キスを、しています。
――――知らない人と。
念のため言っておくと、私が行きずりの知らない人とキスできるようなタイプの人間なわけじゃない。
この春に入学した高校の廊下、なんて場所で、なんでこんなことになっているのかはむしろ誰かに説明してもらいたいくらいだ。
西日射す人気のない廊下は雰囲気だけはたっぷりだけど、がっつく、という表現がぴったりな、濃厚すぎる口づけを受ける要因は全くなかったはずなのに。
近すぎて顔の造作も覚束ない、ただその瞳の色が赤に見えることだけはわかるお相手さんは、声を掛ける前に見た服装からすると、特別棟の男子生徒のようだった。
私みたいな一般生徒にとって、特別棟も特別棟の生徒も別世界以外の何物でもない。つまりどうあがいても知らない人だ。
しかし、知らない人とはいえ、通っている学校の廊下で具合悪げに蹲っていたら声をかけるのが人情というものだろう。
壁に寄りかかったまま反応を見せなかったので、気を失っているのかと思って肩に手を置いた――そこまでだって大抵の人はするだろう対応だと思う。
その結果が、肩に置いた手を掴まれ引き寄せられがっつり後頭部をホールドの上で了承も何もなくキスされる、なんてことになるとは予想できるはずもない。
そんなに飢えてたんですか?と訊きたくなるほどに、見知らぬ誰かさんのキスは長い。
一応私も最初は抵抗を試みたんだけど、腕力があるでも、武道の心得があるでもないごくごく平均的な身体能力の小娘にできる抵抗というのはたかが知れている。
体勢的に足で急所を狙うこともできないし、舌を噛むというのもちょっとなーと思って、結局為されるがままになっている。とはいえそろそろ解放してもらいたいところだ。
濃厚すぎるキスに腰砕け、とはならないので私もこんなふうに思考できているし、足元から這い寄るようなぞわぞわした感覚には覚えがあるので、そっちについても冷静に今後のことを考えていられるのだけど。
多分普通なら、キスに夢中になってぼうっとしてしまうのかもなぁ、と思う。
近距離すぎて顔の造作も見えないなりに、ダダ漏れの色気というかフェロモンというか……あとまぁ天性らしきテクニックとか、そういうものくらいは認識しているのだ。
でもそろそろ正気に戻ってほしい……、なんて考えていたタイミングで、近すぎる瞳にふっと理性の光が戻った。
同時に拘束も緩くなったので、これ幸いとばかりに抜け出す。ようやく離れた唇が心なしか痛い気がする。力任せもいいところだったからなぁ……。
距離を取って視界に収めた見知らぬ誰かさんは、ちょっとなかなかお目にかかれないくらいの美貌だった。
艶やかな黒髪、白磁のような透き通る肌、切れ長の赤の瞳は神秘さを醸し出している。
ザ・アジアンビューティーって感じだ。身近に美形がいるので耐性のある私でもちょっとぐらっとくる。
しかしぼんやり見惚れていても仕方ない。
理性の光は戻ったものの、今度は何かに酔ったようなぼうっとした目になっている美貌の誰かさんに一言。
「これからは、見知らぬ人を衝動的に襲わないように、極限まで我慢するとかしない方がいいと思いますよ?」
それだけ言って、ダッシュでその場を離れた。不測の事態、逃げるが勝ちだ。
「学校で知らない人にキスされた」
家に帰って第一声、そう報告すると、千貴――私の保護者代理というか、世話人というか、同居人というか――がこの世の終わりみたいな顔をした。次いで、冗談みたいにはらはらと涙をこぼし始める。
この千貴が私の身近にいる美形その1である。蜂蜜色の髪と目の印象を裏切らない、女性だったら誰でもうっとり見惚れてしまうような甘ったるいご尊顔の持ち主だ。
しかし今はその輝かしい美貌を悲痛に歪ませている。それでも美形は美形なのですごい。
喜怒哀楽の表現が激しいので若干残念さが漂うけど、外面は限りなくいいので女性を虜にするのはお茶の子さいさいな、倫理的にはどうかと思う同居人である。
「うっ……十年前から今日この日まで大事に大事に育ててきたお嬢が……お嬢が……そんな通りすがりの輩に汚されるなんてっ…………」
