嫌だ。全部嫌。
 みんなに対して口から飛び出した言葉は全て最悪だった。
 私、本当はこんなこと思ってたんだなと、まわる口が止まらない中で冷静な私が『そりゃあ口を開くと残念だって言われる訳だ』と呟いた。本当にそうだ。私なんてもう、一生一人で喋んない方がいい。

 涙を拭いながら、自然と足は辻君と話した空き教室に向かっていた。昼休みが終わり、授業が始まるチャイムが鳴る。なのに教室に戻る気力なんてこれっぽっちも湧かなくて、空き教室に着くと、あの時みたいに椅子を取り出した私は窓際に腰を下ろした。
 窓の外は今日も良い天気だった。……私には似合わないけど。
 似合わないことばかり。嫌な所ばかり。私には良い所なんて一つもない。こんな私、誰にも受け入れられないに決まってる。
 すると、その時だった。誰もこないと思って気を抜いていた背後からドアが開く音がして、はっと咄嗟に振り返る。

「あ……」

 ——まただ。また来てくれた。

「……辻君」

 どうしていつも来てくれるんだろう。あんなことがあったっていうのに。酷いことを言ったのに。
 どうして私を一人にしないでくれるんだろう。
 ……私を、推してるから?
 推すって何? 推されるって何?
 好きって何?

「……ごめんね辻君」

 無言で隣に椅子を並べて座った辻君に声をかけると、辻君は私にじっと視線を返した。

「辻君が責められるみたいになっちゃって……辻君、アイドル推してたのとか秘密にしてたんだね。なのに私のせいでみんなにバラすことになっちゃって……私の、私のせいで」

 わかってるの。推してるってことは、辻君は私のこと私と同じ気持ちで好きじゃないんだって。だけど大切に思ってくれてるからさっきも今も困ってる私を助けてくれるんだって。
 なんでだろうね。いなくなった推してた子の代わりかな。だったら私は推したいと思われる私でいなくちゃならなかったのに。
 私はいつも人の期待に応えられない。
 このままじゃもらった恩を返せない。

「嫌な奴だね、私。辻君に、みんなにあんなに良くしてもらっておいて、勝手に推すなだって。急に被害者振って子供みたいに喚いて。おまえだってにこにこ笑って受け入れてただろって話。それを都合が悪くなったら癇癪起こして逃げ出して……もうやだ。なんで上手く出来ないんだろう。こんな私やだ」

 もう嫌だ、いなくなりたい。いなくなれ。

「私なんて、いなくなればいいのに」
「やめてよ」

 辻君が私に制止の言葉をかける。でも、止まらなかった。

「だって私の中身って全然みんなの思ってるのと違うの。ああいう嫌なことも言えちゃうし、周りの様子だってずっと気になってるし、話し方だって気持ち悪いし、楽しくなるとどんどん自分の世界に入って周りが見えなくなっちゃう。品がよくて賢い私なんていないの。ずっと隠して騙してたの。こんなの嫌われるに決まってる」
「嫌わないよ」
「もう嫌われたよ。みんなのイメージと違うことしちゃったんだから……私もいけなかったの。私がちゃんと否定してこなかったから。そのせいでイメージ崩して田部さん達に辛く当たって、辻君にも嫌な思いさせちゃった。全部私がいけないのに。みんな私にがっかりした。私にもう価値なんてない」
「あるよ。俺は鈴川さんが好きだよ」
「違うじゃん!」

 つい責めるように声を荒げてしまってはっと辻君を見ると、そこには驚いたように目を丸める辻君がいて、辻君が、私の話を聞いてくれてるのを実感して、辻君にこんな私を見せてることに悲しくなって、でも大好きなのにって、同じ気持ちじゃないことに腹が立って……つい、また涙と一緒に思いが溢れ出て。

「……推してるだけならもう、優しくしないで欲しい」

 ここでもう、終わりにすることに決めた。

「私はもう誰の期待にも応えられない」

 鈴川さんをやめる。もう、誰とも関わらない。傷つけたくないし、傷つきたくないから。

「ここまで来てくれてありがとう。推しだって言ってくれてありがとう。助けてくれたのに、恩を返せなくてごめんなさい。期待に応えられない私でごめんなさい……」

 そう告げた、その時だった。

「違う、やめて」

 辻君が私の手を取った。

「お願い。そうじゃなくて、俺、俺は鈴川さんのこと推してるけど、でもそれだけじゃなくて……っ、」

 急いで言葉にしようと焦る辻君の手の力が強くて、つい「痛っ」と声が出ると、ぱっと私の手を離した辻君は、はっとしたようにもう一度優しく私の手を取り直す。それはまるで離したらいなくなってしまうとでも思っているような動きだった。

