「私さ、お腹空いた〜って思うからその分カロリー消費したんだなって、頑張った自分を実感をするんだよね」
「そうなのね。確かにそうかも」
木下さんはご飯を食べるのが大好きで、いつもお昼はにこにこしている。ほっぺに詰め込んで食べる姿は正にハムスターで、あーんしてあげたい気持ちを必死に我慢しているのだ。きっと私のイメージと違うし、木下さんがまた怒られちゃうと悪いから。
「鈴川さんもお腹空いてる?」
「空いてるよ」
「そうだよね。鈴川さんはたくさんお腹空くはずだよ」
「? どうしてかな?」
うんうんと納得しながらパンを大きな口でほうばる木下さんに素直に問いかけると、木下さんはまんまるな目を私に向けて、うーんと考える仕草をする。
「だって、ずっと自分の世界で考え事してる気がする。それってお腹空かない?」
「え……?」
「私、考えるのお腹空いて苦手だから単純にすごいなって思うよ。でもやっぱり鈴川さんもお腹空いてたんだね」
「……うん」
今、なんだかすごく大事なことを言われた気がする。
「あー、なんかもう少し食べたいから購買行ってくるね」
「あ、うん」
「鈴川さんも行く? なにか欲しいものある?」
「う、ううん。特にないかな」
「そ。じゃあ私行ってくるね〜」
そう言うと、お財布を手にした木下さんはいつものように軽い足取りで教室を出て行って、私はそれを見送った。
“ずっと自分の世界で考え事してる”
それは事実だった。私はずっとずっと考えて、心の中で一人で話している。だって、そこでしか私は自由に話せないから。
そこには確かに私だけの、私しか知らない、誰にも話したことのない自分の世界があった。それを私の世界だと意識したことはなかったけど。
私、自分の世界にずっと引きこもってるって、そう見えてるのかな。
「なんか難しい顔してるね」
「木下ちゃん、何かやっちゃったのかな」
ひそひそと聞こえてくる声と感じる視線。そして木下さんの名前。
——駄目だ。勘違いが生まれる前にちょっと一人になりたい。
食べ終わったお弁当を片付けると私はそっと教室を出た。
誰もいない場所ってどこにあるんだろうと考えながら、図書室とかかなぁと見当をつけて歩き出したはいいけれど、一人で歩いているうちに段々と心の内側にもやもやしたものが大きく育っていく。そのもやもやが何なのかわからなかった。
怒ってるんじゃない。苛立ってるんでもない。木下さんが悪いわけでもない。
木下さんは噂話や陰口ではなく、面と向かって私の印象を教えてくれる人だし、彼女の言葉はいつもまっさらで、なにかしらの悪い感情もなくそのまま思ったことを口にしてくれていると信じられる。
なのに、なんだろう。いつもならこんなことこれっぽっちも気にしないのに……木下さんに言われたから、こんな気持ちになったんだと思うんだ。このもやもやした気持ちは? 外に出したくて沸々と湧き上がるこの気持ちは? 裏切られたと感じるようなこの気持ちは?
“私は、私の世界で考え事をしている”
「……自分の世界でしか話せないんだから仕方ないよ」
人気のない特別教室などの入った廊下に出ると、歩きながら心の声がこぼれ落ちた。
「だからみんな、私に世界が違うって言うのかな。それが原因?」
私は私だ。外側も内側も全部私だって自分で受け入れてる。今誰も私を否定する人がいないんだから、それが正解なんだ。私のような人間にはこの生き方がみんなに受け入れられる為の正解なはず。そうやって今日まで生きてきたんだから。
——でも。
「私の世界だって、取り残さないで欲しい……」
そうか。このもやもやの正体は私の中にある寂しさだ。
私は寂しかったんだ。受け入れられたくて頑張ってるんだから仲間に入れて欲しかった。他の誰でもない、遠慮なんてしないで私に接してくれた木下さんに違う世界だと言われたのがすごく寂しくて、すごく悲しい。
「鈴川さん」
誰もいない廊下に響いた声に、ハッと息を呑んだ。しまった。やってしまったと振り返ると、その人物にもう一度息を呑むことになる。
「少し話せますか」
そこにいたのは辻君だったから。辻君が、いつもの感情の読めない表情で私を見つめていたから。
え、ほ、本物……?
