「おはよう鈴川さん」

 いつも辻君達はホームルームが始まるギリギリに入ってくる。今日もそれは変わらなくて、バタバタとクラスの生徒が入ってくる中に紛れ込んでいた辻君は、その群れの中から席に座る私を見て、挨拶をしてくれた。
 その瞬間、クラスに静寂が訪れる。のを、気づいているのかいないのか、辻君は表情は変わらないものの、どこか柔らかい雰囲気で私の方を見ている。

「……おはよう、辻君」

 それに、どことなくぎこちなくなってしまった返事をした所で先生が教室にやってきた。

「え、どういうこと……?」
「昨日の帰りも一緒だったらしいよ」
「え! そういうこと?」

 朝のホームルーム中に内緒話する声が聞こえてくる……そうだよね。だってあの辻君だもんね。こうやって挨拶してくれるなんてびっくりだよね……天変地異起こってるよね……。
 この噂話が次にどうなるのだろうと考えると、挨拶をしてもらえた嬉しさより不安が優ってしまう。そしてその不安は昼休みに的中してしまうことになる。


「鈴川さんご飯食べよー」と、今朝からどこか落ち着かないクラスの空気の中、いつもと変わらない木下さんが声をかけてくれてお弁当を食べていたその時だ。

「鈴川さん、ごめんね。どうしても知りたいんだけど聞いてもいいかな」

 そう言って、早々にお昼ご飯を終えた様子の田部さんと中田さんがやって来た。それに「何かな?」と、心の中で冷や汗をかきながらいつも通りに答えると、二人は決心した顔で言った。

「鈴川さんって辻君と付き合ってるの?」

 そうだよね、やっぱりそうなるよね!
 と、焦る気持ちを表情に出してしまう前に押し殺す。気になる気持ちはすごくわかるよ、わかる。だって推しだって言ってくれてたもんね。スキャンダルみたいなものだよね。

「ううん。付き合ってないよ」

 冷静に。嫌な気持ちにさせないように。

「でも辻君があんな風に声をかける所なんて初めて見たよ!」
「ね。しかも突然! 昨日一緒に帰ったんだよね?」
「うん。そうだよ」
「え! それってつまり辻君が鈴川さんのこと狙ってるってことじゃない!」
「それだ!」

 二人は急速に答えを出して、バッと勢いよくクラスに残っていた辻君達の方を見る。するとそれに気付いていた様子の小崎君が、「だってよ辻く〜ん。俺も知りたーい」と辻君に話を振り、辻君は無表情で顔を上げた。

「……狙ってるとかじゃない」

 そう、いつもの調子で一言だけ告げる辻君に、まぁ辻君に聞いても返ってくるのはこんなもんだろといった空気が漂った中、小崎君がにやにやしながら「ふ〜ん」と何かを含んだ相槌をする。
 そして、

「鈴川さん達が何の話してるか聞いてたんだ、おまえ。いつも何も聞いてないのにな」

 と、楽しそうにそこに爆弾を落とした。
 途端、本当だ!と、皆がハッと辻君を見る。

「…………」

 辻君は表情のない顔で、無言のままじっと小崎君を見ていた。威圧的な雰囲気すら醸し出している辻君だったけど、多分今ごろ頭の中でたくさん考えてるんだと思う。きっとすごく困ってる。
 どうしよう、助けないと。だって私のせいだ。私が何とかしないと!

「わ、私が誘ったの!」

 そう勢いよく告げると共に、気づけば立ち上がっていた。すると一斉に辻君から私へとクラスの視線が集中して、思わずぎゅっと両手を握る。

「仲良くなりたくて、それだけなので……ごめんなさい。迷惑をかけてしまって」
「…………」
「だから私と辻君は何もないです。もう誤解を生むようなことはやめます。ごめんなさい」

 決死の覚悟だった。みんなのイメージする鈴川さんだったらどうやってこの場をおさめるのだろうと頭の中は必死に考えて、考えて、出した答えがこれだ。

“鈴川さんは別世界の人だから、辻君と関わったりなんかしない”

 私の答えに、クラス内が静まり返る。空気がとても重たかった。私は間違えてしまったのだろうか。指先が冷たくて、心臓がドキドキ大きく動いていて、まるでその音が聞こえてくるようで。
 そんな中、椅子を引く音がする。目を向けた先、同じように立ち上がったのは辻君だった。

「俺、鈴川さんのこと推してるから」
「…………は?」

 それに声をあげたのは小崎君。

「推してる? え、おまえ推しとかいう概念あんの?」
「あるよ。今初めて言った」
「だよな? 初めて聞いたわ!」

 そして、「え? 辻が?」「推しってどういうこと?」と、クラスに普段の音が戻ってきた中で田部さんと中田さんは「なんだ〜!」と嬉しそうに言う。

「辻君も推してたなら言ってよ〜! そしたらこれからは一緒に鈴川さん推してこ!」

 にこにこ、とっても嬉しそうな笑顔だった。これで丸くおさまるな、そんな雰囲気がクラス内に生まれる中、

「いや、それは違う」

 辻君は、きっぱりとそれを否定する。

「そっちとは物差しが違うから」

 そしてまた、ピシッと空気が固まり、そこにひびが入ったように感じた。

「え、何それ……物差しって?」
「一緒にとかそういうんじゃないってこと」
「あー、つまり同担拒否ってこと? いるよねそういう人……」

 はいはいそういうことねと、二人は白けた顔をして、辻君ってそういう人だったんだ……と、なぜかすごく嫌なものを見る目で辻君を見る。
 それにのまれるようにクラスの空気がどんよりとした嫌なものに変わり、それが辻君に向けられた。

「今もだけど、実際いつも言い方冷たいよね」
「物差しが違うって。堂々口に出す人初めて見た」
「てか、興味ない顔してクラスの女子推してるとかちょっと引くかも……辻君にすら推される鈴川さんやば」
「素振りも見せてなかったのにね。さすが雪の女王」

 ——違う。そんなのおかしい。こんなことになるなんて……そんなつもりじゃなかったのに。
 今まで一度だって私をそういうものだと見てる人を否定してこなかった。でもそれがいけなかったんだ。私が受け入れたりしたから、だからこんなことになってしまったんだ。

「……推すとか推されるとか何なの?」

 溢れた本音は、騒がしくなっていた教室内に静けさを呼んだ。が、もう関係ない。

「そもそも私、そういう対象じゃないし。勝手に理想を押し付けて人を傷つける理由に使わないで」

 もう限界だった。こんな些細なこと全部監視されてるみたいな環境も、そのせいで傷つく人が生まれる責任も、もう無理だ。私には耐えられない。

「なんで辻君が否定されるの? なんで私が仲良くなったらいけないの? なんでいちいち探られなくちゃいけないの? 勝手に辻君を、私をエンタメにしないで!」

 そう生まれた思いを吐き捨てるように言葉に出すと、ボロボロと涙が溢れてきて、私は逃げるように教室を出た。
 もう最悪な気分だった。