太陽神チュプと月神クンネチュプの二大御神を祀る正宮がある大御神殿は、標高900メートルの冠雪活火山の頂に位置している。
大御神殿とは二大神が地上に降る時に鎮座する一時的な神の仮住まいで、仙人と仙女が地上の穢れから神を守るために管理している渡島で最大級の神殿だ。
その華々しさとは対照的に、神殿の周囲は地中から吹き上げる硫黄ガスの影響で草木が極端に少なく、常に腐った卵のような不快な臭いが漂っている。
雪山の背後から強く吹き付ける風は冷たく、見渡す限り白と茶褐色の色しかない景色はまるで死後の世界を想起させるような恐ろしさだ。しかし、信仰深い人々にとっては足を踏みいれにくいことが逆に好ましく、魔物を寄せつけない神聖な地として崇め奉られている。
「冷えるな。」
私は金の牡鹿の背中から雪の積もった地に降り立つ。
外気温が氷点下に下がった朝。樹氷で覆われた木々は朝の光に輝いている。山の周囲には霧が発生していて少し視界が悪いが、神が鎮座する山の頂と思えば神々しいとも言えるかもしれない。
背中から吹き付ける風に身を震わせ、樹氷から神殿の屋根へと目を向けた私は、大きな木材2本を交差させた千木を見て感心しながらつぶやいた。
「あんなに太くて立派な木材を屋根に乗せているのに、よく建物が崩れないものだな。」
足もとに粉雪を舞わせて牡鹿から人型に変化したユクは、皮肉げに頬を緩めた。
「二大神の神力の成せる業でしょう。まぁ、神力が雀の涙ほどしかなかったレンカさまには想像もできないことでしょうね。」
「フン。その嫌味を聞くのも今日までかと思うと、名残惜しい気がしないでもないぞ。
ユク、キムンとニコにはくれぐれもよろしく伝えておいてくれ。『十年間、世話になった』と。」
「お待ちください。今日までですって? まさか、ご自分が女官の試験に受かるとでも?」
「落ちると思って試験に来る人間がいるのか?」
「よくお考え下さい、レンカさま。年に一度、毎回女官を受け入れて仙女として長寿を授けていては、大御神殿が女官であふれてしまうとは思いませんか?」
昔から、ユクの歯に物が詰まったような言い方が嫌いだ。
私は眉間にシワを寄せた。
「何が言いたいのだ?」
「女官試験とは表向きで、その裏は神への人身御供なのでは?」
「何を馬鹿な。」
「親も生贄に取られるよりは仙女に出してやったと思えば、十七年間育てた娘を手放すのも、幾分気持ちが楽でしょう。」
思いもよらないユクの言葉に、私は胸がざわついた。
「そんな詐欺まがいの話を、大御神殿で? 」
「神は本来、完全無欠の捕食者です。特に創世神に近ければ近いほどに。レンカさまは例外ですが。」
「私が人間の神だったときには、そんなことを絶対に許していなかった・・・。」
「逆にレンカさまがいなくなったので、神仙界から人間への干渉はしやすくなったと思います。
ゆえに、現在の地上の秩序は崩れています。神殿の中もです。」
私はユクの言葉を丸ごと鵜呑みにする気にはなれなかった。
だって、この人祖神は平気で嘘を言って私を騙そうとする輩なのだ。
私が黙っていると、ユクがすべて見透かすような菫色の瞳を伏せた。
「信じてはもらえなそうですね。あとはご自身の目で確かめたらいい。」
「そうするつもりだ。だが、心配してくれたのは嬉しい。ありがとう。」
歩き出そうとした私を、またもユクが呼びとめた。
「待ちなさい。」
「まだ何かあるのか?」
「私もついて行きます。」
「どうやって?」
「こうして。」
牡鹿の姿に戻り小指ほどに小さく縮んだたユクが、私の絞り袴をピョンピョンと這い上がって肩に乗ってきた。
「おい正気か? 大御神殿に人祖神が紛れ込むなど、チュプやクンニチュプの耳に知れたら懲罰ものだぞ。」
「二大神の月に一度の鎮座は、この女官選抜の次の日だと聞いております。今は人間上がりの神官や仙人たちしかいないはず。
あ奴らに見破られるほど、私の神力は弱っておりません。」
ユクは私の懐に潜り込み、ニィッと口の端を引いた。
「・・・好きにしろ。」
そうは言ったものの、私は内心舌打ちをした。
これでは自由に行動ができないではないか。
やはりユクたちは何らかの恐ろしい目的があって、転生させた私を絶えず監視しているのだと思う。
私は胸元のユクを捕らえて、全てを吐かせてしまいたい衝動を抑えるのに必死だった。
(待っていろ。いつか必ず、お前たちの罪を白日のもとに晒してやる・・・!)
