗って流れる。
地平線の向こうには、街の灯りが小さく瞬いていた。
見上げると、変わらず無数の星が瞬いている。
まるで、俺たちを見守るように。
「……来年も、一緒に見られるかな」
ふと、そんな言葉がこぼれた。
隣に立つ凛は、静かに夜空を見上げたまま答える。
「……見られるさ」
短い言葉だった。
でも、その声には確かな想いがこもっていた。
「そっか」
俺は微笑んで、そっと凛の手を握る。
指先に伝わる、少しひんやりとした感触。
でも、じきにそれは、温もりへと変わっていく。
もう離さない。
この手を、ずっと。
凛は最初こそ少し戸惑ったように俺を見たけれど、やがて静かに微笑んだ。
「……バカ」
小さくそう呟きながら、握り返してくれる。
夜風が、優しく吹き抜ける。
草の匂い、遠くで揺れる木々のざわめき、
すべてが、俺たちを包み込んでいた。
見上げれば、星々が降るように瞬いている。
そして――
俺たちは、そっと唇を重ねた。
この夏、忘れられない想い出ができた。
きっと、これからもずっと――俺たちは一緒だ。