驚きのあまり言葉を失っていると、辻君はじっと私を見て何かを待っている。
あ、え……? えっと、あ!
「は、話せます」
答えを待ってるんだ!と気づいて慌てて返事をすると、辻君はどこかに向かって歩き出すので、ドキドキしながらその背中について行った。
そこは今は使われていない空き教室の一つだった。
教室の隅に重ねられている椅子を二つ持ち出すと、辻君は窓際にそれを並べて一つに座り、私ももう一つに腰をおろした。
なんだろう……と辻君を横目で盗み見る。そこには何も変わらない彼の整った静かな横顔があって、涼やかで凛々しくて、とてもただの無表情には見えなかった。何を考えているんだろうと、黙っているだけで相手の頭の中で物語が始まってしまう人、それが辻君なのだと初めて二人きりになって感じた。
そしてもちろん私のようなあれこれ妄想するのが好きな人間は、普段ならきっとこのまま脳内妄想タイムが始まっただろう。けれど正直、今はそれに浸れる余裕が心になかった。
辻君、いつからいたんだろう。
誰もいないと思って、つい声にだしてしまっていた。誰にもこんな言葉を聞かせるわけにはいかなかったのに、しかも辻君にだ。
雪の女王が一日で広まったのは、発信元が小崎君達一軍男子だったからということもある。もし辻君がこのことを彼らに話してしまったら……?
さっと血の気が引いていくのを感じる。私が悪く言われる以上に、もし木下さんにも影響があったら? 辻君はなんでこんな所に呼んだんだろう。なんでこんな用がなきゃ誰も来ない廊下にいたんだろう。なんで私、ちゃんと確認出来なかったんだろう。
「手、やめなよ」
その声かけにハッと自分の手を見ると、膝の上でぎゅっと固く力をこめて握られたそれは真っ白になっていた。開いてみると手のひらに爪の跡がついている。
「急にごめん。嫌だよね」
「! い、嫌とかではなくて……」
でも、なんでかは説明出来なくて。あぁ、また変な所を見せてしまったと落ち込むことしか出来なくて、お互い沈黙が続く。
辻君は変わらず涼しい顔をしていて、気まずく思ってるのは私だけなのかなと、どう対応すればいいのか考え始めたその時だった。
「いなくなっちゃう気がして追いかけたんだ」
突然、辻君が真っ直ぐに私を見て話し始めて、驚いた私は、「な、何をだろう?」と、声がひっくり返るのをギリギリおさめて問いかける。
「鈴川さんのこと。俺、鈴川さんのことずっと似てると思ってて」
「え? あ、雪女だよね?」
「うん。それと、俺が推してた子に」
「……へ?」
「俺の推し……アイドルだったんだけど、結構前に辞めちゃって。その理由もなんとなく鈴川さんに似てそうな気がして」
「…………」
……とりあえず、何が何やら情報が多すぎたので一回整理する。えっと、辻君は私が雪女と推しに似てると思ってくれて、それと、推しの引退理由が私に似てそうだと思ってて、ん? だから私がいなくなっちゃうって思って追いかけてくれて、あれ? 私が引退したら困るから追いかけてくれた……?