※
見上げるほどに大きな大御神殿の朱色の門の前に立つ。
白い雪野原にクッキリとした朱色が鮮烈に目に焼き付いた。
(もう、後もどりはできない。)
私は意を決して、門の前に並ぶ娘たちの列の最後尾に並んだ。
門に近づくにつれ祀りの時にだけ掲げられる黄色の上りが見えてきて、私は痛む左胸を強く押さえた。
「ややや!」
門の前に立ちはだかっていた門番の男が、私を見るなり野良犬を払うようにシッシと手で追いやった。
「帰れ帰れ! 貴様のような女子が足を踏みいれて良い場所ではないぞ‼」
一斉にその場に居た人間たちの目が私ひとりに集まる。
驚いた私はあらためて前列に並ぶ娘たちの姿を見た。
皆、髪も着物も小綺麗に着飾っている。
農作業をするときの土まみれの小袖に絞り袴、髪は無造作に一束に括っているだけの私は、かなり浮いた存在のようだった。
しかし、ここで負けるわけにはいかない。
「十七の娘なら、女官に応募できると聞いてやってきました。」
「身の程知らずが! それは神の託宣を受けた貴族の娘に限るのだ‼
平民のうえに隻眼で小汚い娘をこの神殿に入れるなど、誠にけしからん!
分かったなら今すぐに立ち去れぃ!」
門番は周囲に響く大声でがなり立てた。
美しく着飾った娘たちは、クスクスと忍び笑いをしている。
気後れして数歩引き下がった私に、胸元のユクが小さく話しかけてきた。
『ほら、だから言ったでしょう。』
「ああ。悔しいが、土俵にも立てないようだな。」
『しかし、無礼な門番だ。帰る前に、私が一発くらい蹴っておきましょうか?』
私が血の気が上ったユクをなだめようとした時、門の内側から凛とした夜風のような声が吹き抜けた。
「よく来たな、隻眼の少女よ。」
スッと姿を現したのは、市場で声をかけてきた色白の貴族風の男だった。
今日も白い直衣に白の袴、紅色の単を下に着ているが烏帽子は被っておらず、元服前の童のような肩まである垂髪だった。
「あ、貴方は・・・!」
私が思わず声を上げると、白袴の男は静かに白い歯を見せて微笑んだ。
「私を覚えていたか?」
「もちろんです、お客さま。」
「おや。あの時はずいぶんと威勢が良かったのに、今日はずいぶん大人しいではないか。」
「あの時は調子の良い冷やかしだと思ったのです。ちゃんとお金を払って葱を買ってくれたから、あなたはお客さまですよ。」
「私は葱に救われたのだな。」
私と白袴の男は互いの目を合わせると、ニヤリと笑った。
この男は変人かと思っていたが、意外とウマが合うかもしれない。
「ともかく、門をくぐって先に行きなさい。この門番に試験会場まで案内させよう。」
先ほどまで偉そうな態度を取っていた門番は、黒目を小さくして小刻みに震えている。
何に怯えているのかは知らないが、こんな男に案内されるのはゴメンだ。
私は慌てて白袴の男の上衣の裾を引き留めた。
「お客さまが案内役を買ってくれませんか?」
男はひどく驚いた顏をしたのちに、クシャクシャに破顔した。
「心の強い女子だな。だが、不思議と嫌ではない。」
この男はいったい幾つなのだろう。
整った顔だから大人びて見えるが、感情を表に出すと幼くも見える。
男は服の裾をつかむ私の手を優しく握り、踵を返した。
「それでは私が案内するとしよう。ついて来なさい。」
「よろしくお願いします、お客さま。」
男は少し考える風に顎に手を当てると、私に微笑んだ。
「姉は私をピリカと呼ぶ。そう呼んでくれ。」
※
私は知らなかった。
門番がぼう然と門の内部に入る私たち見送り、消え入りそうな声で呟いていたのを。
「あの小娘・・・あのお方をどなただと・・・ええい、ワシは何も知らないぞ‼」
大御神殿とは二大神が地上に降る時に鎮座する一時的な神の仮住まいで、仙人と仙女が地上の穢れから神を守るために管理している渡島で最大級の神殿だ。
その華々しさとは対照的に、神殿の周囲は地中から吹き上げる硫黄ガスの影響で草木が極端に少なく、常に腐った卵のような不快な臭いが漂っている。