「うん、ごめん」
「朱永様に何と言ってお詫びをすればいいのか……」
「あの人は多分、笑って『そうか』くらいしか言わないと思うよ」
「それはそうかもしれませんが! 朱永様からお預かりした大切な御身を守れなかったなんて……」
ちなみに、朱永さんが私の身近にいる美形その2だ。深紅の髪を片側だけ上げたアシンメトリーな髪型の、自称ワイルド系イケメン。……自称、と付くのは『ワイルド系』部分にだけであって、多分万人が認めるイケメンである。全体的に隠せない気品があるけれど、豪放磊落感は溢れてるので、ワイルド系と称するのも間違ってないとは思う。
私の保護者は正確には朱永さんであり、朱永さんが千貴に私を預けている、ということになっている。
「泣かないでよ、千貴。学校に行ってる間のことは仕方ないよ」
「ですが、そのお嬢の唇を奪った不埒者が、我らと近しい者だろうと感じたから、お嬢は報告することにしたのでしょう?」
「うん、多分同類じゃないかなって。だから、これからどうするか考えるためにも、情報が欲しいと思って。教えてくれる?」
このまま千貴が悲嘆に暮れていては埒が明かない。小首を傾げて上目遣いという、やってる方が気恥ずかしくなる渾身のおねだりが功を奏して、千貴は涙を止めてくれた。
「それは、……私には判断しかねます。朱永様にご相談しましょう」
居住まいを正してそう言った千貴は、さっきまでさめざめと泣いていたとは思えないほどだ。
てきぱきと朱永さんに連絡を取る準備を始めた千貴を見ながら、私ののんびりぬるま湯に浸かっているような日々が終わりを告げるのを感じていた。
* * *
そして翌日。
何の変哲もないいつもの登校風景――をぶち壊す、とてつもなく人の目を奪う人物を校門横に見つけて、私は「そう来たかぁ……」とこっそり溜息をついた。
登校する生徒たちに若干遠巻きにされながら視線を集めているその人は、まさしく昨日不本意ながらキスすることになったお相手だった。
なるほど、昨日も凄まじい美形だなと思ったものの、遠目にもわかるものすごい美形である。あまりにも顔面偏差値が違いすぎて別世界感に溢れているせいか、注目を集めていながらも遠巻きにされている。門がまるで片側通行だ。不自然に彼の周辺に空間ができている。
昨日の今日、そして明らかに人待ちの風情。これで私のことが全く関係ないなんて、楽観視はできない。となれば、ひとまずここは、――裏門から入ろう。
触らぬ神に祟りなし、君子危うきに近寄らず。一応の指針は決めてあるとしても、とんでもなく目立ちそうな状況下で関わりたくはない。
そう結論して裏門に回った私は、「そういえば今日は眼鏡してるんだ、あの超絶美形さん」と、遠目に見た美貌を思い返して気付いたのだった。
第二の刺客は放課後にやってきた。
「楸京香ちゃん、いる?」
教室の戸口から、凄まじく甘い声に名前を呼ばれた。強制的に思考をとろけさせてくるような感覚に、休み時間でも昼休みでもない放課後にやってきたことに感じた、思ったより常識があるんだなという感想は吹き飛ぶ。
甘い蜜でもあり毒でもある声に、周りの人たち(特に女の子)まで余波を受けてしまったらしい。教室に残っていたほとんどが、ぼうっとした表情で現れた彼を見つめていた。
染めてるにしては艶やかな金髪はうなじより少し長いくらいで、その瞳の色は私には赤く見える。それはきっと、他の人には違うように見えているんだろう。
顔は問答無用に整っている。人の警戒心を解かせる笑みが板についた、ちょっとチャラそうなイケメンだ。
昨日の放課後、そして今朝の人とは別の人だ。だけど関係者なのは、その服装――特別棟所属を示す制服からわかる。
そしてもちろん、ちゃん付けで呼ばれる覚えは微塵もない。完全無欠に初対面だ。これは千貴とは系統が違う、でも似た部類の女の敵だろうな、と直感する。
