チャイムが鳴ると同時に教室に戻ると先生はまだ来ていなくて、辻君は「じゃあ、またあとで」と席に戻り、私もそれに頷いて自分の席へ戻った。
 木下さんはすでに前の席に着いていて、「おかえり〜」と振り返って声をかけてくれる。

「購買めちゃ混みで買ったけど食べる時間なかったよ」
「そうなの? 残念だったね」
「うん。でも鈴川さんおいてっちゃったから、教室にひとりぼっちじゃなくてよかったなと思ってる」
「! 木下さん……」

 私のこと、考えてくれてたんだ……!

「心配してくれてありがとう」

 とっても嬉しくて、心からその言葉を言えた。
 やっぱり私、木下さんともっと仲良くなりたいな。そう、嬉しそうに笑ってくれる木下さんを見て思う。それもきっと辻君が私を追ってきてくれたおかげだ。あの時間がなかったら今頃こんなに心を軽くして木下さんと話すことはできなかったと思うから。
 ちらりと辻君を見ると、辻君と目があった所で先生が教室に入ってきて授業が始まった。
 『じゃあ早速今日、一緒に帰ろう』
 さっきの辻君と空き教室を出る時にした約束が頭に過ぎって、心がウキウキする。
 本当はあの時、好きです!って叫びたい気持ちだった。友達になってください、の後ろでもう、ミーハーな私は辻君の名前のついたうちわを振っていたし、辻君の名前を検索して何度も保存していたし、辻君の周りだけ彩度が上がっていたけれど、それは待てと、好機だ!と攻め込もうとするヒーローの指示を止めた先輩がいた。

 “恋は落ちるもの。けれど、愛は育まれるもの”

 その言葉に私とヒーローがはっと我に返る。

 “今の二人の間で愛は育つのかしら”

 確かに。私が一方的に愛を叫んだ所で、それで終わってしまったら元も子もない。だって私、友達すら上手に作れたことがないんだから。
 まずは私の裏側を知ってもらって、それでも仲良くなれるか判断してもらわないと……そうだ、そうだよ。恋は勝手に出来るけど、愛は二人の思いがないと成り立たないから。それが例え友愛であったとしても、それでも私はとっても嬉しい。
 だって私のことを知ってくれる、世界で初めての人になってくれるかもしれないんだから。
 あぁ……放課後が楽しみ過ぎて辛い……。
 世界が変わる予感にときめいて、いつもは耳に入ってくるクラスの誰かの声も一切気にならない、ただただ放課後を待ち侘びる私がそこにいた。


 そしてようやく放課後がやってきて、木下さんは美術部に向かうので、いつも通りにまた明日の挨拶をして別れた私ははっと辻君の方へ意識を向けると、聞こえてきたのは小崎君達の何やら揉めている声だった。

「えー? なんで辻来ないんだよ」
「だから、約束があるの」
「おまえがー? 俺達より優先しなきゃなんない約束ー?」
「怪しすぎる」
「匂いますねぇ。昼休みといいねぇ」

 ! た、大変だ。辻君が怪しまれている!
 三人に行く手を阻まれている辻君はいつもの無表情だけど、どことなく困っているようにも見えた。どうやらなかなか小崎君達が受け入れてくれない様子。
 わ、私が行って事情を話すべき……?
 だって私のせいで辻君が怪しまれてるんだもん、そりゃあ私と帰るなんて言えないよね、そうだよ。色々言われる事になっちゃうもんねきっと。今朝だって木下さんも言われちゃってたし……あれ? だったら私が間に入っていったりしたら余計に迷惑をかけることになる……?
 もしかして私が辻君と友達になるって、辻君にとても迷惑をかけるのでは……?

「…………」

 あぁ、私。何を浮かれてたんだろう。
 スマホを開くと先ほど交換した辻君の連絡先にメッセージを送る。

 “ごめんなさい。先に帰るので気にしないでください”

 そして急いでその場を離れると、昇降口で靴を履き替え、一度気持ちを切り替える為に小さく溜め息をついた。
 駄目だ私……ちょっと舞い上がってたみたい。
 私のことを追いかけてきてくれた、知ろうとしてたくさん考えてくれた辻君がいたことを知れただけで、友達になってくれただけで奇跡なのだ。
 恋だのなんだのの前に友達から、なんて。友達になってもらうことすら恐れ多いのに、何て傲慢だったんだろう。
 恥ずかしい。自分がすごく恥ずかしくて嫌になる。
 そして靴に履き替えて校舎を出ようとした、その時だった。

「鈴川さんっ」

 振り返るとそこにいたのは辻君で、息を切らした辻君はどこか焦っているように感じる様子でこちらを見ていた。

「なんで先に帰るの?」
「えっ……と、迷惑かなって思って……」
「鈴川さんは迷惑なの?」
「! そんなわけないよ! 私はすごく楽しみにしてっ、」

 あ、言っちゃった、と思った所でもう遅い。
 恐る恐る辻君の反応を見ると、辻君は息を吐いた。溜め息だ。やっちゃった……と、辻君の反応をびくびくしながら待つ中、そこには変わらずいつも通りの、感情の読めない整った無表情があった。呆れられちゃったかもしれない——けれど、

「よかった、俺も」

 返ってきたその声にとても優しい温もりを感じた瞬間、私はとてつもない後悔に襲われ、物凄く反省した。辻君との約束を簡単に取り消してしまったことに。そんな自分の、弱い心に。

「行こう」

 辻君が声をかけてくれて、それに頷く。申し訳なくて、切なくて、胸がぎゅっと苦しかった。


 校門を出て、バス通学の辻君と一緒に歩き出す。
 高校まで歩いて二十分ほどの私は徒歩で通学していて、辻君はいつもの学校の前ではなく、私の家の最寄りのバス停から乗るからと、家まで私を送ってくれることになった。