雪山の背後から強く吹き付ける風は冷たく、見渡す限り白と茶褐色の色しかない景色はまるで死後の世界を想起させるような恐ろしさだ。しかし、信仰深い人々にとっては足を踏みいれにくいことが逆に好ましく、魔物を寄せつけない神聖な地として崇め奉られている。
「冷えるな。」
私は金の牡鹿の背中から雪の積もった地に降り立つ。
外気温が氷点下に下がった朝。樹氷で覆われた木々は朝の光に輝いている。山の周囲には霧が発生していて少し視界が悪いが、神が鎮座する山の頂と思えば神々しいとも言えるかもしれない。
背中から吹き付ける風に身を震わせ、樹氷から神殿の屋根へと目を向けた私は、大きな木材2本を交差させた千木を見て感心しながらつぶやいた。
「あんなに太くて立派な木材を屋根に乗せているのに、よく建物が崩れないものだな。」
足もとに粉雪を舞わせて牡鹿から人型に変化したユクは、皮肉げに頬を緩めた。
「二大神の神力の成せる業でしょう。まぁ、神力が雀の涙ほどしかなかったレンカさまには想像もできないことでしょうね。」
「フン。その嫌味を聞くのも今日までかと思うと、名残惜しい気がしないでもないぞ。
ユク、キムンとニコにはくれぐれもよろしく伝えておいてくれ。『十年間、世話になった』と。」
「お待ちください。今日までですって? まさか、ご自分が女官の試験に受かるとでも?」
「落ちると思って試験に来る人間がいるのか?」
「よくお考え下さい、レンカさま。年に一度、毎回女官を受け入れて仙女として長寿を授けていては、大御神殿が女官であふれてしまうとは思いませんか?」
昔から、ユクの歯に物が詰まったような言い方が嫌いだ。
私は眉間にシワを寄せた。
「何が言いたいのだ?」
「女官試験とは表向きで、その裏は神への人身御供なのでは?」
「何を馬鹿な。」
「親も生贄に取られるよりは仙女に出してやったと思えば、十七年間育てた娘を手放すのも、幾分気持ちが楽でしょう。」
思いもよらないユクの言葉に、私は胸がざわついた。
「そんな詐欺まがいの話を、大御神殿で? 」
「神は本来、完全無欠の捕食者です。特に創世神に近ければ近いほどに。レンカさまは例外ですが。」
「私が人間の神だったときには、そんなことを絶対に許していなかった・・・。」
「逆にレンカさまがいなくなったので、神仙界から人間への干渉はしやすくなったと思います。
ゆえに、現在の地上の秩序は崩れています。神殿の中もです。」
私はユクの言葉を丸ごと鵜呑みにする気にはなれなかった。
だって、この人祖神は平気で嘘を言って私を騙そうとする輩なのだ。
私が黙っていると、ユクがすべて見透かすような菫色の瞳を伏せた。
「信じてはもらえなそうですね。あとはご自身の目で確かめたらいい。」
「そうするつもりだ。だが、心配してくれたのは嬉しい。ありがとう。」
歩き出そうとした私を、またもユクが呼びとめた。
「待ちなさい。」
「まだ何かあるのか?」
「私もついて行きます。」
「どうやって?」
「こうして。」
牡鹿の姿に戻り小指ほどに小さく縮んだたユクが、私の絞り袴をピョンピョンと這い上がって肩に乗ってきた。
「おい正気か? 大御神殿に人祖神が紛れ込むなど、チュプやクンニチュプの耳に知れたら懲罰ものだぞ。」
「二大神の月に一度の鎮座は、この女官選抜の次の日だと聞いております。今は人間上がりの神官や仙人たちしかいないはず。
あ奴らに見破られるほど、私の神力は弱っておりません。」
ユクは私の懐に潜り込み、ニィッと口の端を引いた。
「・・・好きにしろ。」
そうは言ったものの、私は内心舌打ちをした。
これでは自由に行動ができないではないか。
やはりユクたちは何らかの恐ろしい目的があって、転生させた私を絶えず監視しているのだと思う。
私は胸元のユクを捕らえて、全てを吐かせてしまいたい衝動を抑えるのに必死だった。
(待っていろ。いつか必ず、お前たちの罪を白日のもとに晒してやる・・・!)