? ちょっとよくわからない……ていうか、
「辻君ってアイドルとか推すタイプだったんだ……」
「うん。見えないよね」
「! ご、ごめん、変とかそういうことじゃなくて」
「わかってる。大丈夫」
慌てる私をなだめるように、辻君がうんと頷いた。
「妹がさ、アイドル好きでよく動画観てんだよね。で、俺こんな感じだからこの子を見習えって見せられたのがきっかけで」
こんな感じ、と辻君は自分の顔を指さしていつもの無表情で私を見つめたので、それに今度は私がうんと頷いた。
「その子は背筋を伸ばして堂々とステージに上がってた。どこにいても存在感が消えなくて、その子の作る表情に、動きに、目が吸い寄せられるんだよね。だからその子がセンターなんだよって教えられて納得して、でもなんで俺がその子を見習わないといけないんだろうと思ってたら、その子のドキュメンタリー番組を見せられてさ。その子、ステージの裏では泣いてたんだ」
「…………」
「ずっと辛かったんだって。楽しいより辛いことの方が多くて、ステージに立つのが怖い時もあったんだって。なんで自分がセンターなんだって泣いてたりして。でも外では一切そんな所を見せなくて、ステージに立つと切り替わるんだ。そんな自分をファンは求めてないからアイドルスイッチが入るんだって言ってた」
「アイドルスイッチ……」
「そう。だから妹が俺もスイッチで切り替えくらいできるようになれって言うんだけど、スイッチ入れる必要性を今の所感じなくて……ほら、俺アイドルじゃないし」
なんて、真顔でそんなことを言う辻君に少しだけ笑ってしまった。真剣な話なのに申し訳ないけれど、辻君の知らない人柄が見えた瞬間だったから。
「ていうか、俺にとってはやろうとして出来ることじゃなくて、素直にすごいなって尊敬したんだ。そんな風に一切見えないし、いつもキラキラ輝いてたから。気づいたら追いかけるようになってたんだけど、ついに卒業しちゃってさ……その理由が、もう自分が頑張らなくてもこのグループは大丈夫だからって。期待に答えるのは疲れたって、言ってて。やっと終われるって感じだった」
「…………」
「無理してたんだよな……知ってたし、その頑張る姿にファンがついたのも事実だけど、でも、人間なんだよなって、なんか別のものみたいに思ってた自分にふと気付かされたというか……そしたらその時、鈴川さんが頭に浮かんだんだ」
「私?」
「うん。鈴川さんのこと、俺、きっと違う世界の人なんだと思ってたから」
真っ直ぐに私を見つめて平然とそう口にする辻君にショックを受けたけど、でも辻君は続きを聞いてとでも言うように私から目を離さない。
「だけどそれは違うのかもしれないって思うようになったんだ。だって違う世界なんて現実に存在しないし、みんな同じ人間なんだよなって、その子の卒業理由から教えてもらったから。鈴川さんをそうさせるのは、もしかしたら周りの人間の方なんじゃないかって考える様になったら、なんか、段々と見えてきた気がして」
「……何が?」
「……鈴川さんのことが。それから色々考えてるうちに俺がよく見てるのあいつらにバレて、理由聞かれて、その時の一番ピンときてた雪女みたいだなって考えをそのまま言っちゃって……伝わらないよね。悪口じゃないんだ」
「……良かったらその雪女について、詳しく教えてもらえないかな」
ここまでのお話と雪女がどう繋がるのだろう。何かきちんとした理由があるように思うそれが知りたかった。
「……あのさ、雪女の話は知ってる?」
雪女。確か雪山で遭難した男の人が雪女に出会い、今日のことを誰にも話さないと約束を交わしたことで逃がれられたけど、のちに結婚した奥さんにその話をした所、奥さんの正体が雪女で、約束が破られたと奥さんだった雪女は姿を消してしまった——みたいな話だったと思う。
「推してた子と重ねて見てたのもあったと思うけど、俺、鈴川さんも周りの人間用に見せてる自分と別に本当の自分を隠してるのかもって考えるようになって、でももしその何か理由があって隠してるものを明らかにしちゃったら、雪女みたいにここにいる鈴川さんはいなくなっちゃうかもしれないって気がついて、だったら気づかないままそっとしておいた方がいいのかなと思ったんだけど……でもそれが無理することに繋がってたら、またあの子の時みたいに後悔するかなって……」
「後悔……」
「だって、本当にいなくなったらもう会えないから。センターだったあの子も、奥さんだった雪女も、何かを一人で抱えてる人はみんな綺麗な思い出だけ残していなくなったから、もし鈴川さんがそうなった時、俺、他に俺に出来ることはなかったのかなってきっと後悔すると思ったんだ」
「…………」
「だから今日、その時がきたんだって思って、慌てて追いかけてしまいました。気持ち悪くてごめんなさい」
……へ?