特別棟の生徒は、基本、特別棟の生徒同士でしか交流しない傾向があるらしい。けれど、稀に特別棟以外の生徒に対して積極的に、友好的に関わってくる人物がいるのだと、ちらっと聞いたことがあったのを思い出す。ここに来るまでに大きな騒ぎになってないことを考えると、その人物がこの人なのかもしれない。
友好的に、の中身が色恋関係ない感じだったらそういう人もいるんだね、よかったね、で済む話だったんだけど、現実は無情だ。
「あれ? まだ帰ってないって聞いたんだけど、いないのかな?」
居るのだとわかっているだろうに、さらに魅惑の美声を振りまくのはわざとだろう。本格的な接触はもっと目立たない感じにやりたかったけれど、朝のあれを見た時点で逃げ切れるとも思っていなかった。これ以上被害が広がる前に名乗り出ることにする。
「楸は私ですけど」
荷物を持って戸口まで行けば、特別棟の美形さん(その2)は浮かべた笑みを深めた。うっかり親しみとか感じてしまいそうな威力だ。声だけでなく、笑顔も武器らしい。
「初めまして、だね。俺は真神京也っていうんだけど――昨日、身内が世話になったみたいだから、ぜひお礼をさせてもらえないかなって。本人が直接来るのが筋だと思うんだけど、あいつがここまで来るとちょっと騒ぎになっちゃうから。っていうか今朝、実際にそうなっちゃったし。で、予定はどう?」
「どう?」と訊きつつ、断られることなんて微塵も考えていないのだろう言外の圧力がすごい。
まあ、朱永様と向こう側とである程度は情報のやりとりとかしたみたいだし、そういうふうに話が通ってると思ってるだけかもしれない。
それに、こうして用向きを口にすることで、余計な憶測を周りにさせないようにするっていう気遣いもあるんだろう。どれだけの人が今の台詞を認識できるほどに正気でいるかは別にして。
どちらにしろ断るつもりはない。予定は問題ないと告げると、「それじゃあ、ついてきてくれるかな?」ととても自然な仕草で手を差し出された。あまりに自然すぎて流れで手を出しそうになるレベルだったけど、そっと辞退する。距離の縮め方が手馴れすぎてこわい。……まぁ、必要なスキルなんだろうけど。
そうして道中、ほぼ一方的に話されながら案内された先は、まあ当然ながら特別棟の一室だった。なんかもう内装から違うというのがすごい。やたらお金がかかってそうなのが見て取れるけれど、ここは本当に勉学の場だろうか。……多分違うな、明らかに休憩室っぽいし。なんでそんなものが学び舎にあるのかは別にして。
こんな状況下でなければ、じっくりと観察でもしてみたいくらいだった。特別棟に足を踏み入れるだなんて、この先あるかもわからないわけだし。
――そう、その品のある休憩室らしき部屋の入口から数歩の位置で、見事な土下座を披露している人物がいなければ。
「ええと……」
さすがに戸惑って言葉も出ない。私をここに連れてきた真神さん――彼の一族は全員真神姓らしいので、『京也さん』と呼び分けた方がいいかもしれない――は何だか面白いものを観察するみたいにこちらを見ているので、助けにはなりそうもない。
床に額を擦り付けんばかりの深い土下座なので、顔は見えない。けれど、それが昨日の出来事の相手であり、そして今朝校門横にいた人物なのは見て取れた。
「昨日は、その、本当に申し訳ないことを……」
深い悔恨の念が滲み出た声音で謝罪される。まるで私が彼から重大な被害を被ったみたいだ。……いや、了承なくキスされるのはこうして謝罪を受けるに足る出来事かもしれないけれど。
「極限状態で前後不覚になって、親切心で声をかけた私にキスしたことについてですか?」
問いかけると、土下座したままのその人は肩を小さくしながら土下座を深くし、床に額を擦り付けて「その通りだ……」と消え入りそうな声で答えた。
責めるつもりはなくてただの確認だったのだけれど、この反応を見ると誤解されたような気がする。けれど、一応乙女の唇を奪うということについての罪悪感は抱いてほしいところなので、まあいいか。
それにしても、この人、思っていたより……なんというか……真っ当すぎるというか……ちょっとヘタレっぽいというか……『真神』、というか種族的に特異な気がするんだけど。