「好きだって言ったらあの場で鈴川さんが返事しなくちゃならなくなるって思って。だから推してるって言ったんだけど、でも俺の気持ち、あの二人と同じだと思われたくなくて……それであんな感じになっちゃって」

 ぽつり、ぽつりと、まるで言い訳をするように、申し訳なさそうに辻君はその理由を口にする。それに驚いて相槌すら打てないでいると、辻君が力のこもった目で私を見た。

「俺、二人に対して鈴川さんのこと何も知らないくせにって思ったんだ。俺だって知らなかったのにね。こんなに追い詰められてたのに、ごめんなさい」
「…………」
「俺はイメージとか期待とか、それを裏切るのも含めて全部が鈴川さんだと思うんだ。鈴川さんも俺のことイメージと違ったはずなのに受け入れてくれたでしょ? それと同じで、俺にとって鈴川さんは鈴川さんっていう、たった一人の女の子なんだよ」
「…………」
「頑張ってる鈴川さんが好きだよ。優しい鈴川さんが好き。悩んでる鈴川さんが好き。凛としてる鈴川さんも、笑ってる鈴川さんも好き。こうやって怒ったり弱音吐いたりする鈴川さんだって好きだし、たくさんあるんだけど、ちゃんと伝えるにはどうしたらいいのかな……」

 あれだけ力を込めて話していた瞳から段々と自信の色が無くなっていく辻君を、私は黙って見つめていた。だって一つ一つ、全部を逃したくなかったから。
 今見せてくれているもの全部、辻君の全部なんだと感じた。
 本当の気持ち。本当の自分。本当の願い。
 だから私も、例え嫌な私でも辻君になら全部を見せたいと、見せられるんだと思った。
 辻君はこんな私を、受け入れてくれる人だと信じられたから。

「……私はさ、馬鹿で気持ち悪くてプライドの高い嫌な奴だよ」
「俺は思いやりのある優しくて頑張り屋な女の子だと思う」
「違うよ、だって結局自分が否定されたくないから鈴川さんを演じてるんだよ。辻君と違って好きなものも人に言えない臆病者」
「でも俺は人の気持ちまで深く考えたり出来ないから、俺が鈴川さんを推してるって言ったせいでこうなっちゃったんだよね。今もそう。鈴川さんに嫌なこと話させて……俺が鈴川さんに関わって、鈴川さんを傷つけた」
「! それは違うよ。辻君がこうやって来てくれたから私、初めて人に心を見せられたんだよ!」

 ——そうだ、今この時、この場所で私、初めて自分の全部を曝け出せてる。

“大事な美玲は信じた人にだけ見せるように隠しておいてもいいと思うの”

 なんで忘れていたんだろう。そうだった。いつの間にか隠しているのは嫌な私だと思っていたけど、違った。お母さんは初めから言っていた。それは大事な私なのだと。

『鈴川さんが好きだよ』

 それを今、世界一優しい言葉で辻君は受け入れてくれたんだ。

「……ありがとう辻君」

 だったらもう、それがなんであっても私は嬉しい。
 例えそれが私と同じ気持ちじゃなかったとしても。

「辻君の推しに似ててよかったな」
「なんで?」
「だって代わりに好きになってもらえたから。推し変みたいなことだもんね」
「…………」

 その瞬間、辻君の顔から動きの全てが抜け落ちる。それはまるで能面のような冷たさで、私は何か間違えてしまったことがすぐにわかった。
 ゆっくりと、戸惑う私の目の前で辻君がもう一度口を開く。

「なんで?」

 ……なんで? なんでって、なんで?