「あ、え? き、気持ち悪い?」
「うん」
「誰が?」
「俺が」
「えぇ! いや、ない! 絶対ないよ!」
どうしてそんなことになるのかと理解出来ないでいると、辻君は視線を下げてどこか気まずそうに、「妹に絶対接触するなって言われてたから……通報されるって」と。
「俺みたいな無表情のキモいオタクが勝手な妄想繰り広げてた時点でキモいんだから絶対実行するなって。トラウマを植え付けるって」
「い、妹さん……!」
「だからほんとに申し訳ないって、たくさん自分語りして冷静になった今反省してる……ごめんなさい……」
そして、「これからも応援しています……」と、椅子から立ち上がった辻君が立ち去ろうとするので、慌てて私はその手を掴んだ。
「ま、待って、お願い! 気持ち悪くないしトラウマにもなってないから!」
振り返った辻君は目を丸くして私を見て、目があった瞬間、あぁ、私を見てる!と思った。そこに私がいる!って。
「辻君の言ってること、全部あってる! すごい! なんでわかったの? すごい! 辻君すごい!」
語彙なんて何もない。すごい!しか言葉が出てこなくて、そんなの普段の賢い鈴川さんの話し方ではなかった。でも、そんなこともうどうだっていい。だって辻君は私のことをこんなにも真剣に、こんなにもたくさん、自分の世界の内側に存在させてくれたから。
本当の私がいることを、許してくれたから。
「私、辻君ともっと話がしたい! 私のこともっと知って欲しいし、もっと辻君のこともたくさん知りたい! だから、だから私と、友達になってくれませんか!」
“勢い任せ? 大いに結構! 今を逃していつ踏み込むというのだ!”
大いなるヒーローの言葉が私の背中を押してくれる。
“好機は前へ踏み込むものに必ず訪れる!”
「……ぜ、ぜひ」
固まった無表情で頷いた辻君の、その手はとても温かかった。
「そうなのね。確かにそうかも」
木下さんはご飯を食べるのが大好きで、いつもお昼はにこにこしている。ほっぺに詰め込んで食べる姿は正にハムスターで、あーんしてあげたい気持ちを必死に我慢しているのだ。きっと私のイメージと違うし、木下さんがまた怒られちゃうと悪いから。
「鈴川さんもお腹空いてる?」
「空いてるよ」
「そうだよね。鈴川さんはたくさんお腹空くはずだよ」
「? どうしてかな?」
うんうんと納得しながらパンを大きな口でほうばる木下さんに素直に問いかけると、木下さんはまんまるな目を私に向けて、うーんと考える仕草をする。
「だって、ずっと自分の世界で考え事してる気がする。それってお腹空かない?」
「え……?」
「私、考えるのお腹空いて苦手だから単純にすごいなって思うよ。でもやっぱり鈴川さんもお腹空いてたんだね」
「……うん」
今、なんだかすごく大事なことを言われた気がする。
「あー、なんかもう少し食べたいから購買行ってくるね」
「あ、うん」
「鈴川さんも行く? なにか欲しいものある?」
「う、ううん。特にないかな」
「そ。じゃあ私行ってくるね〜」
そう言うと、お財布を手にした木下さんはいつものように軽い足取りで教室を出て行って、私はそれを見送った。
“ずっと自分の世界で考え事してる”
それは事実だった。私はずっとずっと考えて、心の中で一人で話している。だって、そこでしか私は自由に話せないから。
そこには確かに私だけの、私しか知らない、誰にも話したことのない自分の世界があった。それを私の世界だと意識したことはなかったけど。
私、自分の世界にずっと引きこもってるって、そう見えてるのかな。
「なんか難しい顔してるね」
「木下ちゃん、何かやっちゃったのかな」
ひそひそと聞こえてくる声と感じる視線。そして木下さんの名前。
——駄目だ。勘違いが生まれる前にちょっと一人になりたい。
食べ終わったお弁当を片付けると私はそっと教室を出た。
誰もいない場所ってどこにあるんだろうと考えながら、図書室とかかなぁと見当をつけて歩き出したはいいけれど、一人で歩いているうちに段々と心の内側にもやもやしたものが大きく育っていく。そのもやもやが何なのかわからなかった。
怒ってるんじゃない。苛立ってるんでもない。木下さんが悪いわけでもない。
木下さんは噂話や陰口ではなく、面と向かって私の印象を教えてくれる人だし、彼女の言葉はいつもまっさらで、なにかしらの悪い感情もなくそのまま思ったことを口にしてくれていると信じられる。
なのに、なんだろう。いつもならこんなことこれっぽっちも気にしないのに……木下さんに言われたから、こんな気持ちになったんだと思うんだ。このもやもやした気持ちは? 外に出したくて沸々と湧き上がるこの気持ちは? 裏切られたと感じるようなこの気持ちは?