※
見上げるほどに大きな大御神殿の朱色の門の前に立つ。
白い雪野原にクッキリとした朱色が鮮烈に目に焼き付いた。
(もう、後もどりはできない。)
私は意を決して、門の前に並ぶ娘たちの列の最後尾に並んだ。
門に近づくにつれ祀りの時にだけ掲げられる黄色の上りが見えてきて、私は痛む左胸を強く押さえた。
「ややや!」
門の前に立ちはだかっていた門番の男が、私を見るなり野良犬を払うようにシッシと手で追いやった。
「帰れ帰れ! 貴様のような女子が足を踏みいれて良い場所ではないぞ‼」
一斉にその場に居た人間たちの目が私ひとりに集まる。
驚いた私はあらためて前列に並ぶ娘たちの姿を見た。
皆、髪も着物も小綺麗に着飾っている。
農作業をするときの土まみれの小袖に絞り袴、髪は無造作に一束に括っているだけの私は、かなり浮いた存在のようだった。
しかし、ここで負けるわけにはいかない。
「十七の娘なら、女官に応募できると聞いてやってきました。」
「身の程知らずが! それは神の託宣を受けた貴族の娘に限るのだ‼
平民のうえに隻眼で小汚い娘をこの神殿に入れるなど、誠にけしからん!
分かったなら今すぐに立ち去れぃ!」
門番は周囲に響く大声でがなり立てた。
美しく着飾った娘たちは、クスクスと忍び笑いをしている。
気後れして数歩引き下がった私に、胸元のユクが小さく話しかけてきた。
『ほら、だから言ったでしょう。』
「ああ。悔しいが、土俵にも立てないようだな。」
『しかし、無礼な門番だ。帰る前に、私が一発くらい蹴っておきましょうか?』
私が血の気が上ったユクをなだめようとした時、門の内側から凛とした夜風のような声が吹き抜けた。
「よく来たな、隻眼の少女よ。」
スッと姿を現したのは、市場で声をかけてきた色白の貴族風の男だった。
今日も白い直衣に白の袴、紅色の単を下に着ているが烏帽子は被っておらず、元服前の童のような肩まである垂髪だった。
「あ、貴方は・・・!」
私が思わず声を上げると、白袴の男は静かに白い歯を見せて微笑んだ。
「私を覚えていたか?」
「もちろんです、お客さま。」
「おや。あの時はずいぶんと威勢が良かったのに、今日はずいぶん大人しいではないか。」
「あの時は調子の良い冷やかしだと思ったのです。ちゃんとお金を払って葱を買ってくれたから、あなたはお客さまですよ。」
「私は葱に救われたのだな。」
私と白袴の男は互いの目を合わせると、ニヤリと笑った。
この男は変人かと思っていたが、意外とウマが合うかもしれない。
「ともかく、門をくぐって先に行きなさい。この門番に試験会場まで案内させよう。」
先ほどまで偉そうな態度を取っていた門番は、黒目を小さくして小刻みに震えている。
何に怯えているのかは知らないが、こんな男に案内されるのはゴメンだ。
私は慌てて白袴の男の上衣の裾を引き留めた。
「お客さまが案内役を買ってくれませんか?」
男はひどく驚いた顏をしたのちに、クシャクシャに破顔した。
「心の強い女子だな。だが、不思議と嫌ではない。」
この男はいったい幾つなのだろう。
整った顔だから大人びて見えるが、感情を表に出すと幼くも見える。
男は服の裾をつかむ私の手を優しく握り、踵を返した。
「それでは私が案内するとしよう。ついて来なさい。」
「よろしくお願いします、お客さま。」
男は少し考える風に顎に手を当てると、私に微笑んだ。
「姉は私をピリカと呼ぶ。そう呼んでくれ。」
※
私は知らなかった。
門番がぼう然と門の内部に入る私たち見送り、消え入りそうな声で呟いていたのを。
「あの小娘・・・あのお方をどなただと・・・ええい、ワシは何も知らないぞ‼」