「ごめんね辻君……」
「いいよ。良い運動になるし」

 表情は変わらない。でも、優しさは十分に伝わってくる。

「辻君は優しいね」

 感じたことをそのまま口にすると、辻君が急にこっちを向いたのでびっくりした。

「……俺、優しい?」
「う、うん」
「怖くない?」
「え? 怖くないけど……」

 素直にそう答えると、辻君はなんだか納得いってない様子だったので、「なんでそう思うの?」と訊いてみた。

「さっきも言ったけど、俺、こんな感じだし、話すのも上手くないんだ。考えてることが上手く引き出せないっていうか……」

 というと、辻君は口を閉じてしまった。そしてしばらく考えると、

「よく怖そうって言われるから」

 そう、考えごとの結論を私に教えてくれた。多分、頭の中でぐるぐる説明するために巡った結果、辿り着いた言葉がこれだったんだと思う。
 本当はもっともっと怖いって言われるまでの経緯に色々あったんだと思うけど、全部排除してシンプルに出した答えなんだと思う。雪女みたいと言った辻君の話し方と似ていたから。
 だからなぜ怖いと思われるのか、なぜ思わないのか、ちゃんと私の考えを伝えたいと思った。
 昼休みのやり取りで、辻君は気になったことについてたくさん考えている人だってわかったから。

「確かに、辻君はあまり感情が表情に出ないよね。それで、話しかけても短く答えるタイプの人なんだなって思ってたよ。あんまり周りに関心がない、そっけない感じ。それを怖いって感じた人はいるかもしれないね」
「…………」
「でも、辻君ってなんか喋ってみたいと思わせる何かがあるんだよ。その返ってきた一言がすごく気になったり、何考えてるんだろうって知りたくなったり。だから話しかけてくれる人も多いでしょ?」
「そうかな……」
「そうだよ。それで、勇気を持って話しかけてみたらなんか怖くないぞ?ってなって、怖そうって思ったよって話を怖くなくなった時に辻君にするんだと思うの。だからつまり、みんなから見た辻君は結果、怖くないんだよ」

 うんうんと自分に納得しながら辻君をみると、辻君は「そっか……」と呟くと、私へ視線を戻す。

「じゃあ鈴川さんも始めは怖いって思ってた?」
「怖いとは思ってないかな……クール系男子って感じかな」
「クール系男子?」
「そう。冷たく感じるくらい落ち着いててどこか高貴な感じ」
「今も?」
「今は、そのクールさの裏でたくさん考えてて実は色々気にしてるのに伝わらない不器用な感じが可愛くて、そのギャップがたまらんって感、」

 ! ま、待て待て待て!

「じるくらい、優しくしてくれてありがとうという感謝の気持ちでいっぱいです……」

 やばいと気づけたのは偉かったと思う。なんとか誤魔化そうと話を急カーブさせてみたはいいものの、やっぱりおかしなことには違いなくて……。

「ご、ごめんなさい……本当の私、気持ち入ると早口だし変なこと言って気持ち悪いよね……ごめんなさい……」

 正直に謝ることにした。やばい、スイッチ入っちゃってた。最悪だ。だって辻君のあの整ったお顔が作り出す涼しげな無表情の圧倒的存在感の内側がこんなに素直で少し天然の入った可愛さをもっているなんて誰がわかる……?
 ! 私だけ知らなかったのか! みんなは知ってたんだ! さっき自分でそう言ってた! そりゃあみんな辻君に話しかける訳だよ〜!
 今更知るなんて私の馬鹿ー!と、いつの間にか出遅れた自分に反省していると、「ふっ、」と小さく笑う声が。
 ゆっくりと声の方を見ると、辻君が、小さく、ほんの小さく笑っていた。
 そのいつもとは違い、柔らかく寄せられた眉が、緩んだ口もとが、細められた目が。全てが、初めてのもので。

「つ、辻君」
「ふっ、ご、ごめん……馬鹿にしてるとかじゃなくて……っ」
「そ、そうだよね。イメージと違ってごめんね……」
「そうじゃなくてっ、嬉しくて!」
「……へ?」

 目を丸める私の前で、とうとう辻君はその素敵な笑顔をキラキラと輝かせて私を見た。

「隠れてた鈴川さんがこんな所にいたんだと思って」 

 ——それは、私にとってあまりにも衝撃的出来事だった。

「俺、そういう鈴川さんも好きだよ」

 あまりにも眩しい笑顔でそんなことを言うものだから、「わ、私も……」なんて答えてしまって、「なんだ、鈴川さんも鈴川さんが好きだったのか。よかった、安心した」と、優しく温めるような微笑みを返してくれたので、違う! そういう意味じゃない!と思いながらも、「うん」と頷いていた。

 “これは完全に落ちたな。ここから這い上がるのは苦労するぞ”
 “いいえ、這い上がる必要はないわ。同じ所まで落とせばいいだけのこと”

「そんな! 私には無理です!」

 そう叫びながらガバッと飛び起きて、ハッとした。そんな台詞、漫画の中になかった。私の中でヒーローと先輩に自我が芽生えた瞬間である。カーテンから朝日が差し込んでいて、時計はいつもの起きる時間の五分前をさしていた。
 あまりの衝撃的出来事であったために、私は夢にも見てしまったのだ。
 でも、昨日起こったことは現実だ。間違いなく。だって、スマホにメッセージが届いているから。

 “おはよう。よかったら今日も一緒に帰れますか?”

 こんな朝イチに、目覚めてすぐ私のことを考えてくれたってことですか……?

 “おはよう! 私も一緒に帰りたいです”

 人生に奇跡って何回起こるんだろう。もしかしたら私は全ての運を使い果たしたかもしれなかった。