“私は、私の世界で考え事をしている”
「……自分の世界でしか話せないんだから仕方ないよ」
人気のない特別教室などの入った廊下に出ると、歩きながら心の声がこぼれ落ちた。
「だからみんな、私に世界が違うって言うのかな。それが原因?」
私は私だ。外側も内側も全部私だって自分で受け入れてる。今誰も私を否定する人がいないんだから、それが正解なんだ。私のような人間にはこの生き方がみんなに受け入れられる為の正解なはず。そうやって今日まで生きてきたんだから。
——でも。
「私の世界だって、取り残さないで欲しい……」
そうか。このもやもやの正体は私の中にある寂しさだ。
私は寂しかったんだ。受け入れられたくて頑張ってるんだから仲間に入れて欲しかった。他の誰でもない、遠慮なんてしないで私に接してくれた木下さんに違う世界だと言われたのがすごく寂しくて、すごく悲しい。
「鈴川さん」
誰もいない廊下に響いた声に、ハッと息を呑んだ。しまった。やってしまったと振り返ると、その人物にもう一度息を呑むことになる。
「少し話せますか」
そこにいたのは辻君だったから。辻君が、いつもの感情の読めない表情で私を見つめていたから。
え、ほ、本物……?
驚きのあまり言葉を失っていると、辻君はじっと私を見て何かを待っている。
あ、え……? えっと、あ!
「は、話せます」
答えを待ってるんだ!と気づいて慌てて返事をすると、辻君はどこかに向かって歩き出すので、ドキドキしながらその背中について行った。
そこは今は使われていない空き教室の一つだった。
教室の隅に重ねられている椅子を二つ持ち出すと、辻君は窓際にそれを並べて一つに座り、私ももう一つに腰をおろした。
なんだろう……と辻君を横目で盗み見る。そこには何も変わらない彼の整った静かな横顔があって、涼やかで凛々しくて、とてもただの無表情には見えなかった。何を考えているんだろうと、黙っているだけで相手の頭の中で物語が始まってしまう人、それが辻君なのだと初めて二人きりになって感じた。
そしてもちろん私のようなあれこれ妄想するのが好きな人間は、普段ならきっとこのまま脳内妄想タイムが始まっただろう。けれど正直、今はそれに浸れる余裕が心になかった。
辻君、いつからいたんだろう。
誰もいないと思って、つい声にだしてしまっていた。誰にもこんな言葉を聞かせるわけにはいかなかったのに、しかも辻君にだ。
雪の女王が一日で広まったのは、発信元が小崎君達一軍男子だったからということもある。もし辻君がこのことを彼らに話してしまったら……?