「え、だってそう言ってたよね?」

 推しと似てるから色々考えてくれてたって。雪女とか、引退理由とか。

「あ……そうか、そうだ。そう言ったか。言ったわ。言ってなかったんだ。そうだ、引かれると思ったから」
「え? え?」
「あのさ、鈴川さん。推しのね、背筋を伸ばして堂々とステージに立つ姿が窓際で席につく鈴川さんの凛としてる所に似てて、それがまず初めで……俺、それは秘密にしてたんだった」
「え!」

 驚きのあまり思わず大きな声が出ると、「ほらやっぱり……」と、辻君は顔を隠すように背けてしまう。

「気持ち悪いじゃんそんなの……それだけずっと気になってました、なんて。俺どんだけ鈴川さんのこと好きなんだよって話だし……だから妹にも接触するなって言われてたんだよな……うん、そう。そうなんだけど……」

 そして横目にチラリと私を見る辻君。

「……引いた?」

「推しを見つける前からずっと、鈴川さんのこと見てました、なんて」と、いつもの無表情をどこか引き攣らせて辻君は言った。まるで悪事を白状するかのように。

 ——そんなの、引く訳ないに決まってる。
 私は、勢いよく立ち上がると大きく息を吸った。

「そんな辻君の可愛い所も大好きなので、私と恋に落ちてください!」

 今だ! 言うしかない!と直感的に動いていた。だってこれが辻君が教えてくれた秘密の私バージョン。私が辻君に隠していた一番の秘密で、一番伝えるべきことだったから。
 でも勢いに任せてみたはいいものの、実際に口にした言葉は思った以上に恥ずかしい表現になってしまった……全部先輩とヒーローのせい。
 どう思っただろうと辻君の様子を窺うと、こちらを向いた辻君は目を丸くさせてパチパチと瞬きをしている。そのうちにその無表情は照れ臭そうな小さな微笑みへと変わっていき、

「もうとっくに落ちてます」

 と、返ってきたその返事に、心の中のヒーローと先輩がガッツポーズを決め、私にグーサインを送った。
 うん……うん! やったよみんな!
 嬉しい! ありがとう辻君!
 心の中で三人で祝杯をあげていると、突然今度は辻君がすっと立ち上がる。びっくりして辻君へ目を向けると、辻君は私を真っ直ぐに見つめていた。

「じゃあ、これからは全部の鈴川さんを一番そばで見せてくれますか?」

 真剣な眼差しで返ってきたのはそんな問いかけ。まさかのことに何て答えればいいのかわからなくて、それこそ顔を真っ赤にしながら、小さく「はい……」と答えることしか出来なかったけど、そんな私の返事に辻君は満足そうに笑ってくれた。
 びっくりした。辻君からそんなことを言われるなんて思いもしなかったから。

「なんか辻君って、クールどころか情熱的だったんだね……」
「俺も初めて知った。俺を知ってくれてありがとう」
「こ、こちらこそ……」
「あと、鈴川さんの前だとなんか喋りやすい。伝えなきゃって思うから考える前に言葉が出るのかも。これからもたくさん気持ち悪いこと話すかもしれない」
「それは私も……! じゃなくて、気持ち悪くないよ。それはきっと大事な気持ちだから、お互いに大事にしていこう」
「……うん。ありがとう」

 ——そうして帰りのホームルームには二人で教室に戻り、放課後を迎えると、田部さんと中田さん、小崎君達が集まって、私はみんなにごめんなさいと謝った。イメージを崩してごめんなさい。嫌われるのが怖かったのだと。
 すると田部さん達が泣きそうな顔をして自分達の方こそごめんねと謝ってくれた。私が教室を出て行ったあと、どうやら木下さんがブチギレたらしいのだ。

「みんな鈴川さんで騒ぎたいだけなの?って。お昼も食べられてないんだよ? 可哀想!って」
「鈴川さんは鈴川さんなんだからそれでいいだろ!って。鈴川さんのお弁当包み直してしまってくれてたよ」

 だから綺麗に鞄に入ってたのか! 誰がやってくれたんだろうと思ったら!

 思わず木下さんの方を見ると、木下さんはうんと大きく頷いて、また明日ねと美術部へ向かっていった。その背中はなんだかとても逞しくて、

「はぁ……大好き木下さん……」

 溜め息のようにこぼれた私の呟きにみんなは驚いた顔をしていたけど、もういいかなと思った。私は私だと、受け入れてくれる人がもう私には二人もいるから。

「……木下さんに負けないように頑張らないと」

 ぽつりと呟いた辻君の言葉にみんな笑っていて、それに辻君がなんだか不服そうだったのがまた可愛かった。

 ——確か、明日の天気は晴れ。
 きっと素敵な明日になるだろうなと、似合うかどうかを考える前に、清々しい気持ちで晴れ渡る青空を受け入れられている私がいた。

「辻君もありがとう、大好きだよ。また明日も一緒に帰れる?」
「うん、今日も明日も明後日も一緒に帰ろう。俺も鈴川さんが大好きだから、一緒にいたい」

 それはとっても幸せなことだった。