朱永さんに聞いた限りだと、むしろ特徴が濃く出てないとおかしいんじゃ? ……ああ、それが昨日の暴挙なのか。
大雑把な情報は朱永様から聞けたけど、人となりについてはよくわからなかった。だからちょっと戸惑ったものの、どちらかと言えばいい意味での予想外だし、今深く追求しなくてもそのうちわかるだろう。というわけで、彼の性質については置いておいておくことにする。
「とりあえず、話がしにくいので、土下座はやめてください」
促すと、ひとまず顔は上げてくれた。膝をついたままなのは……なんかこっちの方が目線が合いやすそうだからもういいか。この人、千貴ほどじゃないけど、長身だし。
「私のファーストキスを奪ったことについては、まあ……いいです」
「初めてだったのか⁉ 俺は、なんて罪深いことを……」
「私がいいって言ってるんだから気にしないで話を進めてください。……そちらにも、ある程度情報は渡したと聞いていますが」
話を促すと、まだちょっと気にしてそうな素振りながらも、その人は居住まいを正した。
「ああ。鬼の頭領より、その……貴女が、自分たちとは違うものだが、『大切な姫』だと……」
……うわ、朱永さん、悪ふざけしすぎ。恥ずかしい……。
「『姫』とかは置いておいて、まあ、私は朱永さんに……鬼の方々に大切にしていただいてます。その理由も、お聞きになりましたよね? それに……体感もしたかと思いますが」
「ああ。……貴女は、『あらゆるあやかしにとってのごちそう』で……それは確かに、この身で感じた。貴女の生気は……とても、甘く……いつまでも味わいたくなるほどのものだった……」
後半は、フェロモンダダ漏れの上に、ちらりと舌が覗いた。これ私じゃなかったら失神モノだと思う。いや本当に。
美形って凶器なのだ。美形と長年接している私が言うんだから間違いない。
「感想はいいです。結構です」
「ええ~? 俺は聞きたいなぁ。すっごく興味ある」
「後で個別に聞いてください」
「うーん、つれない。新鮮だな~」
楽しげに京也さんが茶々を入れてきた。
率直に、ややこしそうな性格してそうだな、と思う。自分の周りにいないタイプに興味を示すけど、めちゃくちゃ気まぐれな気配がすごくする。
と、そこで、まだファーストキス強奪犯兼土下座さんの名前を聞いていないことに気付いた。
……いや、朱永さん経由で知ってるけど、この種の方々は、勝手に名前を呼ぶと面倒なことになるのが常なので。
「そういえば、あなたのお名前は?」
「……名乗っていなかったな。俺は、真神一夜という。貴女は……楸さん、だったか」
確認に、頷く。
ちょっと微妙な顔をしているのは、もしかして朱永さんから由来を聞いたかな?
「はい。楸京香と言います。真神さんがお二人なので、一夜さんとお呼びしても?」
「かまわない」
「俺のことも京也って呼んでほしいな~」
「ありがとうございます。お二人とも、お名前で呼ばせていただきますね」
そう言うと、京也さんが眉根を寄せた。
うーん、美形の憂い顔、破壊力高い。
「さっきから思ってたんだけど、固いなぁ。もっと砕けて話してくれていいのに」
「一応ほぼ初対面なのと、私は被食者側なので。でも、そうですね。少し固すぎましたか」
「うん、固い。カッチカチ」
「その……確かに俺たちのようなモノと貴女は捕食者と被食者の関係であるわけだが……同じ学び舎に通う者同士でもある。貴女さえよければ、砕けた態度をとってくれて構わない」
一夜さんからも重ねて言われてしまったので、ちょっとだけ砕けることにする。
とはいえ、私は千貴が育ての親代わりだったし、すごく砕けた言葉遣いとかは身についていないのだけど。
「それなら……ちょっとだけ。でも、お二人は年上なので、敬語は崩しませんよ」
「わかった」
「気にしなくていいのに。……でも、悪目立ちするの、嫌いそうだもんね、京香ちゃん」
にっこりと笑みを深めた京也さんの言葉に、ちょっとばかりいやな予感がした。