さっと血の気が引いていくのを感じる。私が悪く言われる以上に、もし木下さんにも影響があったら? 辻君はなんでこんな所に呼んだんだろう。なんでこんな用がなきゃ誰も来ない廊下にいたんだろう。なんで私、ちゃんと確認出来なかったんだろう。
「手、やめなよ」
その声かけにハッと自分の手を見ると、膝の上でぎゅっと固く力をこめて握られたそれは真っ白になっていた。開いてみると手のひらに爪の跡がついている。
「急にごめん。嫌だよね」
「! い、嫌とかではなくて……」
でも、なんでかは説明出来なくて。あぁ、また変な所を見せてしまったと落ち込むことしか出来なくて、お互い沈黙が続く。
辻君は変わらず涼しい顔をしていて、気まずく思ってるのは私だけなのかなと、どう対応すればいいのか考え始めたその時だった。
「いなくなっちゃう気がして追いかけたんだ」
突然、辻君が真っ直ぐに私を見て話し始めて、驚いた私は、「な、何をだろう?」と、声がひっくり返るのをギリギリおさめて問いかける。
「鈴川さんのこと。俺、鈴川さんのことずっと似てると思ってて」
「え? あ、雪女だよね?」
「うん。それと、俺が推してた子に」
「……へ?」
「俺の推し……アイドルだったんだけど、結構前に辞めちゃって。その理由もなんとなく鈴川さんに似てそうな気がして」
「…………」
……とりあえず、何が何やら情報が多すぎたので一回整理する。えっと、辻君は私が雪女と推しに似てると思ってくれて、それと、推しの引退理由が私に似てそうだと思ってて、ん? だから私がいなくなっちゃうって思って追いかけてくれて、あれ? 私が引退したら困るから追いかけてくれた……?
? ちょっとよくわからない……ていうか、
「辻君ってアイドルとか推すタイプだったんだ……」
「うん。見えないよね」
「! ご、ごめん、変とかそういうことじゃなくて」
「わかってる。大丈夫」
慌てる私をなだめるように、辻君がうんと頷いた。
「妹がさ、アイドル好きでよく動画観てんだよね。で、俺こんな感じだからこの子を見習えって見せられたのがきっかけで」
こんな感じ、と辻君は自分の顔を指さしていつもの無表情で私を見つめたので、それに今度は私がうんと頷いた。
「その子は背筋を伸ばして堂々とステージに上がってた。どこにいても存在感が消えなくて、その子の作る表情に、動きに、目が吸い寄せられるんだよね。だからその子がセンターなんだよって教えられて納得して、でもなんで俺がその子を見習わないといけないんだろうと思ってたら、その子のドキュメンタリー番組を見せられてさ。その子、ステージの裏では泣いてたんだ」
「…………」
「ずっと辛かったんだって。楽しいより辛いことの方が多くて、ステージに立つのが怖い時もあったんだって。なんで自分がセンターなんだって泣いてたりして。でも外では一切そんな所を見せなくて、ステージに立つと切り替わるんだ。そんな自分をファンは求めてないからアイドルスイッチが入るんだって言ってた」
「アイドルスイッチ……」
「そう。だから妹が俺もスイッチで切り替えくらいできるようになれって言うんだけど、スイッチ入れる必要性を今の所感じなくて……ほら、俺アイドルじゃないし」
なんて、真顔でそんなことを言う辻君に少しだけ笑ってしまった。真剣な話なのに申し訳ないけれど、辻君の知らない人柄が見えた瞬間だったから。
「ていうか、俺にとってはやろうとして出来ることじゃなくて、素直にすごいなって尊敬したんだ。そんな風に一切見えないし、いつもキラキラ輝いてたから。気づいたら追いかけるようになってたんだけど、ついに卒業しちゃってさ……その理由が、もう自分が頑張らなくてもこのグループは大丈夫だからって。期待に答えるのは疲れたって、言ってて。やっと終われるって感じだった」
「…………」
「無理してたんだよな……知ってたし、その頑張る姿にファンがついたのも事実だけど、でも、人間なんだよなって、なんか別のものみたいに思ってた自分にふと気付かされたというか……そしたらその時、鈴川さんが頭に浮かんだんだ」
「私?」
「うん。鈴川さんのこと、俺、きっと違う世界の人なんだと思ってたから」
真っ直ぐに私を見つめて平然とそう口にする辻君にショックを受けたけど、でも辻君は続きを聞いてとでも言うように私から目を離さない。
「だけどそれは違うのかもしれないって思うようになったんだ。だって違う世界なんて現実に存在しないし、みんな同じ人間なんだよなって、その子の卒業理由から教えてもらったから。鈴川さんをそうさせるのは、もしかしたら周りの人間の方なんじゃないかって考える様になったら、なんか、段々と見えてきた気がして」
「……何が?」
「……鈴川さんのことが。それから色々考えてるうちに俺がよく見てるのあいつらにバレて、理由聞かれて、その時の一番ピンときてた雪女みたいだなって考えをそのまま言っちゃって……伝わらないよね。悪口じゃないんだ」
「……良かったらその雪女について、詳しく教えてもらえないかな」
ここまでのお話と雪女がどう繋がるのだろう。何かきちんとした理由があるように思うそれが知りたかった。
「……あのさ、雪女の話は知ってる?」
雪女。確か雪山で遭難した男の人が雪女に出会い、今日のことを誰にも話さないと約束を交わしたことで逃がれられたけど、のちに結婚した奥さんにその話をした所、奥さんの正体が雪女で、約束が破られたと奥さんだった雪女は姿を消してしまった——みたいな話だったと思う。
「推してた子と重ねて見てたのもあったと思うけど、俺、鈴川さんも周りの人間用に見せてる自分と別に本当の自分を隠してるのかもって考えるようになって、でももしその何か理由があって隠してるものを明らかにしちゃったら、雪女みたいにここにいる鈴川さんはいなくなっちゃうかもしれないって気がついて、だったら気づかないままそっとしておいた方がいいのかなと思ったんだけど……でもそれが無理することに繋がってたら、またあの子の時みたいに後悔するかなって……」
「後悔……」
「だって、本当にいなくなったらもう会えないから。センターだったあの子も、奥さんだった雪女も、何かを一人で抱えてる人はみんな綺麗な思い出だけ残していなくなったから、もし鈴川さんがそうなった時、俺、他に俺に出来ることはなかったのかなってきっと後悔すると思ったんだ」
「…………」
「だから今日、その時がきたんだって思って、慌てて追いかけてしまいました。気持ち悪くてごめんなさい」
……へ?
「あ、え? き、気持ち悪い?」
「うん」
「誰が?」
「俺が」
「えぇ! いや、ない! 絶対ないよ!」
どうしてそんなことになるのかと理解出来ないでいると、辻君は視線を下げてどこか気まずそうに、「妹に絶対接触するなって言われてたから……通報されるって」と。
「俺みたいな無表情のキモいオタクが勝手な妄想繰り広げてた時点でキモいんだから絶対実行するなって。トラウマを植え付けるって」
「い、妹さん……!」
「だからほんとに申し訳ないって、たくさん自分語りして冷静になった今反省してる……ごめんなさい……」
そして、「これからも応援しています……」と、椅子から立ち上がった辻君が立ち去ろうとするので、慌てて私はその手を掴んだ。
「ま、待って、お願い! 気持ち悪くないしトラウマにもなってないから!」
振り返った辻君は目を丸くして私を見て、目があった瞬間、あぁ、私を見てる!と思った。そこに私がいる!って。
「辻君の言ってること、全部あってる! すごい! なんでわかったの? すごい! 辻君すごい!」
語彙なんて何もない。すごい!しか言葉が出てこなくて、そんなの普段の賢い鈴川さんの話し方ではなかった。でも、そんなこともうどうだっていい。だって辻君は私のことをこんなにも真剣に、こんなにもたくさん、自分の世界の内側に存在させてくれたから。
本当の私がいることを、許してくれたから。
「私、辻君ともっと話がしたい! 私のこともっと知って欲しいし、もっと辻君のこともたくさん知りたい! だから、だから私と、友達になってくれませんか!」
“勢い任せ? 大いに結構! 今を逃していつ踏み込むというのだ!”
大いなるヒーローの言葉が私の背中を押してくれる。
“好機は前へ踏み込むものに必ず訪れる!”
「……ぜ、ぜひ」
固まった無表情で頷いた辻君の、その手はとても温かかった。



